60.林檎はお好きですか?②
アダムは目を細め、冷たい指先へそっと口づける。
「……行って参ります、イヴ様」
深い眠りに落ちた彼女の目は開かない。そっと上掛けをかけ直し、アダムは部屋を出た。大きな旅行鞄を片手に廃病院の裏口へ向かうと、ヴェルデンが受付のカウンターにもたれ掛かり煙草へ火をつけている。
「ヴェルデン様、お体に触ります……」
「肺はもう大丈夫だ」
「あまりご無理をなされないでください……」
短い眉を下げるアダムに、彼は苦笑する。そして両腕を広げてそっと彼を抱きしめた。
「すまねぇな……。側にいてやれなくて……」
「身を隠す手筈は充分に調えて戴きました。私は大丈夫です。イヴ様をよろしくお願いいたします」
「ああ。落ち着いたら戻ってこい。それまでにはどうにかする」
互いに肩を叩き、名残惜しく腕を離す。
口を開きかけたアダムを遮るようにエンジン音が響いた。
「……必ず戻ります」
「ああ。またな、アダム」
「はい。……皆様にアップルパイをお作りするお約束ですから」
「楽しみにしてるぞ」
ヴェルデンは目を閉じて微笑んだ。
頷いて、アダムは足早に停まっていたバンへと向かい、荷台にキャリーケースを並べた。
「おっせーぞ、石頭! ディールムーンへの直通はこれが最後だっつったろうが!」
「申し訳ありません、ダレン殿。イヴ様のいない旅はこれが初めてなもので……」
荷台のドアをダレンが乱暴に閉ざした。彼は後部座席を指さし乗車を促す。
いそいそと車に乗り込んだアダムの隣で、ルイスが小さな折りたたみ式のナイフを眺めていた。
「それはどうされたのですか」
「ダレンがくれた。ごしん用にって」
「おや……。ダレン殿が……?」
ルイスはナイフの刃を収めてポケットにつっこみ、きっちりとシートベルトをしめた。
運転席に乗り込んだダレンはバックミラー越しにアダムと視線が合い、苛立ち気に帽子を目深に被った。
「おい、ルイス。その気色悪い顔してる石頭のツラ殴っとけ」
「ダレンは何でそんなアダムのこと嫌いなの……? あの時は死にそうになりながらいっしょに戻ってきてくれたのに……」
「アレはヴェルデンさんに頼まれたから仕方なくだ!」
エンジンがかかり、古いバンは夜の街を走り出す。
ルイスはカーテンの隙間から通り過ぎる町並みを眺める。時おりネオンの光が目を刺し、堪らず目を閉ざす。それでも窓の外から目を離さなかった。
バンは駅の入口から少し離れた場所で止まる。ダレンの指示に従い、2人は手早く荷物を下ろした。
ルイスは初めてメガネをかける。プラスチック越しのレンズから見る世界は何だか妙な気分だった。
ダレンとアダムの後ろを追いかけ、駅の人ごみに紛れる。視線を合わせないように、うつむきがちに前を見て進む。帰路につく人々の雑踏に耳が痛い。
駅舎の天井窓の向こうには星が輝いていた。少年は目を細める。大きめのメガネがずれて少しうっとうしかった。
慣れない伊達メガネを直していると、引いていたキャリーバックが段差にひっかかり、慌てて振り返る。
「大丈夫ですか、ルイス殿」
「ごめん。ちょっとよそ見してた……」
前を歩くアダムが目深に被ったフードの下から微笑む。ルイスはキャリーバックを軽く持ち上げ、男の隣へ急ぐ。
「こんなに荷物をもって遠くに出かけるの、初めてで……」
「……私もいつも後ろをついて行くばかりでした。あまり慣れていないもので申し訳ありません」
「……覚えなきゃいけないこと、たくさんあるね」
「おい。はぐれんじゃねーぞ」
ダレンの声が少し離れていた。人ごみを縫い、3人はホームの端へと進む。
右足を引きずるダレンにはすぐに追いついた。ルイスは彼を見上げる。
「……足、大丈夫?」
「このくらいなんともねー。あのゴリラ女を殴り飛ばした後に自分の意識までフッ飛ばした石頭に比べたらかすり傷だ」
「え……。そんなにひどかったの……? ゴリラおんなって……?」
「私の傷口はだいぶ塞がっております。ルイス殿の看病のおかげもあり、日常的な動作には支障ありません」
「本当に……?」
「ンなワケあるかよ……」
ダレンは苦々しげにアダムを睨みつける。
ホームの隅には駅員の恰好をした男が待っていた。
ダレンは懐から一枚の紙を取り出し駅員へと渡す。駅員は折りたたまれたそれを広げ、険しい表情で文面を読む。
「……お2人はご無事で?」
「しばらくは動けねぇが大事はねぇ。心配すんな」
ダレンの言葉に彼は胸を撫で下ろす。
手紙をジャケットの内ポケットへ押し込むと、腰のポーチから2枚のチケットを取り出しアダムへと差し出した。受け取ったアダムは深く頭を下げる。
「ご厚意に感謝いたします」
「お気をつけて。今のディールムーンはますます取り締まりが厳しくなっていますよ」
「ありがとうございます」
握手を交わし、駅員は何事もなかったかのように持ち場へと戻っていく。
その背にルイスも軽く頭を下げるとやはりメガネがずれる。
メガネを直すルイスを横目にダレンが腕を組む。
「アイツの言う通り。今のエデインはどこも教会のヤツらが目を光らせてやがる。だからと言って、ヴェルデンさんとイヴさんの体調が戻るまではブルーガーデンも安全とは言えねぇ。コッチから知らせをやるまではディールムーンで大人しくしてろ」
「ダレン殿もお気をつけ下さい」
「ハッ……。テメーに心配されるほどヤワじゃねぇよ。テメーこそ、ガキの前で情けねぇツラさらすんじゃねぇぞ」
「承知しております」
鼻であしらい、ダレンはじゃあなと背を向けた。ルイスが慌てて「じゃあね」と返すと彼は振り返らずにそっけなく手を振り返す。
「では行きましょうか」
「……うん」
ルイスは頷き、アダムに続いて寝台列車に乗り込んだ。
初めて乗り込む景色に思わず辺りを見回す。列車の中はモダンなデザインに統一され、高級感が漂っている。まるでホテルの一室のようだ。
アダムが指定の部屋の扉を開くと、ゆったりした2人分の寝台が用意されている。中央の小さなテーブルには赤いリンゴが果物カゴに収まっていた。
「ダレン殿のおっしゃる通り。ブルーガーデンはしばらく荒れるでしょう。落ち着くまでは先ほどのような、イヴ様のお知合いの元でお世話になる予定です」
「でも……。でも、アダムはそれで良かったの?」
扉を閉ざし、アダムはフードを取る。
ルイスの視線の先には、幾重にも包帯が巻かれた彼の首があった。ルイスの手を取るその手袋の下にも、焼けただれた肌が残っている。
アダムはルイスの前にしゃがみ目を細めた。
「私とイヴ様は、あなたをご家族の元へ返すとお約束いたしました。それを違えることはありません」
口を開きかけたルイスを遮り、アダムは「それに」と続ける。
「私もまだお借りしたものをお返ししておりませんから。またここへ帰ってくることでしょう。これが今生の別れではありませんよ」
「……誰かに何か借りてるの?」
「ええ。大きな借りがあります。数え切れないくらいです」
アダムはルイスのキャリーケースと自身の旅行鞄をベッドの下へと滑らせる。
駅のホームに軽快な発車ベルが鳴り響いた。
「じゃあ、一緒に帰ってこようね」
「はい。必ず」
窓の外の景色がゆっくりとスライドを始めた。
ルイスが窓を開くと、駅舎はみるみる小さくなっていく。街のネオンを通り過ぎると、彼の前髪を潮風が髪を揺らした。月光に輝く地平線が夜空と海を隔てていた。
アダムは目の前に置かれている果物カゴを見下ろし、口元を緩める。
「ところでルイス殿、林檎はお好きですか?」
月灯りの元、列車は銀色の海を横切る。
手に取ったリンゴから漂う甘い香りが、鼻をくすぐった。




