歌枕の浅き夢(ディビジョン・ラップバトル)4
「まったく。陰陽頭殿は相変わらず悪趣味だなあ」
再び大きなあくびをしながらつぶやいたのは金髪の蔵人だ。
「公卿の皆様を脅かさないでくださいよ、もう。試用のための歌なら初めから、陰陽頭殿と相談して用意してあるんですから」
彼がため息をつくと、公卿からもほっとした声が出る。
「なんだ驚かさないでくれよ。まったく陰陽師殿は人が悪いなあ」
どっと緊張が解けて笑い合う公卿たちの前で、蔵人はふっと微笑うと、懐紙を開いた。あまり低くはないが穏やかで流麗な声が歌を読み上げる。
うつせみの羅裳しき波かぢも無み
辺波天河を堰き止めよ今
詠み上げた端から音は文字になって空間に浮かび、その文字列はたちまち紙から遊離して御簾の白い幕へと流れ込む。
まず御簾に映ったのは波打つように脱ぎ捨てられている長い裳だった。裳は透けるような羅紗でほのかに薄蒼く、波うねる川のようだ。かき乱れた黒髪がそれに入り混じって淵のような影を落とす。今の日本では衾はまだ一般的ではない。肌寒い初秋の七夕の夜、ふたりの衣を互いに重ね合わせて寝て、その衣も巻き込んで混ざり合って乱れてその後の明け方。朝になってまた一年の別れになる牽牛は浮かぬ表情でもつれた衣服を見つめている。間もなくまた一年の別れとなる。きっとその心の内も、この混ざり合う衣のように乱れているのだ。ため息の中、黒髪の持ち主――おそらくは織姫が、肩にかけられた男物の着物を白い指で引き寄せる。あまりにも艶やかなせいで星の光にきらめく深い河の藍と見紛う髪の隙間から、真珠のような肩が覗く。
公卿側の席から嘆息が漏れた。
同時に「晴朝殿の歌にはやたらと難解な漢語を使う癖がある。自然さがないね」と批判する声が上がる。そうそう、とどこからともなくうなずく声がある。「初心な六位蔵人殿は、女ではなく歌の技巧に溺れておられるようだ」そうすると晴朝の目立つ容姿を見ていけすかなくなった傍の者も笑いながら扇を煽ぐ。「そうそう、何かすっと心に入ってこないというかね」
それを聞きとめた晴朝はえへへと頭を掻きながら言った。
「すみません。不勉強なもので、”ら”から始まるいい感じの大和言葉が思いつかなかったんです」
「ら?」
聞き返した男の目の前で、晴朝は檜扇を広げた。歌の映像が絵巻物のように流れている御簾を見据え、手を上に向ける。すると歌の文字列が具現化して空中に浮かび、晴朝の手招きで目の前へと引きよせられる。
うつせみの
らしょうしきなみ
かぢもなみ
へなみてんがを
せきとめよいま
具現化した文字列、その各句の頭文字を切るように、晴朝は扇を横に薙ぎ払った。
扇に斬り伏せられた文字列は「う」「ら」「か」「へ」「せ」。
その瞬間、全員の視界が暗転する。突然頭を強打されたかのように。
……目が覚めたのは衣の海の中だった。
薄絹の裳と自分の長い髪が縺れ合って、幾重にも重ねられた衣の中で溺れそうだ。まるで川だ。ふたりを隔てる深い河。いつもいつも天の川に隔てられて、逢えたときには夢中ですがるうちに朝が差し迫ってくる。もがくように、水面を探るように、布の向こうへ手を伸ばせば、その手を引きよせる手がある。
「犬君、」
手首に痕がつくほど唇を押し当てられ、指先が跳ねる。
朝の強い逆光に照らされたあなたの髪は羽毛のようにやわらかくきらめく。そのやわらかい髪に腕をくすぐられ、思わず手を退ける。
溺れる――だなんて。どちらが。
逃すまいと手首を握りしめる圧が、まるですがりつくように見える。顔を上げると強い目と目が合う。その瞳はまだ訪れてほしくないその時間、ふたりを引き離す朝の色、あなたが持つ名の空の色、晴れた日の明け方の空のような蒼灰色をしている――。
「なによこれ……気持ち悪い」
現実に引き戻したのは、いかにも不快そうな弘徽殿の女御の声だった。
これまで無表情で広間を眺めていた犬君は、突然の強制的な巻き込みに舌打ちをする。
なんと生々しい夢だ。これが陰陽頭、当代最高の陰陽師の見せる幻術か。
和歌を呪言として、詠まれたその景色がいとも生々しく目の前に顕現する「拡張幻実」。夢かうつつか寝てか覚めてか――巻き込まれてしまえば、いっさいの区別がつかなくなる。いや、頭では夢と区別がついていたとしても、あの幻術空間の緻密な現実感が迫り来れば、揺さぶられる感情に抗える者などいやしない。
これまでは一連の騒動を他人事のように眺めていた犬君の手のひらに、じっとりと汗がにじむ。
「確かに、このような生々しい映像で知らない人に迫られるのは不愉快でしかありますまい。なんてものを見せるんだ」
嫌悪を込めてうなずくと、弘徽殿は首を振ってため息をつく。
「あなたに何が見えていたのかは知らないけど、わたくしには間違いなく”想い人”だったわよ。だから気持ち悪いって言ってるんじゃない」
犬君は眉をよせて何か考えた後、広間を見回す。貴族たちが次々に目を覚ましたかと思うと、たちまち騒がしい。
「な、なんだ……なんだったんだあれは!?」
術が解けてざわめく貴族たちに、蔵人は恭しく礼をして言った。
「幻影の彼我を反転させただけにございます。落ち着いてください」
その様子を眺めながら、犬君は目をすがめ、考えを巡らせながらゆっくりとつぶやく。
「なるほど、――見る者それぞれで……見える幻は違うということか」
その横顔をじっと見つめ、弘徽殿が首を傾げた。
「なんか黄楊姫、顔が怒ってない?」
広間を見回していた犬君は、思いもよらぬ言葉に動きを止めた。そうして憮然とした顔で目を逸らす。
「私の顔はいつもこんな感じでございますれば」
犬君の答えに、「それはまあ……そうだけど」と釈然としなさそうにつぶやいて、弘徽殿はため息をついた。
金髪の蔵人は、まだざわついている公卿たちに「落ち着いてください落ち着いて」と声を掛けて回っている。広間の混乱をひとしきりなだめてから、蔵人は言った。
「先程ご覧いただいた幻影の土俵。これを、仮に”蔵人型拡張幻実”と呼ばせていただきます」