5 氷柱とキス
わたしのデートのお誘いを、あいつは二つ返事で了承した。脅し泣かせたお詫びを兼ねてだったんだと思う。あんなに怖い顔を見せたあとで、ニコニコし始めて気持ち悪かったけど。
気持ち悪い行動はあの日だけにとどまらず。
「可愛いね。可愛いよ。ほんと可愛い」
あいつがもこもこのコートを買ってきた。コート自体はシンプルなデザインでポケットもボタンも可愛く、わたしもお気に入りだ。
けれど、わたしが着た途端に、あいつが一生ワンパターンなお世辞を投げてきた。本当に気持ち悪い。あとウザい。
「こっち向いて? うんうん、可愛い」
「はあ」
「よく似合ってるよ、可愛いね。はあ、可愛い」
「あ、お兄さんだ」
こいつのことはスルーしてお兄さんに見せびらかしに行く。お兄さんの前をちょこちょこ歩き回り、ちょこんと裾を広げた。
「見てください、可愛いでしょう」
「馬子にも衣装ですね。意味、覚えていますか?」
「もちろんです。可愛い子が着たら何でも可愛い、ですよね」
「惜しいですね。かすりもしてないです」
肯定しておけばいいものを。かすりもしてないわけはない。少なくとも、あいつは寒気がするほど『可愛い』と連呼していた。
「えー? わたし、可愛いでしょう」
「自分が調子に乗っていること、よく覚えていてくださいね」
にこりとした笑みとともに、遠回しに脅された。銃口を向けてきたり、脅迫してきたり、ここは怖い人ばっかり。
肩をすくめると、お兄さんが呆れた目でわたしの肩を押さえた。くるっと半回転。
なんと目の前にはあいつが待機していた。屈んで手を差し出してくる。口角は上がり、目も細められているのもかかわらず、全く笑ってない顔で言う。
「君がデートしたい相手は、僕。そうだよね?」
「……はい」
外に出られるならデート相手は誰でもいい。
しかし、ここで口を滑らせてはいけないと本能が叫んだ。下手したら、おそらく首が飛ぶ、物理的に。
そうしてわたしは外に出た。お屋敷の庭園に一歩踏み出し、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込む。約二ヶ月、久しぶりの外だ。
わたしはあいつにしっかりと片腕を掴まれていた。手を握られる、ではなく、手首を掴まれているのだ。余程わたしが逃げ出すと思っているらしい。
逃げ出すつもりはないから安心してほしい。なんせ、今日は偵察なのだから。
ちらちらと降り積もる雪にふたり分の足跡を増やしていく。
隣にあいつがいるので、下手に歩き回ったら脱出計画を考えようとしていることがバレてしまう。そのため今日のお散歩コースは、外周付近をぐるっと回るのは避け、お屋敷周りに留めておく。
今日だけでなく、雪が溶け春になった頃にもデートに誘えばいい。何度も誘って、地道に情報を入手していこう。
しかしまぁ、広い。石畳にレンガの花壇で整えられた庭園は、全体的にアンティーク調で品があってオシャレだった。
わたしの身長より高い生け垣の間をウロウロ進んでいくと、雪化粧した蔓が巻き付いたアーチが並んでいた。それらをくぐると白い石で出来た噴水へ。
それは水しぶきごと凍っている噴水だった。よく見てみたくて思わず駆け寄る。
「綺麗ですね、わっ」
駆け寄れなかった。手をピンと引っ張られ、一定の距離しか動けない。そうだった、あいつに捕まっているんだった。
あいつはわたしの速度に全く合わせず、のたのたと歩いてくる。
「君はこういうのが好きなの?」
「はい」
「ふうん」
ようやく噴水の元に着き、手を伸ばす。数多の氷柱ができていながらも、放物線を描いて水が溢れ出している。氷と水に太陽光が乱反射して光り輝いている。見事な芸術品。氷柱に指先を這わせたら、冷たいけれど神秘に触れている気持ちになれた。ドキドキする。
そのとき、ほうっと嘆息を漏らしたのは、わたしではなく隣のあいつ。
「君は本当に天使みたいだね」
何を言ってるんだ、こいつは。じろっと横を睨んだら、あいつもわたしを見ていた。まっすぐに、穴が開きそうなくらい。ど、どうしてこんなにも真剣な眼差しなのか。
「……あ」
気付いたらキスをしていた。唇を舐められ、一度離れてお互いが目を合わせたと思えば再びくっつく。今度は甘噛みされた。指から感じる冷えが唇から伝わる熱で中和されていく。甘くてとろける熱いキスだった。
こいつは好きじゃないけど、こいつとのキスは気持ち良くて好きだ。絶対、言ってやらないけど。
噴水の縁に座らされ、角度を変えて幾度かのキスをしていたとき、背後の芸術品からパキパキと音がした。目をやると、氷柱が折れた。水圧と日光のせいか、壊れてしまった。
「そんな」
「ねえ、こっち向いて」
「キスはもういいよ。それよりも氷が」
「え?」
舌打ちが聞こえた。おっと、わたしは禁句を言ってしまったかもしれない。ふとクッキーのときにブチギレられたことが脳裏をよぎる。
もしやこいつは、自分が一番じゃないとキレ散らかすタイプなのか。面倒くさい。
失言を有耶無耶にするためには、別のことで上塗りしてしまえばいい。あるいは、何事もなかったかのように振る舞えばいい。訂正して謝罪するという選択肢もあるが、わたしがこいつに謝りたくないので今回は除外である。
ある程度の衝撃で上塗りするか、忘れたふりをしてさっきまで進行していたことを変わらず続けるか。どちらもやったら大変お得。要は、わたしからキスすればいい。
こいつの肩に手を置く。
「だ、旦那様」
「何?」
「ちょっと屈んで」
不機嫌顔で、けれどわたしのお願いを聞いてくれる。少し屈んで、わたしと同じ目の高さに。身を乗り出して顔を近付けていく。
演技でもなく自分からキスしにいくなんて。こんなの、これが最初で最後なんだから。
わたしがしたのは、ほんの一瞬触れるだけのキスだった。
こいつは毎回ねちねちしたキスをしてくるけど、わたしがそんなことするわけもないので、ご機嫌取りに軽いキスをお見舞いしてやった。
よく見ていないと気付かなかったと思う。思考の読めない淡々としたあいつの表情に差す変化は、極々微細だった。けれど間違いなく、あいつの瞳はやや見開いて、ほっぺたや鼻、髪の隙間から見える耳がほんのり色付いたのだ。
こいつ、こんなので照れるんだ。
「君、正気?」
小さく呟かれ、なんだかわたしまで恥ずかしくなってきた。零す言葉はいつもと一緒。
「……し、しんじゃえ」
デートで得られたものは、あいつの照れ顔ひとつのみ。脱出経路の確認なんか一切できなかった。けど、あいつにちょっと好きになってもらえた気がする。
目的達成に一歩前進。
デートの日はお兄さんによるスパルタ教育はお休みだった。そうなると、どうなるのか。
後日皺寄せが来るのである。
デートの翌日である今日は、それはそれは酷かった。授業量が多いからと朝早くに叩き起こされ、いつもはわがままを言えば取ってくれる休憩も無く、夜遅くまで授業が延長した。
深夜になった頃にようやく終わり、わたしは疲労が溜まりに溜まって眠たくて仕方のない中、なんとか目を開いて、いや、半分瞑ってやっとこさ客室に辿り着いた。時刻も時刻なので、そおっとドアを開ける。
言葉を失った。なんとベッドで、いつかわたしが情事を目撃したあいつとナイスバディな美女が眠りこけていたのだ。他でもない、よりによってわたしのベッドで。
わたしはとびきり疲れているというのに、わたしのベッドにわたしの寝るスペースがない。怒り叫んでふたりを叩き起こしてやろうかと思った。
しかし、わたしは疲れていたのだ。怒りを通り越して呆れ、別の寝床を探すことにした。
わたしは目をこすりながら、客室のドアを音もなく閉めた。
◆
屋敷から彼女がいなくなった。
その報告を受けたのは、僕が女スパイの客室で朝を迎えたときだった。
任務で屋敷にいなかった女スパイには使用人用の部屋が与えられていない。なので、愛しい彼女の隣の客室を使わせていた。
昨夜、僕はワインを飲もうと誘われ、酔った女スパイの介抱をしているうちに寝てしまっていた。そして朝になり、彼女の身の世話をする老婆が慌てて報告しに来たことによって、彼女が隣の客室にいないことが判明したのである。
僕はまず執事長を呼び出した。老婆と世話係のふたりだけで捜索していたら、日が暮れても屋敷内すら確認し終わらないだろう。
優秀な執事長にする命令はこれだけでいい。
「使用人総出で彼女を探して連れてこい。抵抗された場合、死なない程度なら暴力も許可する」
今日も雪が舞う天候だ。外に逃げ出していたら、彼女のひ弱さとこの寒さでは凍死もあり得る。早く見つけなければならない。
まさか、デートと称して庭を散策して三日も経たずに、さっそく脱走するとは思ってもいなかった。デートが脱走の犯行計画のためである可能性は考慮していたが、ここまで実行が早いとは。まんまと出し抜かれた。
デートの誘いもデート中にしてくれたキスも、演技じゃなかったはずだった。多少は僕に心を開いてくれたと思ったのに、この仕打ちか。
あの生意気な小娘にお仕置きをしなければ。