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花鳥風齧!  作者: 白瀬青
弘徽殿の悪役令嬢
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歌枕の浅き夢(ディビジョン・ラップバトル)・13

 ずかずかと。そう、擬音にするならずかずかとしか表現できない足取りで歩いている。あの弘徽殿の女御が。

「他の殿舎を冷やかすのが趣味なのよ梨壺は! まったく悪趣味だわ。しかも弘徽殿の廊下をうろうろしているのはいっっつも気持ちの良い晴れの日ばかりなの。さわやかな気分も一気に台無しよ!」

 女御にあるまじき怒りの早歩きで歩きながら弘徽殿が言う。犬君は後ろをつかず離れず従いながら言った。

「……いつものことなのでございますか?」

 「そう!」と弘徽殿は叫ぶように言いながら下々の女官にすみやかに御簾を掲げさせ、廊下へと出る。後宮の回廊で繋がれている。これは殿舎の壁の外に巡らされており、庶民の犬君の感覚でいえば廊下というより木製の橋に近い形状のものだ。壁はなく、秋晴れの美しい庭が柵と欄干越しに見える。

「だからこうやって女房達に警戒させているんだけど、梨壺の姿を見て知らせに走る姿を見てモテてるからきゃあきゃあ言われてるとでも勘違いしているようなのよ、あの常識無し壺は!」

 そうしてふたりが廊下に出ると、清涼殿のほうに向かって中庭で蹴鞠をする人々を見るともなしに眺めていた女が振り返る。

「あ!」

 犬君は思わず驚きの声を上げた。

 波打つような艶を帯びて翻るのは深い藍色に銀糸の浮紋で鳳凰を描いた袿。髪は腰まであるゆるやかな漆黒の癖毛で、大きく弧を描いたひとすじの髪が白い頬に影を落としている。

 同じだ。犬君は目を見張る。今日は麗しい女姿のその人の顔は、しかし、昨夜強引に犬君を押し倒した牽牛と完全に同じ顔だった。予想以上に同じ顔だ。男であっても女であってもまるで違和感がない。

 憂いを帯びた垂れ目に七つ星の泣きぼくろ。鬱屈した色気のこもるその顔が、不意に首を傾げて甘く微笑む。

「おはよう、昨夜はよく眠れたかい? 僕の織姫」

 語尾が深く沈みこむような、女には珍しい声と話し方。華やぎはないものの最上級の織物と判る袿を、しかしきちんと袖を通さずにばさりと肩に羽織っている。

「梨壺様……」

 茫然とする犬君を背中に回してかばうように、弘徽殿の女御が前へ出る。

「あーら御機嫌よう、梨壺様。本日は弘徽殿にどのようなご用件で?」

 包み隠さず刺々しい弘徽殿のあいさつに、梨壺も甘やかな微笑みを崩さずに対峙した。

「お気遣いありがとう弘徽殿。しかしもてなしは不要にしてくれたまえ。今日は僕の織姫に後朝の歌を届けに来ただけなんだ」

 いっそ爽やかですらあるいけしゃあしゃあとした発言に弘徽殿の顔がひきつる。

「……後朝きぬぎぬの歌ですって?」

 後朝の歌とはひと夜を共にした男女が帰宅して後の朝に交わす恋文の歌である。

「そうさ、忘れられない夜だったからね」

 梨壺は歌うように言って、弘徽殿の横をすり抜け、犬君に近づく。

「昨夜は楽しかったよ。また遊ぼう、黄楊姫」

 梨壺は挑発するように一度だけ弘徽殿を振り返る。甘くささやきかけながらも明らかに自分のほうを見ない梨壺に、犬君はため息をつく。

「まあああああ!? あなたはいつもいつもわたくしの女房に!」

 弘徽殿の悲鳴が響き渡る。梨壺はうんざりしたように肩をすくめた。そうしてため息混じりに犬君の腕を強引に腕をつかみよせる。

「まったく君は声が大きいな。後宮なんて(こんなところ)、可愛い仔猫ちゃんでも吸わなければやっていられない。君もそうは思わないかい、弘徽殿」

 言いながら梨壺はおもむろに犬君を抱きよせてその髪に顔をうずめた。

「思いませんわよ。あなたは何をおっしゃっているの?」

 頬をすりよせられながら犬君はただただ困惑して黙り込んでいる。

 梨壺は女宮にしては身長も高く引き締まった身体をしていてぜひ武芸でもさせてみたいくらいだ――とはいえ、実体の身体はさすがに梨壺のほうが華奢なので昨夜のような暴挙には出られないだろう。現実にだって幾重にも重ねられた衣は胸の形を平らにしてしまうから少々抱きついた程度では性差が判るまい。ゆえに犬君は困り果てながらも黙って梨壺の好きにさせている。

 とはいえ主人が怒っているのなら拒否の意思くらい示しておくべきかと思い、犬君は言葉を選んで口を開く。

「私はたかだか下臈の女官。相聞歌など恐れ多いことにございまする。昨夜の歌は宴の席のみの余興とおっしゃったはず」

 梨壺は髪にくちびるを押し当てて軽く吸いつくと、少し離れて顔を見合わせた。

「気に入ったと言っているんだ。別に宴の外だって、歌くらい交わしてくれても罰は当たらないだろう」

「困ります」

 犬君が険しい顔で眉をよせると、梨壺は構わず耳にくちびるをよせてささやいた。

「返歌を楽しみにしている」

 頑として答えないでいると、顎に軽い痛みが走る。梨壺の檜扇の角、薄い木片が、首の薄い皮膚に食い込む。

「おそれながら……()()のひとつにも数えぬ身では身を尽くすことさえままなりませぬ。あまり下々の人心をもてあそぶものではございませんよ、梨壺の宮様」

 扇の端で顎をすくいあげられたまま犬君が平坦に言うと、梨壺は猫のような目を細めて顔を見つめてから不意に声を上げて笑った。

「はは、君がそれを言うのか。昨夜あれほど煽り倒した女が」

「…………」

 突き飛ばすように身体が離される。

 その一瞬、梨壺の形の良いくちびるが挑発するように動く。

 ――思ってもないくせに、と。

 梨壺はさらにささやく。念を押すように声を低めて。

「もう一度言う。君の返歌を期待している」

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