訪うは雪待の月に
あるところに、自然に恵まれたとても美しい国がありました。
女神様のいらっしゃる緑豊かなお国です。
四季という、色とりどりの季節を持っていますけれど、時に首を傾げるような不思議な光景が広がることも珍しくはありません。
例えば、雪の降る丘陵に菜の花の絨毯が広がり、桜舞う畦道には姫紫苑が花を咲かせ、淡い紫色の竜胆が咲き誇るその横で椿の花がぼたりと落ちる、なんてことが往々にしてあったりするのです。
そんな時、花々を見かけたこの国の人々は、誰ひとり驚きません。
ただ、こう言うだけです。
『寝ぼけた花の精さん、起きなさい、起きなさい。今は冬の時期ですよ』
季節はその時に応じて変えながら、こっそりと。
そうしますと勘違いを知らされた花は少し恥ずかしそうに項垂れ、慌てて蕾を閉じる……なんてことはなく、照れ隠しにゆらゆら揺れてから、咲いてしまったからには咲き誇れとばかり、開き直って美しく咲くのです。
さて、今領主様の庭で盛大な勘違いをして咲き誇るのは躑躅とオオイヌノフグリでしょうか。
ひっそりと、白雪に隠れて鈴蘭も参戦しているのは、ご愛敬です。
年初めとは思えない彩りですが、よくあることなので庭師は全く気にしていません。
そんな花々の上に、しんしんと。
何やら、二つの丸い影をお供にして、降り始めたのは牡丹雪でした。
****
ちらちらと視界の隅で転がる影にはじめに気が付いたのは、従者でした。
はてと、視線をそちらに向ければ、すでにその姿はありません。
しかし、視線を戻せば、片隅にはやはり、何ががいるのです。
ならばと視線を向けずに、小粒の果実を投げ付ければ。
……それは、ぴょんと飛び上がり、見事、口で果実を受け止めて転がっていきました。
食い意地の張ったその姿は、大層見慣れた毛玉によく似て……いるように見えたのですが、そちらを見ればやっぱり、その姿はありません。
ただ、投げた果実が落ちているだけでした。
「小癪な」
思わずそんな風に呟いて、従者はどこか楽しそうに笑います。
暫くそんなやり取りをしていれば、従者がちょっかいをかけている存在に領主様も気が付かない訳もなく。彼は遠巻きに、その二つの影を眺めると、首を傾げました。
何か悪さをするわけでもありません。
どうやら、屋敷の中には入れないのか、その姿は庭や窓の外にばかり。
付かず離れず、ただ、そこに居る。
ただ、それだけ。
何かを見守るようなその姿に、しばらく経てば。
領主様と従者は何となくですが、その正体に見当が付き始めました。
領主様のお屋敷で、大切に大切にされている一匹の子狸。
今はまさに屋敷狸と化した一応は野生の動物は、しかし、どこに野生の能力を置いてきたのか、雪とともにやってきた訪い人(?)には全く気が付いてない様子です。
いつものように呑気に、のほほんとしっぽを揺らし、領主様の執務室のソファのふかふか感を楽しんでいる姿には緊張の欠片もなく、従者は何とも言えない顔をしました。
「ネリー」
「きゅ?」
「ほい」
声をかけてから、小さな木の実を子狸に向かって放り投げます。
きらんと輝いた円らな黒目。
ぴょんと飛んで、お口でキャッチ。ええ、従者もその予定だったのです。
あの丸い影の時のように。……結局はすり抜けていたようですが。
予想外であったのは、子狸の運動能力の低さ、でした。
木の実は、想像以上に飛べなかった子狸の口ではなく、額へと直撃し……、子狸は前脚で額を抑え、プルプル震えて丸くなりました。
どうやら置いてきたのは本能だけでなく、運動能力も、だった模様です。
一部始終を見ていた領主様は、子狸を抱き上げると、ぽんぽんと頭を撫でて慰めました。
ソファの上に転がった木の実はちゃっかりと彼の手の中に。
痛い痛いが落ち着いたら、きっと手ずから口の中に放り込むのでしょう。
甘やかしすぎのような気もしますが、領主様が満足そうなので問題ありません。
ちらと、視線だけを投げられて、従者は領主様に頷き返しました。
窓の外に張り付かんばかりに駆け寄ってきていた、丸い影二つ。
ああ、やっぱり、と。
領主様と従者は言葉には出さず、ほんのりと苦笑しました。
****
その夜のこと。
領主様は仕事で大変忙しく、子狸は先に寝ていろと言われて、寝床にいました。ですが、いつもは仕事熱心な睡魔さんが今日に限って全くやってくる様子がありません。
お休みなのでしょうか。全然、眠くならないのです。
ふかふかの寝床は温かく、なんとも心地良いというのに、どこかそわそわして落ち着かないのです。
まるで、気が付いていないのに、何かを感じ取っているかのように。
暗くなった窓の外、月明りに照らされた雪が淡く輝いています。
そのきらきらした美しい光景に、惹かれたからなのでしょうか。
子狸は寝床を抜け出て、窓枠の上に飛び乗りました。窓に手を置けば、何故でしょう。かたんと音を立て、窓が開きました。
珍しいほどに風がありません。窓の隙間から顔を出した子狸は雪明りに誘われて、外へと飛び出しました。
不思議と外の寒さに凍えることもなく、ただ、何となく、子狸は足を進めます。
雪に足をとられ、その足取りは大層不器用なもの。
それでも、子狸はゆっくりと歩き続けました。
領主様の屋敷は小高い丘の上にあります。ちょうどその端の辺りにまで来れば、遠くの方に森が見えました。随分と明るい夜だというのに、夜闇に沈む森は黒々としています。
けれども、温かく感じるのは、そこに女神様がいると知っているからなのでしょう。
見回せば、雪だけでなく、一面の銀世界が青白い月明りを反射して、仄かに輝いています。
子狸はお尻を下ろして、それから。
雪の上にゆっくり伏せると、自重でちょうど身体の半分くらいまで雪の中に埋まりました。
はまり込んだ感触がなんとも心地よく。雪は冷たさを感じさせず、狭い所に入り込んだ時の安心感といいましょうか。そんなものさえ感じて。
身体を小さく丸め、ずりずりお尻を振ってはまり具合を調整すると、子狸は自分の前脚の上に顎を乗っけて、遠くの月を眺めました。
普段であれば、恐らく、たった一人で外には出てこなかったことでしょう。
子狸は単純ですが、ちゃんと、心配をしてくれる相手を思いやれる心を持っています。
領主様や屋敷の人たちに心配をかけるようなことは決してしません。
それなのに、こうして一人で外に出てきたのは、此処が安全であると本能的に理解していたから。
雪の届けてくれたその匂いを、確かに覚えていたからなのでしょう。
安堵を齎す、愛おしくも懐かしい匂い。
胸が温まるような、きゅうと痛くなるような。
想い出を追うように、ゆらゆらと空を舞う雪の、その一つ一つを見つめているうちに。
……子狸はいつしか眠りの中に落ちていました。
柔らかな雪の中でネリは幸せそうに眠ります。
そんな子狸に、そろりそろりと臆病なほどの慎重さで近づくのは二つの影でした。幻の様に曖昧で頼りないその影は、小さく丸くなって眠る子狸にそっと鼻先を寄せます。
その行動は愛情にあふれ、向けられる眼差しはとても優しいものでした。
形を留めていなかった二つの影が、月明りに照らされて、ゆっくりと姿を現してゆきます。
ずんぐりとした胴体にふっさりとした尻尾。丸みを帯びた耳に、黒く縁取られた目元。
それは恐らく。
ネリの両親、なのでしょう。
すんと、近づけられた鼻先は、切なくもすり抜けて。
近づくのに、触れられない。
だから、目を閉じて。
ただ、寄り添う。
すぴすぴと、呑気に眠る子狸は、そんな二匹に応えるように、どこか嬉しそうに、愛おしそうに、きゅう、と鳴きました。
夢の中で会えているのだろうか。
領主様にはわかりません。
ですが、どうか、そうであれと願い。
静かで温かな、けれど、ちょっぴり切ない邂逅を。
少し離れた処で、そっと見守り続けました。
****
翌日、雪は降りやみました。
陽の光が白銀で覆われた庭に反射して、きらきらと輝いています。
それほどの勢いではなかったとは言え、数日降り続いた雪は領主様の膝下のあたりまで積もっています。流石に、通路の雪かきは必要でしょう。
いつもであれば、彼の傍にいる子狸の姿はありません。
あのそわそわした様子、そしてあの、外の光景のようにきらきらとした眼差しを思い出せば、領主様には苦笑しかありませんでした。
一面の真白の中、小さく付けられた足跡をたどります。
そうして、しばらく進んだ先。
領主様が見つけたのは、雪の中にずっぽりとはまり込んだ子狸でした。
昨夜の様に意図してそこに居るわけではないようです。
じたばたして余計に深みにはまったのでしょう。
野生の能力は、やはりお散歩中のようです。
雪の中から掘り出し、涙目の子狸を抱き上げると、領主様は雪塗れのその小さな額に自分の額を、こつり、つきあわせました。
「雪の中、一人で散歩は禁止だ」
「…………きゅい」
少し悄気たような神妙な返事に、領主様は子狸を抱きしめて、仕方ないなとぽんぽんと頭を撫でます。
「俺の目の届く所なら、いくらでもはまり込んでいいぞ」
子狸はちょっと微妙な顔をしました。
態とはまっていた訳では断じてありません。
ただ、真っ白に広がるそこに足跡を付けるのが楽しくて、柔らかなその感触が大変心地よかったので、ちょっとだけ、調子に乗ってしまっただけなのです。
そこで調子に乗らなければよい、という根本的な所にはなかなか気が付けない子狸です。
けれど。
雪のなかにずっぽりはまって動けなくなっても、不安にならないのは、きっと。
領主様が見つけてくれると信じているから、なのでしょう。
「どこに居ようと、見つけるさ」
領主様は囁くように、誓います。
死んでしまっても、心配で、心配で、この地に留まり続けた、ネリの両親。
腕の中のこの子狸は。
雪の便りに便乗してまで姿を現した、愛情深い彼らから託された、大切な宝物なのですから。