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狼たちの夜

作者: 一色靖

第二次大戦時、占領下のパリ。その夜、関豊はレジスタンス連絡員と接触する指令を受けた


 露で濡れた石畳が外灯の光を受けて、ぬめりを帯びた照り返しを放っていた。

 パリの夜は、十月ともなれば、しんしんと冷え込んで来る。

 セルヴァンドーニ街を歩く関豊(せきゆたか)の靴音が響く。豊は、灰色のレインコートの襟を立てると、夜空を見上げた。霞でぼやけてはいるが白い三日月が見える。雨にはなるまい。コートの外から手で拳銃の感触を確かめた。使わないで済む事を願った。それに越した事はない。

 豊はコートのポケットから何か取り出した。開いた手のひらには、真鍮の鍵が乗っていた。彼はそれをじっと見つめた。鍵はにび色に光っている。


 豊は日本の東亜通信社パリ支局の記者だ。ある日、アパルトマンに帰宅すると、差出人のない封筒が届いていた。中にはこの鍵とメッセージが入っていた。

 メッセージは「十月九日夜にルゴー通りのバー『ジョゼフィーヌ』で連絡員と会い、箱を受け取れ。箱はこの鍵で開く。その箱に次の指令が入っている」というものだった。

 豊には、記者という表の顔とは別に、裏の顔があった。この年一九四〇年の六月に、フランスはナチス・ドイツに降伏し、パリはドイツの進軍の前に無血陥落した。翌七月、パリを拠点に抗独レジスタンス組織『七月の狼』が結成された。豊はこの『七月の狼』の活動家でもあった。

 豊は、生まれは日本だが、八分の一、フランス人の血が流れている。曾祖母がフランス人だった。

 そんな経緯もあって、フランスに関係する仕事に就きたいと大学でフランス語を徹底的に学び、東亜通信社に入社した。

 その語学力を買われ、入社後すぐにパリ支局に派遣された。一九三五年の事だ。

 それから五年。欧州の社会情勢は激変した。ナチス・ドイツの総統になったヒトラーは、ソ連と不可侵条約を締結。東部の安全保障を確保してから、ヨーロッパ各国への攻勢を開始した。オーストリア、チェコスロバキア、ベルギー、オランダ、ノルウェーなどを次々と征服し、今年、ついにフランスも手中に収めた。

 東亜通信社は日本大本営の翼賛報道機関に組み入れられ、豊の主な仕事は、日本の同盟国であるドイツの活躍を賛美する記事を本国へ送ることが中心になった。一方で、各支局には軍事情報の収集・送信の任務が課せられ、枢軸国、連合国双方の情報を集め軍部への送信を行うようになった。

 ナチス・ドイツの武力侵攻に強い憤りを覚えた豊は、フランスの情勢が不穏になった頃から、知人を通じて政治活動家と交友を結び、パリ陥落後に地下抵抗組織『七月の狼』が密かに結成されると、ただちに参加した。


 鍵とメッセージは『七月の狼』の幹部、ジョルジュから送られて来たものだった。豊はジョルジュの下で活動している。しかし、ジョルジュには会ったことも話したこともなかった。今回のように郵便で指令をもらうのが常だった。それにしても、今回は不可解な指令だ。なぜ箱を直接送らずに、鍵を送ってきたのか。

 全貌が見えない任務というのは、あまり気分の良いものではない。先の予測が立てられないからだ。

 豊は鍵を再びポケットにしまうと、セルヴァンドーニ街を進んだ。通行人は一人もいない。なにせドイツ軍が常に市街を巡回しているのだ。市民が夜中に大きな通りを出歩くのは勇気がいった。


 豊は角を曲がり、ルゴー通りに入った。途端に道は狭くなり、古い家が目立つようになった。その七軒目にバー「ジョゼフィーヌ」があった。これまた古い建物のようだ。ツタの這うレンガの外壁に、銅のはめ込み看板があり「Josefine」と銘打ってあった。ここが連絡員との待合せ場所だ。

 豊は、上着の内ポケットに右手を差し込み、再び確かめるように拳銃をさすった。



 分厚く重い木のドアを開けると、酒場独特の澱んだ空気がむっと鼻をついた。客たちが一斉に豊に目を向けた。だが、すぐに興味を失い、それぞれが続けていた事に戻った。

 店内は、五人ほどがかけられるカウンター席と、テーブルが三つ。テーブルの一つにはポーカーに興じている男たちが四人。

 別のテーブルには新聞を読んでいる黒縁メガネの男。豊はそのテーブルの上に置かれたアルミニウムの鍵付きアタッシュケースに目をとめた。もしかするとあの男だろうか。

 豊は、カウンター席に座った。店主だろう。四十代の、口ひげを蓄えた太った男が、麻の前掛けをつけてカウンターの内でチーズの塊を長包丁で切っている。少し離れたところで、濃い緑色のセーターを着た若い女性がグラスを磨いていた。透き通るような白い肌に金髪で鼻が高く、美しい女性だった。

「何を飲みますか」口ひげの店主が豊に尋ねた。

「スコッチをダブルで」豊は答えた。

「四フランです」

 豊はポケットから銀貨を四枚出して、カウンターに置いた。店主がそれを取り、かわりにグラスを置いて、後ろの棚からスコッチの瓶を出してきて、グラスに注いだ。酒がグラスに注がれる音は、いつ聞いても気持ちの良いものだ。豊はグラスを持つと、少し傾けて中の液体がゆったりと踊るのを眺めた。

 豊は少しばかりの笑みを浮かべて言った。「酒も高くなったもんだな。四、五年前なら五フランあれば一晩飲めた」

 店主が尋ねる。

「お客さんパリは長いんですか。アジアの方のようだが、きれいなフランス語を話しますね」

「日本人だ。通信社の記者をしていてね。パリ支局に勤めている。もう五年だよ」

 グラスを磨いている女性が、豊をちらりと見た。

「パトロン…」豊が呼びかけた。

「ピエール。ピエールと呼んで下さい。私はピエール」店主は答えた。

「ピエール、この店は女性の名前だが、あの女の名前かね?」

「あれはセリーヌ。義理の妹ですよ。彼女の姉が私の家内で、ジョゼフィーヌという名前だったんです。夫婦二人で店を始めた時に、家内の名前を付けたんです」

「その奥さんは?」

 ピエールの表情が曇った。深いため息をつき、

「死にました。病気でね。もう三年になります」

 セリーヌがまたちらりとこちらを見た。無表情の中にも悲しみがうかがえた。

「それはお気の毒に」豊は言った。


 豊は、スコッチを口にして、息を吐いた。連絡員と接触しなければならない。相手は誰なのか。いつ現れるのか。

『七月の狼』では、メンバー同士を確認する符帳が決められていて、毎月それは変わる。今月のそれは、

  「赤ワインに一番合う料理はなんだと思う?」

  「鴨のテリーヌだね。そういうあなたは?」

  「小牛の生クリーム煮だな」

というやり取りだった。そんな芝居がかった合言葉など、豊にとっては、口にするのが少々恥ずかしいのだが、フランス人はこういう事が好きらしい。


 ドアが開くギィーッという音がした。そちらを振り向くと、足取りのおぼつかない老人が立っていた。皺だらけの顔に、垂れ下がった眉。その眉の奥から、濁った瞳が覗いていた。黒いセーターに灰色の上着を羽織っている。すでに酔っぱらっているようだ。店内を、半眼で見回し、豊がカウンター席にいるのを見ると、伸びた白髪を揺らしながらよたよたと寄ってきた。

 男は豊の隣にどっかりと腰を下ろすと、横から豊の顔をじろじろと見た。

 難癖をつけたくてあらを探しているようだ。「あんた、東洋人だな」息が酒臭い。

「そういうあんたはフランス人のようだな」豊は返した。

 豊の完璧なフランス語に老人は少し驚いたようだった。

「中国人か」

「日本人だよ」豊は前を向いたまま答え、グラスを傾け、ひと口飲んだ。

 老人はからんできた。「けっ、日本人か。ドイツ野郎の仲間がこんなところで何をしている」

「ジャン、よしてくれ」ピエールが老人に言った。馴染みの客らしい。

 おかまいなしに、ジャンという老人は豊に言った。

「パリでウィスキーを飲んでるのか。ウィスキーなら、イギリスに降伏でもして飲ませてもらえ」

 豊はジャンに答えた。

「パリは何でも美味いと思うよ。このウィスキーもロンドンより美味いね」

 気まずい雰囲気に気を利かせたピエールが、棚のラジオのスイッチを入れた。

 ヴィシー政府の国営放送が流れてきた。ヴィシー政府は、ナチス・ドイツがフランスに勝利した後に誕生した、事実上のドイツ傀儡政権だ。

『…ドイツの進軍により、フランスのコミューンは一掃されました。ドイツはフランスを赤化の危機から救ってくれたのです…』

 ジャンが毒づいた。「ちくしょう。話をすり替えやがって。なにがヴィシー政府だ」

 豊はジャンに言った。「しかし、ヴィシー政府は国土の多くををドイツに占領されているが、国際的には独立国だろう」

 老人は、眉をつり上げて言った。「そんなのが見せかけな事くらい誰でも知ってる。

 あんたな、その独立国フランスに来たなら、せめてワイン、それじゃなきゃコニャックを飲めよ。ワインならボルドーの赤あたりだ」

 豊は、さっと緊張した。赤ワインだ。この老人が組織の連絡員なのか。酔っぱらっているのは演技かも知れない。だとしたら、大した役者だ。

「それじゃ、これを飲んだら赤ワインを頼むとしよう。ところで、赤は何の料理と合うんだね?」

 老人は答えた。

「フランスじゃ赤ワインは水よりたくさん飲むんだ。どんな料理の時もな」

「そうか。だが、その中でひとつ選ぶとすれば何だい?」

 老人は少し考えて言った。

「ステーキだろうな。うちの婆さんが焼くステーキは最高だ」

 それを聞き、豊の緊張は解けた。これは合言葉ではない。ジャンはただの民間人だ。

「どうだ?いまから家に来てステーキで一杯やらないか」ジャンが豊の肩に手を置いて揺すった。

「ジャン、やめろ。今夜のお前は飲み過ぎだ。もう帰れ」

 ピエールがカウンターから外に出てきて、太い腕でジャンの両脇を抱えて立たせた。

「何だ。おれはまだ何も飲んでないぞ」ジャンが怒った。

 ピエールはお構いなしにジャンを連れ去りながら、

「うちにはお前に飲ませる酒はないよ。しらふの時にまた来てくれ」

 そして、ドアの外に連れ出していった。

 豊は、またスコッチを口にした。グラスが滑る。自分が手に汗をかいていることに気づいた。

 連絡員は誰だろう。やはり、奥のテーブルにいる黒縁メガネの男だろうか。あのアタッシュケースが例の箱なのか。ポーカーをしている四人は違うだろう。連絡員が集団で接触現場に現れるのは危険すぎる。

 こちらから黒縁メガネの男のテーブルに行って、話しかけてみるか。だが、きっかけが難しい。不自然ではいけない。

 怪しまれると、ナチスに通報する者がいないとも限らない。

 気を落ち着かせようと、懐に手を入れ、拳銃に触れた。

 ピエールが戻ってきた。

「すみませんね。酒を飲まなきゃ静かでいい男なんだが…」

「常連なのかい」

「ええ、古い友人ですよ」

「彼の言う通り、次はコニャックをダブルで頼むよ」

「三フランです」

 豊は銀貨を三枚カウンターに置いた。

 ピエールが新しいグラスにコニャックを注いだ。薄暗い灯りの下でも、それは豊かな琥珀色をたたえていた。甘く重厚な香りが立ち上る。



 豊は腕時計を見た。もう十一時だ。新たな客が現れる様子もない。コニャックのグラスも、もうすぐ空だ。

 ラジオからは、物憂げなシャンソンが流れていた。

 思い切って黒縁メガネの男の所に行ってみるか。豊はグラスを持って立ち上がろうとした。

 その時、読んでいた新聞をたたむと、黒縁メガネの男が立ち上がってカウンターにやってきた。アタッシュケースを椅子の足元に置いた。

 豊の隣に腰を下ろすと、ピエールに言った。

「ホリゾン紙は退屈なことしか書いていないな。パトロン、お宅に何か別の新聞はないかね?」

 ピエールは肩をすくめた。

「うちもホリゾンですよ」

 男は顔をしかめて、黒縁メガネを指でずり上げた。

「八十サンチーム払ってこれじゃあ、町のうわさ話の方がまだ役に立つ。

 赤ワインをもらおうか」

「二フランです。こちらのお客さんは通信社の記者だそうですよ」

 豊は軽く会釈した。この男、赤ワインを注文した…。

「ほう、記者か。私はクレティエン。製薬会社のセールスマンをしている。戦争前は国中の病院にアスピリンを売り歩いていたよ。あなたは?」

「ユタカ・セキ。東亜通信という日本の通信社の記者だ」

 二人は握手した。

「記者のあなたから見ると、いまのパリの新聞をどう思うね?」

 豊は苦笑した。

「占領下での取材活動は難しいものだ。フランスの新聞はよくがんばっていると思うね。

 私は同盟国日本の記者なので、皮肉にも、どこへ行っても自由どころかむしろ積極的に取材に協力してもらえているがね」

 クレティエンは嘲笑気味の笑みを唇に浮かべ、赤ワインを口に含んだ。

「うん。戦争になってもワインの味は変わらないな。ドイツはフランスワインだけは絶対征服できない」満足そうだった。

 豊は気のない素振りを装いながら、軽い口調で尋ねた。

「フランス中を旅してきたなら、料理にも詳しいでしょうな。赤ワインに一番合うのは何だと思うかね」

 クレティエンは静かに豊の眼を見た。豊は前を向いたままだった。

 クレティエンはもう一度グラスを傾けてワインを飲んだ。そして、今までの出張を思い出すように眼を閉じ、

「そうだな。一番と言われれば、思い出すのはブルゴーニュで食べた鴨のテリー…」

 ――鴨のテリーヌ――豊は相手の素性を確信した。クレティエンは『七月の狼』の連絡員だ。

 その時だった。クレティエンの言葉を遮って、店のドアが乱暴に開いた。

 武装した兵士を四人従えた一等軍服姿のドイツ軍将校が入って来た。

 将校は、灰色の冷徹そうな瞳で店内を見回し、

「動くな」とフランス語で叫んだ。「検問だ。全員、身分証明書を出せ」



「やれ」

 将校の命令に、ヘルメットに濃い緑の下士官軍服姿の兵士たちが、ポーカーをしていた四人のテーブル客に近付き機関銃を突きつけた。

 そして怯える客たちから次々と身分証明書を取り上げると、いくつか質問をした。だが兵士のドイツ語が分からない様子だ。

 将校がコツコツと軍靴を鳴らして兵士たちの間に割り入って来た。

 革の手袋をはめた手で身分証明書を受け取ると、それを見ながらフランス語で仕事や住まい、家族などを尋ねた。その間、兵士たちは男たちの身体検査をしていた。

 テーブル客の尋問が終わると、ドイツ将校たちはカウンター席に眼をやった。

 ドイツがパリを制圧してからというもの、大抵の民間人は、ドイツ兵と視線が合うと眼を伏せるものだ。

 だが、豊は将校の灰色の瞳を堂々と見返していた。

 将校は、豊を睨み、コツコツと歩み寄って来た。

「アジア人だな。身分証明書を見せてもらおう」

 豊は、ドイツ語で答えた。「それより、こちらの方が立場がはっきりするだろう」そう言って、コートのポケットから畳んだ書類を出して渡した。

「ドイツ語を話すのかね?」将校はドイツ語で言いながら、豊から受け取った書類を開いた。

「日本の通信社の記者でね。ベルリンにもよく取材に行く。それはナチスが私に発効した取材許可証だよ。ほら私の写真も貼ってあるだろう」

 将校は書類と豊の顔を見比べた。にやりと笑った。

「日本人か。それははるばる御苦労様。

 一応規則だ。形だけ調べさせてもらう」

 兵士に顎をしゃくって、豊の身体検査をさせた。

「少佐、この男はピストルを持っています」ひとりの兵士が、豊の上着から見つけたリボルバーを見せた。

「記事を書くのに、ピストルは必要ないだろう」

 将校が尋ねた。豊が答えた。

「護身用だ。日本人がフランスで取材活動をするには何かと物騒でね」

 将校は少し考え込んだ。そして言った。

「明日、東亜通信社に問い合せるとしよう。それまでピストルは預からせてもらう。問題なければ返却するから、基地まで受け取りに来てもらおう」

 豊は、抗議しようかとも思ったがやめた。今夜、ナチスといざこざを起こすのはまずい。

 それより、隣のクレティエンが気になった。先ほど言いかけた合言葉、おそらく彼は連絡員だろう。ケースを調べられたら…。

 将校は、豊に取材許可証を返した。

「さて、お前は?」クレティエンに向いた。

 クレティエンは身分証明書を出した。顔が蒼白だった。

「製薬会社か。本籍はパリなんだな?」

「ああ、そうだ」兵士に身体検査を受けながらクレティエンは答えた。

 将校は足元のアタッシュケースに目をとめた。

「これは?」

「仕事に使っているカバンだ」

「中身は?」

 クレティエンは、答えに詰まった。

 将校が言った。「開けろ」

 豊はごくりと唾を飲んだ。中の指令文を見られたらおしまいだ。

 クレティエンが必死になって言った。

「鍵がない。鍵は家なんだ」

 将校はクレティエンの怯えた眼を見て、よけい怪しんだようだった。冷たく言い放った。「おい。やれ」

 命じられた兵士が、しゃがみ込むと、機関銃を逆さに持ち替え、台座の角でケースの蝶番ちょうつがいを激しく打ち始めた。頑丈な蝶番だったが、とうとう金具は千切れてしまった。。

 クレティエンが問いかけるように豊と眼を合わせた。豊は視線を反らせた。

 兵士が壊れた蝶番に、ナイフを差し込み、力任せにこじ開けた。

 アタッシュケースは、ぱっくりと開いた――。

(あっ!)豊は驚いた。クレティエンも驚いた。

 ケースの中は空だった。

「何も入っていないじゃないか」将校が言った。

 クレティエンは、ぽかんと口を開けたが、すぐに我に返った。

「そうだ。きょうは何も入れていない」

 将校は、しばしクレティエンを見つめていたが、「フン」と鼻を鳴らした。

 その後、将校たちはピエールやセリーヌを尋問したが、結局、何も問題はなく立ち去っていった。


 ポーカーをしていた男たちは、緊張から解放されて、もうそれ以上飲む気にもなれなかったのだろう。帰っていった。

 クレティエンは、豊と眼を合わさずに、言った。

「私は帰る。長居をしすぎた」

 壊れたアタッシュケースを抱えて、ソフト帽のつばを掴んで目深に被ると、逃げるように店から出て行った。

 豊はそれを見送りながら考えた。クレティエンは、鍵を持っていないからケースの中身は知らなかった。だが、受けた命令から、それが何らかの命令文や機密情報が入っていると思っていたはずだ。

 ところがケースは空だった。それを見たクレティエンは、混乱したに違いない。ただ、少なくとも、自分の任務があまり重要ではなかったという事は悟っただろう。だから、一刻も早くこの場から逃げ出したくなったのだ。

 豊もまた混乱していた。鍵と共に受け取ったジョルジュからの指令は「十月九日夜にルゴー通りのバー、ジョゼフィーヌで連絡員と会い、箱を受け取れ。箱はこの鍵で開く。その箱に次の指令が入っている」というものだ。だが『七月の狼』の連絡員であるクレティエンが持っていたケースは空だった。

 いま「ジョゼフィーヌ」のただひとりの客となった豊は、カウンター席で考えていた。

 ラジオはもう放送時間が終わり、雑音が流れるばかりだ。ピエールがスイッチを切った。

「コニャックをダブルで」豊はピエールに告げて、三フランを置いた。それを受けたピエールは、豊のグラスにコニャックを注いだ。指令は十月九日での接触だ。十二時までは待ってみよう。

 時間がゆったりと過ぎていく。

 ピエールが店の奥の厨房に消えた。セリーヌが、ルブローションチーズを小皿に盛って、豊に差し出した。フランスではよく好まれるチーズだ。

「店のおごりよ」セリーヌは微笑んだ。

「ありがとう。コニャックをもう一杯頼むよ」

 フォークで、チーズを口に入れた。爽やかな酸味と柔らかく豊かな味わいがする。

 セリーヌがカウンター越しに身を乗り出して、小さな早口で言った。「義兄さんと必要以上に親しくならない方がいいわ」

 豊は驚いた。「どうしてだい」

「何か、私にも隠していることがあるみたいなの」セリーヌはそれだけ言うと、またグラス磨きを始めた。

 ピエールが戻って来た。 

 やがて十二時が訪れた。あれ以降、新たな客はない。おそらく今夜の接触は何かの手違いで中止になったのだろう。

 豊は言った。「さて、そろそろ私も帰るかな」

 ピエールが壁の時計を見上げた。

「セキさん。コニャックもいいが、赤ワインは飲まないんですかい?」

 豊ははっとピエールを見た。問い返した。

「ああ、普段は飲むが、ピエール、あんたなら赤ワインに一番合う料理は何だと思う?」

「あたしは鴨のテリーヌですな。あなたはどう思います?」

 豊は少し詰まりながら答えた。

「…私は子牛の生クリーム煮だと思うね」

 ピエールは手で顎をさすりながら、にやりと笑った。

「これで確認できた。客がいなくなるのを待っていたんだ。あんた宛の箱を持っているよ」

 豊は驚いた。ピエールも『七月の狼』のメンバーだったのだ。

 ピエールは酒棚にギッシリ詰まった酒のボトルを取り出し始めた。やがて裏の壁が現れた。そこに、はめ込みの金庫があり、ピエールはつまみを右に、左にと回して金庫を開けた。その中に、ステンレスの小さなケースが入っていた。それを出すと、カウンターの上に置いた。

「組織から預かっていた箱だ」

 豊は箱の鍵穴を探した。ステンレスの箱なので、結構重い。

 見つけた鍵穴に、持っていた鍵を差した。鍵はピタリと合った。軽くひねると、箱のフタが開いた。

 中には小さな紙切れがあった。

 書いてあるのは、数字だけ。どうやら電話番号のようだ。

 暗記すると、懐中からライターを出して、その紙を燃やした。

 紙切れが灰になると、顔を上げて、ピエールを見た。

「電話はあるかね?」

 ピエールは、顎で厨房を指した。

「あの奥だよ」

「すまない。ちょっと電話を借りるよ」

 豊は回り込んでカウンターの中に入ると、ピエールが指した厨房に入っていった。

 厨房は狭く薄暗かった。天井から下がる電灯に頭が当たった。

 電話はレンガの壁に取り付けられていた。受話器をはずすと、紙に書かれた番号通りに、順にダイヤルを回していった。

 受話器に耳を当てると呼び出し音が聞こえた。

 そして相手が出た。

「誰だ?」

「ユタカ・セキだ」

「私はジョルジュだ」

 豊は、ジョルジュの下で働いてきたが、これまで会ったことがない。声を聞くのも初めてだ。

「ここにかけてきたということは、箱に辿り着いたとうことだな。

 ユタカ、よく聞くんだ。

 箱は二つある。二つのルートで流した。

 一つは間違いなく信頼の置ける同志に。だが、その箱には何も入っていない。われわれの組織のネットワークが正しく機能しているかチェックするために流したものだ。

 もう一つは身元の割れているナチスの潜入スパイに渡した。この男はスパイだと分かっているが、いまは泳がせている。その仲間を知りたいからだ。そこから誰に箱が渡るか知りたかった。だがこれで分かった。

 ユタカ、この箱を君に渡した男はナチスのスパイだ。ただちに殺せ。君の身も危険だ」

 電話が切れた。

 これで合点がいく。クレティエンは空箱ルートの末端だったのだ。

 そしてピエールはナチスのスパイだった。

 だが、豊は凍り付いていた。拳銃は、ドイツ兵たちに没収されてしまった。どうする。改めて出直してくるか。

 人の気配を感じて豊は振り向いた。

 眼を見張った。ピエールが猟銃を構えて立っていた。銃口を豊に向けている。

 揺れる灯の下で、ピエールの顔が浮かんだり消えたりしている。

「日本の通信社記者とは格好の隠れみのだな。

 軍の機密がたびたびレジスタンスに漏れるのが不思議だったんだ。謎が解けたよ」ピエールが静かに言った。

 豊は、もうだめだと思った。ピエールが引き金を引けば、自分は死ぬ。拳銃さえあれば。

 豊は言った。「祖国フランスを裏切って、ナチスの犬になって恥ずかしくないのか?あんたには恥というものがないのか」

 ピエールがあざ笑った。「戦争はドイツの勝利だ。もうフランスもじきに地図から消えるだろう。

 それを言うなら、あんたこそ、日本人のくせにフランスのレジスタンスに身を置いて恥ずかしくないのか?」

 豊は言い返した。「日本は祖国だ。だが間違いを犯した。戦争を始めるべきではなかった。犯した間違いを早く正すために、おれは働いている。そして、おれにはフランス人の血が流れている。フランスは第二の祖国だ」

「ふん。あんたはおれを犬と言ったが、おれに言わせれば、あんたも犬だ。違うのは、おれは生き延びる犬だが、あんたは今夜死ぬ犬だということだ」ピエールは猟銃の撃鉄を起こした。

 豊はどうすることもできなかった。

 不思議と日本の景色が浮かんだ。満開の桜を見上げながら通った大学…、郷里の新潟でいつも見ていた日本海に沈む夕陽…。豊は眼を閉じた。


 パーン!


 銃声が響いた。豊はビクンと身震いした。痛みは感じなかった。

 眼を恐る恐る開けた。

 ピエールが「…なぜだ?」と呟きながら、ドサッと倒れた。

 その向こうに、セリーヌが立っていた。両手で拳銃を構えている。引き金は引き絞られていた。銃口からかすかに白煙が立ち上っている。ピエールは、背中から心臓を打ち抜かれていた。

 相変わらず揺れる灯りは、セリーヌの顔に動く陰影を形作っていた。

「セリーヌ…」豊が思わず呟いた。

 セリーヌは無表情でピエールの死体を見下ろしていた。

「ずっと前から怪しいと思っていた。義兄さんはナチスに協力しているんじゃないかと。

 今夜、はっきりしたわ」

「セリーヌ、ありがとう。君のおかげでおれは死なずに済んだ」

 豊は言った。

「…あなたが殺されそうだから、思わず撃ったけど、私、これからどうしたらいいのかしら」

セリーヌは、困惑した視線を豊に向けた。

「家族はいるのか」

「いいえ。この義兄さんだけよ」

「大丈夫だ。組織が何とかする。ちょっと待ってくれ」

 豊は、再びジョルジュに電話をかけた。。

「ユタカだ…」事の顛末をジョルジュに説明した。

「分かった。彼女には隠れ家を用意するから、朝すぐにミネット通り十八番のリディアーヌという女性を訪ねるように伝えてくれ」

 豊はそれを暗記した。セリーヌを振り返り、「君は大丈夫だ。『七月の狼』が身の安全を保証してくれる」といって、ジョルジュの言葉を伝えた。

 セリーヌは言った。

「あなたはどうするの?」

「また戦うよ。フランスとそして日本を救うために。それがおれの大義だから」豊は答えた。


(了)


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