第七十一話 あなたのご主人様はどなたですか?
地上千メートルから振り落とされた衝撃は凄まじく、叩きつけられた際に舞い上がった砂埃もなかなか晴れなかった。
痛え……。あいつ……、本気で叩きつけやがって。
夢の中において、どれだけの衝撃を受けても、骨折や欠損することはないが、痛みだけはしっかりと知覚するのだった。夢なんだから、痛みの方も感じなくしてほしいと、今更ながら思う。
現実世界なら、とっくに死んでいるような貴重な体験をした筈なのに、感動は全くないな。
ようやく目を開けられる程度まで、痛みが緩和してきた。辛うじて目を開けると、ぼんやりと空の向こうにあいつが飛び去っていくのが見える。相当ダメージを受けているのか、ふらついているじゃないか。もう少し頑張っていれば、こっちの勝ちだったのにな。自分の不甲斐無い根性が恨めしい。
「……お兄ちゃん」
「う……」
俺と同じく地面にめり込んでいるシロの声がすぐ横からした。多くは語らないが、俺の失敗を非難している意思だけは明確に伝わってきた。真っ直ぐに突き刺さってくる刺々しい視線に耐え切れずに、体ごと視線をずらしてしまう。
「あの……。すまん……」
重い沈黙の後で、ようやくそれだけ絞り出したが、シロからの返事はない。
「あの……」
「……あ~あ! 私、頑張ったんだけどな~!」
沈黙に耐えかねて、もう一度謝ろうとしたところで、やっとシロが口を開いてくれた。ただ会話の内容は至って辛辣なものだった。非難めいた言葉が、遠慮なく俺に突き刺さる。懸命に今のは仕方がなかったと弁明しようと試みたのだが、下手な言い訳は逆効果だと断念して、素直に頭を下げることに徹しよう。
「もういいよ。済んじゃったことだしね」
構わないと言ってくれているが、声の口調から機嫌が悪いのは明らかだ。俺は悪いことをしたと反省しているし、言いたいことがあるのなら、心ゆくまで吐き捨ててくれて構わないんだぞ。それで気が晴れるなら、是非そうして欲しいくらいだ。微妙な態度が続くより、そっちの方が絶対良い!
「あいつは……、どうなるんだ?」
誤解がないように断っておくが、いずこかへと飛び去った『黒いやつ』のことを心配している訳では、断じてない。
最初は鎖から手を離してしまったものの、首輪はかけたのだから、鎖の魔力が発揮されて、やつは俺の忠実な下僕になってくれると思っていた。だが、シロの浮かない表情を見る限り、その目論見は改めた方が良いらしい。
「どうもこうも、鎖の魔力がもう全身を蝕んでいる筈だから、忠実な下僕に成り下がっているよ」
「下僕になっているって……。ご主人様を思い切り振り回して、地面に叩きつけたじゃないか。あれはやつなりの愛情表現だとでもいうのか?」
「あの時はまだ完全に下僕になっていなかったからね。でも、今頃は完全に……」
「どこかに飛び去ったじゃないか。いつになったら、ご主人様の元に戻ってきてくれるんだ? 今やつは何をしているんだ? これからお世話になりますって挨拶するために、フルーツの盛り合わせでも買いに行っているのか?」
「一気に聞いてこないでよ! ちゃんと話すからさ」
俺の質問攻めにシロがうんざりしたように、ため息をついた。俺の失態に呆れているところに、さらに気分を害することをされたので、シロの呆れは最高潮に達したらしい。俺に聞こえるように、わざと大きなため息をつきやがった。
「もう一度言うね。黒助くんは鎖の魔力で下僕に成り下がっています。でも、まだご主人様がいない状態です。どういうことかというと、主人の証である鎖を手にしている人間がいないからです」
「……」
本当は俺が就いている筈だったご主人様の座。だが、最後の詰めをしくじったばかりに、鎖を持っている者はなく、宙を虚しく揺れている状態だ。
「早い話が、あいつを縛り付けている鎖をいち早く手にした者が、ご主人様として認められるってことか?」
「そういうことになるね」
「つまり……」
「早い者勝ちってことだよ!」
生まれたてのヒヨコが、一番最初に見た者を親と認識してしまう修正を思い出すな。さしずめ、自分の首輪を最初に引っ張ってくれたやつを、ご主人様と認めるということか。何ともそそられない話だな。
とにかく状況は把握出来た。要するに、飛び去った『黒いやつ』をもう一度見つけて、首から垂れている鎖を掴んでやればいいのか。万が一、俺以外の誰かが、あの首輪の鎖を掴んだら、そいつがご主人様になってしまう訳か。美味しいところだけ持って行かれるみたいで、気持ちが良くないな。
とは言いつつも、この世界に、俺たち以外の誰かがいないことはよく分かっていたので、焦りはなかった。
「手放したのなら、もう一回掴めばいいだけだ。シロはそこで待っていてくれ。俺が『黒いやつ』を見つけ出して、今度こそ下僕にして連れ帰って来るから」
汚名返上とばかりに、単独で『黒いやつ』探索に向かおうとしたが、シロの口から、再びため息が漏れたのだった。
「気持ちは嬉しいけど、お兄ちゃん一人で行ったって、返り討ちに遭うだけだよ。良いところを見せようとか思わないで、ちゃんと私にも付いて来てって頼まないと、「めっ!」だよ!」
「……どうも」
言葉遣いはよろしくないが、俺に協力を申し出てくれたのはありがたかった。てっきり私はもう知らないから、後はお兄ちゃん一人で責任とってねとか、言われると思っていたよ。
シロが手を貸してくれるなら、後はやつを見つけるだけだ。もう首輪は嵌められているのだから、鎖を掴むだけの単純作業。相手はふらふらだし、シロが攻撃で足止めしている瞬間を狙えば、苦も無く鎖を掴んで終了。この世界に来て、初の楽勝と思える作業だった。
追う側と追われる側の立場が逆転したことを実感しつつ、二人でどこまで続くか分からない世界を探し回った。だが、ここのどこかにやつは必ずいる。それを追いつめるだけの作業……。問題はない筈だった。
だが、予想に反して、その後、『黒いやつ』の姿を確認することは出来なかった。あまりにも見つからないので、業を煮やして、声高に口汚く挑発してみたが、反応はなかった。
「見つからないな」
「また現実世界にでも行ったのかな?」
前回、やつが現実世界に来た時の惨劇を思い出した。アレの再現はマジで勘弁してほしい。
「馬鹿な……。あいつはグロッキー状態だぜ。次元を超える元気なんてあって堪るかよ」
「分からないよ。火事場の馬鹿力って言葉があるからね」
仮にそうだとしても、これ以上の面倒事はノーセンキューだ。たまには、順調に思惑通りに進んでくれても罰は当たらない。




