《秋のとある日》3 - 僕・調理場
「珍しい、通行人が来たようだぜ」
ラウルの声に、僕は顔を上げた。ついでに額の汗を拭く。大鍋のスープをかき混ぜている最中なのだ。
ラウルは砦の巡回から戻ってきたところだ。途中で通行人を見かけたという。今はきっと副隊長が入国の手続き中だ。
外は日が暮れかかっている。
ということは、この砦に泊まるだろう。ここは簡易宿泊所も兼ねている。
「うちに来たってことは、うちの国民だな。下界情報を聞きたいぜ」とヤーシュ。
ここは国境の砦。隣国との出入国を管理するのが本来の目的だ。
ということは、当然、隣国側にも同じような施設がある。
昔はどうだったか知らないけど、今じゃ僻地にある砦同士で仲良くやっている。
そして、微妙な時間に通る旅人は、基本は自国の砦に泊まる。
旅人といっても、こんな険しく危険な道を通るのはごく限られていて、たいていは緊急の知らせを持った役人だ。でなければ貿易会社の従業員。そんな事情もあるから自国を選ぶ。
それにしても、下界か。
最近考えるのは、ナタリエのことばかりだ。
真に愛していると思った彼女のことは、なぜか気にならない。正直なところ、何がそんなに良かったのかも分からなくなってきた。
もし婚約破棄が滞りなく行われ、彼女と結婚したら。きっとすぐに生活が行き詰まっただろう。二人とも気楽すぎて、今の先を見ていないから。
ナタリエだったら。僕の至らないところを必死にカバーしてくれたに違いない。彼女は僕ののんきさに呆れながらも、決して諦めることはなかった。
なにしろすごい努力家だ。完璧令嬢なんて呼ばれているけど、自然にそうなったわけじゃない。いつもいつも、たゆまぬ努力をしていたからだ。
僕がのほほんと読書をしている隣で、彼女は難しい経済の本を読んでいた。
美しい音楽にうっとりしている隣で、ぼくのダンス教師とひたすら練習していた。
美味しい料理を堪能している隣で、こっそり味の分析をしているようだった。
そんな彼女に僕はうんざりして、もっと力を抜いてよと言った。
だけれど今にして思えば、彼女が僕といる時までそうするようになったのは、婚約してからだ。
きっと僕が怠けていたぶん、彼女は先を見据えてがんばっていたのだ。
「ヴィンツェンツ」
呼ばれた名前にはっとして顔をあげると、副隊長がいた。
「お前に客だ」
「客?」
副隊長の後ろから、まだ旅装姿の二人が出てきた。ひとりは見覚えがある。
「コッホ氏!」
そう、彼は隣国の役人コッホだ。おととしまで大使館に勤めていて大使と一緒に僕の屋敷に遊びに来ていた。今は国に戻って、そちらで働いているはずだ。
ヤーシュに鍋を任せて、僕は調理場を出た。
「どうしてここへ?」
「いや、緊急の知らせを届けるだけさ。君がここにいると聞いていたから、こちらの砦に泊まらせてもらおうと思ってな」
コッホ氏とは年が20以上も離れているのだけど、芸術好きという共通点があるから話が盛り上がるのだ。
「誰から聞いたんですか?」
「うちに新しく赴任した大使だよ。なんだか……、公爵も思いきったことをしたもんだな」
「僕が悪いんですよ。世間知らずすぎた」
「確かに君は、少しばかり浮世離れをしているからな」
副隊長が、ぷっと吹き出した。
「今は料理当番の時間なんです。お話はあとでゆっくり」
「ああ。土産もあるんだ。山の中では手に入りづらかろうと思って、本を一冊ね。うちの国の言葉だから、読みづらいかもしれないがね」
「ありがとうございます。だけど言葉はだいぶ上達したんですよ。向こうの砦の人たちとも話すんで」
多少は乱暴な言葉遣いかもしれないけれど、以前よりはずっと喋れる。
ナタリエが知ったら驚くこと、間違いなしだ。
……まだ、僕に興味があればだけれど。
「がんばっているのだな」とコッホ氏は目を細めた。心なしか、嬉しそうに見える。「ではまた後で」
コッホ氏たちが去り、厨房に戻るとヤーシュが
「なんであいつには丁寧に話すのに、オレたちにゃタメなんだよ!」
と言いながら、脛にローキックをいれてきた。
「だってそうしないとなめられるぞって、最初に隊長に言われた」
「違いねえ」ラウルが笑う。「実際なめてるし」
ひたすら鹿肉を焼いているラウル。
「あ、客用は味付けしねえとか」
「頼むよ、コッホ氏はいい人なんだ」
「いい人ねえ」ラウルは塩を探して棚を漁る。「オレらだっていい人だぜ?ちゃんとヴィンを苛めねえで、面倒みてる」
だよな、とヤーシュ。
「感謝してる。ありがとう」
「ま、長くて2年のはずだ。がんばりな」
「うん」
この砦は不便なところにあるから、隊員はみなここで生活をしている。たいていは独身だけど、妻子を残して赴任している者も少なからずいる。
だからここでの勤務は最長2年と決まっているらしい。
だから2年経てば、ここは出られるだろう。だけどその後どうなるかは、分からない。他の砦に送られるかもしれないし、もう成人しているから勝手に生きろと言われておしまいかもしれない。
それはそれでいいかな、と最近は思っている。
僕はそれだけ人として酷いことを、貴族として常識知らずのことをしたのだ。
「あれ?」とヤーシュ。
コッホ氏がまたやって来ていた。
「どうしましたか?」
「いや、忘れないうちに」とコッホ氏は頭を掻いた。「一番大事な用件を言いそびれた」
「なんでしょう?」
「君の元婚約者ね」
ナタリエだ!
胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「君がここに送られると知って、中止を嘆願したそうだ。そんなことをしたら、君は生きて戻ってこないに違いないってね。彼女も優しい子なんだ」
「……知ってます。彼女は優しいんだ。それを僕は忘れてしまっていた」
僕たちは幼なじみで、婚約するまでは仲良くしていたんだ。
僕がもう少し彼女との将来を真剣に考えていたら、彼女だってあんなに僕を叱咤しなかっただろう。
今頃になって気づいても、遅すぎる。