17.暗がりの中で①
日は山裾に身を隠し、星が夜の帳に散らばっていた。古い街並みを囲うように広がる広大な森林は、国の所有地として自然保護区に制定されている。一度、道を外れてしまえば容易には出られない。
漂う血の臭いに集まって来た野犬たちは地面に敷かれた鮮血を辿る。引きずられていく生肉の塊に、獣は唾液を垂らし、鼻を鳴らした。
生温い息遣いを感じた男はその手から逃れようと身を捩る。
「た、たのむ! 許してくれ! お前が同類だなんて気付かなかったんだ! そんな恰好で昼間から平気で歩き回ってんだから!」
必死で逃れようとする男の両腕は無く、荒い切り口からは骨がつき出ている。
アダムは男の襟を掴んだまま息をついた。彼が地面へ捨てたナイフに野犬たちが鼻を近づける。
「子どもを人質に取っておきながら、私には命乞いをされますか……」
「し、仕方ないだろ! 俺だって死にたくない!」
「その体を手にする際のリスクは承知されていたはず。ありきたりな言葉を送るようですが、あなたの現状は自業自得というものです」
「でっ……?!」
男の頭が地面に落ちる。
呻きながらも這いずる男を見下ろし、アダムは乱れたシャツを直した。肩の傷口はすでに出血も止まり、両腕は難なく男の脚を掴んで引き戻す。
「私の質問に、簡潔にお答え下さい。あなたに血を分けられた『親』は、どなたですか」
「い、言ったら俺が殺されちまう! たのむ! 見逃してくれよ! もうこの辺りじゃ狩りはしねぇから!」
「これは最後の慈悲です。他の方々に見つかれば、この程度では済みませんよ」
「は……? ど、どういうっ……?」
「あなたは、鬼種の世界には秩序がないと思っていらっしゃるのですか?」
男は呆然とアダムを見上げる。そして言葉の真意を察すると、足元にすがり付いた。
「は、話しが違う! アイツらは俺が適合者だから、強い鬼に鬼化できるって……! 『鬼才』なら大抵のヤツは俺の言うことをきくって話しだったはずだ……!」
「あのような逃走劇に陥る浅慮さでは、あなたは一月ともたないでしょう。現に、マリア殿はあなたの『鬼才』を即座に見抜いていらした。私にでさえこの様な命乞いをされるのであれば、あなたの『鬼才』はその程度と言うことです。オーギュスト様にですら相手にされません」
「そんなはずは……! そんなはずはねぇ……! オカシイのはお前の方だ!」
男は叫び、無くした腕を見下ろす。
「教会の滅鬼武装で負傷したのに、どうしてもう動ける?! そんなカッコウで昼間から出歩いて、なんで平気なんだよ!」
「私も滅鬼武装での負傷は治癒に時間がかかります。しかしこの程度、気合で堪えられぬようではイヴ様やヴェルデン様のおそばにいられません」
「やっぱりお前がイカレてるだけじゃねぇのか?!」
男とアダムを囲う野犬の数は増えていく一方だ。彼らはアダムの袖を期待に満ちた眼差しで引っ張っていたが、不意にその波がさぁ、と引いていく。
「そんなのにいちいち耳貸してたらキリがねぇぞ、アダム」
「ヴェルデン様?」
噂をすればやってきた当人の声にアダムは慌てて姿勢を正す。
暗がりから音も無く現れた大きな体は鼻を鳴らす野犬たちの頭を優しく撫でた。
その傍ら、長身の青年があからさまに眉間を寄せる。
「なんでテメーがここにいるンだよ」
「スーツを新調するついでに裾を直して戴いていた所。何やら大通りが騒がしいと思いまして、成り行きで……。ヴェルデン様たちはなぜ?」
アダムの返答に青年は悪態をつき、長い中指を上に向かい立ててみせた。
「ヴェルデンさんの許可なしに狩りしてるヤツを、ブチのめしに来たトコに教会とテメーがウロついてたんだろうが。テメーと違ってこっちは真っ昼間に追っかけンのは骨が折れンだ。鬼才もねぇテメーがヨケーなコトすンじゃねぇよ」
「ダレン」
「だってよぉ、ヴェルデンさん……。こいつ……」
アダムと歳も背もそう変わらないであろう彼は子供のように口を尖らせる。
不満げなダレンをたしなめ、ヴェルデンは苦笑した。
「だが、ダレンの言うことにも一理あるぞ、アダム。わざわざ教会の連中に顔をさらすな」
「申し訳ありません。ですが、子どもを盾にするなど……」
「責めちゃいない。ただ、もう少し慎重にならねぇとお前が危なくなる。気をつけろよ」
「お気づかい、ありがとうございます」
穏やかな笑みにアダムは深々と頭を下げる。
ヴェルデンは一息つく。そして失った腕を抱え、うずくまる男を見下ろした。
ヴェルデンを急かすように、獣の熱い息遣いが掌に押し付けられる。
「よしよし。そうかそうか。腹が減ったのか」
「……ヴェルデン様」
「心配するな、アダム。お前は何も見ちゃいない」
屈み込むヴェルデンに、アダムの顔は自然と曇る。
ダレンが男の襟首を掴んだ。男は喉をひきつらせ、歯を鳴らす。
「さて……。改めて、お前を鬼化させた『親』を教えてくれ」
「言えねぇって言っただろ! そういう約束なんだよ!」
「そりゃあ、残念だ。気が変わるまで気長に待つとしよう」
「そもそも、誰だ、お前ら……! なんなんだ、お前らは……!」
「うるせーな。わめくんじゃねーよ。どうせ誰にも聞こえねぇぞ」
脚をばたつかせる男の抵抗も虚しく、助けを求める叫びはダレンの足音と共に離れていった。
立ち上がったヴェルデンは懐からタバコの箱を取り出し、静かに目を伏せた。指先でタバコの先端に触れると、そこからうっすらと煙が立ちのぼる。次いで彼はゆったりと紫煙を吐き出した。
野犬たちがそわそわとヴェルデンの周囲を回っている。
「……ヴェルデン様。あの者にお慈悲を戴けませんでしょうか」
「いくらお前の頼みでも、それはできねぇなぁ」
アダムは首を横へ振る。
ヴェルデンは相も変わらず笑みを浮かべている。しかし、それは先ほどアダムに向けられたものとは全くの別物であった。
「あの者のした事は許されません。ですが、せめて教会へ身柄の引き渡しを……」
「駄目だ。お前の正体がバレたらイヴも良い顔はしねぇ。何より、ヤツには聞きたいことがある。だからお前もここまであの阿呆を連れてきたんだろう?」
「承知しております。それでも、責め苦を与える必要はないはず。ヴェルデン様、お願い申し上げます」
冷ややかな眼差しを、アダムはまっすぐに見返す。
男の声は随分と離れた。今にも駆けださんと、野犬たちが歯を剥いて唸る。
「駄目なものは駄目だ、アダム」
ヴェルデンは指を鳴らす。静かな森に渇いた音がよく響いた。
犬たちは歓喜に吠えたて、一斉に赤い絨毯の上を駆け出す。
アダムは今一度、頭を垂れる。
「お願い致します、ヴェルデン様。ここまでなさる必要は……」
「ヤツのおかげで、教会や警察はあの辺りの巡回を強化する。あそこじゃもうしばらく狩りはできねぇ。その分の食糧を誰が補てんするんだ?」
「…………」
アダムは無意識に耳を塞ごうとする両手を握りしめる。
ヴェルデンは紫煙を吐き、悲鳴があがる方角へ視線を滑らせた。
「適当に暮らして、死にたくなったら死ねばいい。ブルーガーデンにはそう言うヤツらが集まれるようにイヴが長い間かけて整えた土地だ。相手が人間だろうが同類だろうが、例外を作る気はねぇ」
「はい……。申し訳ありません……」
「オーギュストにしたって、だいぶ譲歩した。あのボウズと事を構えると面倒になるから見逃してるだけでな。イヴが許さなきゃとっくに殺してる」
大きな手の平はアダムの背を叩き、暗がりへ足を進める。彼は繰り返した。
「そこで待ってろ。後で一杯やって帰るぞ」
「……はい」
アダムの足は彼の言葉を受け、その場から動くことはなかった。ふさがりかけた傷が今さら疼き出す。
今ごろ、彼女は自分を探しているのだろうか。彼女自身を責めてはいないだろうか。
血がにじむほど銃を握りしめていた姿を思い起こすと奇妙な安らぎを覚え、目を閉ざす。
次第に小さくなっていく断末魔に、アダムは胸をおさえた。




