歌枕の浅き夢(ディビジョン・ラップバトル)1
『あまり目立つところには出さないようにするから安心して』
確か弘徽殿の女御はそう約束したはずだ。
「なのになぜ私が乞巧奠の宴に出席を……?」
数多の貴族が出入りし笑い合う白木張りの大広間を前に、犬君は眉をしかめている。表に出ないから大丈夫だと油断していたら乞巧奠の歌合せに出席しろと言う。あわててちょっとした術で声を高めに調整してみたら、「あなたの顔だと少し低さを残したほうが色っぽくていいのだけど」などと無茶な注文をつけはじめ、かと言って地声のままというわけにはいかないので調整に苦労した。無茶苦茶を言うな。
犬君の隣に座った弘徽殿の女御が笑いながら言う。
「乞巧奠なら皆そろうでしょ。みんなまとめて紹介するのに都合がよいと思ったのよ」
だからそういう場所に出すのをやめてくれと言っているのにまったく伝わっていない。これだから貴族は、と犬君は心の中で恨んだ。
普段は軽装を許されている弘徽殿も、宮中行事となれば唐衣と裳を纏う。彼女が好んで着る濃い紅色の表着も上に白のやわらかな唐衣を重ねると一気に清らかで荘厳な雰囲気になる。裳の紋様は天の川を意識した流水に銀糸の刺繍。昼間は焔のように照り映える紫がかった黒髪は、夜の燭台のもとでは純然たる黒の髪よりも淡くやわらかい色に光を透かせて、白い頬小さな顎に儚げな翳を落とす。その髪の長さは華奢な全身を抱き包むかのようだ。さらにその小さな体躯の中に当代最高とも言える和漢の文学の教養が詰め込まれているとなれば、それはまさに藤原家の権勢が成す女性の色香の理想。女性に興味がないはずの犬君でさえ目を奪われる美の具現化だ。
……そう思った瞬間もあったが、口を開けば相変わらず無茶振りばかりするので犬君はそれ以上心の中で弘徽殿を讃えるのをやめた。
さて、乞巧奠の宴は清涼殿で行われる。磨き抜かれた板張りの広場には数多の公卿・歌人が集まり、対する女官達の詰所には女御更衣と各殿舎から選り抜かれた歌人が居並ぶ。男女の間は御簾で仕切られ、各殿舎の代表の間には几帳が置かれている。そこから見える美しい白砂の庭には木の机に紙垂や色とりどりの着物を象った形代が飾られた梶の葉、そして四脚の机が並べられている。机には諸々の楽器と果物の供物。空は澄み渡り、星見のための水盆には月光が揺らめき、天の川の逢瀬には絶好の日になった。ここで星を眺めて管弦の音楽を奏で、その後、織女と牽牛になりきって恋の歌を交わす歌合せとなる。
庭から音楽が聞こえてくる。織女と牽牛の恋にあわせ、奏でられる曲の名は「想夫恋」。そこにぴたりと琴の音が重ねられる。楽人たちに合わせてひとりだけこちらの女人側の席から見事な音を響かせるのは麗景殿の女の白く長い指だった。花橘の爽やかな色を思わせる薄手の橙、黄色、緑の袖の上にわざとそれを透かせるような薄手の白い表着が弦に触れると、深い紫檀の盤面に施された月光貝の螺鈿が薄物の袖の内側で星のゆらめきのように淡く偏光する。その袖を見た公達がため息をつきながらまさしく天女の織姫の衣であろうとささやきあった。
「あの御方は麗景殿の女御さま。音楽がとても得意なの」
弘徽殿の女御が扇で口許を隠しながら小声でささやく。いかに博覧強記だとて宮中行事には詳しくないだろう犬君のために、こうしてさっきから宴の進行や宮仕えにあたって顔を覚えておいたほうがいい人物やらを解説してくれているのだった。しかし一番知りたいのは事件の渦中の人物だ。
「桐壺の更衣様はどちらに?」
言いながら犬君は扇を持つ肩を少し上げてその内側を見る。扇の内側に小さな紙が貼られていて、先程から弘徽殿の女御が説明してくれていることの概要が書き留めてあるのだ。それで配置を確認していると、下から強烈な気配と視線を感じた。
おそるおそる視線を下げてみれば、膝の前に小さな女童がいて、じっと犬君の顔を見ている。腕と扇の間にできた隙間から目と目が合う。
ふっくらとした白い頬にあどけないつぶらな瞳はつやつやとして黒く、無邪気に首を傾げると綺麗にそろえた黒髪がさらさらと桃色の唐衣の肩を流れ落ちる。
いや、もう女童ではないのかもしれない。小さいながら服装はしっかりとした五衣唐衣裳の成人女性正装だ。身丈は十歳のトニよりもまだ小さいくらいで、顔を見る限りではとても大人と思えないあどけなさではあるが。
「ど、どちらの殿舎から迷っていらしたのでしょうね。おひとりで帰れますか?」
あまりにも強い視線に気まずくなり、微笑みを取り繕いながら犬君が手を伸ばすと、女童はその手をひっぱたいて睨みつけた。
「気安くわらわに触れるでないわ、この髪長めが」
犬君はあぜんとして女童を見つめている。
何者だ。髪長と彼女はそう呼んだ。しかしそれは――。
瞬間、ようやく隣の異変に気づいた弘徽殿の女御が、ばっと向きを変えて居住まいを正した。
「中宮様! どうしてこちらに?」
「中宮様!?」
犬君は思わず叫びそうになり、あわてて扇で口を覆う。
「なんや、新人とはいえこの鞠子のことも知らんとは。弘徽殿付きの女房も落ちたものよの」
ふん、と鼻を鳴らして女童は小さな胸を張る。
「中宮鞠子や。左大臣の娘、お母さまは前斎宮。ここで暮らすんやったらよう覚えとき」