歌枕の浅き夢(ディヴィジョン・ラップバトル)・10
いい天気である。
雨の多い七夕も今年は天気に恵まれていた。牽牛と織姫も無事逢瀬を遂げたことだろう。空は澄み渡るほど青く気候は暖かで、公達が集う清涼殿の庭からは朝も早くから、蹴鞠に興じる若い男子たちの歓声が聞こえてきている。元気なことだ。
東宮が蹴鞠と毬杖にご執心とのことで、最近の晴れた朝はだいたいこんな感じで始まる。
一方、清涼殿の庭に面した弘徽殿では朝餉の時間だ。居並ぶ女房達の膳は漆塗りの台の上に色彩々の山海の美味が少しづつ小さな白い皿に小分けされて並べられている。目で味わうものとばかりの鮮やかな膳。そのおかずのほとんどは鳥や魚の干し肉なので、(本来は)(そう、本来は)肉食厳禁の犬君の膳だけは、肉類の代わりに旬の野菜やきのこの煮物・羹が並んでいた。
犬君は用意された膳に手を合わせてからおもむろに言う。
「梨壺と派手にやり合ったりして何を考えてるんですか。よく考えてみればあの御方、東宮妃でしょう? 帝のご寵愛には一寸も関係ないではありませんか」
雉の腿肉の上に結いつけられた白い懐紙を指でつまみ、がりりと噛みつきながら弘徽殿の女御が吐き捨てるように答えた。
「個人的にいけすかないのよ、悪い? 大嫌いなの、ああいうオタクの人! 梨壺だってきっとわたくしのことが嫌いだわ。解るでしょ?」
まったく解らない。いや解るけど、それはここにねじこむ感情なのか。同じ帝に仕えているはずの中宮・鞠子にはあんなに優しかったのに。
「私怨じゃないですか!」
犬君は思わず強くツッコんだ。弘徽殿はムキになってさらに言う。
「帝と同腹のご兄妹だからって、うっすらとお顔が似ていらっしゃるのまで気に入らないったら!」
犬君はさらにツッコんだ。
「まったく申し開きの余地がない私怨じゃないですか!!」
すると先程から唐菓子と果物ばかり食べている鶯式部がぷりぷりと弘徽殿に加勢した。
「そうですよー! あの方の言ってること半分くらいわかんないですしー」
その隣で黙って苦い顔をしている龍田中納言。気持ちは解る。鶯式部に梨壺の話が解らないのは半分くらいは梨壺のせいではない。
「だいたいなんであの性格でひとりだけ桐壺と仲がいいのか解らない! きっとおとなしくて断れないのをいいことに、いつも強引に部屋に上がり込まれて困っているのに決まってますわ! そうよねみんな!」
弘徽殿が再び腿肉を噛みちぎりながら力強く言い切ると、周りの女房たちも笑顔で「そうですわー!」と声を合わせる。犬君はあきれてもう一度ツッコんでいた。
「……完全に私怨じゃないですか……」
弘徽殿はふっと笑って犬君を見る。
「まあ、いろいろあるのよ。後で部屋に行くわね」
ひと通り弘徽殿と犬君のボケツッコミが収束したのを見計らって、龍田中納言が言う。
「そういえば女御様、昨日の梅壺の更衣様の料紙はご覧になりました?」
料紙とは和歌などを書くための和紙を美しい色で染めたり模様をつけたり箔や押し花を漉き込んだりした特殊紙のことだ。
弘徽殿もうんうんとうなずいて目を輝かせる。
「見た見た! なんなのアレ! めちゃくちゃカッコよすぎるんだけど!」
その一言で、話題はたちまち変わってしまった。
「さーっすが絵の梅壺よねえ。わたくし今まであの方との絵合わせは惨敗よ。やっぱり絵が描ける人は服や紙の選び方までひと味違うのよね。見た!? 梅壺の出衣。女房全員同じ襲色目よ。あれは圧巻だわ」
出衣とは几帳や御簾の下からわざと外へ引き出した服の裾のことである。調度の内側は見えづらいので、行事のときなどには人を呼んでわざと調度の外に美しく裾を引き出してもらい、服の重ねの美しさ、その感性の良さを見せつけるのだ。
「わたしたちもそろえたほうがよかったのでしょうか……」
褒めたたえる弘徽殿に、あのとき同席していた女房がおずおずと自分の裾を見ながら言うと、弘徽殿はぶんと首を振って言った。
「それをやりたければわたくしが全員に服を支給するのが筋ではなくて? わたくしは、可愛いあなたたちが思い思いにお洒落するのを見たいからやらないのよ。確かにすごいし本当はそれくらいやるべきなんでしょうけど、なんか薄気味悪くもあるもの」
そうして服のことを褒めれば女房たちが委縮すると思った弘徽殿は再び料紙に話題を戻して興奮気味の早口で批評する。
「なんと言ってもしのぶもぢずり誰ゆえにの本歌取りよ。みんな見た!? 墨を流して漉き込んだ乱れ模様の紙を雲母びきにして……あそこまでやるからにはきっとアレ、わざわざ東北から取り寄せているに決まってるわ。東北は紙の名産地だしね。あの地味ながら歌の内容と乞巧奠の星を意識した演出のカッコよさったら」
弘徽殿が頬を染めて褒めれば女房も笑顔で風流な逸話を重ねる。
「梅壺はなんと言っても春の季節の行事で必ず梅襲ねの装束にそろえて薄紅色の紙に真っ白な梅の枝を添えて和歌を詠まれるのが圧巻ですわ。梅壺の名をとても意識していらっしゃる」
犬君はよく解らない話題から身を引き、上品な朝餉をゆっくりと味わうことにした。
栗と里芋の煮物に醤を絡め、口に運ぶ。宮廷の膳は薄味で、それに自分で塩や砂糖や醤などの調味料を添えて味つけをする。犬君のお気に入りは醤という味噌に似た調味料だった。やわらかく炊かれた芋とともに噛み締めると、ほっくりとした甘味が口に広がる。その後味のまま、さらに白い強飯を噛みしめる。ほっこりとした芋の煮物とつやつやと蒸された白い米。しかもそのご飯はおかずの雅さに対して円柱型にドンとうず高く盛りつけられていて、満足いくまで食べられるのだ。先日いただいた山芋の球芽を一緒に蒸し込んだ強飯も美味しかった。見た目は悪いが小さくてもちゃんと山芋の味と食感がしていた。あの舌ざわり、癖になる。しかしやはりまずは白米ありき。白米と一緒に食べる煮物の、米にも身体にも味がしみわたる感覚には代えがたい。
その様子をちらりと見て弘徽殿はあきれたようにぼやく。
「あなた、本当にいつもいつも美味しそうに食べるのねえ。坊主としてはどうかと思うけど」
言いながら食事を終えた弘徽殿が立ち上がり、やはり菓子ばかり食べている鶯式部に注意した。
「鶯、犬君ほど喜べとは言わないけど、ごはんはちゃんと食べなさい。それと、後で眉の描き方教えて」
顔をしかめての注意からふっと茶目っ気を込めて微笑むと、鶯式部はたちまちご機嫌になって満面の笑顔で返す。
「はーい! ってゆか、よろしければ私が描きますよー!」
弘徽殿も「うん」と笑って軽く手を合わせる。
「じゃあ、ぜひ今度の御渡りのときにお願い!」
「はーいっ!!」
のどかな朝である。
食事が終わって借りた本を部屋で読んでいると、弘徽殿が六角型の漆塗りの箱を持って入ってきた。弘徽殿は箱にかけられた赤い組紐をほどきながら言う。
「犬君、貝合わせをするわよ!」