第七十二話 そして、シロはいなくなった
何というか……、ホテル住まいにも、だいぶ慣れてきた。最初の夜は、枕とシーツの違いに戸惑って、寝入るまで時間を要したものの、今ではすっかりこのふわふわの毛布の虜さ。
「シロ……?」
俺とルネの間が定位置になっていたシロの姿がない。横を見ると、朝一番に拝むことになってしまう幼女の顔がなかった。代わりに、俺の可愛いルネの顔が真っ先に目に入ってきたのだった。
横になったままで部屋を見渡すが、シロの気配はない。この部屋の中にいないのか。あいつがいたところを擦ってみると、まだ温かい。ついさっきまでここで寝ていたのは確かなようだ。
上半身を起こすと、体が妙に軽い。この気持ち良さは、安眠した時に得られるものだ。悪夢を見るようになってから、安眠が出来なくなり、寝るたびに疲れが増していくという悪循環に陥っていたので、久しぶりに休んだという実感を得た。
悪夢を見て、起きた時に疲れが取れていたのは初めてかもしれない。決して安穏だった訳ではないが、現実世界の体は十分な休息を取っていたということか。
まだ寝ているルネを起こさないように気を配りながら、冷蔵庫まで歩き、牛乳を飲んでいると、徐々に頭の靄も晴れていく。鮮明になりつつある頭で、さっきまで見ていた夢の内容をおさらいしてみた。
下僕になりかけた『黒いやつ』を捜索して、生気のない街を、シロの突き刺さるような視線を気にしながらも歩く。歩く。ずっと歩く。
「いないね」
「いないな」
ずっと無言で歩き続けていたというのに、久しぶりの会話がこれだ。もう停滞感しか感じない。『黒いやつ』に首輪をかけて、やつが苦しみだしたのを見た時は、テンションマックスだったというのに。
「黒助く~ん! 遊びましょ~~う! ……駄~目だ。今日は塾のある日だから、遊べないってよ」
「ふむ。お兄ちゃんの寒いジョークは流すとして、ここまで見つからないのは予想外だね。さては、私たちに恐れをなして、隠れちゃったのかな?」
あの図体が無駄にでかい『黒いやつ』が、物陰で震えているところなど、想像出来ないが、これだけ探しても見つからないということは、そう結論せざるを得まい。
「あいつが使えないとなると……、勇者の一団相手に、どう立ち向かえばいいんだよ……」
「仕方ないね。隠れちゃったものはどうしようもないよ。ここは、この最強堕天使シロちゃんが奮して、憎いあいつらを殲滅するしかないね!」
いつもなら直接対決で後れを取っているのに、一人で立ち向かったりして大丈夫かとツッコむところなのだが、今日ばかりは何も言えない。小さな声で、頑張れと励ますと、シロが「うむ!」と胸を張った。その直後に目覚めて、ベッド上で覚醒した訳だ。
これまで散々苦渋を飲まされてきた『黒いやつ』を初めて退散させたことは、評価に値するのだろうが、どうもスッキリしない。試合に勝って、勝負に負けたような気分だ。
「ふう……。結局、『黒いやつ』に完全勝利するには至っていないんだよな。いつもどこかで独り勝ちしちゃうんだよな」
シロがいなくなった理由は考えるまでもあるまい。俺のミスで、やつを取り逃してしまう結果になり気分が悪いので、外の空気を吸うために散歩にでも出かけたのだろう。放っておけば、戻って来る筈なので、俺は社会人らしく、仕事の準備でも始めるとするか。
支度をしながら、ぼんやりと考える。『黒いやつ』を手駒にするのをしくじって、その上、シロまでいない。今、勇者の一団から襲撃されたら、俺は死ぬな……。
マジであり得そうな気がしたので、その考えは早急に振り払った。
「……いつもと違う」
今日も一張羅のスーツでビシッと決めて、ホテルの外で待機していると、いつものように迎えの車がやってきた。だが、やってきた車を見て、違和感を抱いてしまった。
迎えの車が、昨日までよりも、確実に高級感を増しているのだ。というより、横に長くなっていた。どこぞのVIPでも乗っていそうな、実益よりも高級志向を優先した悪趣味な変化を遂げていたのだ。
運転席を覗き込む。俺を毎朝送迎してくれている爺さんが、ハンドルを握って座っていた。どうせなら運転手も、若い美女にでも変化してくれていれば良かったのに。ともかく運転している人物が同じということで、車を間違っている訳でもないらしい。
通常、こういう車には、人生の勝ち組と呼ばれる方々が乗るものじゃないのか? 言っておくが、俺は新しい職場から特別扱いしてもらえるほどの評価してもらえるほどの成果を収めていないぞ。
あっ、まさか雇い主の富豪が乗っているとか。ここに来ている筈もない雲の上の存在なのだが、やつが乗っているのなら、この無駄な高級仕様の意味も理解出来る。
「どうされました。まだ夢の世界にでもおるんですかの。そんなところに突っ立っておられないで、早く車にお乗りなされ」
「え、ええ……」
乗るのをためらっている内に、運転席の爺さんから催促を受けてしまった。出向先から怒られるのは、何よりも怖い悲しい社会人の性で、俺は背伸びして車に乗り込んだ。
「って、おい……! 城ケ崎ぃ!?」
ドアを開けると、そこには見知った顔が座っていた。しかも、俺と同じようにスーツで決めている。
「おはようございます、宇喜多さん」
「おはよう……」
動揺する俺と対照的に、あいつは落ち着き払っていた。挨拶をされたから、思わず返事をしてしまったものの、脳内は依然クエスチョンが飽和状態。何故? どうして、ここに城ケ崎がいるのだ。こいつは女友達の家に寄生しているニートの筈だろ?
車内には他に誰もいないみたいだし……。えっ? 車が一回り悪趣味に進化したのって、まさかこいつのせい!?




