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花鳥風齧!  作者: 白瀬青
弘徽殿の悪役令嬢
27/91

歌枕の浅き夢(ディビジョン・ラップバトル)・9

「……居れど臥せど(四六時中)さざれさざめく(ざらりざわめく)ここちすれ(気持ちです)畏き人に(恐ろしい人に)恋ひわたるかも(恋をしたかも)……」


 詠みながら犬君はとっさに塗籠の中にある几帳に隠れ込み、次の歌を書きつける。いずれこの壁は突破される。迎え撃つしかない。


青糸は(この髪で)なぞ機織らむ(どうして機が)撚り乱る(織れましょう)

髪を小櫛に(梳いてくださる)掛く手のなくば(指が無いなら)


 詠み終えたところで見上げると、崩れた壁によりかかった梨壺が腕を組んで見下ろしていた。

 黒の衣冠束帯、結いこぼれたゆるやかな癖毛が頬に影を落とし、憂いのある垂れ目に七つの星のような泣きぼくろが散る。鬱屈した翳のある美貌が、犬君と目が合うなり甘く微笑んだ。

「本歌は『君なくは なぞ身装はむ 櫛笥なる 黄楊の小櫛を取らむとも思はず』だな。本歌取りで自分の名を主張してくるとは顔に似合わずなかなか激しい子だね、黄楊姫」

 犬君は「おや」と口角を上げる。

「御存知でいらしたのですか? てっきり新入りの名など覚えるに足りぬものかと」

 皮肉のこもった犬君の言葉に、梨壺も口角を上げた。

「当然だろう? 恋人の名は呼ぶものだよ、黄楊姫」

 芝居がかって両手を広げて見せた後、梨壺はふっと真顔になって問う。

「それにしても、君の歌風どこかで聞いたことがある。中途半端に詠み込まれた漢語、ふざけた押韻。誰に仕込まれた?」

 犬君は梨壺をまっすぐに見つめて不敵に微笑む。

「牽牛様だけが知っております」

 梨壺はふっと口許をほころばせると、そのまま身体を折って笑い出した。

「ふ……っ、あっはははははは!! いいね。食えない奴だ。ーーでは続けよう、黄楊姫」


明けぬれど(見ても見ても)見れど飽かざる(見るに飽きない)わが妹よ(恋人よ)

皓皓河漢は(輝く川は)落つる涙か(僕の涙か)


 本歌は「朝月の日向黄楊櫛古りぬれど何しか君が見れど飽かざらむ」。本歌は「朝月の日向黄楊櫛古りぬれど何しか君が見れど飽かざらむ」。恋人の名は呼ぶものだと言うからにはきちんと「黄楊」を詠んだ歌の本歌取りで返してくるのか。さらには弘徽殿と犬君がさらっと話していた漢詩を聞き止めて詠み込んできたことに舌を巻く。

「女性の漢詩はよろしくなかったのでは?」

 少しでも足止めしようと犬君が揶揄すると、梨壺はニッと笑って言う。

「今の僕は牽牛だからな」

 衣擦れの音が近づいてくる。犬君は鼓動を抑えるように胸に手を当てる。相変わらず幾重の衣に包まれた胸は身体の形が読み取れず、今自分の性別がどちらなのか判らない。しかし今は、ひとつだけ「仕掛け」に勝算があった。

 それは梨壺に、自分の名を呼ばせることーー「黄楊姫」と。

 几帳が揺れる。逃げる間もなく強く抱きすくめられる。

 驚いて小さく声を上げた瞬間、頭蓋骨の内から耳に向かってその声が高く響くのを感じた。本来の自分の骨格からは出てこない声。

「間……に、あった、……か……」

 息を吐く犬君の首筋に、ささやくくちびるが触れる。

「何が?」

 青く艶めく絹糸のような髪を指に絡めて笑う梨壺の声に、「……いえ」と女の声で答え、犬君は首に腕を絡める。襟元を開いて顔を埋められ、やわらかな胸が押し潰される息苦しさに、声が上擦る。


月の舟は(恋し身は)あかるき間にも(まるで昼にも)さまよへば(惑う月)

かくな抱きそ(もう抱かないで)身も空けくらむ(こんなふうには)



 ーーその瞬間、後頭部に強い衝撃を受けて目を覚ました。はッと反射的に喉を押さえる。指を押すごつごつとした触感に息を吐く。

 男の身体に戻っている。というか、さっきまでなぜ喉を触れば判るということに思い当たらなかったのか。やっぱりあの空間はおかしい。

 ……梨壺に仕掛けた罠、それは歌のやりとりに紛れて自分を「黄楊姫」と呼ばせることだった。自分に、女の名を。

 犬君はそもそも性別「らしい」行動へのこだわりが希薄な人間である。生まれつきこだわりが希薄な上に、生い立ちのせいで他人から望まれる役割に過剰適応する癖までついた。成人して男らしく振る舞うことを望まれているから男として振る舞っているが、少女のように扱いたいと望まれていた頃は何の抵抗もなく少女として振る舞うことができた。

 ならば、認識が視界を現出する拡張幻実においては、自分を女だと役割付けするより、思い込みが激しく歌の力が強い梨壺に「弘徽殿の新入りは女性だ」と強く認識させることのほうが確実だと思ったのだ。名は呼ばれたものの性質を定義する最小の呪縛なのだから。

「この……ッ、破廉恥……!!」

 わなわなと怒りを含んだ声と共に二発目の衝撃が頭に飛んできた。顔を上げると扇を構えた弘徽殿の女御が見える。

「なぜ私が怒られるんですか!」

 詠めと言ったのに詠んだら破廉恥とは無茶苦茶だ。だいたい、殴り起こすことができるなら早くそうしてほしかった。さすがに文句を言おうと口を開く。と、それよりも早く弘徽殿に襟元を掴み上げられた。

「何やってんの……わたくしの体面なんていいわよ、抵抗くらい、しなさいよ……ッ……!!」

 心配が怒りとして噴出する弘徽殿の前で、犬君は表情が変わらない。まったく、人が心配してるっていうのにこいつは相変わらずなんだわ。弘徽殿は怒り、もうひとつくらい何かを言ってやらなければと目を覗き込んだところで、表情がこわばった。犬君のくちびるがぼんやりとつぶやく。

「抵抗……?」

 違う。これはいつもみたいに人を小馬鹿にして透かしている顔じゃない。いつも通りのような無表情の中で、目だけが底なしに虚ろだった。いつもは皮肉と好奇心に瞬いている瞳が。弘徽殿は茫然として犬君から手を離し、きっと触れてはならないことにかすめたことをごまかすように「ふんっ」と言い捨てる。

「な、なんか……なんかあなたの歌は全体的になんか破廉恥なのよ……っ!」

 その瞬間、隣の几帳から高らかな笑い声が上がった。

「……ッはははははは」

 哄笑の意味が判らずふたりが身構えていると、女性としては低く深い独特の声が清々した様子で言った。

「ああ、久しぶりに楽しかったよ、新入り君! これに免じて君の勝ちとしよう」

 そう言って席を立とうとする梨壺に、弘徽殿は先程の犬君の目を思い出して指先が白くなるほど扇を握りしめる。

「待ちなさいよ! 逃げるおつもり!?」

 几帳に映る梨壺の影はふっと笑いながら弘徽殿を振り向き、肩にかけた小袿を翻した。

「まともに判じたら皆、僕に忖度するに決まっているだろう。それではつまらんのだ」

 そうして憂鬱そうな声を不意に甘くして、ささやくように犬君に言い残す。

「じゃあおやすみ、黄楊姫」


 役人たちはすでに梨壺の言葉通り、弘徽殿の勝ちとすることで動いている。梨壺が立ち去る衣擦れの音を、弘徽殿は悔しそうに聞いていた。

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