7 微熱とチョコレート
当然のことながら冬は寒い。寒い日に寝間着と毛布一枚で夜を明かしたら、体調を崩す人もいるだろう。
しかし、厚着でぬくぬくと室内で過ごし、ちょびっと寒いところに行った程度で体調を崩すというのは、いかがなものか。
あいつが熱を出した。
地下で一夜を過ごしたわたしが平然とピンピンしているのに、どうして客室で美女と寝ていたあいつが熱を出したんだ。お風呂で長時間も事に及んだせいだろうか。いや、それはわたしも同条件だったから関係ない。
導き出された答えはひとつ。あいつは浮気性クズな上に、病弱らしい。
病弱クズが熱でうんうんと苦しんでいる様を見てやろうと、お兄さんにわがままを言って授業を午前で終えてもらった。
しめしめと病弱クズの部屋に向かう。が、なんと病弱クズはベッドにいるものの体を起こして、数人の厳ついおじさんたちと話をしていた。寝ずにお仕事をしていやがったのだ。
その場は一旦客室に戻り、おじさんが帰ったあとに再度覗きに行くと、今度はナイスバディの美女と真面目な面持ちでお話していた。
あいつ、病人のくせにお仕事ばっかりしている。
わたしはお兄さんに抗議することにした。使用人さんたちにお兄さんの居場所を聞いて、書庫にいるというお兄さんを突撃訪問する。
書庫は書斎の隣にあり、その中は本棚の森のようだった。その奥で分厚い本を読み耽るお兄さんを見つけた。
「あの、聞いてください!」
「うるさ……。なんです?」
じろっとこちらを一瞥し、再び目線を本に戻したお兄さんを見上げる。
「旦那様のところに行ったら怖いおじさんたちがいてびっくりしました。それで、おじさんたちが帰ったあとに行ったらナイスバディな美女がいたんです。どうなっているんですか?」
「怖いおじさんたちはおそらく職人ですね、新事業関連の話でもしていたのでしょう。ババアは任務報告だと思いますよ」
お兄さんは本から目を離さずに淡々と言い、ぺらりとページをめくった。そうじゃない、わたしが言いたいことはそうじゃないのだ。
「旦那様はいつになったらお仕事をお休みするんですか?」
「さすがのババアも病人に手は出さないでしょうから、夜には時間が空くと思いますよ」
「夜までお仕事しているんですか?」
「旦那様はお忙しい方ですから」
「でも、病気なのにお仕事なんて」
はぁ、とお兄さんが息を吐き、重たい本を閉じてわたしの頭にずんと載せた。にこりと怖い笑顔とともに。
「あなたは時間を持て余しているようですね。お勉強しますか?」
「嫌です!」
わたしはすぐさま走って逃げた。猛ダッシュである。
熱とお仕事のダブルパンチで瀕死になっている病弱クズを笑いに行けず、お兄さんの授業から逃げた結果、やることがなくなった。せっかくなので、わたしはおばあさんの窓拭き掃除をお手伝いすることにした。
おばあさんを探していて、ハッとする。いつの間にやら、わたしはお屋敷を自由に動けているじゃないか。このまま外に出て逃げ出せるのではないだろうか。
じーっと窓の外を観察したら、庭師さんがうろちょろしており、わたしの横を通りがかった使用人さんから不審げな目で見られた。昼間は人が多い。しかし、夜ならば人目は少ないはず。
あとは経路を確認すれば、速やかに脱出できるかも。
経路確認するためには外に出なければならない。外に出るチャンスはあいつとのデートのときしかない。
あいつを元気にさせないと。
夕食の時間になった頃、わたしはおばあさんのお手伝いを終えて、再びお菓子を手に入れた。今日はチョコレートだ。食べたい気持ちをぐっとこらえ、ひとまずキッチンのコックさんのところに向かう。
コックさんに尋ねることは、わたしの数時間と引き換えに手に入れた高級嗜好品が、活用できるものなのか否か。
「これって熱に効きますか? 効くなら病人が食べやすいものにしてほしいです」
そうしてわたしは、ふたり分のホットチョコレートと柔らかいパン、具だくさんのスープに焼きリンゴを手に入れた。チョコレートを軽食に化けさせることに成功したのである。
コックさんはワゴンも貸してくれた。ワゴンに載せて軽食たちをあいつの部屋まで運ぶ。
あいつは時間がないと言い訳をしてしばしば食事を摂らないと、コックさんが困ったように嘆いていた。ご飯を食べずにお仕事ばかりとは、熱がなくても問題児だ。
本日三度目のあいつの部屋に、今度こそ来客はいないようだった。おとなしく寝室で寝ているかと思いきや、あいつはソファーに腰掛けて何かの紙を読んでいた。テーブルにはインクとペン。完全にお仕事中だ。
病人のくせに、おとなしくしないばかりか、果てにはベッドから出るなんて。ふざけやがって。
「ど、どうして」
「あれ、僕呼んだっけ?」
あいつがわたしを見て、驚いたように首を傾げた。わたしも首を傾げた、地団駄付きで。
「呼ばれてないです。それより、どうして寝てないんですか」
「この返事、早めに書かないといけないんだ」
「お仕事はそれで最後ですか?」
「まぁ、急ぎはね」
「それが終わったら、ご飯を食べてください」
テーブルに軽食たちを並べていく。あいつは目を見張り、軽食たちを順々に見てから、わたしに苦笑いを向けた。
「僕、動いてないからお腹減ってないんだよね。こんなにもたくさんは食べられないかな……」
わたしは絶句した。こんなときに病人面しやがって。それに、この軽食たちの半分はわたしの分だぞ!
栄養を摂ってたっぷり眠って、わたしのために元気になって。
◆
元来、僕の体は丈夫なタイプなのだが、むしろそれが祟った。朝、ちょっとくしゃみをしただけで、滅多にないことだと使用人が慌ててしまい、微熱ごときで騒がれて休まされた。
彼女もそんな使用人たちと同様、心配性だったらしい。
僕は普段から少食なのに、普段以上に食べさせられた。彼女のお願いじゃなかったら口にすることはない量だった。
当の彼女は、ぺろっとたいらげてホットチョコレートを大事そうにちまちま飲んでいた。僕は可愛らしく食事する彼女をもっと見ていたかったけれど、僕がなんとか食べ終わると同時に寝室に詰め込まれてしまった。
「さあ、早く寝てください」
「君と一緒に?」
「そんなわけないです」
優しいのか、冷たいのか。軽く混乱させられた。
ハグをしようとしても「病気が移るので」とすげなく断られ、添い寝を提案しても「わたしに移したいんですか?」と冷ややかな目で見られた。
彼女は僕の微熱が人に移るほど酷いものだと思っているのに、わざわざ僕を看病しに来た。根は優しいのだろう。
僕がベッドに入ると、彼女はスタスタ寝室から出ていってしまった。けれど、すぐに戻ってきた。
彼女は椅子と飲みかけのホットチョコレートのカップを持ってきて、ベッドの横にちょこんと座ったのだ。
「君はここにいるの?」
「もちろんです。わたしがいないと、旦那様がお仕事を始めるかもしれませんから」
「ずっと僕のそばにいてくれる?」
「それはできません。わたしにはお勉強がありますから」
勉強に励んでいるようで何より。僕がくすっとしたら、彼女はじとーっと恨めしそうに睨んできた。その後、ホットチョコレートを一口飲み、脚を前後に動かしながら、カップの中を見つめてぶつぶつ零す。
「今日はせっかくお勉強を午前だけにしてもらったのに、旦那様がずーっとずーっとお仕事ばっかりしていたせいで、結局夜しか看れなかったです」
「そうなんだ。ごめんね」
「明日は今日の分までいっぱいお勉強しないといけないんですよ。だから、わたしがいなくても、旦那様はちゃんと寝ていてくださいね」
彼女の心遣いに癒やされながらも、残念ながら彼女の意向には添えそうにない。
紛争の利益で工房に設備投資をしたり、所有している鉱山の視察に行ったり、冒険者ギルドへの挨拶や市長との会談の予定があったり、やることは山積みだ。けれど、彼女とのデートや行方不明事件、さらに今日で、三日も屋敷にこもってしまった。
明日は早朝から仕事場に向かうつもりだったんだけど。
なんとなくバツが悪い心持ちになって彼女のほうを見れない。僕ははぐらかすように笑ったけれど、彼女はさして気にも留めずに窓に目を向けていた。
窓の外はすでに日が沈み、空には取り残された夕焼けがあった。だんだん暗くなっていくだけの時間帯だ。
「わたしが小さい頃、末っ子ちゃんが、いえ、そのときはまだ赤ちゃんでした、うちの赤ちゃんが高熱を出したことがあったんです」
遠くを見つめる彼女を夕暮れが照らす。刻一刻と空は光を失い、影が深まっていく。
「隣の村のお医者様が到着するまで、熱が下がるまで、目を覚ますまで、わたしはずっと不安でした。怖かったんです」
「そうなんだ」
「昨日お話しましたよね、うちの末っ子は本当に可愛くて可愛くて可愛いんです。天使のようだから、きっとふらりと連れて行ってしまうでしょう、神様は」
やがて完全に暗くなった部屋の中で、彼女がふと動き出す。ベッド横のテーブルにあったランタンに火を灯し、立ち上がって寝室内に光を増やしていく。
「だから、わたし、健康でいてほしいと思っているんです。自分も、家族も」
次々に寝室の明かりを灯していく彼女を、僕は目で追い続けた。最後に僕の隣に腰掛けるまで、ずっと。目が離せなかった。
「もちろん、あなたも」
彼女が僕に目を合わせて囁く。
……あ、あれ。部屋が火の灯りで暖かくなったからだろうか。それとも微熱が上がってきたのか。自分の顔がやや熱くなった気がする。思わず、自分の手で顔を確かめてしまった。
「お医者様には看てもらいましたか? お薬は飲みましたか。熱なんて長引かせたら悪化する一方ですから、体調が悪いときはお仕事をお休みして、いっぱい食べてよく寝て、きちんと治してください。それで」
彼女にしては珍しく、諭すような声色だった。僕はただただ彼女を見つめて頷くしかできなかった。
「早く元気になって、わたしとまたデートしてくださいね」
甘いチョコレートの香りをさせて、彼女が柔らかい表情をした。それは僕から酷く落ち着きをなくす微笑みだった。
「ほら、もう暗くなってきたので早くお休みしてください」
「……あ、あぁ、うん」
「寝るまで監視しますからね。ほら、目を……どうしたんですか」
「すぐ寝てあげるから、僕の手握って」
「なんでですか」
「いいから」
彼女の手を握って毛布を被る。ただ彼女を寝室に、僕の隣に繋ぎ止めておきたかったのだ。
使用人が彼女に命令をすることはないので、きっと彼女は自主的に僕を介抱しにきた。そう思うと、余計に鼓動がうるさくなって眠れない。
可愛くて生意気、心配性で思いやりのある彼女。新しい一面を見つける度にますます好きになる。
あぁ、僕にとって天使はまさしく君である。神などに渡しはしない。