第一話「僕と先輩が出会いなおして、それから」2
「やってみたかったことがあるの」と先輩は言った。
そうはいっても新聞部のメンツは現在をもって二名のみ。去年の一人よりマシだけれど、できることよりできないことを数えたほうが多いと思う。
「……念のために聞いておきますけど、何ですか? 僕まだ仕事何一つやってないんですから、複雑なことはできませんよ」
「ええ、それは分かっているわ。何をするのかというと、新入生のために新任の先生の紹介をしておくことよ。去年もやってほしいって言われたんだけどね、私ひとりじゃどうにもできなかった」
ああなるほど、それは先輩らしいかも、と思った。
顔をみても、その人が誰かわからない神崎先輩だ。写真を撮って、取材をしたとしてもそれを記事にまとめることは難しいだろう。数種類のピースがごちゃ混ぜになったパズルをすべて完成させろと言われているに等しいのだから。
「でも、今年は結城くんがいるわ。私の作業量も半分で済むし、写真と記事の内容があっているかどうかの確認もできるわ」
そう頼もし気に言われると、大変断りづらいのが現状だ。確かに僕も今のうちに先生の顔と名前、できることならば性格とかも把握しておきたいし、一石二鳥なのかもしれない。
それに何より、神崎先輩の願いだ。
断ることなど僕には難しい。
「……わかりました、先輩がそう仰るならやりましょう」
「協力してくれる?」
「はい、もちろんです」
神崎先輩は顔をほころばせる。
「ありがとう!」
嬉しそうにそう言って、僕の手を取る。ひんやりとした冷たい感触が手に伝わってきて、僕の心臓が跳ねる。
「い、いえ、どういたしまして……」
顔が思わぬ距離まで近づく。長いまつ毛がひときわ強く印象に残る。
「それに今年って先生の入れ替わりが極端に少ない年みたいだから、チャンスなのよね」
「というと、何人なんですか?」
「二人」
それは少ない。楽でいい。
「じゃあ、僕一人、先輩一人、ですね。記事の作り方は、教えてくださいよ」
「それはもう。ここ一年で培った経験を、存分に披露するわ」
頼もしいことこの上ない。
「じゃあ、さっそく行きましょうか。ホントはね、もう前からこうする気でアポイントメント取っておいたんだ」
ええ……。
「僕が断ってたら、どうする気だったんですか……?」
「私一人でやってたかな。でも断るとは思わなかったし」
それは信頼していただいているみたいで、ありがたいのだけど。
「じゃあ、結城くんは生物担当の片桐先生をお願いね」
その名前には聞き覚えがあった。確か入学式だ。
「あ、僕その人知ってます。確か副担任です」
「そ、だから担当にしたの」
まだこの先輩とはそこまで長い付き合いではないから断言はできないけど、随分と要領がいい人だ、と感心する。
気が付けば僕は取材用のメモ帳とデジタルカメラを渡されていた。こういうことを聞いてこい、という簡潔な指示を先輩から受けた後、さっそく僕たちは職員室に向かった。
グラウンドの真向かいにある職員室からは外の光景が覗けて、その中にはサッカー部が練習をしている姿もあった。あそこに慧もいるのだろうか。
一年生担当教諭が固められたデスクの中で、ひときわ異彩を放つ女性がいた。まずその机には、杖が立てかけられている。自己紹介の時に、足が悪いと言っていたのを思い出す。
「片桐先生」
化学と生物を担当する教諭、片桐春奈。まだ大学生だと言われても通用するような若い顔立ち。赤いアンダーリムの眼鏡を乗せ、パンツスーツと白衣を着こなしている。肩にかかるくらいのショートカットは、緑がかって見える深い黒。
「ん、キミは……結城、兄か」
片桐先生は戸惑いを見せながらも僕の名前を言い当てる。
「まだ授業、二回ですよね? よく覚えていますね」
「ああ、それでも二回やれば流石に覚えるさ。帰ってから顔写真とにらめっこしてたからな」
どこかぶっきらぼうなしゃべり方。でも僕はこの人が嫌いじゃないと思った。そんなに一生懸命に名前を覚えようとしてくれるなんて、良い人に決まってる。
「で、なんの要件だ? 授業で分からないところがあったか?」
「いえ、僕、新聞部なんです。今日は先生の取材をしに来ました」
「ああ、そういえば二年の神崎が今日取材をしに来るからそのつもりでいてほしい、って朝言っていたな」
「それですそれです」
「そういうことか。じゃ、初めてくれて構わないよ」
「あ、その前にお写真を……」
「私、写真は苦手なんだが」
睨むように言われる。いや、そんなこと言われても。
「僕だって先輩にやってくれって言われてるんだから断るわけにもいきませんよ。観念してください」
「そこは堪忍っていうべきじゃないか? うーん、まあ、いいか……」
先生はあいまいな表情を浮かべていたが、意を決したのか、口元をきゅっと引き結ぶ。
「笑顔がいいか、真面目な顔がいいか?」
「うーん、そのあたりどうなんでしょう」
「そこらへんはキミの美的センスだと思うが……」
ちらりと後方を伺うと、そこには熱心に取材をしている神崎先輩がいた。どこか楽しそうだ。水を差すわけにもいかないな、と思う。それにしても、きれいだ。思わず見惚れてしまう。
「なんだ、結城兄は神崎にホの字なのか?」
「ホの字って、今時どういう表現なんですか。間違ってないのが余計に嫌ですよ」
「一歩間違えたら美女と野獣だぞ」
「ちょっとそれは失礼じゃないですかね!」
「いーや、男はみんなケダモノだ。この前読んだ本に書いてあった」
「だからそういう言い方やめてくださいよ! あと一体どういう本読んでるんですか!」
「官能小説だ。キミはまだ十五だろうからあと三年はお預けだぞ」
「そこは慎んでください」
親しみやすいと言えばそれまでなのだが、この先生は何なのだろう……。
若いだけあって、感性が近しいというか。
そういう問題じゃないと思うんだけどなあ。
まあ、こういった感じのやり取りがいくつか続いて、僕は疲れた。
「閑話休題しましょう」
「うん、そうだな、写真を撮られてあげよう。アングルはどうする?」
「いや、真正面の笑顔と真顔の二種類でいいと思うんですがね……」
明らかにこの人、ツッコミの餌を垂らしてきている。
こんなにボケる先生初めてかもしれない。
……いや。
そもそも僕には、こんな経験は初めてだ。
僕がうつ病を発症したのは、中学入学とほとんど同時期だった。登校拒否、というか学校にいけないメンタルが続いたため、僕は最初の一ヶ月と最後の三ヶ月しか中学には通っていない。だから、こんな機会があるなんて思いもしなかった。
先輩が僕にくれた、当たり前の日常。
『日常に帰りたい』と初めて神崎先輩が思わせてくれた。
だから、たとえ先輩が僕のことを分からない日々が続いても。
僕は先輩と一緒にいたい。
それでもいいから、恩を返したい。
それが僕の心情だった。
「ふざけてないで、そろそろ真面目にやろうか。結城クン」
「ええ、そうですね」
人がバックに映るのもアレなので、僕たちは職員室を出て、すぐそばの真っ白な壁を背景に写真を撮る。
「はい、チーズ」
パシャリ。
「もう一回行きますよ、今度は真顔で、はい」
パシャリ。
そうして僕は二種類のバストアップの写真を撮った。
片桐先生は見事に写真映えしていた。これは男子のファンができるかもしれない。
「ありがとうございました。あとはいくつか質疑応答ですね」
「ん、わかった。このまま移動するのも普通より時間がかかって惜しいから、立ち話で済ませてしまおう」
と片桐先生は杖を突きながら言う。
「それは悪いですよ。立ってるのつらいんじゃないんですか?」
「いや、立っているより移動する方がつらい。だから、ここでさっさと話を済ませてしまおう」
僕は片桐先生に押し切られ、そこでいくつかのQ&Aをした。
「休日とかって何していますか?」
「研究と、それから映画鑑賞だな。海外モノのSFをよく見る」
まあ、そんな感じのエトセトラ。
「じゃあ、こんな感じですかね。ありがとうございました」
「ああ。取材はこれで終わりかな?」
「とりあえず、ですかね。あとで神崎先輩に不備を指摘されたらもう一度伺うかもしれません」
「わかった。取材をされたのなんて初めてだな、新聞部はこういう活動をするのか」
「僕も入ったばっかりなんで、よくわからないですけどね」
「そういえば、うちの新聞部は県の新聞会社と契約を結んでいただろ、〈少年記者〉」
確かそれは、三年ほど前からうちの新聞部のメインの活動になったと聞いている。もっとも、部員が先輩一人になって、だいぶ苦労したと言っていた。記事は一週間に一回の間隔で新聞に掲載されているのだが、僕はまだそれに携わらせてもらっていない。
「まあ、大変かもしれないが頑張れよ、少年。少なくとも気持ちの一つくらい、色褪せる前に伝えておくといい」
それって、
「告白しろって、ことですか」
「平たく言うとそうなるな。私はまだキミのことをよく知らないよ? もちろん、神崎のことも。でも今朝、神崎が私のもとにきて、彼女の情報がある程度私の耳に舞い込んできた。どうも苦労しているみたいだな、アイツも」
先生は、相貌失認のことを指しているのだろう。彼女の話は続く。
「だけどな、私の足がうまく動かせないのもそうだが、誰かそれを補ってくれる人がいるとずいぶん状況は変わってくるものだ。……私の恋人もそうさ。今じゃなくて、十年後、二十年後を考えて、私の足がまともに動くようにならないか研究してくれている。義足じゃなくて、生物学的観点からみて、だ。一人でいるころは、周りが杖をついている自分を見てどう思ってるか気になったものさ。だけど、理解者ができて、変わったんだ。神崎もそうだと思う」
……それは。
紛れもない、片桐春奈の独白だった。
彼女はおかしそうに笑って、「口が滑った、忘れてくれ」と言った。
だけど、僕はまだ、神崎先輩のことをよく知らない。
彼女と出会ったのが四ヶ月前。再開してから一週間。実際に会った日数を数えてみれば、十日がいいところだ。それだけで人間を杓子定規で測ることはできない。
僕が先輩の病気を理解して、なおもそのうえで愛し続けるためには、彼女のことを理解しなければいけないと思っている。
だから、少しでも、先輩の役に立てればいいんだ。
今は少しでも、先輩との距離を縮められればそれでいい。
「今は、まだ、そんな度胸はないです」
僕から出た声は、絞られたみたいに小さいものだった。
「でも、これからもっと先輩のことを知って。先輩に僕のことを知ってもらって。それでもまだ好きなら、ちゃんと告白してみようって思ってます」
そう言い切ると。
僕の頭を、片桐先生の手が撫でる。
強く。――そして優しく。
「キミは、いい子だな。でも、そうでなきゃ二人の部活動なんてやっていられないぞ。信頼して、されて。それでやっと、人間関係はやっていける。自分が相手を知らないうちは、相手も自分を知らないさ。だから、キミの判断はきっと正しい」
まだロクに会話もしていなかった先生だというのに、なぜこんなにもスラスラと本音を語ることができるのだろう。疑問に思う。
何故だろうと考えて、ややあって、やっとわかった。
この先生は、今までの他人よりもずっと近く、本音で、心を開いていてくれている。あったばかりのよそよそしさとか、探りあいとか、そういうものがない。僕も神崎先輩とこうあれたら。そう思って、その考えを止めた。
それはできない。
「ああ、キミたちには時間が必要だ。キミの考え通りだ」
だって、先輩も僕も、互いに否定されるのを凄く怖がっているから。うつの僕と、相貌失認の彼女。自分の中の自分を制御できない僕と、自分の中の他人を制御できない彼女。
僕は先生の手を優しく掴んで下ろすと、頭を下げる。
「取材させていただいて、ありがとうございました」
先生はどこか気恥ずかしそうに、
「ん」とだけ言った。




