老人の日常
【転じる】
タバコを買って帰ると妻が倒れていた。
薄紫のカーデガンが陽光を反射している。
30分前には「まだタバコを吸うのか」と喚いていた妻は、今は何も言わず静かにそこにいた。
台所の床に寝そべる彼女の顔は記憶の中よりも皺が深くなっており、クッとアバラ辺りが苦しくなる。
そういえば寝室を別にして以来、初めて寝顔を見たかもしれない。
「おい」と声をかけても一向に起きる気配が無く、自分が飲み込んだ唾の音がいやに大きく聞こえ、心臓が脈打つ。
大丈夫だ、落ち着け。
まずは茶でも飲もう。
倒れる妻の前を横切り、冷蔵庫に手をかける。
伸ばした手の先が視界に入り初めて気がつく。
中指が震えていた。
途端に背筋がゾクゾクと寒くなり、膝から崩れ落ちる。
全身の力が抜けると、嫌な想像が一気に吹き出す。
死んだのか、あいつは。
何故だ、何故死んだ?
俺が金婚式の祝いを嫌がったからか?
康介に電話をして、いや、ダメだ。
あいつは離婚して一人親だ。迷惑はかけられない。
雄一、あいつはイギリスだ。
真希、そうだ真希なら。
這いつくばるように階段を登り、枕元の携帯電話を手に取る。
震える手で真希に電話をかける。
「オカケニナッタデンワバンゴウハ…」
繋がらない。
こんな時になんて親不孝な娘だ。
部屋に差し込む夕日が足元を照らす。
そうだ、俺は茶を飲もうとしてたんだ。
手すりに捕まりながら一段ずつ階段を降りる。
階段を降り切った時に「ガコン!」と玄関から音がしてすっ転びそうになった。
くそったれ、バカ新聞屋め。
あと数秒早かったら階段から落ちて首の骨が折れる所だったぞ。
この人殺しが。
そう思った瞬間、倒れていた妻の事を思い出し、熱くなった頭がドンドン冷えていく。
落ち着け、落ち着け。
初心を忘れるな。
俺はただ茶を飲みたいだけなんだ。
一つ、大きく息を吐き足を進める。
ミシ、ミシ、と廊下を進み、台所へ戻った。
出来るだけ妻の事は見ないようにしてグラスを取り出す。
冷蔵庫の中には安っぽい紙にマジックで麦茶と書かれた水差しが、開いた扉に置かれていた。
何故わざわざこんな安っぽい真似をするのか。
麦茶なのは見ればわかるだろうに。
わざわざ見た目を損なってまで、こんな事をする意味がわからん。
グラスを流しに張った水に放り込み、改めて部屋の中を見る。
机の上には丸い何かが入ったビニール袋が転がっている。
ガサガサと中身を見ると、玉ねぎがいくつか入っていた。
また関口のじいさんか。
たまにこうやって家庭菜園で取れた野菜を押しつけてきやがる。
土に汚れた足で玄関を汚しやがって、九州の田舎もんが。
玉ねぎを冷蔵庫に押し込み、妻の顔を見る。
老けたな。学生時代の面影もない。
ふと、まつ毛がピクリと動いた気がした。
どっと肩の力が抜ける。
なんだ、生きてるじゃないか。
「おい、起きろ。おーい。」
だが、反応は無い。
まぁいい、6月とはいえ最近暑くなってきた。
早めの熱中症か何かだろう。
「おい、布団で寝るか?おい?」
コクリ、と首が動いたように見えた。
仕方なく持ち上げて運ぼうとしたが、重くて持ち上がらない。
そう言えば、何年か前に太ったと言っていた気がする。
見た目には枯れ木のようなのにな、と思う。
「おい、持ち上がらん。引き摺るぞ、いいな?」
肩の下に手を回し、ズリズリと床の間の向こうにある妻の寝室へ運ぶ。
途中、妻は床の間のこたつに足をぶつけてガン、という音を鳴らした。
「おい、気をつけろ。」と声をかけるが返事はない。
妻を畳に寝かせて襖を開ける。
「なんだ、おい。」
妻の寝室には、布団が敷かれていなかった。
「ああ、くそ。なんだってわざわざ片付けるんだ。」
押し入れを開けるが、そこに布団はない。
くそったれ、たしか康介が昔使っていた布団があいつの部屋の押し入れにあった筈だ。
イライラとした気分のまま階段を登り、康介の部屋に入る。
荷物置き場となった部屋の押し入れを開け、圧縮パックに入れられた布団を引き摺り出す。
くそ、なんで布団ってのはこう運びにくいんだ。
ああ、そうか。圧縮パックに入れたまま運べば良かったのか、くそったれ。
布団を敷き、妻を寝かせる頃にはぜぇぜぇと息切れをしていた。
外はもうすっかり暗い。
「疲れちまったな。」
天井に独り言を投げつけると、目の奥がチカチカとしてきた。
床の間に戻り、ぼうっとテレビを眺める。
また政治家が失言をしたらしい。
失言をする方も、それを取り沙汰す方もバカらしい。
チャンネルを変え、つまらんバラエティに目を通していると、意識が途切れ途切れになっていく。
今日はもう寝よう。
2階の自室に戻り、ベッドに潜り込む。
携帯電話を見るが、真希からの折り返しはない。
「くそったれ」
冷たい布団に潜り込む。
明日、起きてこなかったらもう一度真希に連絡をしよう。
今日はもういい、疲れた。
驚くほど、すぅっと眠りに入っていく。
【営み】
目が覚める。
時計は7時過ぎを指していた。
久しぶりによく寝たな、と部屋を出る。
一階からトントントン、と小気味良く鳴り響く包丁の音が聞こえる。
あいつが料理をしている音だ。
続いてカチャリと鍋の蓋を取る音がする。
そろそろ、行くか。
階段を降りて、玄関を出て朝刊を取りに行く。
今日は太陽が出ていないからか、いつもより肌寒い。
テレビをつけて床の間の座椅子に座る。
朝のニュース番組が切り替わる頃になっても、朝食が出てこない。
そういえば、先程から台所が嫌に静かだ。
新聞を折りたたみ、老眼鏡で抑えると机に手をつき座椅子から立ち上がる。
「おい。」と声をかけて台所を開けるが、そこには誰も立っていなかった。
トイレでも行ったのか?
台所へと歩を進める。
さほど広くない室内が遠く感じる。
ふわりといい香りが鼻腔をくすぐると、急に空腹感が襲ってくる。
そういえば、昨日は晩飯を食べていない。
ふらふらとコンロの上の鍋に引き寄せられる。
蓋を開けると香りが強くなり、ますます腹が減ってくる。
味噌汁だ。
大根とわかめを入れ、田舎味噌で味を整えた毎日飲んでいる味。
油揚げや豆腐はいない、貧乏くさい味噌汁。
あまりに質素な内容に辟易し、具材を変えるように伝えた事もある。
だが、あいつはコレだけは譲らなかった。
以来50年近くも毎日この味噌汁を飲まされている。
飲み飽きた味、のはずだ。
棚から器を出し、おたまでよそう。
ふと、不安が胸を襲う。
米は炊けているのか?
固唾を飲み炊飯器を開けると、白い蒸気をあげて白米が顔を覗かせる。
一粒一粒が光沢を帯び、まるで新雪のように整然と並んでいる。
しゃもじ、しゃもじはどこだ。
流し台の横に吊るされているのを見つけると、それを手に取り炊飯器へ駆けつける。
雪原の真ん中にしゃもじを突き立てて、大きく抉り取る。
棚の茶碗を取り出す時に妻の茶碗にぶつけてガチャンと音が鳴る。
かまうもんか、俺は今腹が減ってるんだ。
多めによそい、机の上に茶碗を置く。
ふと、コンロの横に長方形の皿が置いてある事に気付く。
あれはいつも焼き魚を乗せる時に使う皿だ。
たしか、この辺りに。
コンロの下を弄ると、黒い取手が見つかる。
こいつだ。
グッと力を入れると魚を焼くためだけに作られた機械が飛び出してくる。
うっすらと波打つ油の上に敷かれた網には、一匹の小ぶりな魚がちょこんと乗っていた。
ベロア生地のような全身にキラキラとした塩のドレスを纏うそれは、とても扇情的だった。
こいつは俺を待っていたんだ。
箸を探すのもまどろっこしい。
そのまま手で掴むと皿の上まで丁重に運んでいく。
そろり、そろりと爆発物を動かすかのように慎重に動かす。
そうだ、手の中のコイツは爆弾だ。
代わり映えしない老後の年金生活に、欲を呼び起こす小さな爆弾。
梶井基次郎だったか、書店の本の上に檸檬を置いて爆弾に見立てていたのは。
ふん。お前の黄色もなかなかの物だが、俺のこいつも負けちゃいねぇ。
手前の爆弾はこんなに上等な着物は着てなかっただろう。
こいつに比べりゃあんな黄色い爆弾は淫売、そう、淫売だ。
皿の上に魚を盛ると、股引きの太もも部分で手を拭い、席につく。
そして箸が無い事に気付く。
なんだってこう飯の準備は時間がかかるんだ。
急いで台所に戻り、マグカップに刺さった箸入れをガチャガチャと探す。
出張先で買った黒檀製の箸が俺の箸だ。
どこだ、くそ。
おんなじような箸ばっかり買ってきやがって。
むんず、と刺さった箸をまとめて掴み持ち手を見る。
縦に彫られた煉瓦色の線を確認すると、その二本を抜き取り残りをマグカップに返す。
床の間の机に箸を置くとパシンと小気味いい音が響く。
やっと、やっと完成した。
俺の朝飯だ。
手を合わせて、目の前の奴らに「もう追い詰めたぞ。」と銃を構えた時のように言い放つ。
「いただきます。」
まずは汁。
濁った水面を大根とわかめが泳いでいる。
食われたいか?
残念だがお前らは後だ。
歳をとると汁物で唇を濡らさなければ食事が始まらない。
一息、二息と味噌汁に吹きかけて椀に口を付ける。
・・・冷たい。
冷め切っている。
今から沸かすか?
いいや、面倒くさい。
期待外れの一口目に多少苛立ちながら大根を口に運ぶ。
小気味良い感触が前歯を通り抜けて耳にまで到達していく。
噛んだ欠片は次に奥歯で噛み締めていた筈だったが、あっという間に形は無くなり優しい出汁の味だけが口の中に寝転がる。
さて、準備は整った。
口内が湿ったなら次はお嬢様をお迎えせねばなるまい。
長方形のベッドに横たわる魚のベロア生地を丁寧に脱がしていく。
一番肉付きのいい場所に箸を入れてゆっくりほぐしていくと、白い上品な肌があらわになった。
ごくり、と生唾を飲み込む音が聞こえる。
柔らかくなったその身を掬い上げ、白いご飯の上に寝かしつける。
同じ白なのに何故こうも違うのだろうか。
キラキラと光る白の上できめ細やかな白が俺を睨みつけた。
ああ、わかってるよ。
その身から一度箸を離して、今度は下のシーツごとその身を掬い上げる。
大きく口を開けて誘い込むと、お嬢様は獣へ変容した。
柔らかさよりも強い歯応えが米の上で踊り出す。
あんなに大人しそうにしてやがったのに、猫を被ってたな!
ギシギシとした弾力のある歯応えに入れ歯が負けそうになる。
が、ここで屈するわけにはいかない。
老人だと思って甘く見るんじゃあねぇ!
そいつを奥までねじ込み、激しく顎を動かす。
激しくすればするほど、その身から甘い汁が溢れ出し俺を喜ばせる。
強く何度も咀嚼して、しばらくするとそいつは俺腹の中に自ら入っていた。
舐めんじゃねぇ、入れ歯になろうともまだまだ現役だ。
最初に魚が無くなり、次に米をさらう。
わかめと共に味噌汁を飲み干した時には、空腹時の焦燥感は消えていた。
食後の一服を吸い、どこへともなく声をかける。
「おーい!」
返事は返って来ない。
呼びかけに返答が無いと、こんなにも不快なのか。
腹の底に黒い物が溜まっていくようにムカムカとしてくる。
仕方なく食器を重ねて流しの水に放り込む。
昨日のグラスが間抜けにぷかぷかと浮いている。
床の間の座椅子に腰掛け、テレビを付ける。
画面なぞ見ない。音が流れていればそれでいい。
新聞の上の老眼鏡を手に取ると、白い汚れがレンズに付着している。
服の袖で拭うと白い線が引かれるように跡が残る。
その線を見ていると途端に面倒くさくなり、ツルの隙間に顔を入れ込む。
返事は、まだ返って来ない。
【去来】
一通り新聞を読み切り、眼鏡を外すと目頭を摘んで揉み解す。
歳のせいか目が疲れやすくなってきた。
ぼーっとテレビを見ていると、玄関が開く音がする。
「吉野さーん、おりますかー?」
関口ん所の奥さんだ。
そうか、今日は金曜日だったか。
座椅子から上体を起こし、腕に力を入れる。
少しよろめきながらも立ち上がり、玄関までわざわざ歩いていく。
化粧も横幅もぶ厚いババアがそこには立っていた。
「旦那さん、おはようございます。今日はカラオケの日なんですけども。」
分厚い脂肪を蓄えた頬を揺らしながら、まるでそれが正義であるかのように憮然と宣う。
確かにカラオケが上手そうな体型をしている。
いや、というよりオペラか。
うちのと二人で立っていると棒切れと球が並んでいるようで、それを見るたびに女房の足を持ってこいつをホームランにする妄想を何度もしていた。
「あいつはいないよ。どっかに出かけた。」
そう伝えると、脂肪玉はムッと唇をへの字にして
「あらまぁ。何か急用かしら?旦那さん、何か聞かれてます?」
身を乗り出してこちらに聞いてくる。
ああ、そんなにしなくてもあんたは十分デカく見えるよ。わざわざ近づいて来なくてもいい。
「知らんよ。もう行ったんじゃないか?また来てくれ。」
それだけ言い、床の間に引っ込む。
玄関では何やらグチグチ言い続けているようだが、しばらくすると扉が閉まる音がした。
続けてドタドタと歩く音が聞こえる。
膝を悪くしそうな轟音だな。
あの球とはもう40年近くになるな。
この家を買って以来の付き合いか。
俺もよく我慢したもんだ。
家を買ったのは、ありゃ真希が生まれてすぐの頃か。
雄一がさっきから足元をうろちょろと走り回っている。
ついさっき兄貴が拳骨を食らったのを見てなかったのか?
本日2度目の拳を振り下ろす。
新しく買った家は瓦屋根にした。
土建屋はえらく四角い家ばかり勧めてきたが、家ってのは屋根が三角形をしてなきゃならねぇ。
クリーム色の壁も悪くない。
ガラガラと滑らかに動く玄関を開き、家の中に入る。
最初にこの家に入れる家具は決めていた。
引っ越し屋が木製のベビーベッドを運び入れる。
邪魔になるかもしれない、と思い買うのを躊躇ったが結局三人に使う事になった。
割合、安い買い物だったのかもしれん。
座布団より少し大きいくらいの布団を敷き、真希を寝転がせる。
今はまだそのベッドの中にしかお前の世界は無いかもしれないが、あと少ししたらこの新しく建てられた家がお前の世界になる。
そうして、段々と世界が広がっていくんだ。
だから焦らなくてもいい、今はそのベッドの中で満足しておけ。
俺の腰あたりから小さな手が伸びる。
紅葉のように小さなその手は、さらに小さな手のひらに指を押し当てた。
ぎゅっと、その指が握られる。
「とーちゃん、まきがオレのゆびをにぎったよ。」
前歯の無い口元が嬉しそうにゆがむ。
反対側からは雄一が「にーちゃんずるい!」と喚いていた。
ふいに真希が泣き出す。
慌てて近づいてきた妻に抱きかかえられると、ゆらゆらと揺られて心地がいいのか段々と静かになる。
気がつけば、その小さな手に俺も指をやっていた。
ギュッと握り込むその手に、その、陳腐な言い方だが力強い生命を感じる。
「あなた。」と妻に声をかけられて気が付いた。
何故だかわからないが、泣いていた。
激しく心が揺さぶられたわけでもない。
もちろん悲しいわけでもない。
わけもわからぬままボロボロと涙が出る。
心配そうに康介と雄一が顔を覗き込んでくる。
わけもわからず泣き続け、妻は俺の背中をさすって微笑んでいた。
タバコを燻らし、天井を見つめる。
あの時、俺は何故泣いたのだろうか。
今まで忘れていた事が沈黙に耐えかねて顔を出す。
すっかりくたびれた我が家に煙を吐きかけながら、再び首を捻る。
・・・・・・だめだ、わからん。
あの時、あいつが何も言わずに俺の背中をさすっていたのは何故だろうか。
俺のわからない何かを知っているのかもしれない。
タバコを灰皿に押しつけ、背もたれに体を預ける。
今日、あいつが帰ってきたら聞いてみよう。
古い話だ、忘れているかもしれん。
そんな事を考えながら煙の残滓を見ていると、瞼がゆっくりと重くなり、ふわふわとした感覚に落ちていった。
夢を見た。
あいつがあんまりにもせがむので、家族で春日大社に行った時の夢だ。
夢の中では俺は爺さんのままなのに、あいつは出会った頃の年齢だった。
足元をちょろちょろと子ども達が走り回って俺を呼ぶ。
とーちゃん、とーちゃん、と。
三人とも6歳くらいで、康介と同じ背丈の真希を見ると何だか可笑しくて笑えてきた。
なぁ、なんで春日大社なんだ?と俺が聞くと、お前は何も言わず微笑んでいたな。
ただ、本命は春日大社じゃないの、とだけ呟いた。
なぁ、俺はお前に聞きたい事があるんだ。
毎日顔を突き合わせて、同じ屋根の下に暮らしていて。
それでも聞けていない事や知らない事が多すぎる。
だから、早く帰って来い。
知ってるだろう、俺は短気なんだ。
そんなに長くは待てない。
ガラガラと玄関の開く音で目が覚める。
なにか夢を見ていた気がするが、思い出せない。
やっと帰って来たのか。
悪態の一つでもついてやろうと思い、座椅子から飛び起きる。
「どこをほっつき歩いてやがったんだ。」と玄関へと叫ぶ。
小さな悲鳴が聞こえたあと「関口です。」と叫び声が聞こえる。
そんなにデカイ声を出さなくていい、あんたの声は響くんだ。
腕組みをしながら玄関に歩いていく。
こちらを睨みつけながらダルマが口を開く。
「奥さん、まだお戻りになられてませんか?ワタクシ、お話したい事があったんですけども。」
と宣う。
「帰ってない。言伝があるならそこに書いておけ。」
と電話機の横のメモ帳を指差すと、ダルマが眉をひそめた。
「いえ、いいんですの。急ぎではありませんので。おられませんのでしたらお暇いたします。あとお節介ですけれども雨が降りそうですよ。表の洗濯物、取り込んだ方がよろしいんじゃないんでしょうか?それでは失礼します。」
肉塊はペコリと頭を下げて扉に手をかける。
途中で引っかかったようで、ガタガタと乱暴に揺らしてこちらに悪態をつく。
「こちら少しガタついてるようですよ。お直しになられたらいかがですか?」
「悪いな、俺もそいつも年寄りなんだ。」
ガタン、と音がして扉を開けると、麩饅頭はぶつぶつ言いながら帰っていった。
すぐに洗濯物を取り込むのは癪なので、しばらくしてから取り込む事にする。
あいつは仕事を放ったらかしてどこに遊びにいったんだ?
俺の洋服と下着、それに湿った布団を玄関に投げ捨てると、俺はすっかり疲れ果ててしまった。
水を吸うと布団は途端に重くなるらしい。
あいつさえ家にいてくれれば。
広がった布団に向かい、心の中でつぶやく。
おい、雨ん中どこに行ってるんだ?
傘は持ったのか?
早く、帰って来い。
【雨】
19時を過ぎてもあいつは帰って来なかった。
おかげで朝飯以来なにも口にしていない。
仕方ない。
鞄を開き、財布を取り出す。
何年か前に真希が父の日に送ってよこした茶色い革の財布。
何故だか使う気になれず、棚の奥閉まっていたがあいつが勝手に中身を入れ替えていた。
普段は一歩引いている癖に、たまにこういう事をする所が気に食わない。
尻ポケットにねじ込み、サンダルを履いた。
買った覚えの無い傘を担いで玄関を出る。
薄っぺらい靴底に雨が染み込み、気持ちが悪い。
スーパーまで行くのは面倒くさい、近場に出来たコンビニにしよう。
大きく数字の書かれた看板に向かって歩き出す。
暗闇の中に点々と灯る窓の奥にはそれぞれの家庭があるのだろう。
願わくば、その家が不幸であるように祈る。
こんな雨の中に情けなく濡れそぼりながら一人で晩飯を買いに行く俺が、これ以上みじめにならないように。
ふと、遠くを歩く人々に目をやる。
通り過ぎる人々の群れに俺の探し人はいない。
他所から今の俺はどう写るだろう?
人生を終えようとしている老ぼれが若者を羨んでいるように見えるだろうか?
自惚れんな、俺はお前らなぞ羨ましくない。
ただ、人を探しているだけだ。
自分の幸せの証人を探すように、とぼとぼと雨降る道を歩いて行った。