弘徽殿の悪役令嬢・6
「さて、桐壺の更衣様が殺されるとは、如何なる事態にございましょうか」
ようやく雛遊びめいた着替えが落ち着いたところで、犬君は先程からずっと気になっていたことを切り出した。犬君は男性としては小柄だとはいえやはり腰の位置は女性にはありえないほど高く、そこから長く引く白い裳の迫力は際立っている。その裾さばきもものともせず、犬君は弘徽殿に確認をさせるように目の前で身を翻してからゆっくりと膝を折って座す。
弘徽殿も目の前に座り、改めてその姿を見る。
犬君を女房として扱うことを決めた今、ふたりの間は御簾も几帳もない。ただ、唐菓子を山と盛られた漆塗りの高坏だけが間にある。
白から濃い紫へと濃淡を重ねて緑を差し色にした上品な五つ衣に、輝くような白の袿と艶やかな紫の唐衣。それがいとも映える気位の高い貴婦人――に見えなくもない犬君が微笑んでいる。顔を上げさせれば烏羽玉の黒髪から覗き見える鋭い切れ長の目はやはり化粧を施すと謎めいた色気を孕み、優雅な所作は宮中に連れて帰るのに申し分がない。
源氏物語の須磨の巻をなんとなく思い出してしまう。不倫断罪、ド田舎追放!――からの、現地で思い込みの激しい入道に田舎娘をめちゃくちゃ押しつけられる展開に引き気味だった光源氏が、明石の君にひと目逢った途端そのあまりにも場違いすぎる高貴さにあてられてすっかり止まらなくなってしまう巻。その気持ちが今なら解る気がした。ただ明石の君は田舎者とはいえ血筋は高貴だ。
しかし犬君は。
これで畜生の身分の者なのか。
「畜生にございましょう。私が美しく育てられたのは高僧が安心して手を触れられる玩具になるためでございます」
見透かしたように皮肉を言う犬君に、弘徽殿の女御は息を吐いた。
「そんな言い方はおよしなさい。安心して手を触れられる玩具になるためにどれほどの努力が必要か、わたくしが一番知っていますわ」
言って、ふたりの間に置かれた高坏の唐菓子へと手を伸ばす。
「よろしければあなたもどうぞ」
犬君にもうながし、しばらくふたりでもぐもぐと菓子を食べたところで、「長恨歌は御存知?」と切り出す。
「唐の楊貴妃を題材にした漢詩でございますね。作者は白居易」
弘徽殿はうなずきながら言う。
「そうよ、その一節が梶の葉に書きつけてあったとか。それは事実なの?」
「在天願 作比翼鳥 在地願為連理枝」
一秒のためらいもなく犬君が諳んじるので、弘徽殿は噂が本当だったことを確信した。
「では源氏物語を読んだことは?」
「ございませぬが、若紫の巻まででしたらなんとなくは」
若紫巻は最愛にして作中最も有名な女君・紫の上の登場を描く巻である。若紫までならなんとなく解る、というのはまあまあ普通の反応かもしれない。
「源氏物語は光源氏の母親の話から始まるわ。それは約束された主人公ではなく、最初から不穏さしか漂わない身分違いの恋。帝には女御更衣が数多お仕えしている。それは政治的に無視できない父親の体面を立てるために当たり前に愛してもらえるはずの女御や、昔からお仕えはしていたけど身分が低いからしょうがないとあきらめかけていた更衣達。その目の前で、そんなに身分の高くない更衣の桐壺が優先して溺愛される。そうなれば女御はもとより桐壺より身分の低い者すら変な期待と嫉妬が芽生えて黙ってはいない。完全な雲の上の人だと思っていたときにはしょうがなかったけどあの子がいけるなら私だって――そう思われるほうが怖いのよね、寵愛争いって。さらには桐壺がいじめられればその恋はかえって燃え上がり、帝は昼も夜も飽かずに傍に召す御有様。この異常事態を、地の文すら天真爛漫なときめき逆転純愛物語には描かない。ここまで来たらもう政治問題だからよ。そんな彼女が喩えられるのが唐の楊貴妃ってわけ」
なるほど、と犬君は何やら考え込んでいる風を装って唐菓子の胡麻の風味を噛みしめる。ここに出されている唐菓子は小麦の生地に甘く炊かれた木の実を包み、美しくひねって閉じて胡麻油で堅く揚げたものだ。歯応えのある生地を噛みしめると口の中に糖蜜の甘さと芳醇な胡麻の味が広がる。
「つまり、長恨歌のあの言葉は楊貴妃のみならず桐壺の更衣の運命も示すと」
ええ、と弘徽殿は唐菓子の中に甘く煮詰められた木の実を咀嚼してうなずく。
「わたくし、思うのよ。梶の葉に願い事ではなく長恨歌を書くなんてありえないことよ。願い事としては意味が解らない。でも呪いだったら? 呪詛する先は桐壺の更衣だと暗に示しているのなら? 実際に桐壺の童が不自然な死に方、吊るされ方をして、桐壺の義兄が病に伏している。これは誰かが乞巧奠の梶の葉にかけた呪いなのよ。桐壺の周りの人を次々と死に至らしめてやがて桐壺の更衣を衰弱させ、楊貴妃のように死ぬことを願う呪いなんだわ」
犬君は唐菓子を手に取り、口に運ぶ。
「なるほど、それで桐壺の更衣様が殺される、それはなんとしても阻止せねばならないーーと、女御様はお考えになったわけですね」
そうして目を閉じ、何かしばらく考えているように唐菓子を噛みしめてから、犬君は目を開いた。
「……しかしおそれながら弘徽殿の女御様、それはさすがに論理の飛躍が過ぎるのではございますまいか」