からすのごちそう・1
※当作品には、中世日本のエッセンシャルワーカーに対する蔑称や人外であるかのような描写が出てきます。これらはストーリー上必要な描写であり、いかなる差別をも許すものではありません。
また、生肉を食べるシーンがありますが、現在では中心部まで火の通っていない猪肉の生食は腸管出血性大腸菌感染症やトリヒナ症及び肺吸虫症等の原因として知られています。野生動物の肉等を食べる際には中心部まで火が通るよう十分に加熱を行い、感染にご注意くださるようお願いいたします。
空は枯れたような鈍い青色である。
見上げると色とりどりの布が枝にかけられて旗のようにひらめく。
「きれえだなあ」
地面に転がったままつぶやいた。時折黒い鳥の影が舞い上がり、くわえ上げられた錦が空を舞う。きれえだなあ。きれえなおべべから腐った腕が落ちてきやがる。枝にかけられた着物にもよく見れば、中身のついている袿があった。もったいねえ。
ここは風葬の野辺で、誰から始めたことかは知らねえが、死んだ者の空蝉は山裾の木の枝に打ちかけられることになっている。最初は地面に茣蓙を敷いて野放しだったということだが、そのうち貴人の遺体にかけられた錦を盗人が狙うようになり、お姫さんのつやつやとした黒髪まで坊主にされるに至って、そのとき見えたのがあの枝だったのだろう。鴉からすが食いさしの人間をつるすあの木の枝。きらきらしたものを拾い上げて飾るあの枝。荒涼の森には、四季折々の色を写す綾の花が咲く。知らない貴人はあれを見て「盗人から遺体を守る知恵」と思ったに違えねえ。ばかみてえ。
うっとりと目を細めたそのとき、したたかに腹を蹴られた。
「……なんだ生きているのか」
あたしの腹から足も退けずに、男は言った。
目を上げると、白い布と目が合った。男――低くて深みのある声だからきっと男だろう――その顔は呪符の描かれた白い布で覆われていて、吸い込まれそうに黒い目だけが呪符みたいな文様に添って切り抜かれた穴からこちらをにらんでいる。髪は長く、立烏帽子をかぶり、沓を履き……しかし着ているものは熟れた柿のように鮮やかな臙脂の僧衣なのだった。
「ずいぶん恐れ知らずな童わっぱもいたもんだ。野辺の坂で転べば三年で死ぬと言われているものを、まさかピンシャンした身体で寝てる奴がいるとは」
「町の奴らはあたしを穢れだって言う。だからその穢れをたっぷりつけて肉を売りに行ってやるのさ」
胸を張り、あたしは言う。
町の奴らは薬だ滋養だと肉をありがたがって買うくせに、獣や鳥を食える肉にして持ってくるあたし達のことは厄病神みたいに鼻を摘む。
「穢れ」なのだという。
皆があたしを見てささやく「穢れ」という言葉の意味を、あたしは知らない。ただ、どういうものをそう呼んでいるかは知っている。この野辺にあるもの。野分の過ぎ去った後の水辺に積み重なり、広がっていくもの。死にまつわるもの。死にゆく間際のいのち。あたしたちの生活。
そういうものには疫病がまとわりつく。たぶん、小さな鬼に見えているのだ。あたしは。皆の目には。
風葬地で生まれ育ったあたしみたいな奴だけじゃない。貴族ですら死を間近にすれば穢れになることを知っている。茣蓙を敷いて念仏を唱えていたきれえなおべべの女が盗人に弄ばれ脱がされ、後には丸裸の遺体だけが転がっているのを何度も見てきた。世界のうちで灰になって天に昇れるのは本物の貴族だけだ。
さらに、ここいらの木陰には死んだ奴ばかりじゃなくて、これから死ぬ奴もやってくる。疫病にかかった者、老いた者、強盗とやり合って手足の欠けた者。疫病はともかく、皺や喧嘩は伝染るまいとあたしは思うのだが、町の人は我に伝染るな伝染すなと野辺に遣る。
「あたしはきれいなおべべを着て気取った奴らが鳥や盗人に丸裸にされて見る目もなく腐り果て、獣に喰らわれて骨が野晒しになるのを見るのが好きなのさ」
たったひとつの復讐のように嫌味を込めて、いひひと笑ってやると、ぼーさんは感心したように言った。
「とんだ童に徳がある。まるで天然の九相図だ」
「糞図?」
首を傾げると、ぼーさんはやっぱり感心するんじゃなかった聞き流せとばかりに手を振って言った。
「そういう絵がある。寺に飾られている」
ふうんとあたしも聞き流した。
「ところであんたはなんだ。拝み屋なのか? ぼーさんなのか?」
腹の上に置かれた沓を睨みながらあたしは言う。
すると男の目からすっと怒気が引いて、彼は冷ややかな声で意味の解らないことをつぶやきながら足を下ろした。
「……どちらでもない。聖であり獣であり、祝であり葬であるもの」
なんっっだそれ! あたしは怒りのままに腹に力を込めて跳ね起きると、これ見よがしににバシバシと着物の汚れを手で払った。山梔子染めの着物は泥汚れが目立ちにくくてあたしのお気に入りだけど、そういう問題じゃねえ。
「わけがわからんことを言ってないで謝れ」
そうしてまじまじと見てみると、本当にけったいな身なりをしているのだ。確かに僧でもあり神祇官でもある。もったいつけて布で顔なんか隠しやがってうさんくさくもあるが、立ち姿が良いおかげでありがたみを感じなくもない。でたらめだ。しかし不思議と、矛盾するはずのすべてが調和して美しいとすら思えるのだった。悔しいけれど。
殊にその髪だ。
「ずいぶん髪の長ェぼーさんもいたもんだなァ」
ぼーっと見上げながらあたしは感心する。
あの髪の艶やかさと、白絹の雑面からのぞき見える眼光、まるで鴉みてェだ。あまりに黒すぎて瑠璃の青に見える。
黒髪を烏羽玉とはよく言ったものだ。夏の陽射しに艶々と青空を映す烏扇の草の実。美しい髪は本当にあの烏羽玉に似ているのだと感心した。
「それよりあんた何やってんだ、こんなところで」
呆れてつぶやくと
「訳あって人を探している」
と言う。
だから寝ている奴の腹を足蹴にして検分したのか。あたし以外でここらで寝てる奴なんて仏かもうすぐ仏になる奴しかいない。仏を蹴るたァたいしたぼーさんだよ。あたしはまた悪態をついた。
先も言ったがこの野辺には自分の脚で歩いてきた死体もある。死期を悟った奴等だ。
獣とて飢えている。弱っていると思われれば、一日だって形を保つまい。今だって鳥が低く旋回し、その輪が次第に狭まる。草むらを見れば閃く瞳と目が合う。ここに住まう獣は生きとし生けるものすべて食うか食われるかだ。
「で、どんな人間だ」
袖についた草を吹き飛ばしながら尋ねる。ぼーさんは淡々と答えた。
「さる貴人が地方に任ぜられ、帰ってきたところ妻の姿がなかった。見れば『疫病にかかり、高熱の末に目も見えず足もままならず、もはやこれまでと覚悟して野辺に向かう』との文がある。朔日のことだ」
昨夜の月は確か肥えていた。十五日、とあたしは口の中で言う。
「そいつァもう跡形もねえだろうな」
ぼーさんはうなずいた。普通、病で死を覚悟して野辺に来た奴が大自然の中で元気を取り戻して帰っていくなんて奇跡は起こらないし、最悪の場合、息があるうちから獣の餌食だ。うなずきながらぼーさんは「ところがだ」と前置きする。
「一昨日の早朝になって、社の片隅で女の腕が発見された。祓えど祓えど禍いが絶えないので卜占すると境内に穢れありと出て、その方角をあらためてみたところ、遺体の腕をくわえた犬がいたという話だ。美しく白い指をした女の腕だった。朔日に行方をくらました女は琴の名手であった。指の美しさが気になったので夫に検めさせると、それは確かに妻の指、妻の着ていた着物だという」
そこで、とぼーさんは着物の端切れを取り出した。
「穢れの元凶、野辺に向かって十二日も獣に食われずただ形を留めながら腐敗していったこの女の足取りを探しに来た。知っていることがあれば教えてほしい」
知ってることなんてあるもんか。半月も鳥獣に食われなかった死体なんて聞いたことがない。
しかし目の前に広げられたきれえな着物の端切れを見ると、あたしはあっと声を上げた。泥がこびりついてはいるが、光にかざすと美しい織目から花の文様が浮かび上がる。あざやかな若葉色の小袿の端。
「知っているのか童」
「ああ」
あたしはにんまりと口角を上げる。
「狩った猪のお腹に入っていた」
ぼーさんか拝み屋かは知らないが、いずれにしても四つ足の肉は忌まわしいはずだ。
「会わせてやろうか、臓物の中の女に」
さあどう出る? あたしは挑発的に笑う。
「ただしあたしの家に来たら、その猪であんたをもてなす」