2 ノイジェ王国
ケーキも食べ終えたところで、リラは紙とペン、インクを取り出した。
カンナはこの国について何も覚えていないらしい。今、それはとても危険なことだ。
最低限の知識くらいは頭に入れておかなければ、笑いごとでは済まない。
「何を書いてるんですか?」
「ノイジェ王国の簡単な地図です。……それと、同年代のようですし、あまり畏まった言い方でなくても大丈夫ですよ? 私の口調は癖のようなものなのでお気になさらず」
「えっ、あ……はい。じゃなかった、うん」
リラと周囲の人間との関係は、ほとんどが『医者』と『患者』だった。それは対等ではない。『医者』は『患者』の命を握っているのだ。当然のように向こうは下手に出る。たとえその意識がなかったとしても、リラは常に感謝され、尊敬の眼差しを向けられる立場にあった。
もし相手がリラの診療所を訪れたのではなく、リラのことを近所に住む娘だと思っていたとしても、それでも『友達』と呼べる相手はいなかった。単に同年代の子供がいない、というのが一番の原因だろうか。大人と接する時はどうしても相手が上になり、自分より小さな子供と接する時は、向こうは対等であろうとしてくれているのだが、リラからすればやはり対等ではなかった。
そこにカンナが現れた。彼女は、リラが初めて出会った、対等に接することが出来る人間なのだ。
「今、話しかけても良い?」
「はい、どうぞ」
カンナがそう訊いたのは、リラが熱心に何かを書いているからだろう。丁寧な人なのか、まだ遠慮しているのか、リラには判断がつかなかった。
「リラはここに一人で住んでるの?」
「ええ。母は大きな街で看護師をしていて、父は王宮で医者として働いているんです。家には滅多に帰ってきません」
「へえ、ご両親も医療関係の人なんだ」
「カンナはご両親について思い出せますか?」
「えっと……パンを売ったりしてた、ような……」
「それは素敵ですね。でも大変でしょう。最近は小麦畑も荒らされていると聞きますから」
「それって、どういう……」
「はい、完成しました。今からノイジェ王国について説明しますね」
向かい合わせに座っているカンナが見やすいように、リラは紙をくるりと回転させた。
「これがノイジェ王国です。海に周囲を囲まれた島国で、他国との貿易は一切されていません」
「されてないの? それで国って成り立つものなのかな……?」
「成り立ちます。鉱山もありますし、魔法で気候を変えてあらゆる作物を育てることも……」
「魔法⁉︎ 魔法ってやっぱりあるんだ!」
「え、ええ……ありますよ?」
目を輝かせて身を乗り出したカンナに、リラはたじろいだ。
どうやらカンナは、勉強で得た知識は覚えているが、常識というものが全て抜け落ちているらしかった。
「そういえばカンナは杖を持っていませんね?」
「え? ああー……なくちゃ駄目?」
「杖がないと魔法が上手く制御出来ないでしょう? 最悪の場合、魔力が暴走して魔力欠乏症に陥ってしまいます」
「……魔力欠乏症、とかいうのになるとどうなるの?」
「魔法がほとんど使えなくなります。それに加え、体内魔力量の急激な減少により、命の危険にさらされることもあります。ちなみに、現代の医療では治せません」
カンナは顔を青ざめさせていた。やはり常識を覚えていない。
「えっと、つまり魔法を使いすぎると死ぬ……?」
「いいえ。魔力は生きていればすぐに回復しますし、身の丈に合った魔法を連発する程度なら問題はありません。自分に合わない、もしくは知識が足りない、複雑で強力な魔法を使うと危ないです」
「じゃあ気を付けないとね……!」
「まあ、カンナはあまり魔力が多くないようですし、即死ということはないと思いますよ」
「えっ……そう、なの……」
安心させようと思って言ったのだが、カンナは落ち込んでしまったようだ。
「ええと、話を戻しますね?」
「うん……」
リラは地図の下部にある、黒胡麻のような点を指差した。
「この小さな点がリジェール。この村です。王都からも首都からも遠く、住民も少ない田舎です」
「へえ……」
「近頃は物騒なので、村の外に出ないことをお勧めします。馬車はありますが、暴走する危険が高く、戦闘に慣れた人はあまりいませんので」
「じゃあ、この村の人は買い物とかどうしてるの?」
「村の中で済ませます。売っていない物は、月に一度来る領主様にお願いして手に入れます」
叛乱軍の動きが活発化してから、ノイジェ王国の結束力は高まった。
王宮騎士団を護衛として、領主たちは領地を視察して回る。平民が必要としているものを理解し、与える。情報も公平に公開される。
けれども、この方法は安全とは言えない。いくら騎士団と言えども、怪我はする。敗北もある。殺されることだってあるかもしれない。その危険な状況でも、全員が懸命に働いているのだ。
「特に困ることはありません。むしろ感謝しています。本当に……こんな田舎の小さな村なんて、とっくに切り捨てられていてもおかしくないのに、ここまでしてくださって……」
「リラはこの国が大好きなんだね」
「ええ、もちろん。私の生まれた国ですから」
みんな、本当に良い人なのだ。そんな人たちが協力し合っているのだから、最高の国になるに決まっている。
だからこそリラは叛乱軍を許さない。国民の心につけ込む卑怯者。国民を第一に考える王族に仇なす反逆者。
「ここからはとても重要なことなので、注意して聴いてくださいね」
空気が変わったのが伝わったのだろう。カンナは真剣な顔をして頷いた。
「ノイジェ王国はとても素晴らしい国です……が、その国を滅ぼそうとしている人間たちがいます」
「さっき言ってた……叛乱軍?」
「はい。彼らが現れたのは五年前です。活動拠点はここよりずっと離れていますが……被害は、リジェールにまで及んでいます」
リラは地図の上部にある『リュエグラ』という都市を指差した。叛乱軍が拠点としている都市だ。
「海が近いので、昔は漁業が盛んだったそうです。一時期は王都や首都よりも活気があったとか。立派な灯台もあって……今は、叛乱軍以外は近づきませんが」
「五年間、誰も?」
「私が知っている限りは、そうです。まあ、領主様が教えてくださったことなので、王宮でも近づいた人は認識出来なかったのだと思いますよ。情報は共有されていますから」
「……それって、五年間も叛乱軍のことを放置してたってこと?」
「放置していたのとは、違います」
「でも、叛乱軍が動き始めてすぐに対策すればここまで長引くこともなかったんじゃ……」
リラは苦笑した。本当に、カンナは何も覚えていないらしい。
ノイジェ国民であれば、当時、勇敢に叛乱軍に立ち向かって──裏切られた騎士団のことも知っているだろうに。
「……裏切り者がいたそうです」
「裏切り者?」
「一人の王宮魔術師です。第一王子様の魔法の師匠でもあったとか。その人がずっと叛乱軍の味方をしていたんですよ」
「……それでも、たった一人なら、みんなで頑張れば大丈夫なんじゃ……?」
「みんなで頑張っても無理だったそうです。その人間は、王国で一番最強で最悪の魔術師だったのですから」
リラがそう言うと、カンナは目を少し見開いた。数年前のリラよりも軽い反応だった。
とはいえリラはその魔術師について詳しくない。直接会ったことなどないのだ。けれども、有名な話がある。
「その魔術師は、百年ほど前に起きた戦争で、大活躍したそうですよ」
「それって、具体的にはどんなこと?」
「たった一人で、しかも一瞬で、鼻歌交じりに敵国の戦艦を十隻ほど木っ端微塵にしたとか」
「……えっ」
「ノイジェ王国軍の千人ほどいる兵士をパワーアップさせて、一人ひとりがレンガの家を拳で粉砕出来るようにしたとか」
「ええ……」
「それと、ええと……敵国の領土だった半島を海底に沈めて、ついでにその半島の記憶を人々の中から消して、地図からも完全に削除した……とか」
ちなみに、人々の記憶から消えたはずの半島のことをどうしてノイジェ国民が知っているのかというと、これもまた魔術師の仕業だ。リラにはその理由まではわからない。
カンナは青ざめていたが、今までのどの話よりも興味があるように見えた。
「ちなみに、リラはそんなことも出来ちゃったりする?」
「絶対に無理です。まず魔力が足りませんし……」
リラは一瞬言葉に詰まった。悟られる前に、笑顔を作ってみせる。
「私には、回復魔法しか取り柄がないので」
カンナが特に気にした様子はない。魔術師の話に興奮しているようだ。
気付かれなくて良かった。リラは動揺が態度に出ないよう細心の注意を払った。
「……まあ、魔術師の話はこのくらいにしておきましょう。とにかく、とんでもない人が敵になってしまったんです。それこそ、各地の騎士団が束になっても敵わないくらいの人が……」
カンナの意識はもうリラの魔法から離れているようだった。
「叛乱軍はどんなことをしてくるの?」
「そうですね、主な活動は……怪物の生産、でしょうか」
「え、そんなこと?」
カンナは素っ頓狂な声を出した。魔術師の話をした後だからだろう。
「もっととんでもないことするのかと思った」
「……まあ、先ほど話した魔術師が無差別に爆発魔法を放つよりはマシなのかもしれませんね。ですが、甚大な被害が出ています」
リラは叛乱軍の所業を思い出していた。頭がカッと熱くなるのを感じたが、カンナの前で取り乱すつもりはなかった。
「怪物はノイジェ王国に生息していた動物が凶暴化したものらしいです」
「さっきの魔術師がやったの?」
「さあ、そこまではわかりませんが。彼らはまず、作物を荒らします」
「それって普通の動物もやるよね?」
「そうですね。国民は大いに困りましたけれど、それだけです。次に彼らは、人を襲い始めました」
「……それも、まだ動物のやる範囲内じゃない?」
カンナの言うことは、確かに正しいかもしれない。
引っ掻くだとか噛みつくだとか、凶暴化していない普通の動物でも人を襲うことはあるだろう。
それで終わるなら、まだ良かった。
「そして、彼らは……人を殺しました。何百人も、無差別に、故意に……」
なるべく淡々と話していたのだが、リラの声は震え始めた。
年間死者数は五百人を超えたという。五百人といえば、リジェールの町の住民を八倍にした数だろうか。もともと人口が少ない国だ。充分な被害と言えた。
「故意だったかどうか……そんなのわかるの?」
「……彼らは的確に人間の急所を狙ってくるそうです。偶然ではありません。みんな、そういう死に方をしているそうです」
見つかった死体は、主に心臓や脳などを潰されていたそうだ。医者が手を尽くす暇もなく、即死だったらしい。
町で行方不明者が出た日には、近くの草原に肉片が残っている。残っていなければ、そこらにいる怪物の腹を割いてみると良い。きっと、変わり果てた行方不明者が見つかるに違いない──
不謹慎な輩がそんな詩を詠んだ。
それが五年間、当たり前のように起こってきた。
「心得のある人は防御が可能です。反射神経も鍛えられているでしょうし……でも、普通の人間は、逃げ遅れた場合……死あるのみ、です」
カンナの顔色が青くなった。リラ自身も、手が震えている自覚があった。
普段は必死で記憶の隅に追いやっていることだ。そうでなければまともに生きていくことなど出来ない。今ノイジェ王国で平和に笑うことが出来るということは、無理をしているか、現実逃避をしている証拠なのだ。
「村に怪物が入ってくることは……?」
「騎士団の方が特殊な結界を張ってくださっています。村の中は安全です。特に被害が大きいのも首都周辺で、ここからは遠いんです。大丈夫ですよ」
カンナの顔が青を通り越して白に近くなったので、リラは安心させるように言った。
「……今日はもう、寝ましょうか?」
リラはそう提案した。カンナは素直に頷いた。
今の話は──少しだけ、嘘だ。
本当は、結界をすり抜ける怪物も存在する。
その怪物は弱い部類に入るので村民が数人集まれば太刀打ち可能だが、危険なことに変わりはない。
非力なリラと記憶をなくしたカンナではどうにもならないだろう。
この国にいる限り、平等に、誰にでも死神は忍び寄る。死は他人事ではないのだ。
眠りについた翌日に目覚めることが出来る保証など、どこにもなかった。