からすのごちそう・3
でも野犬だったらあんた……、言い返す間にもぼーさんは丸腰で家の外に出ていく。
野犬や狼ならば助けてやるつもりで潜みながら後を追うと、なるほどそれは確かにぼーさんの客人だった。野晒しの遺体にかけられているのしか見たことがないような上等の生地の狩衣を身につけている。数多の僧兵達を従えて。なんだあれ。昼間なのに松明なんて焚いていやがる。
進み出たぼーさんは、恭しく一礼し、ひざまづいて言った。
「……これはこれは衛門佐殿……かような不浄の土地、直々にお越しになってはなりませぬ……」
不浄不浄。けっ、品のいい物言いしやがって。その不浄の土地で同じものを食い、旨いと言ったなまぐさ坊主のくせに。
狩衣野郎はふっと鼻を鳴らして言った。
「触穢が恐ろしくて検非違使など勤まらぬわ」
そのくせ狩衣には過剰に香が炊きしめられ、しきりに扇で鼻を覆っているのだった。けっ、触穢が恐ろしくないならその過剰な臭い対策をやめろっつーんだ。あたしは強く炊きしめられた香にむずむずする鼻を鳴らしながら、軒下の草むらに伏せる。
「それともおれがここに来てはそなたが不都合であったか? ……のう、可愛い犬君よ」
気持ち悪いくらいの猫撫で声だ。しかしその中に牽制するような刺々しさがある。ぼーさんは一瞬だけ眉根をよせたが、すぐにたおやかに目を伏せた。
「衛門佐殿の慧眼、恐れ入ります。女の着衣は確かに猪の腹にありました。仰せの通りこの野辺で食われたのは間違いありませぬ」
撫でてくるなら喉を鳴らしてやろうとばかりに恭順を示すぼーさんに、衛門佐はふんと鼻で笑って扇をくゆらせた。
「そうだろうそうだろう」
そのとき。
「ところで、衛門佐殿。九相図なるものを御存知でしょうか」
ぼーさんの声調が急に下がった。
ぴたりと扇の手が止まった。衛門佐は不愉快そうに眉をよせる。
「当然であろう」
糞の図だかなんだかというものが、どうやら貴族にとっては当然あるべき教養なのだということを、ようやくあたしは察した。たぶん衛門佐は当然の常識を問われて馬鹿にされたと思っているのだ。それをさらりと見過ごして、ぼーさんは微笑んだ。
「それでは話が早い」
伏せているあたしにだけ見えるその口許には不敵な笑みが浮かんでいる。覆布で見えなくても判る。獲物を追い詰める歓喜に震えている。狩人の勘だ。
「九相図で描かれるところのどれが死後何日目にあたるかは仏によっても場所によっても違います。が、鳥辺野を弔っている体感では事切れて翌日には膨張相ーー腐敗が始まり、三日後には腹が割れて血塗相となり、割れた腹からあふれ出す溶けた血肉の臭いに誘われて鳥が鳴き獣が遺体を喰らい始めるーー噉食相ですね」
そこまで流れる水のように解説してひと呼吸置き、「さて」とぼーさんは顔を上げた。
「これも私の体感ですが九相図は外観上はおおむね正確ながら、実際には虫や烏が遺体を見つけて厄いするのは膨張相と同時進行です。死の翌日のきれいな遺体でも野辺では顔が突かれているし、腹が割れたときには蛆虫も流れ出してくる。……しかし仰せられた女の遺体は、」
と、ぼーさんは懐から白い紙に包まれた肉を差し出した。案の定、付き従っていた貴族達から悲痛などよめきが上がった。懐紙には猪の腹で溶けかけた女の指が乗っているのだ。
「獣の腹から、消化しきれなかった白い指が黒髪に巻きつかれて出てくるほどに新鮮だった……ということが少々気になっております」
衛門佐は馬鹿馬鹿しいとばかりにばさりと扇を振った。しかしその手はどことなくぎこちない。
「それの何がおかしい」
生ぬるい風が雑面の端を巻き上げる。あらわになった唇の端に小さな笑いがにじんでいた。
「野ざらしにされた仏は、先端からなくなるのです」
「は……?」
ぼーさんが優雅に微笑めば微笑むほど、衛門佐の笑顔が吸い取られるように消えていくのが判った。
「一度こわばった屍が再びやわらかくなり、腐ってさらにやわらかな肉になり――ついばみやすい指先や腹から食われ、やがて肩からちぎれるほどに脆くなる。すると犬がくわえて市中に運ぶ。こうして家々に放り出された手足を穢れだとして私めが呼ばれることは数多ありますが、五指のそろっている仏にはなかなかお目にかかれませぬ。丁寧に冷やして家人に弔われている間は三倍、土中深く埋めれば七倍は腐敗が遅れ、獣にも狙われぬ可能性はありますが……いずれにしてもそうあることではございませぬ」
ぼーさんは腰から礼をして指をあらためて眺めると、それを再び丁寧に包み直した。
「はらわたから出てきた小袿は確かに朔から行方知れずになっている女の形見。……にもかかわらず、美しい指がそのままになっておりました。琴を弾く指先の独特の硬さすら判るほどに。犬がくわえてきた手も、同様。ゆえに改めて申し上げます。朔日から形をとどめて鳥獣に喰われなかった女の遺体が今になって出てくることは極めて異常であり、文は偽りの可能性が高くーー」
衛門佐の手が止まる。みるみるうちに顔がこわばっていく。
「黙れ」
遮った声が低い。雅やかな声音は作り物で、これが地声なのだろう。野辺の臭いを忌むように扇で顔を覆っていた手が余裕を失ってわなわなと震えていた。
しかしぼーさんは黙らない。
「恐れながら衛門佐殿。遺体を土の中に隠し、それを犬が盗むや否や露見を恐れてそれが初めから野辺にあったように装い、それを確かめさせるために、そう、野辺にあったことを証明させて穢れの出処をあやふやにすべく、我が主人に清め祓いを命じたのはあなた様でございましょうーー」
滔々とぼーさんは語り続ける。衛門佐が吐き捨てるように叫んだ。
「犬神人風情が……!」
投げ捨てられた扇が頬を打つのも避けず、跪いたまますっと膝で進み出でると、ぼーさんは紙の束を差し出した。白壇の強い香りにくしゃみが出そうになる。くしゃみで草木が揺れるのを避けようとして、あたしは手で鼻と口を覆いながらさらに深く伏せた。
「こちら、あなた様は覚えておいでですか。まこと雅な和歌の数々、その熾火のごとき歌風と紙に炊きしめられた香で、私はすぐにあなた様の顔が目に浮かびました」
衛門佐の顔が白粉越しにも判るほど蒼白になっている。雅やかな顔立ちが般若のように歪んでいた。
「衛門佐殿が幾年に渡り、穢れの元凶たる女に送り続けた和歌にございます。夫が地方に任官して家の守りも手薄、そこに幾年も執拗に迫られる恐怖は如何程であったでしょう……そしてついに夫の帰京を目前にした前夜、良孝さまは盗み出そうとした女に抵抗され、殺してしまうのです」
強く焚きしめた香が風に乗り、読経の声を運んでくる。
「色即是空空即是色色即是空空即是色」
「……しかし最初から偽の遺言通り野辺に運んでいれば露見することはなかった。妻でさえ死なば穢れ肉体はただの物とわきまえる世情の中、愛した女が腐り行くのを手放せなんだ衛門佐殿を私はどうも憎めませぬ。貴方様はおそらく、女の体を虫も獣も入らない涼しい部屋に置き、何度も水で冷やしたことでしょう。まだ生前の名残をとどめている顔に化粧もしたでしょう。それでもやがてはそこにおけぬほど臭い、穢れゆくのはとめられなかった――衛門佐殿、どうぞこのまま私めに祓わせるよりは、名乗り出て温情ある償いを」
男達が松明を傾け、油紙を巻いた鏑矢に火を移していく。
「色即是空空即是色色即是空空即是色」
読経は絶えず響いてくる。
そこで、はッと。
「弔われている」のが自分の家だと気づいたあたしは思わず走り出していた。
ぼーさんはきっとまだ気がついていない。あの狩衣が自らここに来た本当の理由に。