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君がいた

作者:森巣リコ
一、同じ景色を
 五月の連休明けの最初の登校日は、朝から雲ひとつ無い青空が広がっていた。春は早々に終わり、季節はまるでどこかに梅雨を置き去りにして、ひと足先に夏が来たかのような陽気だった。
 四月、高校入学後の席順は、誰かが決めたルールでもなく、誰も文句をつけるでもないルールで、出席番号順つまりは氏名の五十音順で男子が廊下側から座っていき、男子が終わると女子が窓際の席まで埋まっていくものだった。そして席替えは月に一度くじ引きで行われるものだった。これも誰かが決めたわけではなくそう決まっているものだと皆が納得させられていた。内心はどうあれ少なくとも公然と異を唱える人物はクラスに誰もいなかった。そしてぼくが引き当てた席は窓際の一番後ろの席だった。
 その日は一時間目から六時間目まで教師によって授業の姿勢が違っていた。連休明けは頭も働かないだろうからゆっくり進めるのが皆もいいだろうと簡単な復習問題を解かせたり自習時間に当てたりする教師もいれば、たるんだ気を引き締めてやると息巻いて五十分みっちりと息つく暇も与えず教科書を進めていく教師もいた。
 そんな一日だったけれど、ぼくはほとんどの時間を窓から見える校門の辺りをぼんやり眺めながら過ごしていた。正確には校門の脇でおとなしく座っている大型犬を眺めていた。
 その犬の種類を知っている者ならゴールデンレトリバーだと答えたかもしれないし、クリーム色の美しい犬だと言うかもしれない。だけど残念ながらぼくはそんな風に言ってくれる人に出会ったことは無い。ぼくには友達がいなかった。今まで一人たりとも。

 高校生活もひと月を過ぎ、クラスの中ではひとかたまりのグループがいくつもできていた。おそらくぼく以外の生徒は皆どこかのグループに属していて、休み時間には誰かと昨日の夜に何をしていたかとかを話していた。何か面白い話題があれば絶え間なくどこかのグループで笑い声が上がり、昼休みには皆誰かと机を並べて昼食を一緒に食べたていた。きっとこの連休には遊びに行くなり部活なりで、入学前は見ず知らずの他人だったお互いの距離を縮めた人たちもいたことだろう。少し前の入学時には周りが初対面の相手ばかりの中で、同じ中学出身ならただそれだけの理由でお互いを他人ではないと認識していた人もいたかもしれないが、そんな雰囲気はもう既にどこかへ取り払われていたようだった。
 −−だろう。−−かもしれない。そう推測するしかないのはぼくには彼らや彼女たちの考えは全くわからないからだった。ぼくにとっては同じ中学出身でもひと月を同じクラスで過ごした仲であったとしても、誰もが純然たる他人だった。
 このひと月ほどぼくは朝の登校時も夕方の帰宅時もいつもあの大型犬と一緒に歩いていた。だけどその犬に目をくれる人はいなかったし、ぼくがその犬を連れている理由を尋ねる人さえ誰一人としていなかった。
 それも仕方の無いことだった。なぜならその犬はぼくにしか見えなかったし、ぼくだけにしか触れることができなかったし、ぼくの想像上の犬だったからだ。

 なぜぼくが自分にしか認識できない想像上の犬を創り上げたのかはわからない。一番古い記憶の中で既にその犬は一緒にいた。父にも見えないし、ぼくが幼い時に病気で亡くなった母にも見えなかった。ぼくはその犬をジョンと呼び、文字を習うよりも早くジョンの絵を描いていた。両親にジョンのことを話しても、見えないものは見えないと困っているばかりだったので、幼いながらもジョンがそこに確かにいることを伝えたくて絵を描いて見せていたのかもしれない。両親は我が子の奇妙な行動に困惑していたらしいが、イマジナリーフレンドという単語と概念を知ってからは深く思い煩うことはなくなったようだ。むしろぼくが描く犬の絵を二人で楽しげに見ていたようにおぼろげながら記憶していた。
 だけど、ぼくにとってはジョンは確かにそこにいた。触れることも吠える声を聞くこともできた。近づけば息遣いを、触れれば命の温もりと鼓動をはっきりと感じることができたのだ。幼い頃も今も小柄のぼくはジョンの大きく温かな身体を枕に一緒にうたた寝をすることだってあった。他の誰にも見えることも触れることもできなくても、ぼくとジョンは十五年と数ヶ月をずっと一緒に生きてきた掛け替えのない相手だった。
 そんなジョンを見ることができない同年代の人たちとどうして友達になれただろうか。あるいはもしかしたら誰とも友達になれないのだからこそジョンを必要として自分自身の空想で創り上げたのだろうか。わからない。一体とちらが正しいのか判断がつかなかった。いずれにせよ、ジョンを見えない相手とは友達にはなれなかったし、ぼくはそうなるのを必要としたことは一度も無かった。寂しさも孤独も感じること無く、ぼくはジョンと共に過ごし、幼い頃からの習慣で暇さえあればいつもジョンの絵を描き続けていた。
 幼い頃のぼくの様子を心配していた父はどうしたものかと生前の母に相談したことがあったが、母はぼくの描くジョンの絵を見て、心配いらない、こんなのびのびとした絵が描けるのだから、こんなにも活き活きとした命の宿った絵をかけるのだから、この子は何があっても大丈夫、そう語っていたと後になって聞いた。

 幼稚園、小学校、中学校の間ずっとぼくはいつもジョンと一緒に登下校していたのだけど、日中にジョンが何をしていたのかは知らなかった。幼稚園でも小学校でも門は園舎からも校舎からも遠く離れていて、朝にジョンと門の所で別れた後はその姿がよく見えなかった。中学の時はそもそも教室の反対側に校門があり、やはりジョンがどう過ごしていたのか知ることはできなかった。
 だけど高校生の今窓際の席からは校門に佇むジョンの姿をいつでも見ることができた。むしろジョンはいつまでも校門の脇で礼儀正しく座り続けていたので、ぼくは少し呆れていた。ただ座り続けるのも飽きないのかな、もっとやりたいことしてればいいのにと思っていた。だけど、そういえば犬が日中にやりたいことって何だろうという疑問が湧くだけで、どうさせればいいのか何も思い浮かばなかった。
 その年の五月は暑い日が続き日本列島のどこかでは既に真夏日が観測されることも珍しくなかった。帰り際校門で再会したジョンはいつものように大きな尻尾を振って喜んで迎えてくれたが、ぼくは誰にも聞こえないように心の中でジョンに呟いた。
(ここは暑いだろう?確か近くに公園があったはずだから、日中はそこで日差しを避けて好きに過ごすといいよ)
 その呟きにジョンは尻尾を振りながら軽く吠えて答えた。そうしてその日は一緒に少しだけ遠回りして公園に寄ってから帰ることにした。
 ぼくは部活には入らず、放課後に行われている進学組のための特別講習も受けていなかった。だからいつもぼくはホームルームが終わるとすぐに帰っていたし、その日もまだ陽の沈まないうちに校舎を後にして公園に向かっていた。
 公園に着いて中に入り、とりあえず辺りを見回すとぼくは小さなため息をついた。公園には遊具は無く、目に止まる草木などの管理はされているようだが明らかに充分には行き届いていなかった。それらは荒れていないだけマシと呼べる程度のものだった。
 公園の片隅には東屋があり周りに水辺があったので、暑い日が始まったこの季節には心地よい涼しさを感じることができた。あるいはそれは陽が傾いた今だからそう感じたのかもしれなかった。だけど日中でも、設置されている木製の長椅子に座り日差しを避けてゆっくり過ごすことができれば、小さなせせらぎが涼を呼んでくれそうな気がした。
 ぼくはしばらく東屋の長椅子に腰掛けて過ごし、ジョンは傍らでゆったりと横たわっていた。辺りはまだ充分に明るく、家に帰ってもやらなければならないことが特にあるわけではなかったので、ぼくは鞄から一冊のスケッチブックを取り出し、自室でいつもしているようにジョンの絵を描き始めた。ジョンの絵を描くのはもう特別なことではなく、ぼくにとってはそうするのがごく自然な行為で日常の一部だった。ぼくはいつもと同じように気の向くまま、気の済むまでジョンの絵を描き続けていた。ジョンはぼくが絵を描き終えるまでじっとしているわけではなく、あくびをしたり尻尾を振り続けていたり飽きてきたらそのまま横になって眠ったりしていた。ぼくはその時々に見せる様々な表情を描きたかったのでジョンの気ままな行動は都合がよかったし、描き上げた何枚もの絵はいつも満足がいくものだった。
 気がつけば辺りは夕暮れ時で、日中は暑くてもまだ寒暖差のある季節だったので東屋には少し冷たい風が軽く吹いていた。ぼくはジョンにそろそろ帰ろうと呟き、公園を後にした。
 そんな風に、登校後にジョンと別れ、放課後にジョンが待っている公園に立ち寄ることが、ぼくたちの新しい日常になっていた。ぼくはしばらくの間ジョンの絵を描いてから一緒に家に帰っていた。いつ行っても公園に人影はなく、そこはぼくとジョンだけの特別な空間のように思っていた。だけどそれは気のせいで、ある日「ぼくとジョンだけ」の空間ではないことを知るのだった。

 その日はいつもと変わらない一日を過ごし、いつものように公園に一人でジョンのところへ向かって行った。だけど、その時に見た光景にぼくは呆然と立ち尽くしていたのだった。
 普通の人から見ればそれはきっと何でもない光景だったのだろう。一人の小さな女の子が一匹の大型犬と一匹の猫と一緒に戯れていた。ただそれだけのことだった。だけどぼくにとっては、それは特別な意味を持ち、それまで、十五年と数ヶ月の間、ずっと心のどこかで望んでいてそして何度も諦めていた光景だったのだ。
 自分以外にもジョンの存在がわかる人がいたのだ。

二、たくさんの初めて
 見知らぬ女の子と猫がジョンと一緒に遊んでいる姿を、ぼくは呆気にとられながら見ていた。
「お座り。お手。伏せ。あはは、いい子、いい子」
 ジョンは女の子の言う通りに振る舞い、それに気をよくした女の子はジョンの頭を撫でていた。ジョンも満足して尻尾を振って女の子に応えていたが、ぼくの姿に気づいて一声吠えた。すると女の子は言った。
「あれ?ひょっとしてこの子、キミの飼い犬?」
 ぼくはジョンが見える人間が、触れることのできる人間が自分以外に現れることはもう無いだろうとずっと前に悟ったつもりでいた。だからそう訊かれた時にどう答えればいいのかわからず、しどろもどろになりながら答えるだけだった。
「…だって、ジョンは……ぼくにしか……」
 女の子は不思議そうにぼくの要を得ない返答に耳を傾けていた。だけど妙に落ち着いて聞いていた。
「そっか。この子はジョンって言うのね。私はミキ、佐藤ミキって言って、この猫はエイミーって言うの」
 そう自己紹介し、紹介された猫のエイミーは座ったまま鳴いて応えた。
「で、キミの名前は?」
 ミキと名乗った女の子は屈託無く訊いてきた。
「ぼくは……桜井ジュン……」
「桜井ジュン……?」
 ミキは不思議そうにぼくの名前を繰り返した。どこかで会ったことがあっただろうかと記憶をたどろうとすると、ミキは不意にくすくすと笑った。
「桜井ジュンくんにジョンかあ。あははは、J.J.サクライだ」
 ぼくはミキが言ってることがわからず、笑われたことが不思議だった。そのことが顔に表れていたのかミキは説明した。
「ごめんごめん。J.J.サクライって偉い物理学者が昔いたんだよ。櫻井純って言うんだけど、アメリカに帰化した時にジョンってミドルネームをつけて、ジュン・ジョン・サクライって言うの」
 なるほど、ぼくは全く知らなかったけど確かにジョンとぼくとでその名前になるようだと納得した。だけどまだ驚きの理由が消えたわけではなかった。
「で、ジョンちゃんがどうしたって言うの?」
 その問いにしばらくためらった後覚悟を決めて答えた。どう思われてもいい。だってミキは実際にジョンを見ることも触れることもできたじゃないか。
「ジョンはね、ぼくにしか見えない、ぼくにしか触れることのできない犬のはずなんだ。つまりぼくの想像上の犬なんだよ」
 そう答えるとミキは一瞬だけきょとんとしたが、次の瞬間には破顔一笑して言った。
「なんだ。それじゃ私と同じじゃない」
 ぼくは今日どれほど驚いたかわからなかった。だけど、その言葉で全てを納得できた。
 ぼくだけじゃなかったんだ。いつ頃からか誰にも説明できない不安のようなものを胸の内にずっと抱えていたけれど、それはミキのその言葉で氷解した。
 その時の笑顔とその言葉をぼくはずっと忘れないと思った。忘れられるはずがなかった。

 ミキはTシャツにジーンズというラフな格好をしていた。小柄なぼくよりも背が低く、それほど長くない髪が幼さを引き立てているように思えた。その小さな身体に似合わない大きめの鞄を肩からタスキがげにしていた。エイミーもやはり小さな猫だった。だけど、ジョンはぼくの記憶にある最初の姿も大型犬だったので、実際にはエイミーも仔猫ではなくただ小型の猫なだけかもしれなかった。呆然とぼくがミキとエイミーを眺めていたのを不思議に思ったのか、ミキは尋ねてきた。
「どうしたの?ぼんやりして?」
 ぼくは我に返って答えた。
「あ、ごめん。今まで誰もジョンを見ることができる人に会えなかったから、驚いたんだ」
「今まで誰も?お父さんやお母さんは?友達も見ることができなかったの?」
「うん。本当にミキちゃんが初めてなんだ、ジョンを見ることや触れることができたのは」
 そう言うとミキは頬を膨らませて不満げな顔をした。その表情がさらに子供っぽさを増したのでやけに面白かった。
「あのねぇ、その制服、東高のでしょ?しかも着慣れてない感じからすると一年生ってところでしょ。なら私より三つも年下じゃない」
 半ば怒った物言いも妙に子供っぽくて面白かったけれど、その言葉にぼくはただ素っ頓狂な声をあげて驚くだけだった。
「え?年上?本当に?」
「その顔は絶対信じてない!こう見えても私は大学生なんだから!」
 ミキはそう言うけれども、ぼくの目には中学生かもう少し年下に見えた。ミキはぼくが信じてないと見ると鞄の中から三冊ほど本を取り出してぼくに見せた。
「ほら、これが私が今大学で勉強している本よ」
 そう言って差し出された本をぼくは見てみた。
 『力学』『線形代数入門』『解析概論』−−ぼくには何の本かさっぱりだったし、中をめくっても難しい数式が並んでいて全く理解できなかった。
「本当にこれを読んでるの?」
「本当だってば!何なら説明してあげようか?」
「無理だよ。説明されても何が何だかさっぱりわからないよ」
 そう答えるしかないぼくにミキはあっさり納得して言った。
「ああ、そっか。高一には意味不明だよね。じゃあ高校の数学でも説明してあげようか?」
 そう言われても断るしかなかった。ぼくは数学は苦手だった。と言うよりも勉強全般が苦手で東高一年生の中でも成績は下から数えた方が早いくらいだった。
「残念だけど高校の数学を説明されてもよくわからないよ」
「もう、それじゃどうしようもないじゃない。って東高なのに数学がわからないの?」
 ミキは驚いてそう言った。無理も無かった。東高といえばこの辺りではそこそこ有名な進学校だった。ぼくはただ家から一番近いと言う理由だけで受験したところ、たまたま合格したのでそのまま通っているだけなのだった。
「人には得手不得手と言うものがあって……」
「要するに勉強ができないってだけでしょ」
 そう言うミキの言葉には悪意は皆無で、ただ、ちょっとしたいたずら心のようなものが込められているだけのように感じられた。だけどミキは優しく、楽しげに、そして真剣な声で呟いた。
「これは本当に勉強を教えてあげた方が良さそうね……」
 ぼくはミキの豊かな表情の変化をぼんやりと眺めていた。ミキを見ていることも呆れられた言葉をかけられたことも不思議と心地がよかったのはなぜだろう。
「それはまた今度で……」
「そうね。また今度ここで説明してあげる」
 ミキは何が楽しいのか嬉しげにそう言う。「また今度」、その言葉がどれほど特別な意味を持つものかぼくは初めて知った。ぼくはミキとまたここで会えることが嬉しくて仕方が無かったのだ。
 それからしばらくの間、ぼくたちはさっき会ったばかりとは思えないほど自然に談笑していた。精神的に住む世界が似た者同士だったのだろうか。ぼくは今までこんな風に誰かと楽しい時間を過ごしたことはなかった。

 その日から放課後はその公園がミキとぼくの二人とエイミーとジョンの二匹とのお気に入りの居場所だった。ぼくは誰かとの会話に全く慣れていなかったので、話題はもっぱらぼくがその日勉強をしてわからなかったこと−−つまりはほとんどの勉強内容のことだった。
 ミキは、ぼくが何がわかってなくて、なぜわからないのかを気づかせてくれるような説明をしてくれていた。だからミキとの勉強会は飽きることもなかった。そしてほんの少しずつだけれども、次から次へと「知りたい」と言う気持ちが湧いてきた。
 そんな風に勉強を教えてもらって一緒に過ごしても休憩は必要だったし、そんな時にはただとりとめのない話をしていた。ミキが通っていると言う大学はこの公園からひと駅ほどの近くの大学だった。そこは大学名を聞けばたいてい誰もが知っているような難関大学だった。
「で、物理学科って何するところなの?」
 ぼくはミキに尋ねた。
「うーん、どう言えばいいんだろう。まだ物理は習ってないんだよね?」
「うん、選択科目は二年生から分かれて習うことになってるみたい」
「まあ有名人で言えばニュートンやアインシュタインたちが研究した結果を勉強する感じかなあ」
「すごいね、それ。ぼくには想像もつかないや」
「まあ大学の一年じゃニュートンの時代までさかのぼって勉強しているだけなんだけどね。それでも高校にだって物理の科目があるように、ジュンくんも普通に勉強すれば理解できることだよ」
 ミキはそう言うけれど、普通に勉強して理解すると言うことがぼくには非常に困難なことに思えてならなかった。ただ、ぼくがよくわかってない数学をミキが丁寧に説明してくれると、時間がかかることはあったけれど一応は理解できた。少なくとも理解できた気にはなったので、いずれ物理も理解できた気にはなれるのかもしれなかった。
「ふうん。そう言うものかな」
「そう言うものよ」
「もうひとつ質問なんだけど、なんで物理学科に行ったの?」
 そう問いかけると一瞬ミキはギクリとした表情を見せた。わかりやすいミキの表情の変化は見ていて本当に楽しかった。
「人には得手不得手と言うものがあってだね……」
「どこかで聞いたよ、そのセリフは」
 ぼくがそう言うと二人とも吹き出してしばらく笑いが止まらなかった。
 ミキと出会うまでは、教室のあちこちで絶え間なく笑い声が上がっていたのを不思議に思っていた。彼ら、あるいは彼女たちは何がそんなに楽しいのだろうと。だけど、今はその理由がわかった。ただ楽しいのだ。本当にただそれだけのことなのだ。そしてただそれだけのことがぼくにとってはどうしようもないほど掛け替えの無いものになっていたのだった。
 そしてぼくは今まで抱くこともなかったひとつの目標を見つけた。

三、同じ世界で
「特別講習?今から?」
「はい。……ダメ、ですかね?」
「ダメってことはないが……」
 ぼくは昼休み、職員室で担任の高浜先生に相談をもちかけていた。
 高浜先生は若い数学の教師だった。年齢の割に落ち着いた物腰で、優しさと知性を兼ね備えた大人に思えた。生徒間ではその穏やかな態度に加えて授業内容もわかりやすいとの評判もあって、男女問わず生徒からの人望も厚かった。だからぼくも一学期も残りひと月を切ったこの時期に、進学組のための特別講習を受けることが可能かどうか相談に乗ってもらっていた。
 気のせいだろうか、ほんの一瞬だけど何かいいことを思いついた表情を浮かべたように見えた。
「まあ問題ないだろう。今日からでも受けてみるか?」
「はい。そうします」
 簡単に許可が下りて拍子抜けしたけれど、ぼくの一歩目の願望は叶えられて安堵した。
 そして放課後に指定されている教室へ向かうと、教室の前半分では席がまばらに埋まっていて座っている生徒たちはすでに何かの勉強に勤しんでいるようだった。一方で後ろ半分では崩して座って談笑しているグループがいくつかあったが、こちらの方はいつもの見慣れた光景だった。ぼくは誰も知っている人のいない教室の片隅で手持ち無沙汰のまましばらく待っていた。そうして高浜先生がやってきてぼくに向かって言った。
「桜井、ここ」
 そう言って指差したのは教壇の真ん前、誰も座ろうとしていない席だった。言われるまま席についたぼくに満足して、ぼくの隣の席の女子に言った。
「天城、桜井は教科書も持ってないので見せてやってくれないか?あと、前回までのノートも」
「……わかりました」
 ひと言、よく通る声でそう答えた女子の方をぼくは見た。天城と呼ばれた女子は縁なしの眼鏡をかけてさっきまで講習で使われるらしい教科書を読んでいた。正しい姿勢、端正な顔立ち、長いストレートのロングヘア。ぼくには縁が無さそうだけれど、この人はさぞ男子生徒にもてることだろうという印象だった。
「あ、どうも……」
 机を寄せて教科書を見せてくれた天城さんにぼくはそう答えることしかできなかった。
 今日行われた一時間半ほどの講習は数学だったけれど、何を説明されているのか全く理解できなかった。途中からの参加を差し引いたとしても、ぼくの理解の埒外だった。歴戦の格闘家に挑まなくていい戦いを挑んで一発でノックアウトされた気分のまま講習は続いていった。
「じゃあ、今日のところはここまで。何か質問はあるか?」
 高浜先生のその言葉でようやく講義は終わった。
「質問が無いなら終わりだ。訊きたいことがあれば今でなくてもいつでも職員室に来ればいいからな」
 そうして皆教科書と筆記用具を鞄にしまい始めたが、高浜先生は教室から出ようとせずに声をかけてきた。
「天城、桜井、職員室までちょっといいか?」
 そう言われて天城さんとぼくは高浜先生の後についていった。もしぼくにもう少し余裕があったなら、教室にいた他の生徒たちからの好奇心の混じった奇異な視線に気づいていたかもしれなかった。

「というわけだ。天城、桜井を頼めるか?」
 高浜先生は、入学以降何度かぼくが受けてきた小テストや中間試験の成績を全て天城さんに見せて、ぼくの現状−−つまるところぼくがいかに勉強ができないか−−を説明した後にそう言った。ぼくは試験の成績を気にしたこともなければ勉強ができないことに後ろめたさを感じることもなかったけれど、さすがにさっき会ったばかりの他人に洗いざらいぶちまけられると多少は恥じ入るところがあった。それでもそんなぼくを気にもとめず二人の話し合いは続いた。
「まあ無理なら別に構わないが。天城も何かと忙しいだろうしな」
 高浜先生は『無理なら』というところを少しだけ強調して言ったように思えた。天城さんはそのささやかな挑発に乗ったというわけではないと思うのだけど、応諾した。内心ではやれやれとでも思っていたかもしれない。ぼくだって出来の悪い自分自身を押し付けられたらやれやれだと思っただろう。
「……わかりました。責任は取れませんし、私のやりたいようにしても構いませんか?」
「おう、いいぞ。煮るなり焼くなり好きにしていいぞ」
 高浜先生は機嫌良く答えた。二人のやりとりの間、ぼくの意見が求められることは一切無かった。
 高浜先生は、今日は遅いから二人ともさっさと帰宅するようにと言い、講習で使う教科書の出版社と題名が書かれたメモをぼくに渡した。天城さんとぼくは職員室を出た後、改めて面と向かったけれどなんと言えばよかったのだろう。
「……ええと、とりあえずよろしくお願いします……天城……さん?」
「一年一組の天城リエだ。よろしく。四組の桜井ジュンくん」
 さっきのやりとりで天城さんはぼくのクラスまで把握していたようだった。
「私は『男なら男らしくしろ』とは言わないし言いたくもないが、キミはもう少し堂々とした方がいい」
 会ったばかりの人にそう言われるほどオドオドしていたのだろうか。自分ではそんなつもりは無かったのだけれど、そう言われたからにはそうした方がよかったのだろう。卑屈さをおくびにも出さないないようにと思いながら答えた。
「それなら、そうする。よろしく、天城さん」
 ほんの少しだけど突然態度を変えたので天城さんは表情を変えた。だけどそれは意外だと言う時に見せるもので、それも一瞬のことだった。そしてその後は満足げに言った。
「うん。素直なのはいい。気に入った」

 天城さんはぼくの勉強方針を家で考えてくると言って帰っていった。ぼくも普段より長くて疲れた学校生活を終え、ミキたちと過ごしていたいつもの公園へ向かった。
 日が長くなったとはいえあたりは夕闇が押し寄せてきた時間だった。さすがに今日はミキたちはいないかなと思いながらやはりいつのも東屋に向かうと、長椅子の上のジョンを枕にミキは静かに眠っていた。そしてミキの上にちょこんとエイミーが仲良く眠っていた。ミキとエイミーたちの寝姿につい頬が緩んでしまったのだけど、この場合どうするのがいいのだろうかとしばらく思い悩んだ。風邪を引いちゃいけないという当たり前だけど、大切なことにすぐ思い至ってミキたちを起こした。
「あれ?ジュンくん?あ、寝てたのか、私。おはよう」
 寝起きのぼんやりした表情で笑いながらミキは言った。
「おはよう、じゃないよ。風邪引くよ」
「だっていつまで待ってもジュンくんが来ないんだからキミが悪い。うん、私は悪くない」
 そう言い切るミキが面白かったのでぼくは軽く笑いながら謝った。
「ごめんごめん。放課後の特別講習を受けてきたんだ。今日受けられるか担任の先生に訊いてみたら早速今日からでも受けてみるといいって言われたから」
「ふうん。いきなりだね。で、なんでまた特別講習?」
「それは……まあ、今の成績じゃこの先思いやられるからね」
「それは自分で言うセリフじゃないなあ」
 そう言うミキにぼくたちは二人して笑った。
「それで、講習ってそんなに遅くまでやってるの?今日はもう来ないかと思ったよ」
「講義は一時間半ほどで終わるんだけど、今日はその後、職員室でいろいろあったんだよ」
「いろいろ?」
「まあ、どんな教科書を使うかとか、今後の勉強方針とか」
「そうね。ジュンくんの場合、今から応用を学ぶ前に基本的なことからやり直した方が遠回りに思えるかもしれないけど、案外近道ってものよ」
「うん、今日の講義でそんな気がした。だから多分基本から勉強することになると思う」
「それがいい。私が保証する。責任はジュンくんが取ることになるけど」
 そう言ってミキは笑い、ぼくも一緒になって笑った。
 わかっていた。どんなことになっても結局は自分が責任を負うことになるってことを。誰かに背負い込ませることなんてできやしないってことを。
「今日は遅いからもう帰ろうか。明日もまた来られる?」
「うん。講習のぶん一時間半くらい遅くなるけど来るよ」
 ぼくたちはまた会う約束をして家路についた。

 帰る途中も、夕食を作って食べている間も、夕食後ジョンの絵を描いている間も、ずっと考えていることがあった。ミキといる時間は楽しかった。それまではひとりぼっちの不安も孤独も寂しさも感じることは無かった。いや、感じていなかったのではなくて、それを認識できていなかったのだ。ミキと出会うことで楽しさを知り、ミキといる時間の貴重さを実感して初めて、ミキがいない時間の孤独や寂しさを身に沁みて感じるようになった。
 今は毎日放課後にミキと会えることで満足すべきなのだろうかと思った。だけどこの先は?ほんのひと時の幸福をぼくはもっと続きのあるものにしたかった。だけどそのために何をどうすればいいのかわからなかった。ただそのために自分にできることを精一杯するつもりだった。方法があるのならそのための努力を惜しむつもりは無かった。
 要するにぼくはミキと同じ大学に進学して、同じ時間を、同じ想いを共有できるようになりたかったのだ。

四、少女と少年と
 次の日の天気予報は雨を告げることは無く、実際天候は悪くなかった。今年は空梅雨だったのか、少なくともぼくの住んでいる地域ではほとんど雨は降らなかった。
 ぼくは昼休みには、雨の日は教室で一人で自分で作った弁当を食べていたけれど、それ以外の日は校庭でジョンとのんびり昼食をとっていた。もっとも周りからは一人で食べているようにしか見えなかったのだろうけれど。
 その日も校庭では何人かがいくつかのグループに別れて校庭で楽しげに昼食をとっていた。それを横目にぼくは校庭の片隅でいつものようにジョンと弁当を食べていた。するとジョンの存在には気づかないまま、ぼくを見据えて近づいてきた女子生徒が言った。
「探したよ。ここ、いいかな?」
 昨日会ったばかりの天城さんだった。断る理由も無かったぼくの隣に天城さんはハンカチを敷いて座り、二段重ねの弁当箱を広げて食べ始めた。天城さんの弁当箱は上品な造りで、どこにでも売っていそうなポリプロピレン製のそれとは違っていた。ただ大きさも普通の女子生徒の持っているようなものではなかった。食の細いぼくの弁当箱を二段重ねた量に相当していた。華奢な身体に似合わずよく食べるタイプのようだった。ぼくはいろいろと戸惑っていたけれど、天城さんは構わず食べていた。それでもぼくの視線に何か感じたのか尋ねてきた。
「何だ?言いたいことがあるなら言ってみるといい」
「いやあ、よく食べるんだなと思って……」
 無難に答えたつもりだったけれどもう少しマシな返答があったかもしれない。
「食べないと身体も頭も動かないし育たないからな。うん?キミはもっと食べたらどうだ?育ち盛りにその弁当箱の量じゃもたないだろう?」
「ぼくはこれで充分だよ。そんなに食欲が旺盛ってわけでもないし」
「ふうん……」
 ひと言そう口にした天城さんは納得したようには見えなかった。
「よし、じゃあこうしよう。お互いのおかずを交換するってやつだ。とりあえず卵焼きを一切れ貰えるかな?」
「それくらいなら、別に構わないけど」
 ぼくがそう答えると満足したように微笑みぼくの弁当箱に箸を伸ばした。その振る舞いにぼくは少しどぎまぎしたけど特に何かを言うことも、どうこうすることもできなかった。
「ふむ、これはなんというか……。これはキミが作った弁当かい?」
 ぼくの卵焼きを食べた天城さんは口を濁して言った。
「そうだけど……。どうしてそう思ったの?」
「キミは料理はできるようだけど、ちゃんと習ったわけではないようだね。なまじ料理ができてしまったからそれ以上はするつもりが無いというか……。まあ要するに基本的な味付けがなってないってことだよ」
 天城さんは悪気なく言ったけどそれは的を射ていた。
「仕方が無いよ」
 そう、仕方の無いことだった。誰かに教わることなんてできなかったのだ。力無く答えたぼくに天城さんは弁当箱を差し出して言った。
「まあそう気を落とすな。ほら次はキミの番だ。私の卵焼きを食べるんだ。私が作ったものだ。味は保証する」
「いいよ、別に。そんなにお腹が空いてるわけでもないし」
「よくない。交換だと言っただろう。とにかく食べてみるんだ」
 このまま押し問答しても埒が明かないと観念したぼくは天城さんの弁当箱の卵焼きを一切れ貰って食べた。そして自分の作っていたものがいかに味気無いものだったのかを初めて知った。
「……美味しい。美味しいよ、これ」
 ぼくの反応に気をよくした天城さんはさらに弁当箱を差し出す。
「なんなら他のも食べて構わないぞ。そうだな、この鮎の塩焼きはさらに美味しいぞ」
 天城さんの言葉通り彼女の弁当箱には鮎の塩焼きが二尾並んでいた。天城さんは素直さを好むということを昨日今日のやりとりでわかってきたので、ぼくは彼女の言葉に甘えて鮎を一尾頂くことにした。
「美味しい。本当に美味しいね」
 食に関わらず語彙の乏しいぼくはそれしか言葉にできなかったけれど、天城さんは満足したようだった。
「本来なら旬の鮎の焼きたてが一番美味しいけど、まあ贅沢は言ってられないな」
 そう言って優しく微笑む天城さんだったけれど、ぼくは奇妙に思えていた。どうしてぼくはこんなにも美味しい昼食を、男子生徒の誰もが羨むような美少女と食べているのだろうと。

「ふう……」
 昼食を終えてぼくはひと息ついた。結局ぼくは天城さんの厚意に甘えて天城さんの弁当の三割ほどを食べさせてもらった。いつもの一・五倍以上は食べただろうか。さすがにお腹が一杯だった。だけど初めて知った。誰かと食べる食事は、たとえ自分で作った出来のよくない弁当でも美味しく食べられるのだということを。食の細いぼくでも誰かと楽しく食べると想像以上の量を食べられることを。
 天城さんも水筒から注いだお茶を飲んでひと息ついていたところのようだった。ぼくはお互いの弁当を食べている間抱いていた疑問を口にした。
「どうしてここでご飯を?」
「昨日言っただろう、キミの勉強方針を帰宅して決めると。だけどその前に訊きたいことがあってね。四組の教室に向かう途中、校庭で独り弁当を広げようとしているキミを見かけたというわけさ」
 その言葉に天城さんもやっぱりジョンを見ることはできないのだとわかり落胆したけどぼくは表情に出さなかった。
「それでわざわざ校庭まで?」
「まあな。どうせ私も誰かと食べる相手はいないからな」
 少し意外なことを当たり前のように天城さんは言った。ごく自然に発せられた言葉だったのでぼくはそのまま流してしまった。けれど、天城さんはどこか人を寄せ付けない雰囲気のようなものを周りに感じさせている気がしたのでそれもわからないでもなかった。
「まあそれは些細なことだ。訊きたいのはキミの勉強の目的といったところかな」
「目的?」
「ああ、そうだ。何のために今からでも特別講習を受け始めたのか、何か目的があってのことだろう?」
 そう言われてぼくは少し躊躇した。今のぼくの成績でミキの通う難関大学へ進学したいと言うのはまるで夢物語だと思った。だけど、夢でもいいじゃないか、自分で決めたことなんだから誰かにどう思われたって構うものか。大げさだけれども意を決して、天城さんに進学先の大学名と物理学科を受験したいと告げた。
「ふむ、あそこはさすがに難易度が高いな。しかも物理学科か。数学と物理、化学と英語は必須だな」
 天城さんはぼくの大それた望みを笑うことも無く真剣に分析していた。
「大学名と学科名でそこまでわかるの?」
 ぼくは疑問を投げかけた。
「まあたいてい必須科目は決まっているからな。それに」
「それに?」
「受かった後だよ。物理学科なら数学と物理ができないと話にならないし、化学や英語もできるとできないとでは後々の苦労が大違いだ」
 天城さんは受かった後のことまで考えてくれていたようだ。気が早過ぎるとも思ったけど、ずっと先のことまで真剣に見据えて考えてくれて、これは足を向けて眠れないなと思った。
「しかし意外だな」
「え?」
「キミは文系科目がまだ得意な方だと思ったが」
「暗記するだけならまだ苦手じゃないんだけどね」
 そう言って苦笑するしかなかった。得意科目とは言い難かったからだ。
「まあ数学は公式を暗記すればいいってわけじゃないからな」
「そうそう、暗記してもどう使えばいいかわからないからどうにもならないんだ」
「基本的には数学は積み重ねだからな」
「積み重ね?」
「そう。極端な例えだが、足し算ができなければ引き算はできないし、足し算引き算ができなければかけ算割り算ができない。そうして前のことを理解しないまま次に進んでいくと、いずれどこかでつまずいて、つまずいたまま進むと気がつけばもう理解の範疇の外ってわけだ」
 なるほど、基本的なところでどこかでつまずいたままここまで来たから、昨日の数学の講義は全くの理解不能だったのかと思った。ミキの言った通り、基本からやり直した方がやっぱりよさそうだ。
「そこでだ。中学生の時の数学と理科と英語の教科書はまだ持っているかい?」
「捨ててはないと思うけど……」
「それならいい。明日持ってくるんだ。面倒かもしれないけど中学の辺りから一度勉強し直した方がいいと私は思うんだ」
「うん、ぼくも基本的なところからやり直した方が早そうだと自分でも思う」
 ぼくはそう答えて勉強方針は決まったかに思えた。だけど天城さんはさらに尋ねてきた。
「で、物理学科とのことだが、どうしてそこに決めたんだ?この先苦労も多いと思うぞ?」
「まあ新しいことを知るのが面白くなって来たというか……」
 曖昧な言い方だったけどこれは嘘ではなかった。ミキが教えてくれることにはいつも新鮮さを感じてもっと深く知りたくなるのだった。
「ふむ、まあそういうことならそれも充分な動機だな」
 天城さんは少し笑った。
「さっきも言ったように、数学、物理、化学、英語は外せないが、それ以外の科目はどうする?」
「どうするって?」
「極論だが、センター試験でそこそこの点を取れる程度の勉強で済ますという手もあるってことだよ」
「それは……ズルというか、勉強に対して不誠実じゃないの?」
「不誠実か、確かに不誠実だ」
 ぼくの言葉に天城さんは愉快そうだった。
「私が言ったのは受験対策の一つの手段だよ。それを好しとしないのならそれもいいさ。キミが不誠実だと思うのなら他の科目も精一杯勉強するといい」
「そうするよ。どこまでやれるかわからないけど、どの科目も手を抜くつもりはないよ」
「いい答えだ」
 天城さんは満足したようだった。
「さて、そろそろ昼休みも終わりそうだし、教室に戻るとするか」
 天城さんがそう言っていると昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り始めた。
「それじゃ、放課後にまた」
「うん」

 放課後、今日の講義の科目は世界史だった。これは聞いたことをそのまま覚えればいいだけなので昨日の数学のように全くの理解不能というわけでは無かった。ただ、時代の繋がり、人の繋がり、他の国との繋がり、いろんな繋がりがあることが説明されて、今まで講義に出ていなかったぶんだけ理解が途切れ途切れだった。
 講義の前に天城さんにもらったノートのコピーを読む暇は無かったけれど、それでもなんとか先生の話だけは頭に留めておくことはできた。
 講義の終了後、天城さんにノートのコピーのお礼を兼ねて声をかけようとすると、天城さんは急いで教科書や筆記用具を片付けていた。
「申し訳無い。今日は急いでいるんだ。明日は中学の時の教科書を持ってきてくれるかい?一年生のぶんでいいから」
「わかった。持ってくるよ」
 そうやり取りすると早々に天城さんは教室を後にした。
 高浜先生も言っていたように天城さんも何かと忙しいのだろうと思った。むしろ忙しい中、ぼくのために時間を割いてくれているのが少し申し訳なかったけれど、それは勉強して結果を出して返すほか無かった。

 そうしてぼくはといえばやはりいつもの公園に早足で向かっていた。ミキがきっと、いや、必ず待っている、そう思うとはやる気持ちを抑えられなかった。
 公園の東屋にたどり着くと、ミキとエイミーとジョンは昨日と全く同じだった。つまりジョンを枕にミキは静かに眠りエイミーがミキの上で小さく眠っていた。今日は昨日よりも早く着いたぶん日暮れにはもう少し時間があり肌寒さを感じることも無かったのでそのままにしておいた。そしてぼくはスケッチブックを取り出してミキたちの寝姿を描いていた。
 スケッチブックの上を走る鉛筆のかすかな音でも静かな公園では耳についたのだろうか、ミキたちはやがて目を覚まして、昨日とほとんど同じことを言った。
「あれ?また寝てたのね。おはよう、ジュンくん」
「おはよう」
 ぼくは笑いをかみ殺しながら答えた。
「何してたの?」
 そう言ってミキはぼくの持っていたスケッチブックを覗き込んだ。
「うわあ、上手い!ジュンくん、絵が上手いんだ!」
 八割がた完成していたスケッチを見てミキは自分の事のように嬉しそうに言った。
「そうかな?ありがとう。まあこれくらいしか取り柄がないんだけどね」
「立派な特技だよ。まるで絵の中の私たちが生きているみたい」
 ミキは目を輝かせて言った。
「でも、寝顔を描かれたのは不覚だったなあ」
 ミキは一瞬だけ頬を膨らませて不満を訴えたけれど、それもすぐに二人の笑い声に変わった。
「他にどんな絵を描いてるの?」
 ミキは興味津々に尋ねてきたけど、ぼくの答えは単純だった。
「どんな、って、ジョンの絵ばかりだよ」
 ぼくはそう答えてスケッチブックの遡ってめくっていきジョンを描いたページばかりを見せて言った。
「やっぱり上手いじゃない!」
 ミキはぼくの描いたジョンの絵を見てただ感心していたようだった。
「でもジョンちゃんの絵ばかりだね。他には描かないの」
「うん、気が向かないものは描かないし、強制されたものも描きたくないし」
「ふうん……じゃあさっきのは気が向いたから描いたの?」
「うん、なかなか絵になる寝姿だったからね」
 ぼくは笑って答えた。
「もう!どうせ描くならちゃんとしたの描いてよ」
「ちゃんとしたのって?」
「ほら、似顔絵とか?」
「ご希望とあらば描くよ」
「え?あ?あれ?そんなに簡単に描けるものなの?」
「うーん、人の似顔絵は描いたことないけど多分描けるよ」
「そうなんだ。じゃあ私はどうすればいい?描いてもらうのなんて初めて」
 ミキはそう言いながらいろいろとポーズをとろうとしていた。
「別にどうもしなくても大丈夫だよ。じっとしててもらう必要もないよ」
「そうなの?」
「うん。頭に焼き付いたのをそのままスケッチブックに落とし込むイメージかなあ」
「なあんだ、モデルになり損ねたなあ」
「モデルになりたかったんだ」
 笑いながらぼくは鉛筆を走らせていく。
「ねえ、描いてるところ、見ててもいい?気が散らない?」
 そう言ってミキはぼくのすぐ隣に座ってきた。ミキの息遣いが感じられそうなほどに。
「うん、大丈夫だよ」
 ぼくは鼓動が高鳴るのを感じたけれどそう答えた。
 ぼくの描くのは速い方だろうと思っていた。実際ゆっくり時間をかければそのぶんだけ上手くできるわけでもなかった。ただ気ままに、ただ自由に、何にも縛られずに心地よく描くことだけをいつも考えていた。
 そしてミキの似顔絵はすぐに完成した。隣で見ていたミキは完成した自分の絵を見て声にならない声を出して喜んでいた。本当に心から喜んでいたことがよくわかった。
「喜んでもらえてよかったよ。なんならそれあげるよ?」
「うーん……いいや、これはジュンくんが持ってて。その代わりじゃないけど……」
「じゃないけど?」
「今度はジュンくんと私とジョンちゃんとエイミーみんなを描いてよ。急がなくていいから」
「別に急がなくてもすぐに描けるよ」
「本当?」
「うん。さすがに今日はもう遅いので家に帰ってから描くけど、何か希望の構図とかある?」
「構図かあ。その辺は任せるよ。楽しそうな感じで」
「楽しそうな感じね。ふわっとしたお題だなあ」
 そう言って二人笑いながらまた明日会う約束をしてぼくたちは家路についた。だけどぼくはその後すぐに難題に直面することになった。
 ぼくは自分が楽しそうにしている姿を思い描くことがどうしてもできなかったのだった。

五、絵
 毎日ぼくは自分の顔を鏡の中に見出していた。だけどそれは楽しそうな表情とは無縁のものだった。
 家に帰る途中も、帰って夕食を作り食べて片付けをしている最中も、楽しく過ごしている自分の表情を頭の中にイメージすることができなかった。あれこれ思い悩んでも仕方が無いと考え、とりあえずスケッチブックに自分の顔を描き始めた。ミキの言うように楽しそうにしている自分を。
 だけど何枚描いてもそこにいるのは鏡に映る表情の乏しい自分の顔か、あるいは、空っぽの笑顔を貼り付けた自分のようでいて別人の姿だった。描いては破り捨てを繰り返して、ついには今までに経験したことのない疲労を感じ、もう限界だと思いスケッチブックを傍らに放り出した。
 ベッドに横になってぼんやり天井を眺めながら生まれて初めて考えていた。どうすれば上手く描けるのだろうかと。いや、正確には、どうしてぼくは楽しげに過ごしている自分を思い描けないのだろうかと。
 ミキといる時間はいつだって楽しかった。初めて見つけた幸福な時間だった。たった一つの心から大切にしたいと願う時間だった。だけどどうすればそれを自分の姿にして絵に描くことができるのか全くわからなかった。
「どうすればいいのかな、ミキちゃん……」
 そう呟いて目を閉じると、笑った顔も不満げな表情を浮かべた顔でさえもいつも楽しそうにしているミキの姿が浮かんできた。そしてぼくはすがるようにスケッチブックを開き今日描いたミキの絵を眺めた。ただそれだけで心の奥に何か温かいものが心に込み上げてくるのを感じた。そしてふと、机の上の鏡に目をやると気づいた。
「なんだ、そんなことなんだ……」
 ミキを思いながらスケッチブックの上に鉛筆を走らせた。ただ心のおもむくままに。さっき鏡に映った自分を思い出しながら。
 そうしてなんとか描き上げた絵はいつもの光景だった。公園の長椅子で二人が笑いあって、二匹が傍らでのんびりと過ごしている日常のそれだった。
 ミキはこの絵を見てどう言ってくれるだろうか。そんなことを考えながら心地よい疲労を感じながらぼくはその夜眠りに落ちていった。

 翌朝、登校して四組のクラスに向かうとそこには天城さんの姿があった。
「おはよう。キミはなかなかギリギリの時間まで登校してこないんだな」
「おはよう、天城さん。昨日はちょっと疲れてて今朝はほんの少し寝坊しただけだよ」
 笑いながら挨拶をしてきた天城さんにぼくはささやかな反抗の声をあげた。
「ふむ、まあいい。昨日は悪かったな。水曜日はどうしても予定が詰まっていてね」
「忙しそうだったけど、水曜日に何かあるの?」
「絵を習っているんだ。絵画教室があるんだよ、水曜日と土曜日の夕方は」
「絵を描くんだ。どんな絵?」
 率直に訊くぼくに天城さんは苦笑しながら答えた。
「いろいろさ。水彩画に油彩画、スケッチもすればイラストも描いたりした。ちょっと変わったものだと水墨画も。まあどれもひと通りは習った」
 ひと通りと軽く言ったけれど、なんとなく、天城さんのことだからきっと納得いくまでやり尽くしたに違いないと思った。
「すごいね」
 ぼくはただ感心してそう言ったけれど、天城さんはそれほど気にかけてなかったようだった。
「まあ私の絵の話はこの際どうでもいい。今朝からキミを待っていたのは昨日言った通り中学の時の教科書を持ってきたか聞きたかったんだよ」
「あ、それならここに……」
 そう言いながらぼくは鞄からそれらを取り出した。
「とりあえず数学をちょっと借りるぞ」
「どうするの?」
「なに、簡単な章末問題を作るだけだ。教科書に載っているやつは、一応は一度解いたことのある問題だろうからな」
「ふうん……」
「人ごとのような返事をするな、キミが解くんだぞ」
 そういうやり取りをしていると予鈴が鳴り始めた。
「まあ、続きは昼休みだな」
 そう言って天城さんは一組の教室に向かっていった。

 昼休み、昨日と同じように校庭でぼくは天城さんと弁当を食べていた。昨日と同じようにいくつものおかずをおすそ分けしてもらっていた。
「教科書は返しておくよ。面倒だろうけれど最初から読んでいって、章末問題は私が作ったのを解くんだ」
「普通に教科書に載ってあるのを解いたんじゃダメなのかな?」
「教科書に沿った内容をどれだけ理解できているのか、初見でどれだけ解けるかを知りたいんだ」
「そのためにわざわざ問題を作ってくれたんだ。ありがとう。でもさ、パッと済むような勉強方法って無いものなの?」
「無い」
 にべも無く天城さんは答えた。
「学問に王道無しと言うからな。万人に通用する勉強方法なんて無いんだよ。私が私に通用する勉強方法を見つけたように、キミはキミに合った勉強方法を自分で見出さないといけない。少なくともそれができないとキミの志望校を目指すのは無理があると言える」
「ぼくなりの勉強方法かあ。見つけられるかな……」
「まあ深く考えることは無い。いろいろ試してみればいいさ」
 そう言って天城さんは自分の勉強方法を教えてくれた。
 各教科について軽く説明した後で天城さんは言った。
「今説明したのは一例だよ。なにもその通りしなくちゃいけないってわけでもない。さっきも言ったようにキミなりの方法を見つければそれでいいんだよ」
「そんなこと言われてもなあ……」
 途方に暮れているぼくに天城さんは気軽に言ってきた。
「まあとりあえず今は中学の復習から始めればいいさ」
 そうしているうちに昼休みは終わった。

 放課後の講習が終わり、中学から復習をするように天城さんに仰せつかるとぼくはいつものように公園に向かった。
 公園ではミキが待ち遠しそうにしていた。少なくともぼくにはそう見えた。
「昨日言ってた絵なんだけどさ」
「うん!」
 瞳を輝かせながらミキが答えた。
「一応は描けたけど……どうかな?」
 ミキの期待を裏切らないかと不安になりながら絵を見せた。
「うん。これこれ、こういうのが見たかったの。いつものジュンくんと私たちだ」
 ミキは本当に嬉しそうにそう言った。
「これ、貰ってもいい?」
「もちろん。そのために描いたんだから」
「ありがと」
 心から喜んでくれていると不思議と確信できて、それまでの不安が嘘のように消え去った。
 ミキは放っておけばずっとその絵を眺めていそうだった。ぼくは内心安堵していたけれど決して表には出さず、ただ幸せそうにしているミキを眺めていた。ぼくの視線にミキが気づくと、スケッチブックから切り離したその絵を折りたたみそれは大切そうに鞄にしまい込んだ。
 そしてミキといつも通りの何気無い、だけど貴重な時間を過ごして一日が終わった。
 入学時とは違った日常、朝は天城さんと話をして昼は一緒に弁当を食べて、講習を終えた後はミキと楽しい時間を過ごす日々が始まったのだった。

 土曜日の朝、ぼくが朝食と弁当を作っていると父が起きて訊いてきた。
「ん?今日は土曜日だぞ。学校があるのか?」
「うん。進学のための特別講習を受けるから土曜日も登校することになったんだよ」
「そうか。まあ無理はするなよ」
 ぼくは朝食もそこそこに済ませて急いで学校に向かおうとしていた。遅くなるとまた天城さんになんて言われるだろうか。
「あ、これ。今週のぶん」
 そう言ってぼくが描いたジョンの絵を父に渡して家を出た。

 父は仕事の都合上、土曜日が休日だった。尋ねたことは無いのでどんな仕事をしているのかは詳しく知らなかったけれど、大学を卒業後しばらくして学生時代の友人たちと起業したらしかった。
 ぼくがまだまだ幼かった頃、つまりまだ母が存命だった頃は、事業は軌道に乗るかどうかの瀬戸際だったらしい。難病を抱えた母の治療費を稼ぐためもあって毎日文字通り駆けずり回っていたと後になって聞いた。
 父は母との結婚を親戚達に反対されていたらしかった。
 交通事故で亡くなった祖父母の葬式の時には絶縁されたのになぜ来たのかと親戚達に詰問されていた。父は母の治療費のために方々に頭を下げて借金をしていたらしく、それが目に余ったとされ絶縁されていたのだった。
 母は昔から身体が弱く父との結婚の段階になって発病したらしかった。父は周囲の反対を押しのけて母と結婚し、母はぼくを妊娠した時も母体の危険を案じて中絶するように勧められたがそれにも反対してぼくを産んでくれた。
 難病の母の治療費、とは言っていたけれど、実際には延命のためのお金だった。後になって父は言ったのだった。お金で母の命が一日でも延びるのなら安いものだったと。
 母の死後も家計のことについて父は一度も語らなかったので、うちがどういう経済状態なのか全くわからなかったけれど、相変わらず父は休日の土曜日以外は朝早くから夜遅くまで働きづめだった。ただ休日の土曜日にはその週にぼくが描いた絵を見せてくれと頼まれていた。

 土曜日の講習は午前で終わるものだったけれど、昼食後は天城さんに勉強を教えてもらっていた。天城さんも土曜日の夕方は絵画教室があるからとそれも遅くまで続くわけではなかった。
 そう言えば土曜日に公園に来たことは無かったと帰宅中に思った。だけどもしかしたら会えるかもしれないと淡い期待を抱きながらいつもの東屋に向かうとそこにミキはいた。穏やかな日だったせいなのかミキは眠そうだった。ぼく達が長椅子に腰掛けているとミキはぼくにもたれかかって眠っていた。ぼくはミキを膝枕してエイミーとジョンに静かにしているようにと口に人差し指を当てた。その時ぼくは人の頭がこんなにも温かいものだと初めて知り、その温もりを決して忘れないと心に誓った。
 結局その日ミキは夕方までぼくの膝枕で気持ち良さそうに眠っていた。ぼくも膝枕のままいつの間にか眠っていて、その日ミキと別れ帰宅した頃には辺りはすっかり暗くなっていた。

 土曜日なのに珍しく家の明かりはついていないように外からは見えた。不在なのだろうかと父の部屋へ向かうと薄明かりが漏れていた。軽くノックをして父の部屋を覗くと父もまた穏やかな表情で居眠りをしていた。今朝父に渡したジョンの絵を部屋中に並べて幸せそうに。
「父さん、風邪ひくよ」
 そう言って父を起こした。
「ん?ああ、ジュンか。おかえり、遅かったな」
「ごめん」
「いや、別に謝ることじゃないさ。珍しいなと思っただけだよ」
 父はいつも通り落ち着いた態度で語りかけてきた。
「さて、たまには出前でも取るか。こんな時間から夕食を作るのもお互い大変だしな」
 部屋中に並べたジョンの絵を照れ臭そうに片付けながら父は言った。
 父と食事をするのは土曜日だけだった。食事も日頃仕事に明け暮れて疲れているだろう父を気遣ってぼくが用意していた。だけどその日は珍しく出前をとり、予想していたよりも早く届いたそれを父と一緒に食べていた。
「しかし特別講習ってのはこんな時間までやってるのか?大変だな」
「ううん、それは午前で終わりだけど、その後は友達に勉強を教えてもらっていたんだ」
「そうか。まあ無理はするなよ。それよりなんでまた講習なんか受ける気になったんだ?」
 そう問いかけてきた父にぼくは正直に受験したい大学名と学科を答えた。
「ふむ。あそこは難関大だぞ。今の学力でどうにかなりそうか?」
「それは……やってみないとわからないよ」
「ははは、やってみたいとわからないか。それもそうだ」
 父は穏やかに笑って答えた。そんな父に改めて訊いてみた。
「うちの経済状況はどうなの?」
「経済状況って、ジュンはそんなこと心配してるのか。父さんを甘く見るなよ。お前を大学に行かせるくらいは普通に稼いでみせるさ」
「父さんこそ無理してない?」
「ああ、さすがに美大となると学費がすごいことになりそうな気がするが、まあそれはこの際問題じゃない。お前はやりたいことをやりたいだけやればいいさ。そのために働くのはむしろやりがいがあるってものだよ」
 父は優しく諭すように言ってのけた。
「しかし、父さんはてっきりジュンは大学に行くのなら美大だとばかり思ってたよ。ところで、物理学科って何をするところなんだい?」
 父もまたぼくが以前抱いていた疑問を口にしたのだった。

五、絵と勉強と
 七月の期末試験の二週間ほど前の土曜日、ぼくは講習の代わりに模試を受けていた。正確には特別講習を受けている人全員が模試を受けていたのだった。ぼくのクラスは模試なんてものは今まで無く、試験といえば中間試験と期末試験だけのはずだった。だけど進学組、つまり特別講習を受けている人たちは皆定期的に模試を受けて、あるいは受けさせられていたらしい。
 試験結果が返ってくるまでにはそれほど日数はかからなかった。そして返ってきた結果はいつも通りだった。いつも通り低空飛行すぎて我ながら哀れなものだった。
「まあ、そう気を落とすな。何事も実を結ぶには時間がかかるというものだ」
 天城さんは前向きに励ましてくれた。
「時間がかかるって、どれくらい?」
「それは答えようのない質問だな」
 ぼくの半ば自暴自棄な質問に天城さんは苦笑して答えた。
「そういえば天城さんの方はどうだったの?」
「なんだ、私のを見たいのか?別に構わないぞ。ほら」
 そう言って差し出された試験結果の用紙を見るとぼくは感嘆した。今までにぼくが取ったことの無い点数と見たことも無い偏差値が叩き出されていて、志望校も当然のごとく全てがA判定だった。
「すごいね……」
 ぼくはそう言うしかなかったけれど、天城さんはぼくの言葉に納得してないところがあったようだ。
「キミはもう少し現国の勉強をして語彙を増やすべきだな」
 痛いところを突かれてぼくは言葉に詰まったけれど、疑問をぶつけてみた。
「語彙を増やすって具体的にどうすればいいの?」
「まあ、手っ取り早いのは文章を読むことだな。小説でも新聞でもなんでもいい」
「うーん、そう言うのあまり興味が湧かないんだよね……」
「例えば小説だが、何も昔の文学作品を読めってわけでもないさ。興味があるならなんでもいいんだよ」
「天城さんはどんな本を読むの?」
「いろいろさ。文学作品や流行りの小説を読むこともあれば、いわゆるラノベってやつも読むよ」
 最後のラノベは意外だった。
「ラノベでも良いの?」
「うーん、まあ物によりけりだな。質の良い文章ならなんでも読むと良いが、悪いものは読まない方がマシかもしれない」
「ふうん。それはどうやって見分けてるの?」
「それは実際に読んでみてだな。たまにあるんだよ、悪い意味での時間泥棒の本ってのは」
 穏やかにけなしながら言う天城さんは珍しかった。
「まあ読む気があれば私の持ってる本を貸してあげるよ」
「ありがとう。でも、ぼくに余裕ができたらでいいよ」
 これ以上勉強以外に何かを背負い込むのは自分のキャパオーバーな気がしてぼくは辞退しておいた。

 期末試験も終わって後は夏休みだという期間に入った。この時期は皆開放感に浮かれていたように思えた。実際には夏休みも講習はあって天城さんもぼくも相変わらず一学期と同じような夏休みを過ごすことになっていた。そんな時期にもいつものように昼休みはぼくは天城さんと校庭で昼食を食べていた。だけど天城さんの様子はいつもと少し違って見えた。
「天城さん、疲れてる?」
「うん?普段通りのつもりだが、そんなに疲れて見えたかい?」
「そんなに、ってほどでもないけどいつもよりは疲れて見えるよ」
「キミはよく見ているな。確かに私は最近ちょっと疲れ気味だ」
「……何かあったの?」
 訊いていいものか迷いながらも尋ねてみた。
「まあちょっと絵の方で行き詰っていることがあってね」
「そうなんだ」
「ああ。若手のための絵画振興会が主宰する展覧会があってだな、そのための絵をどうするか悩んでいるところだ。いや、この際はっきり言うと一体何を描いたものかいう状況だ」
「それはどうしても描かないといけないものなの?」
「そう、どうしてもだ。私は成績上位と大学進学を条件に絵を続けるのを親に許可されているが、賞をとって結果を出さないとそれも取り消されかねない」
「ふうん、それは厳しいね」
 どうやらうちの父とは正反対の親御さんのようだった。
「ぼくは描きたい絵だけを描いているからそう言うのよくわからないなあ」
「キミも絵を描くのか?聞いてないぞ?」
 意外そうな声で天城さんは訊いてきた。
「言ってなかったっけ?まあ絵って言ってもスケッチブックに気楽に鉛筆を走らせてるだけだよ」
「そうか一度キミの絵を見てみたものだな」
「あ、良いよ。スケッチブックなら鞄の中にいつも入れてあるから」
 ぼくはそう言って鞄の中からジョンの絵を描いているスケッチブックを取り出して天城さんに渡した。天城さんは半ば愉快そうにスケッチブックを開いて見始めたけど、その表情はすぐに真剣なものに変わった。一ページずつ何かを見つけるように、何一つ見落とさないように、そんな風に見ているように思えた。そして昨日の夜に描いたページを見終えると真剣な表情のまま訊いてきた。
「どうして犬の絵ばかりなんだ?」
「どうして、ってそれがぼくの描きたい絵だからだよ」
「キミの絵は本当に生命感や躍動感に溢れている。正直に言うと衝撃を受けたよ。こんなにもスケッチから命の鼓動を感じるとは、と」
「大げさだよ」
「もう一つ訊いて良いか?」
「うん?何?」
「キミは何を考えながらこの絵を描いているんだ?」
「何を考えながらって……ただ思いのままに描いてるだけだよ。自由に、何にも縛られないように、かな。って答えになってるかな」
「なるほど、思いのままに、自由に、か。充分な答えだよ。本当に参考になった。ありがとう」
「何がどう参考になったのかよくわからないけど、役に立ったのなら幸いだよ」
 本当に何が参考になったのかわからなかったけれど、天城さんに少しだけでも元気が戻ったのならそれは本当に喜ばしかった。
 天城さんは見終えたスケッチブックをぼくに手渡そうとしていた。すると折りたたまれた紙片がスケッチブックの間からこぼれ落ちた。天城さんがそれを拾って広げて眺めるとそれまで真剣だった表情が柔和なものに変わった。そして悪童のような眼差しを向けて言ってきた。
「犬の絵ばかりだと思っていたが、こういう絵も描くんだな。で、これは一体誰なんだい?」
 それは初めて描いたミキの絵だった。ぼくは心臓が飛び出しそうになりながら、どぎまぎして答えた。
「誰って……友達だよ。そう、友達」
「ふうん、友達、ね。キミがそう言うのなら、そうなんだろうな」
 愉快そうに天城さんは言った。悪童めいた表情でも、天城さんは美しかった。

 翌日の昼食の時にも天城さんはまだ疲れているように見えた。ただそれも昨日までのどこか思い詰めたようなものではなかったようだ。
「天城さん。まだ疲れが見えているけど」
「そうか、さすがにキミの目は誤魔化せないな」
 疲れた表情でも軽く微笑みながら天城さんは答えた。
「まあ、昨日で何を描くかを決めて早速描き始めたんだ。今まで散々思い悩んで決められなかったぶん締め切りに余裕が無いってところだ」
 天城さんがそう言うのなら本当に余裕が無いのだろうと思った。
「それは大変だけど、無理しないでね」
「無理しないで、か。さすがにそれは無理な注文だな」
 自分の言い回しに自分で笑いながら天城さんは言った。
「ここが踏ん張りどころってやつだ。多少の無理はするさ。それに」
「それに?」
「筆が進むんだよ、今までに無かったくらいに。キミの言ってた通り思いのままに描くのは楽しいものだ」
「そんなに楽しいんだ」
「ん?キミは楽しくて描いてたんじゃなかったのかい?」
「ぼくは……どう言えばいいのかな、描くのがごく自然の当たり前の行為っていうか……例えるなら息をするように描いてきたから」
「はは、息をするように絵を描いてきたって言うのか。全くキミは面白い」
 天城さんは心底感心しているようだった。そう言われるとぼくは少しばかり恥ずかしい気分になったけど、気にしないことにして訊いた。
「で、何を描いてるの?」
「それは、秘密ってもんだ。完成したら見せるよ」
「まあ未完のものは見せたくはないよね」
「そんなところだ」
 そう言ってぼくたちはいつもの笑って過ごす昼休みを取り戻していた。

 夏休み、ぼくたちは相変わらず登校して午前中は講習を受けていた。講習が終わると天城さんは締め切りまでに絵を完成させないといけないからと、早々と帰宅して絵に専念していた。ぼくはと言えば午後はしばらく自習をしてからいつもの公園でミキと逢っていた。
 ミキも相変わらずよくぼくの膝枕で寝ていた。暑くないのかなとさすがに夏休みの季節には思ったけれど、気持ち良さそうに眠っているミキを見ているとそんなことはどうでもよかった。そしてエイミーもミキと変わらず飽きずによく寝て過ごしていた。
 ぼくはそんな穏やかな時間が随分と久しぶりに感じていた。ミキと出会うまではジョンの絵を描く以外の時間はただぼんやりと過ごしていたけど、ミキと出会って同じ大学に進みたいと決めてからは忙しい毎日だったように思う。それは楽ではなかったけれど、決して苦痛な日々ではなかった。こう言うのが、やりがいってやつなのかなとぼんやりと考えていた。そんなとりとめのないことを考えていつのまにかぼくも寝入っていたようだ。そのまま夕方頃にミキと目を覚ましてお互い寝起きの表情でおはようと挨拶をして笑っていた。
 そしてある日の朝、学校で講習を受ける前に天城さんは機嫌よく言った。
「やっと絵が完成して提出してきたよ。締め切りぎりぎりだ。完成したら絵を見せる約束だったけれど、申し訳無い。その余裕も無かったんだ」
「いいよ、それくらい。また今度見せてもらえれば。それよりおめでとう。間に合って本当によかったよ」
 ぼくの勉強を見ることが天城さんの負担になってないかと心配でもあったので、ぼくは心から安堵した。
「それより絵の出来はどうなの?その様子だとかなりよさそうだけど」
「うん?そんな顔をしていたかな?まあいい。確かにキミの言う通り私が納得いくものが描けた。大満足だよ」
「へえ、それは何より。入賞も狙えそう?」
「そればかりはなんとも言えないな。私が決めることじゃないからな」
「それもそうだね」
 昨日まで必死に描いていたであろう天城さんをどうすればねぎらうことができるのか、ぼくにはわからなかったけれどいつも通りの会話で和むことができたならと思っていた。
 翌日からは天城さんは普段通りの元気さを取り戻し、昨日までの疲れはどこかへ行ったようだった。そして午後は自習から天城さんの個人的な家庭教師にぼくはしごかれることになった。
「天城さん、ちょっと厳しくない?」
 ぼくが軽く不平を鳴らすと天城さんは理不尽なことを冗談めかして言った。
「何を言う。私が昨日まで苦労してきたんだ。キミも勉強で苦労しないと割りに合わないぞ」
「でも、それっておかしくない?自分が苦労したんだから他人も苦労しろっていうの、そんなの誰も幸せになれないじゃない」
「ふむ。確かにその通りだな。キミは時々確信を突くようなことを言う。まあ私の言ったのは全くの冗談だよ。単にのんびりしてたんじゃ間に合わないかもしれないぞってことだよ」
「なるほどね。確かにのんびりしてて間に合わなかったら元も子もない」
 そんな風にぼくはいつの間にか一年生の夏休みから受験に向けて必死に勉強する生徒になっていた。

 お盆期間はさすがに講習は無かったけれど、その後はやはり再開して勉強に明け暮れることになった。
 そしてある日の講習が終わった時、高浜先生が真剣な表情でぼくたちに言ってきた。
「天城、桜井、ちょっと職員室まで来るように」
 二人して呼ばれてなんのことだろうと思って天城さんの方を見ると、天城さんは予期していたことだという様子だった。
 職員室で高浜先生はいたって真剣に天城さんに言った。
「この際、ずばり訊くが、天城、桜井の勉強を見るのは負担じゃないか?」
「全く負担じゃないです」
 きっぱりと天城さんは答えた。
「無理しなくてもいいんだぞ。何もお前が全部背負い込むことはないんだから」
「高浜先生、何が言いたいかはっきりしてくれませんか?」
「ふむ、天城がそういうなら包み隠さず言うが、先日美術の堀江先生に聞いたんだ。お前の絵が展覧会で選考落ちしたってことを。桜井の勉強を押し付けて悪かったと先生は思っているんだよ」
「そのことは桜井くんの勉強のこととは全く関係ないです。仮にもし桜井くんの勉強を見た程度で選考落ちしたというのなら、私の絵の才能もそれまでだったというだけのことです。この先やっていけるはずもなく、惜しむところは何もないです」
 きっぱりと天城さんは言ってのけた。
「しかしなあ、天城……」
 高浜先生はどう言ったものか思いあぐねていたようだった。
「まあまあ高浜先生、そう思い詰めなくても」
 そう言ってきたのはまだまだ若く教師の枠の中で存分におしゃれに着飾った先生だった。
「あ、堀江先生。しかし天城のことは私にも責任が」
「先生はそう仰るかもしれませんけれど、あの絵は本当に素晴らしい物だと私は思いましたよ。ただ展覧会向けとは言えなかったかもしれないだけで」
「はあ、私は絵のことはさっぱりなもので」
 うら若い堀江先生にたしなめられている高浜先生は少し緊張しているようにも見えたけれどそれはどうでもよかった。ぼくのせいで天城さんの絵がダメになったのだとすればぼくはどうしたらいいのだろうとずっと考えていた。だけど何も思いつかずただ後悔に似た何かが重くのしかかっていた。
「とにかく、私は今まで通り私の思いのままに絵を描き続けます。些細な仕事が増えたところで負担にもなりませんし、何も変わることは無いです」
「ふむ、天城がそう言うのならまあそれでいいんだが……」
「そうですよ高浜先生、生徒にとっても何事も経験ですよ」
「そんなものですかね」
「そんなものです」
 そんな風にして奇妙な四者会談は終わった。
 解放された後、ぼくは天城さんに尋ねた。
「展覧会の絵、選考落ちしたってぼくのせい?」
「どうしてキミが落ち込んでいるんだ。言っただろう?そのこととキミとは全く関係無いと」
「だけど……」
「私もはっきり言うよ。キミには感謝しているよ。ありがとう」
「え?」
「選考落ちしたって言うけど、あの絵は私にとっては本当に満足いくものが描けたのだったんだ。それもキミがヒントをくれたからだよ」
 天城さんは微笑んで言った。
「ヒント?」
「キミは言っただろう。思いのままに描いていると。私も思いのままに描いてみたのさ。だからさ、キミが罪悪感を感じることは微塵もないことなんだよ、これは」
 そう言って天城さんは今までに見せたことのない優しい表情をした。天城さんは嘘をつかない。だからきっとそれは本心からのことだと思った。
「そこまで言える絵なら見てみたいなあ」
「ああ、そうだった。見せる約束だったな。今から見るかい」
「今見られるの?」
「ああ、今日はその絵を持ってきているから。さっきの堀江先生がまたその絵を見たいって言ったので、美術室に置いてある。まあ展覧会に応募する前にも見せたはずなんだけどな」
 天城さんとぼくは自習室に向かいながらそんな会話をしていた。
「でもいいの?今日の勉強は」
「構わないさ。キミは今学校がどういう状況か理解しているのかい?」
「うん?どういうこと?」
「夏休みってことさ。一日くらい勉強を休んだっていいってことさ」
「この間と言ってることが正反対だなあ」
 そう言って二人笑いながら自習室へ向かう足を美術室へと変えた。
 美術室では数人の女子生徒が談笑しているのが外からもはっきりとわかった。だけど天城さんが扉を開けて入ると途端に静まり返り誰ともなくもう帰ろうかと言い出して美術室から出ていった。天城さんはここでも孤高の存在のようだったけれど、ぼくにはそれがよくない傾向のように思えた。ぼくと違って天城さんは孤立するべき理由なんてないはずだった。誰とでもとは言わないけど、ぼく以外の誰かと打ち解けたり、それこそ絵のことについて語り合う相手がいてもいいと思った。もっと豊かな生き方があるはずなのにと。そんなことを考えながら美術室のロッカーに向かって歩く天城さんの後についていった。そして天城さんは鞄から鍵を取り出してロッカーを開けて中を覗いた。そして、それまで上機嫌だった天城さんは一瞬何が起きたのかわからないと言った表情を浮かべ、次の瞬間には顔面を蒼白にしながら小さく呟いた。
「絵が……無い」

六、絵の行方
「……どうして。ちゃんとここに仕舞っておいたのに。鍵もかけておいた。それなのになぜ」
 天城さんは今までになく狼狽しながら言った。
「天城さん、落ち着いて。どうしたの?」
「絵が、絵が無いんだ。今朝大き目のトートバッグに入れて持ってきた絵が。ロッカーに入れておいたはずの絵が」
 普段の勝気な天城さんはどこへ行ったのか、今にも泣き出しそうな表情のまま天城さんは答えた。ぼくはロッカーを覗き込んだけど、確かにそこに絵は無かった。
「天城さん、絵は確かに今朝ここに入れたんだね?」
「ああ。確かに入れておいた。さっきもちゃんと鍵はかかっていた。でもどこにも無いんだ……。あの絵だけは、あの絵だけは失くしてはいけないものなのに……」
 天城さんは鼻をすすりながらその場にへたり込んだ。
 ぼくはどうすれば良かったのだろうか。どうにかなるかはわからなかった。ただ、今はどうにかなると信じてこうするしかなかった。
(ジョン!来れるか?)
 心の中でそう呟くと、どういう仕組みかぼくにもわからなかったけど、廊下から美術室へとジョンが入ってきた。そしてへたり込んで途方に暮れている天城さんの匂いを嗅いでいた。当然といえば当然だが天城さんは気づかなかった。そしてジョンは匂いを辿りながら廊下へと駆け出していった。
「天城さん、立てる?こっちへ」
 ぼくは天城さんの手を取って立ち上がらせるとジョンの後を追いかけていった。天城さんは力なくついてきているのが握りしめた手から伝わってきた。ジョンが匂いを辿っていく速度は早歩きでどうにか追いつけるものだった。ジョンは迷うことなく進んでいき、校舎から出ていった。ぼくたちは靴に履き替えて追いかけていったけれど、ジョンの向かう先からは悪い予感しかしてこなかった。その方角にあるものは校内のゴミの集積場だった。
 天城さんは諦めて歩みを止めようとしたけれどぼくは決して手を離さずジョンの後についていった。夏休みにはいつ業者がゴミを収集していくのか知らなかったけれど、集積場には何も無かった。文字通り塵ひとつ無かったのだった。
「ああ……」
 天城さんは悲嘆に暮れて呟いたけれど、ジョンは歩みを止めなかった。そして集積場を通り越してしばらく歩いていった先には古ぼけた用具入れのような小さな建物があった。そこは鍵がかかってなかったので扉を開けるとジョンは入っていって部屋の片隅へと駆けていった。
「天城さん、これ」
 ぼくはそう言って部屋の片隅でジョンが見つけたトートバッグを天城さんに渡した。薄暗い小屋の中、扉の外から差し込む光から部屋の埃が舞っているのが見えた。天城さんはその光の中でトートバッグから布に包まれていたキャンバスを見出し安堵して泣き出した。
「よかった……」
 それだけ呟いてそれほど大きくはないキャンバスを抱え込んだ。ぼくはどうにかなったことがただ嬉しかった、本当に。だけどそれで終わりではなかった。ジョンは傍らで軽く吠えるとトートバッグの匂いを嗅いでまた匂いを辿り始めた。
「天城さん、ついてこれる?」
 涙を拭い天城さんはただただ不思議そうにしていたけれど、ぼくが真剣に尋ねると小さく頷いた。そしてジョンの後を追いかけるぼくについてきた。ジョンは今まで来た道をそっくりそのまま引き返して行った。そうして辿り着いたのは……美術室だった。
 美術室に入るとそこでは堀江先生が片付けをしていた。
「あらどうしたの?あなたはさっきの、桜井くんね。それと、天城さん。二人して」
 堀江先生はぼくの顔を見てそう言った後、片付けの作業に戻っていた。
「堀江先生ですね、天城さんの絵を捨てようとしたのは」
 ぼくがそう言うと後ろで天城さんが息を呑む気配がした。
「まあ、何を言っているの?突然」
「とぼけないでください。全部わかっているんですよ」
 ぼく以外には見えていないけれど堀江先生の傍らにはジョンが座っていた。それがぼくの確信だった。
「何を言っているのか本当にわからないけど、先生に言いがかりをつけるものじゃないですよ」
「言いがかりじゃありません。先生は鍵のかかった天城さんのロッカーから合鍵を使って絵を取り出して捨てようとした。だけど捨てられなかった」
「いい加減にしないと先生は本当に怒りますよ」
「なら、なぜ」
 ぼくは生まれて初めて激昂するような感覚を覚えた。だけど努めて冷静さを保とうとしていた。
「なら、なぜさっきから天城さんの方を見ようとしないんです?」
「それは……」
「天城さん、絵を」
 そう言って天城さんから絵を受け取って、答えずにいた堀江先生に見せつけた。見つけられるはずの無い絵を見せつけられて、堀江先生の顔面は蒼白になりただ言葉に詰まっていた。何かを言い返そうとしていたようだったけれど何も言えずにいた。長い沈黙だった。だけど次の瞬間には何かが弾けたように堰を切って話し始めた。
「そうよ。私が捨てようとしたのよ。でも悪いのは天城さんじゃない。散々世話をかけさせておいて選考落ちだなんて。私が忙しい時間を割いてまでした苦労はなんだったのよ!あなたさえ入賞していれば私の功績にもなって来年は臨時講師なんかじゃなくて正式採用だったはずなのに。そうよ、全部あなたたちが悪いのよ!」
 言いたいことを吐き出した堀江先生はその場でただ嗚咽していた。それを見かねたのか天城さんは言った。
「もういい。桜井クン、もう行こう」
 天城さんはその場から立ち去ろうとしていた。だけどぼくはもう一つだけ訊いておきたかった。
「堀江先生。どうして絵を捨てずにあの部屋の中に置いていたんです?痛まないように傷つかないようにして」
 そう問いかけると堀江先生は怯えた表情をして答えた。
「だって……捨てられるはずないじゃない。その絵を。そんな幸福そうな絵を」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せまいと俯いたままの堀江先生を見るのはぼくも辛かった。
「わかりました。失礼します。行こう、天城さん」
 そう言ってぼくたちは美術室を後にした。天城さんとぼくはしばらく無言で廊下を歩いていたけれど、ひと気のない教室の前で天城さんは訊いてきた。
「なあ、桜井クン。どうしてキミは絵のありかがわかったんだ?それだけじゃない犯人が堀江先生だってことも」
 それは予想していた質問だった。
「キミを疑っているわけじゃないんだ。ただ不思議なだけなんだ。私は今朝絵をロッカーにしまって鍵をかけた後教室でキミと会った。それからずっと一緒に講習を受けて高浜先生に呼ばれた。キミには絵のことを話してなかったし、知りようもないことなんだ。それなのにどうしてわかったんだ?」
「……それは……」
 天城さんが当然抱いた疑問に対してどう答えれば良かったのだろうか。ぼくにはどう答えるのが一番なのかわからなかった。ジョンのことを話せはよかった?天城さんには見ることも触れることもできない存在のことを?
「それは……いつか、きっと話すよ。それじゃダメかな?」
 いつかジョンのことを話せる時が来るのだろうか。その時が来たならどんなに幸福なことだろうかと考えていた。
「……そうか、キミがそう言うのなら、いつか話してくれるのだろう。今はそれで充分だよ」
 天城さんは腑に落ちない顔をしながらもぼくを信頼してくれている言葉を口にした。今のところはぼくも天城さんもそれで満足するしかなかったのだった。
「よし、ならとりあえずお昼ご飯を食べよう。空腹でたまらない。まずはそれからだ」
 天城さんはそう言った。ぼくたちは誰もいない四組の教室で弁当を広げて食べることにした。
「なあ桜井クン、今日はこの後予定はあるかい?」
 四組の教室で机を寄せ合って二人だけで弁当を食べていると天城さんは訊いてきた。
「うん?特別な予定は無いけど。何かあるの」
「お礼がしたい。絵のヒントをくれたこともあるが今日のことに対してだ」
「別にお礼なんていいよ。ぼくだっていつも勉強を見てもらってるし」
「そんなものでは釣り合わない。勉強は誰でも教えることはできるが、今日のことはキミにしかできなかったことだろう?」
 そう言われると否定もできなかったし、こうなると天城さんは引かない性格だとわかっていたので、大人しくお礼を頂くことにした。
「わかったよ」
「そうか、ならうちに来るといい。お茶菓子くらいは出すよ」
 突拍子もないそのお誘いに手に持っていた箸からおかずを落としそうになったけれどなんとかそれは防げた。ここで遠慮すると天城さんはきっと不機嫌になるだろうと思ったので観念して応諾しておいた。
「そう言えば天城さんの家ってどの辺?」
「北山の麓のあたりだよ。時間帯にもよるけど車で大体二十分ってところかな」
「車で二十分ってかなりの距離じゃない?」
「そうでもないさ。途中の住宅街で徐行するからそこで時間がかかるだけで距離で言えばそこまで遠くはないよ。そう言うキミの家はどの辺なのかな?」
「学校を出て東に歩いて十五分くらいのところだよ」
「近いんだな。うちとは正反対の方向だが」
「うん。家から近いから受験したらどう言うわけか合格したのでそのまま通ってる」
「存外行き当たりばったりな決め方だったんだな」
 そんなことを話して少しずつ笑顔を取り戻してきた天城さんとぼくは昼食を済ませた。
「そうそう、絵を見せる約束だったな」
 弁当箱を片付けた天城さんは言い、トートバッグから絵を取り出してぼくに渡した。その絵はいわゆる聖母子像というやつだろうか、母親が赤子を抱いている構図の絵だった。誰もが一度は目にしたことがありそうなものだった。ただその絵の母親は赤子に一心の愛情を注いでいる表情をしていることが見てとれた。その絵を見ていると心の奥底から温かい何かが自然とあふれ出してきた。幸福そうな、いや、本当に幸福な母親の姿だった。ぼくの母もぼくが産まれた時はきっとこんな風に幸福にぼくを抱いていたのだと確信させるものだった。
「どう……かな?」
 珍しく天城さんはわずかながら小恥ずかしげな様子を見せながら訊いてきた。ぼくはさっき思ったことをそのまま言うと、天城さんの顔は心底嬉しそうな表情に変わった。その笑顔だった。ぼくが取り戻したかったのは。その笑顔を見ることができたのはぼくにとっても本当に喜ばしかった。
 その後校門を出て天城さんに連れられて少しばかり歩くと駐車場に一台の高級そうな車が見えた。その車からスーツ姿の青年が降りてきて声をかけてきた。
「お嬢さま、こちらの方は?」
「ああ、友人の桜井くんだ。桜井クン、こっちは運転手の柴田だ」
「ご学友ですか」
「そうだ。ちょっとしたお礼がしたくて家に呼ぶ。構わないな?」
「はい」
 その会話をぼくはただ呆然と聞いていた。天城さんは運転手付きの車で登下校しているようだった。これは「ちょっとした」お礼なんかじゃ済まなさそうだと思った。
 柴田さんが運転する車は一旦大通りに出てしばらく進んでいたけれど、小脇に逸れた後はゆっくり進んでいた。車は走り出してからずっと静かに動いていてそれだけでいい車らしいことが車について全く詳しくないぼくでもわかった。道中ぼくは何を話せばいいのかわからなかったけれど、天城さんがいろいろと話してくれていた。柴田さんは天城さんのお父さんの秘書をしていて、天城さんの登下校時は運転手としてついているらしかった。ちょうどその時、徐行していた車が急停止してぼくたちの体は前方に軽く引っ張られた。これが慣性の法則ってやつなのかなと中学の理科の復習をしていると、柴田さんが声をかけてきた。
「失礼しました。急に飛び出してきた車があったもので」
「ああ大丈夫だ。キミは大丈夫かい?」
「うん、大丈夫」
「時々いるんだよ、運転の荒い車が。この辺りは道が入り組んでいて視界も悪い場所もあって、徐行していないと出会い頭に衝突することもあるのにな。そんなのは大抵事情を知らない県外ナンバーの車だ。まあここの住人は承知しているから普段は何も無いけど」
「ふうん、そうなんだ」
 ぼくが深く考えないでそう答えると車は狭い路地を抜けて速度を少し上げていた。
「もうすぐ着くよ」
 天城さんがそう言うので外を見るとそこは住宅街から離れた閑静な場所だった。車が天城さんの家に着いてぼくがまず目にしたのは広い敷地に建てられた古い日本家屋だった。
「これが天城さんのおうち?」
 車から降りたぼくは天城さんに訊いた。
「そうだ」
「すごいね……」
「私の家はすごいかもしれないが、別にそれは私の努力や実力の成果じゃない。だから自慢になるようなものじゃないさ」
 そう軽く言ってのける天城さんに連れられて家の中に入り天城さんの部屋に案内された。同年代の誰かの部屋に入るのは初めてだったのでぼくは少し緊張していた。天城さんの部屋はさすがに広かった。狭いぼくの部屋の三倍はあったように思えた。ぼくの部屋も大概余分なものが無かったけれど天城さんの部屋も似たようなものだった。ただぼくの部屋との違いは大きな本棚にびっしりと本が並んでいた。その部屋の住人のひととなりが現れていたようだった。女の子の部屋ってどこもこんなものなのかなと軽く疑問に思っていたら天城さんが訊いてきた。
「お茶を持ってこよう。紅茶とコーヒーとどっちがいい?」
「あ、お構いなく」
 恐縮してそう答えると天城さんは笑って言った。
「キミは私が連れてきた客人なんだから遠慮することはないさ。どっちがいい?」
「うーん、どっちがおすすめかな」
「私はコーヒー派だからなコーヒーをおすすめするけど好きな方でいいんだよ」
「じゃあコーヒーで」
「わかった。取ってくる間その本棚の本から適当に面白そうなのを見繕っていてくれ。前も言ったように興味のある本を探してみるのもいいことだから」
 そう言って天城さんは自室から出て行った。本棚には各種様々な本が並んでいた。文学作品もあれば近年有名な小説家のものやラノベもあった。とりあえず何冊か見せてもらったけど、どれが面白そうなのかはよくわからなかったので後でやっぱりおすすめを教えてもらうことにした。そうして待っていると天城さんは二人ぶんのコーヒーと二人ぶん以上のケーキを持ってきた。
「待たせたな。キミがどう言うお茶菓子が好みか訊いてなかったので、とりあえずいくつかケーキを持ってきたよ。甘いケーキとコーヒーは相性がいいからな」
「ありがとう」
 お礼を言うと天城さんは座卓にケーキとコーヒーを並べた。
「砂糖とかはどうする?私はブラックだが」
「苦くないの?」
「まあ確かに苦いがそれがコーヒー本来の味だし、美味しいコーヒーはブラックで飲むのが一番美味しいから」
「そうなんだ」
「ああ。それにさっきも言ったように甘いケーキにも合うからな」
 そう言いながらいくつも並べたケーキを指差して言った。
「さあ、好きなのを選んで食べてくれ」
 イチゴのショートケーキ、チョコレートケーキ、チーズケーキ、モンブラン、そのほかにもぼくの知らない名前のケーキが所狭しと並べられていた。どれも丁寧に仕上げられていて、一つ一つがそれほど大きくはないところが余計に高級感を醸し出していた。
「じゃあぼくはこれを」
 とりあえずイチゴのショートケーキを選ぶと天城さんはモンブランを取った。
「いただきます」
 二人してそう言って、ぼくはケーキをひとかけら口に運ぶと甘いそれが口の中で溶けた。
「美味しいね」
「うん。この店のはどれも美味しいから、それを食べ終わったらいくらでも好きなのを食べるといい」
「ありがとう。コーヒーも美味しいね。ぼくは今までインスタントコーヒー以外飲んだことないから、こんなに美味しいコーヒーは初めてだよ」
「インスタントコーヒーはコーヒーのような味をした別の飲み物だからな」
 苦笑しながら天城さんは言った。
「でもどうしてこんなにいっぱいケーキがあるの?」
「うちは来客が多いからな。いつ誰が来てもいいようにお茶菓子は揃えているってわけさ」
 なるほど、確かにこれだけ大きな家なら用件のある人も訪ねて来る人も多そうだった。
「で、どうだった?何か面白そうな本は見つかったかい?」
 二つ目のケーキを頬張りながら天城さんは訊いてきた。ぼくも二つ目のケーキをどれにしようか迷いながら答えた。
「うーん。やっぱりどれがいいのかさっぱりわからないよ」
「どれでも構わないんだけどな」
「そう言われても、ね」
「じゃあ、これをおすすめするよ」
 そう言いながら差し出されたのはシリーズもののラノベの一巻だった。
「とりあえず文章を読むことに興味を持つきっかけになればいいから。内容は私には面白かったよ。なんせ一巻を読み終えた次の日にはシリーズの残り全巻を買って読みふけってたからな」
 愉快そうに天城さんは言った。
「そんなに面白かったんだ。じゃあ遠慮無くこれを借りることにするよ」
 ぼくはそう言って一冊のラノベを受け取った。
 三つ目のケーキを食べ始める頃にはお互い話題も無くなってきた。そして天城さんは絵のことについてちゃんと礼を述べた後、ぽつりぽつりと話し始めた。
 天城さんのお母さんには歳の離れた従弟がいたらしい。天城さんはその人を兄のように慕っていて絵のこともその人に習って始めたと言う。その人は絵の道に進んだけれど、苦労を重ねそれがたたってか若くして病気で亡くなったらしい。以来天城さんのお母さんは天城さんが絵の道に進むことに難色を示し始めた。厳格なお父さんは元々絵の道には反対だったこともあり天城さんにとっては険しい道となったのだった。それでも天城さんが懸命に描き上げたあの聖母子像を見たお母さんはついに折れたらしい。
「あの絵、気のせいか天城さんにどこか似てるかと思ったけど、もしかしてお母さんだったの?」
「ああ、気のせいじゃない。確かに母を想いながら描いたものだ」
 聖母子像、母が子を想う姿を、天城さんはお母さんを想いながら描いたのだった。それが通じたからこそお母さんも折れたのだろう、きっと。
「だからこそ、キミにはお礼がしたかったんだよ」
 はにかみながら天城さんは答えた。
 そんなことを話していると夕方になっていた。天城さんは柴田さんにぼくを家まで車で送るように言った。そして、月曜日にまた学校で、とぼくに言った。ぼくはその後三十分ほど車に揺られて家に着いた。公園のミキのことは気になっていたけど成り行き上今日はもうどうしようもなかった。柴田さんに礼を言って別れた後は、お土産に持たせてくれた豪華な弁当を食べてそのまま自室で眠りに落ちた。今日はいろいろあって本当に疲れていたのだった。

七、君がいた
 翌朝、目を覚ましたのは六時前だった。疲れはすっかり取れて二度寝をする気にもなれなかったので、起きて歯を磨いた後は父と自分のぶんの朝食を作っていた。今日は土曜日だった。さすがに夏休みには土日は学校は休みだった。父を起こさないように静かに朝食を取り片付けをして今週のぶんのジョンの絵を台所の机に置いた後は自室に戻ってジョンとのんびり過ごしていた。時計はまだ七時半にもなってなかった。手持ち無沙汰だったのでとりあえず昨日天城さんに借りた本でも読んで過ごそうかと思って本をめくったが、二時間後には本屋へ向かう準備をしていた。つまりぼくも天城さんと同じくその本に魅了されて続きを買いに行くことにしたのだった。
 それでもまずはいつもの公園に向かうことにした。ミキは今日もいるだろうか。逢えるかな。逢えるといいな。そんなことを考えながら自転車を漕ぎ公園へと坂道を登って行った。ジョンと一緒に駆けていた。そして公園に辿り着き自転車を押しながら歩いているといつもの場所にミキはいた。エイミーと一緒に。ミキはぼくとジョンの姿に気づくと近づいてきて言った。
「おはよう。今日は普通におはようだね」
「え?普通にって?」
「だっていつもは居眠りした後のおはようじゃない」
 とびきりの笑顔のミキにぼくも笑いながら答えた。
「ああ、そう言うことね。おはよう」
「それにしても珍しいね。自転車でどこか遠くまで行くの?」
「うん、ちょっと本屋さんへ」
「ああ、この辺には大きな本屋さんは無いからね」
 ミキは納得した後でしばらく考え込んで突拍子も無いことを言ってきた。
「ねえ、この際だから海を見に行きたいな」
「海?ここからだとかなりの距離だよ?」
「いいから。行けなくてもいいから、行けるところまで行こうよ」
「二人乗りは危ないよ?」
「ジュンくんが気をつければ大丈夫、大丈夫」
 ミキは嬉しそうに言っていたけれど、きっとぼくはもっと嬉しかったのだと思う。エイミーを自転車の前のカゴに乗せて、ミキを後ろに二人乗りをして、ぼくはジョンと一緒に出発した。始めはゆっくりでよろよろだったけれど、それもすぐに慣れて自転車は駆け出していった。それでも大通りは危ないとぼくは思いひと気のない道を選んでいた。自転車は少しずつ速度を増し、それにつれてぼくの体にしがみつくミキに力が入ってきた。ぼくの鼓動は高鳴ってきたのは自転車を精一杯漕いでいたせいだったろうか。その時、ミキは気持ちよさそうに叫んだ。
「希望は彼方にあり!」
「え?なにそれ?」
 後ろのミキに聞こえるようにとぼくも少し大きな声になって訊いた。
「昨日読んだ小説にあった台詞だよ。遠くに駆けて行くにはぴったりの言葉だと思うの」
「ふうん」
 そんなことやあれこれいろんなことを話しながら自転車はどんどん進んでいった。どこまでも行ける気がした。ミキと二人でなら本当に彼方にまで行ける気がしていた。そしてこの時間がぼくにとっての本当の一番なのだと思っていた。
 自転車はいつの間にか住宅街へと入っていったようだ。初めて通るはずなのにどこか既視感があった。いや、既視感なんかじゃなかった。初めてではなかった。確かここは……。
(時々いるんだよ、運転の荒い車が。この辺りは道が入り組んでいて視界も悪い場所もあって……)
 天城さんの声を思い出した。そうだった。ここは確か昨日……。
 次の瞬間、車のブレーキの音を聞いた。
 気がつけば空を見上げていた。自転車の車輪がカラカラと周り、車が急速度で去って行く音が聞こえた。体のあちこちが痛み、起き上がると全身が重かった。頭を打ったのかなと左手で頭をさすると激痛が走った。左手を見ると血で赤く染まっていた。だけど次の瞬間にはミキのことを考えていた。ミキは?ミキはどうなった?
 あたりを見回すとミキが泣きながら座り込んでいた。よかった。ミキはどうやら無事のようだった。
「ジュンくん、エイミーが、エイミーが……」
 泣いているミキの両手のひらの上にはエイミーが横たわっていた。エイミーは口から血を吐きぴくりとも動かずにいた。そんな……どうしてエイミーが……。ミキはエイミーをぼくの両手の上に差し出すと、泣きながら言った。
「ごめんね、ジュンくん。ごめんね……」
 その言葉を残してミキの姿はぼくの目の前から消え去った。そして折りたたまれた一枚の紙片がぽとりと落ちて、後にはエイミーが残された。何がどうなったのかぼくは混乱していた。そして、思い出したのは……。
(ジョンはね、ぼくにしか見えない、ぼくにしか触れることのできない犬のはずなんだ)
(なんだ。それじゃ私と同じじゃない)
 初めてミキと出会った時に交わした会話だった。
 そして恐る恐る残されたエイミーを道路に横たえて落ちていた紙片を広げた。それは−−ぼくが描いた絵だった。ミキとぼくとエイミーとジョンの絵だった。ミキが大事そうに鞄にしまったあの絵だった。もう理解せざるを得なかった。自分が取り返しのつかないことをしてしまったことを。深く重く後悔の念がのしかかってきたぼくはその場で嗚咽し呻くことしかできなかった。どうしてもっと気をつけなかったのだろう。どうして二人乗りなんかしたのだろう。いくら悔やんでも悔やみきれなかった。ぼくはただ涙をこぼし続けることしかできなかった。
「桜井クン!血まみれじゃないか。どうしたんだ」
 聞き慣れた声がしたけれどそれももうぼくの中には届かなかった。その後ぼくは救急車で病院に運ばれて検査を受けた。医師は検査結果を駆けつけた父とぼくに話していたけれどぼくは何も聞いてはいなかった。ただずっと悔恨の念に囚われたまま掛け替えの無いものを失ったことに苦しみ続けていた。しばらく様子を見るから入院することになる、着替えを取ってくると父は言って一旦家に帰ったようだった。そして入れ替わるように天城さんが病室に入ってきた。
「桜井クン……結果は聞いたよ。とりあえず異常が無くてよかった、本当に」
 静かな個室に響く天城さんの言葉もぼくは聞いてはいなかった。
「それから……あの仔猫」
 その言葉にだけぼくは反応してまた嗚咽した。天城さんはためらいがちに続けて言った。
「勝手だと思ったけど、うちの庭に埋葬したよ。かわいそうだったな……」
 そうだ。全部ぼくが悪かったのだ。初めて見つけた幸福だった。それを一度の不注意で全て台無しにしたのだった。ずっとミキといたかった。もっと話したいことがあった。二人と二匹でいつまでもあの公園で穏やかな時間を過ごしていたかった。だけどそれももう叶わないことだった。時間は戻らない、やり直しはきかないことだった。だけどそれでも願わずにはいられなかった。もう一度、ミキたちと笑って過ごす時間を取り戻せたらと。

「……また来るよ。検査入院だからすぐ退院できるさ」
 それだけ言った後、天城さんは部屋から出ようとした。そして−−。
「だけど、どうしてこの個室には大型犬がいるんだ?」

 了

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