第一話「僕と先輩が出会いなおして、それから」1
キンコンカンコン。
その日の授業の終了を知らせるチャイムが鳴る。
起立、礼と一例の動作を済ませる。
僕はふうとため息をついて、使っていた教科書を鞄に仕舞い始める。
解放感からか、どっと押し鳴らすように教室が騒がしくなる。みんなが思い思いに喋った言葉は混然一体となって僕の耳に届く。
それに合わせるかのように、隣の女子――金子さんが僕に向けて声を発する。
「ねえ、結城くんはもう部活に入った?」
いきなり話しかけられて、僕はどきりとした。
金子さんは、茶色っぽい髪をポニーテールに大きなリボンでまとめているのが特徴的な女子だ。僕とは同じ中学校出身だが、あいにく一度もしゃべったことはなくて、高校でこうして隣り合わせになって初めてしゃべった。
どちらかと言えば人見知り気味の僕に話しかけるくらいには人当たりのいい人で、積極的に男子にも話しかける、良い人だ。女子からも少なからず好かれているじゃないだろうか。まだ完全にこのクラスに馴染めているわけではないので、確信はないけれど。
「う、うん。一応入ったよ」
少々どもってしまったが、頭に浮かんだとおりの返事を返す。
「どこ?」
「新聞部」
「へえ、結城くんって新聞に興味があったんだ。ってことは学年が上がったら文系に進むつもりなの?」
「うーん、あまりそこまで深くは考えていないけどね」
「新聞部って人少ないって聞いたけど、実際どんな感じなの?」
「そうなんだよ。僕と先輩合わせて二人しかいないんだ」
事実を告げると、金子さんはとても驚いたようで、えっと呟いて口元を押さえた。
「ってことは、先輩と部室で二人きりなんだ、それってちょっとやりづらくない?」
「文化祭で顔見知りにはなっていたから、そこまでやりづらくもないよ。――う、でもちょっとまだコワい感じはあるかな」
「だよねー、流石結城って名前だけに勇気あるね」
勇気はない。
度胸もないと思う。
うまいこと言った、という感じなのか、金子さんは会心の笑みを浮かべながら、鞄からかわいらしい柄の水筒を取り出すと、中身をごくごくと美味しそうに飲み始める。
「金子さんは、どこか部活に入ったの?」
「うん、手芸。服のデザインとかもできるみたいだから、将来そっちの方に進みたいし、ちょうどいいかなってね」
「へえ」
なかなか堅実的な思想の女子である。好感が持てる。
それにしても、
「将来の夢があるっていいね」
「まー、」金子さんは水筒の蓋を閉じると、「あんまり絵上手くないから要練習なんだけどね」
と恥ずかし気に言った。
それでも目標があるっていいと思う。僕の目標は何だろう。ふと考える。
今のところ、特に就きたい職業があるわけでもなければ、やりたいことがあるわけでもない僕。慢性的に生きている。でもこれは、やっとのことで僕が取り戻した平穏。僕はもうしばらく、これに浸っていたいと思っている。
「あんまり長いこと話してるのもなんだし、わたしはそろそろ部活行こうかな。入部早々遅れるのは気乗りしないし」
数分程度の話のうちに、もう運動部に所属している面々は着替えを済ませ、各々の部活に向かいだそうとするころだった。気の早い文化部や帰宅部などはもう教室にはいなくて、残っているのはおよそ半数ほどになっていた。
「うん、そうだね」
相槌を打って、僕は教科書を詰め終えた学生鞄のジッパーを締めた。そして持ち手を担ごうとしたところで、トントンと肩が叩かれる。
「お兄ちゃん」
振り向く前に、正体は掴めていた。
「どうした、慧」
そこにいたのは僕そっくりの顔。背丈も定規で測ったみたいに似ていて、違うと言えば体つきや髪の長さ。ドッペルゲンガーではない。クラスメイトにして一卵性の双子の弟、慧だった。身にまとう衣装はサッカー部のもの。……彼は、運動音痴の僕とは相反してスポーツが巧い。特に顕著なのはサッカーで、中学の時は県の選抜にも選ばれていた。高校でもその才能は如何なく発揮されるだろう。
「今日はサッカー部で新入生歓迎会があるらしくて、ちょっと遅くなると思う。お菓子が出るみたいだから、ご飯もいつもとは少なめにしておいて。言うの忘れてたから、今のうちにって思って」
「うん、わかったよ」
とはいっても、慧は僕より俄然食べる。
少なめとは言っても僕と同じくらいは食べるだろうな、と思いながらも僕は頷く。
僕たちの家庭は、両親は共働きで遅くまで帰ってこない。そのため、平日の家事の一部や夕飯の支度などは僕たち兄弟の仕事だった。
そんな僕たちのやり取りを目にして、金子さんが一言。
「結城くんたちって、ほんとに穏やかな物腰といい、そっくりだよね」
「「うん、ありがとう」」
そう、僕たちは体育会系と文科系の差こそあれど、こんな風に声も被ったりするくらいには似ている。
僕にとって慧はデキの良い自慢の弟だ。
「ふふ、じゃあ、お先に失礼するね」
そう言ってにこやかな笑みを浮かべた後、金子さんは席を立って教室を去った。
「じゃ、僕たちも部活に行くか」
「うん、そうだね」
学校が始まっておよそ二週間。
新しい学校生活にもようやく適応し始めたというころ。
「さて、と。行くか」
慧の姿を遠目に見送ってから、僕も席を立った。
僕の所属する新聞部の部室は、三階にある。全学年が一般科目を勉強するのが一階、そして理科室や地学室など一般科目の特別教室が二階。家庭科室などの選択科目の教室が三階と言ったところだ。
ペタペタとスリッパを鳴らしながら調子よく階段を上り、息切れしそうでちょっと危ういんじゃないか、自分と警鐘を鳴らしながら僕は段々ひとけがなくなっていくのを鮮明に感じ取る。途中何人かの先生にすれ違って挨拶をこなす。
そして、立てつけの悪い扉を開けて、僕は彼女を目にする。
日光に当たっていないんじゃないかと憂慮するほどの白い肌と、対照的な長い黒髪。きりっと整った鼻梁、整ったたまご型の顔。薄い青を基調としたセーラー服がこれ以上ないというほど似合っている。
中身は文武両道、眉目秀麗を兼ね備えた、完璧に近い存在。先輩は読んでいたハードカバーから顔を上げて、こちらを見る。
「……あら」
「こんにちは」
だけど、そんな先輩にも一つだけ欠点はあった。
「えー、と、どなたかしら?」
少しばかりのショックを受けつつも、僕は落ち着いて名乗る。
「結城です」
「あ、結城くんね……ごめんなさい」
神崎先輩は哀しそうに目を反らした。
先輩が罹っているのは、いわゆる「相貌失認」という病気。
神崎先輩は、他人の顔が分からない。
直前まで喋っていた人でさえも、トイレにでも一度立ってしまえば分からなくなる。前まで自分が喋っていた人物と、たった今戻ってきた人物が同じかどうか整合できない。詳しい病状は聞いていないが、少なくともそのことは確かだ。
僕が調べたところ、人にはよるけれど、他人の喜怒哀楽を表情で判別できないこともあるらしい。繰り返すが、先輩がそうなのかは、僕は知らない。
だけど、先輩が極度に人付き合いを避けているのは確かな話で。
それでも僕は、
うん、この際だから認めてしまおう、この先輩に恋をしている。




