弘徽殿の悪役令嬢・10
「桐壺、君が好きな物語の新しい巻ができあがったよ」
当たり前のように部屋に上がり込んで庭を見れば、長い雨に桐の大樹はいっそう翠を色深くして、磨かれた木の床に水雫の影が躍る。この殿舎では雨こそ御簾を掲げていてくれる。雨の昼下がりになるといつも訪れる人がこの景色を気に入っていることを知っているから。
そのうちにこの部屋の主が当たり前のように用意してあった菓子を手づから運んでやってくる。
「用意がいいな、桐壺は」
葡萄襲の袖が持ち上がり、唐菓子をぱきりと指で割る。野葡萄の実が色づくまでを描くように朱鷺色から空色、藍色、紫色、と色を重ねる配色だ。凛とした色合いの袖の内側に隠れた鮮やかな朱鷺色が可愛らしい。
「雨の日は桐壺にお越しになることが多いから……」
その正面から少しずれてそっと座ったのは淡い藤色の袿を着た少女だ。高坏の上の唐菓子を足そうと細い指を伸ばすと、華奢な肩にしなやかな烏羽玉の黒髪がさらさらと流れ落ちる。髪の先から零れ落ちる光に細やかな花菱の地模様が揺らめく。その声は控えめといえば聞こえは良いが、自信なさげでかぼそい。
「落ち着くんだ、ここにいると。桐壺だけが更衣から下々の女官に至るまで僕を見ても騒がない」
銀糸で鳳凰を織り込んだ深い藍色の袿を纏うその人は、割れた唐菓子をつまらなさそうに見つめてくちびるを尖らせる。垂れ目気味の瞳の端に散るのは北斗七星を思わせる七つの泣きぼくろ。それがゆるやかな癖のある黒髪に翳ると、えも言われぬ鬱屈した色香が漂う。少年のような涼やかな目鼻立ちに物憂げな表情、口を開けば色好む公達のごとき振る舞いと詩文の才。物心ついた頃から知っていた。目が合った女たちが頬を染めてささやく。こどもの頃から――いや、動きやすい少年姿でいることが多かった童時代のほうが噂が多かったか。「三宮様は在原業平の再来か」と。
「わたしは召人の腹の子ですから……教養とか、礼儀作法とか、頭の良さとか、ちょっとづつ信じてもらえないんです。だからその分、女房はしっかりしたお姉さまばかりなの。落ち着きますよね」
桐壺は小首を傾げて微笑み、茶を飲む。
「でも、女房達がたちまち恋してしまうのは、宮様もお悪いわ。ただお顔が美しいだけではここまではならないものよ。大方、また意味深な和歌で乙女心を玩ばれたのでしょう? 罪作りな御方」
こういうことはもうおやめになってくださいね、と桐壺の更衣は寂しそうに微笑う。その瞳はこの場所のどこも見ていないかのようにゆるやかに伏せられ、ただ長く降り続く雨の音を聞いている。
「言葉だけで玩ばれるのはまるで――この身を浸食せど止められぬ甘い毒のようでございますから」
◇
「目を合わすな、屠児だ」
吸い込まれるように声を掛けようとした若い衛士の肩を、先輩の衛士が叩いて止める。
若い衛士は「でも」とためらう。
みすぼらしい童だ。案外清潔にはしているがそれゆえに、自分の手で苅安の草を煮て絞り染めにしたのだろう黄色の着物は擦り切れて縮み、足首が見えてしまっている。その身体は手足ばかりが長くて棒のように細く、ひどく日焼けして癖のある茶色の巻き毛が肩先で跳ね返ってふわふわと揺れていた。
決して美しくはないその姿から目が離せないのはあの吸い込まれるような大きな瞳のせいだ。目ばっかりが大きく輝くたぬきの子のような女童。
「べつに今日は肉を売りつけにきたわけじゃねえよ」
こんな小さな少女が鹿や猪を追い、仕留めるというのか。先輩が侮蔑の意味を込めて呼んだ言葉を、若い衛士は驚きを込めて反芻する。自分もまた弓を使う武士なのだ。訓練に駆り出された狩りで、彼は野鳥すらうまく仕留められない。
ためらいを見透かしたように、女童はぐいと距離を詰めて、いやに堂々として屈託のない笑顔で話しかけてきた。
「困ったダチがいるんだ。人に頼み事しておいてまったく連絡がつきやがらねえ」
おい、と引き剥がそうとする先輩の前に立ちはだかった女童は、朱塗りの柱と碧の瓦の大門を睨み据えた。ふたりの男の前に紙を広げ、掲げる。
「教えてくれ、にーさん。あんたら、こいつを見たことがないか」
◆勝手ながら一ヶ月お休みをいただきます。
次回、「歌枕の浅き夢・1」は一月十三日予定です◆