2話
学校の帰りに塾に寄った咲良は、掲示板の前に立って凝視していた。
そろそろ前期の授業が終わり、夏期講習の応募時期に入る。
人気講師はあっという間に満員になり、すぐに締め切ることもある。
咲良は、二年生生物学の要項を見つめていた。
――二年・生物学(浸透率及び遺伝)……橘
「橘」という担当講師の名前に、どうも目が離せないでいた。
「咲良~」
エレベーターホールから呼んだのは、冬期の授業で知り合った大塚高校の葉月と上宮泰士高校の拓磨だ。
少数人数だったため、すぐに息が合った。
「次の授業、決まったん?」
「うん、何個かは」
現在必須なのは、数学と現国、英文法に英読。
好みで生物も考えている。
そこで「橘」という名前を見つけたのだ。
遺伝は難しいと聞くが、実際授業で聞いてみると意外に面白かった。
「咲良、今日は授業あんの?」
拓磨に聞かれて、咲良は左右に首を振った。
「ううん、今日は八階で自習」
「俺ら、次で終わりやねん。
一緒に帰るか?」
「うんっ!」
笑顔いっぱいで頷く咲良の頭を葉月が撫で、拓磨は目を細めていた。
「かぁえーな~、この子は……」
「ほんま、咲良は可愛いなぁ」
二人揃って言うもので、咲良は戸惑いを隠せずにされるがままなのだった。
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授業に向かう二人を見送って、手に持っていた用紙にペンを走らせると受付に向かう。
そこでは、咲良と同じように希望の受講欄を持った他校の生徒達で溢れていた。
前の生徒が済ませて、咲良の番になる。
「お願いしまーす」
小柄な中年女性が、用紙を受け取った。
「次の講義のやね」
用紙を確認すると、頷いて「はい、受け取りましたー」と切り上げる。
八階の自習室に入って、奥のデスクに着くと電気を着ける。
数学のテキストを引っ張り出して、ノートにペンを走らせた。
解の公式を使った計算は、何も考えることなく集中出来るので特に好きな項目。
連立方程式や微積分も、数学嫌いな咲良の中では好きな方だった。
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スマホで時間を確認すると、早々に荷物をまとめる。
五階で待っているはずの葉月と琢磨の元へと向かった。
エレベーターホールでは、他学校の生徒が固まって喋ったり、自販機で飲料水を買ってる生徒が居た。
ベルが鳴り、エレベーターのドアが開く。
「あ」
「おっ」
中に乗っていたのは、京大医学生の講師である柚木 昂だった。
エレベーターは二人を乗せて下へと降下を始める。
昂は、初めて受けた長文英読解の講師である。
二ヶ月ほど前から東神京(東大、神大、京大の略)などの、国立大学を受験する特進クラスを担当するようになった。
講師室も五階にある通常クラスと、八階の特進クラスとで分かれている為、ほとんど顔を合わす事がない。
「久しぶり、元気してる?」
咲良が入塾した頃は、解らないことだらけでちんぷんかんぷんではあった。
自分のレベルがどれ程なのかもテストなしで入った為に、どのクラスが見合うのか解らないまま、受けたのが柚木 昂が受け持つ高レベルの授業だった。
「うん、先生も元気そう!」
めい一杯笑みを浮かべる咲良に、目を細める昂。
初めて会った頃は、どうしようものか悩んだのだが、最後まで諦めずに授業に出ていた咲良に愛嬌すら感じていた。
いつも一番前で席を取り(咲良としては視力が低く、塾にまで眼鏡を掛けるのが面倒だったからだったが)、必死に付いて来ようとする姿が健気なのを鮮明に覚えている。
「英語は上達した?」
「文法は、面白くなってきた!
でも、やっぱり単語はありすぎて……」
げんなりするが、頑張り屋な咲良の頭を撫でた。
「あははっ、相変わらずやなぁ。
まあ、文法出来るようになったら、あとは覚えるだけやし。俺としては英語を好きになってくれて嬉しいわ」
「その節はどーもっ」
五階に着き、咲良はエレベーターを降りる。
「ほな、またねー!」
「うん、お疲れ」
賑わう事務室を背景に、大きく手を振る。
この後もいくつか授業が待っており、本来の学業もあって疲弊してた昂だったが……。
「ありがと」
「え?」
あの笑顔ひとつで、心が癒えたのだった。
「そういや、いつも笑顔やったなぁ」
閉まって再び降下を始めたエレベーターの中で、一人呟く。
どんなに付いていけず、自身のレベルを思い知らされて授業中こそは辛そうな時もあった。
始めは何度かそれが原因でサボっても、昂は何も責めなかった。
授業が終わって挨拶をしてきた咲良の笑顔で、いつも許してしまえたのだった。
(あんな妹居たらなぁ……)
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「さ~くらぁ」
授業を終えた葉月に呼ばれて、ハッと我にかえる。
エレベーターが閉まる間際、昂にお礼を言われた気がした。
その理由が解らなくて、唖然としていたのだ。
「さっきの、柚木先生やん」
琢磨は、どうやら昂を知っていたらしい。
「あの人、エリートクラスの担当やろ。
咲良知り合いやったん?」
葉月は知らなかったようで、二人には最初に受けた時の講師だと話すと納得したようだ。
「ほな、帰ろー」
エレベーターの降りるボタンを押し、ドアが開くと中へと乗り込む。
振り返った事務室は、相変わらずの賑わいだった。
「あっ」
ドアが閉まる瞬間、階段から出てきた見覚えのある後ろ姿に目を奪われる。
「どしたん?」
「……ううん」
葉月に聞かれ、首を左右に振る。
しかし、その瞳はドアが閉まってもしばらくは逸らせなかった。