歌枕の浅き夢(ディビジョン・ラップバトル)・6
「もがなッッッ!!!」
「あべしッ!!」
「たし!!!」
次々に詠み手たちが吹き飛ばされていく。
その衝撃を受けて御簾の向こうからまろび出てきた対戦相手の悲鳴と床を打つ音にざわめきが広がった。
懐紙を床に叩きつけて立ち上がったのは源氏のご子息だ。
「やってられるかこんな歌合せ! 俺は部屋に帰らせてもらうぞ!!」
叫びながら廊下に向かって走り出した源氏の背中に鶴がぶつかって爆発する。
惨状を眺めていた弘徽殿の女御は、隣の犬君に目を向けるとにっこりと微笑んだ。
「というわけで、黄楊姫、あなたにも歌を詠んでもらいたいのよ」
返事は息をつくより早かった。
「お断りします」
誰が好んでこんな惨事に参加したいのだ。そうでなくとも、犬君は人前には出たくない。これ以上約束を破られてたまるものか。
「歌の一つも詠めないとは言わせないわよとわたくしが言ったとき、あなた否定しなかったじゃない。いいでしょ、和歌のひとつくらい」
そりゃあ宮仕えするのに和歌のひとつも詠めなくては務まらないだろうが、それは日常生活で怪しまれない程度の和歌が詠めるという意味でしかない。歌合せへの参加など想定もしていない。潜入捜査中の身、それも正体は男性。女房として宮中の歌合せに出て目立つ奴がどこにいるのだ。
「ならば弘徽殿の方様がお詠みくださいませ。和歌くらい誰にでも詠めるのでしょう?」
犬君がつんと断った瞬間、弘徽殿の顔が蒼褪めた。
何か悪いことを言ったか?と思ったそのとき、龍田中納言が非常に焦った様子でどこからともなく現れて弘徽殿をかばった。
「柘植姫、やめてさしあげて! 弘徽殿の女御様は女性にもかかわらず漢詩のほうがお得意でいらして、和歌はめっきり詠めないのでございます。この間などは詠むに詠みかねて『松島やああ松島や松島や』などと詠み出されるご始末――」
犬君は目をすがめた。この人、他人には「和歌のひとつも詠めないとは言わせない」と言わなかったか。
「い、いいじゃない! わたくしほどの身分ともなれば誰かが詠んでくれるんだもん! それに松島の歌はみんな気に入ってしばらく笑ってたし、三週間くらいずっと話題にしてくれてたじゃないの! みんなちゃんと日記に書き残してよね! 500年後の東北でだって大ウケだわ」
龍田はにっこりと笑い、ばっさりと言った。
「妾どもは女御様の恥になることはお書きできません」
弘徽殿の女御は目を剥いて叫ぶ。
「恥!?」
どうやら本気で面白い歌を詠みだしたと思っていたらしい。かなり衝撃を受けている。
「もしも他の女房でそのようなことを日記に書いている者を見つけましたなら、こうしてこうでございます」
龍田はにっこりと笑いながら、紙をびりびりに破いて捨てる空真似をした。手には力がこもり、笑ってはいるが目は本気だった。
弘徽殿が崩れ落ちるように肩を落とす。
「龍田ああああ!?」
衝撃冷めやらぬ顔でうつむいている弘徽殿の女御を横目に見た犬君はため息をついた。
「言い過ぎたのは謝りますが、いきなり七夕の和歌をと言われても困ります。だいたい私は今日ずっと、騙し討ちにされて、知り合いがいるかもしれない場に引き出されているのです。かたくなに拒む理由はお解りですね?」
綺麗な姿勢のままの犬君に淡々と詰められて弘徽殿は泣き言のような声で「わかったわよ……」とつぶやく。
犬君はもう一度ため息をつくと、漢詩をくちずさみはじめた。
迢迢牽牛星
皎皎河漢女
纖纖擢素手
颯颯弄機杼
終日不成章
泣涕零如雨
河漢清且淺
相去複幾許
盈盈一水間
脈脈不得語
「漢詩じゃない。それにそれ、原文そのままでしょ。爆《BAN》されるわよ」
「そうですよねえ。しかし私もあいにく和歌よりは漢詩のほうが得意なのです。まあこれは叩き台ということで」
あ、ということは!と、弘徽殿が急に目を輝かせる。
「歌合せ、やってくれるのね!?」
犬君は「いいえ」とすげなく答える。そんなわけがないだろうと言い出さなかっただけまだ身分をわきまえているつもりでいる。
「しかしここにいる全員が強制的に蔵人型拡張幻実に接続されているのであれば、ここで私が代作した和歌を幻実内にいるほかの女房の意識に滑り込ませることは可能かもしれない」
言っている意味が解らないのか、弘徽殿の女御が目をぱちくりとさせた。しかし、
「だが、まどろっこしいですね。いっそ術を直接形代で叩いてはいけないでしょうか!」
犬君のやけっぱち発言に関しては実に当意即妙かった。
「駄目に決まってるでしょ」
そんな話をしていると、不意に低い声が投げられた。
「ふうん、主が主なら女房も女房だ。女のくせに漢籍知識の自慢ばかりする」
こちらを見てにやりと笑っているのは隣の御簾の女主人だ。その声は女性にしては低く、語尾が深く沈む話し方をする。几帳の下から藍色の袿の裾が見えていなければ、男だと思ったかもしれない。
どこか楽しげな隣の御簾の主人とは裏腹に、弘徽殿の女御の眉が強く寄る。
「梨壺……!」
次の瞬間、他の女御更衣には決して聞かせなかったまさに悪役令嬢とばかりの高笑いが響き、犬君は思わず几帳越しに対峙するふたりを見比べた。尋常じゃない刺々しさに、思わず犬君は扇の紙片を確認する。
帝と同母兄妹の女三宮にして東宮妃。局は梨壺。