第五十四話 黒の脅威の衰退
アパートだった建物の前に、パトカーが到着したようだ。赤い点滅が、電気設備が壊れてしまった建物内を、赤く照らしている。
俺は、大の字に寝転がる姿勢で、呆けていた。早く立ち上がらないといけないのに、上から落下した時と同じ姿勢のままだ。
「アパート……。壊れちゃったな……。もしかしたら、俺ももうすぐ壊れることになるかもしれないがね……」
住処が壊れたというショックが、だんだん濃くなってきた。ローンや借金がある訳ではないが、やはり精神的にノーダメージともいくまい。
天井に空いた隙間から、『黒いやつ』がじっと見つめている。録画した映像を停止しているかのように、微動だにしないが、次に動いたときは、一直線にこちらに向かってくることだけは確信出来た。
しかも、頼みの綱のシロは横にいない。床が抜け落ちて、下の階まで転落した際に、離れ離れになってしまったみたいだ。ちょうど隣に、さらに下の階に通じる穴が開いていたのだ。どうせなら、俺もそっちに落ちたかった。
「万事休すか……」
落下の際に、骨は追っていないが、体は痛んで、無理に起き上がっても、走れそうにない。追いかけっこをしたところで、勝負にもならない状況に、俺は潔くおねんねを決め込むことにした。
破壊者との見つめ合いが終わった時が、俺の名運の尽きる時かなと、縁起でもないことを考えていると、俺を探す声がしてきた。
「ご主人……、様……」
この声は……、ルネ? あいつ、まだ避難していなかったのか!?
がれきの隙間からルネが顔を出す。どこも怪我していないみたいだが、足取りが覚束ない。
「お、俺は良いから、逃げろ……! お前まであいつに襲われるぞ!」
「あいつ……?」
ルネは最初、俺が何を言っているのかが分からないようだったが、上でこちらを観察している『黒いやつ』を視認すると、全てを理解したようだった。
「ああ、そうですか。みんなあいつが悪いんですね」
「そうだ! 理解したのなら、すぐにでも逃げろ。俺は自分でどうにかするから」
本当はどうしようもないが、つい強がってしまった。ルネが手を貸してくれたところで、どうにかなると思ってもいなかったので、当たり前の言葉ともいえる。
「ちゃんと……、閉じ込めていたのに……。私の目を盗んで、また悪さして……。本当に仕方のない子……」
「ルネ? 何を言っているんだ? 頭でも打ったのか?」
これはまずいと、ルネに駆け寄ろうとするすると、彼女の頭上でビキビキと音がした。これは、夢の中で聞いた空間の避ける音だった。
そういえば、夢の世界からこっちに来た時も、ルネの頭上に出来ていたっけ。これは一体……。
いぶかしむ俺をよそに、空間の裂け目は拡大していく。気のせいだろうか。『黒いやつ』に向かって笑いかけたように見えた。その様子はまるで……。
「口……?」
ルネの頭上にまたも生じた空間の裂け目は、笑っている口を連想させる動きをした。空間の裂け目に、意識がある訳がないのに、不自然な揺れだ。しかも、向こうに見えるのは、俺が眠る度にお世話になっている白黒の世界だった。つまり、『黒いやつ』が本来いるべき場所だ。
それまで感情を感じさせなかった『黒いやつ』が、明確に震えた。あの世界に戻されるのを嫌がっているのだ。
「逃がさない……!」
ルネの瞳が妖しく光ったかと思うと、空間の裂け目が、人が息を吸うときと酷似した動きで、歪んだ。
それが合図だったかのように、『黒いやつ』は、空間の裂け目の中に吸い込まれていってしまった。飲み込むと、すぐに空間の裂け目も消えた。後には、俺とルネだけが残される。
「……」
さっきまで一緒のベッドで寝ていた仲なのに、どう声をかけたものか、ためらってしまったが、努めて笑顔で話しかける。
「なかなかすごい能力を持っているんだな……。だが、リクエストをするなら、もう少し早く使ってほしかったかな」
既にアパートは、人が住める状況ではなくなってしまっている。『黒いやつ』が消えたからといって、胸を撫で下ろせる状況ではないのだ。
だが、ルネはいつものように笑い返してきてくれなかった。力を使い果たしたかのように、気を失っていたからだ。
「ははは……。寝ちゃっているよ。これからのことを考えると、俺は不安でいっぱいなのに、呑気なものだ……」
起き上がって、ルネに近寄る。さっきまで空間が裂けていた辺りを手で確認してみるが、何の異常もない。何もない空間があるだけだった。
「ルネにも特殊な力があったということか。しかも、それを上手く利用すれば、悪夢を見なくても良くなるかもしれない」
利用という言葉が引っかかったが、悪夢を見ずに済むかもしれないというのはありがたいな。
「それだけ? 他に気にするべきことがもっとあるよ」
「……!」
いつの間にいたのかは分からんが、おかっぱ頭の幼女が、俺の隣にいた。しかも、俺と一緒に、屈んでルネを眺めているではないか。
「お前……!」
「やっ!」
さっき車をぶつけて殺そうとしたくせに、白々しくも挨拶してきやがった。
「む? お呼びじゃない?」
どうして自分が睨まれているのか分からずに、おかっぱ頭が首をかしげている。そっちがそういう態度なら、分かるまで念入りに説明してやろうか? 並みの幼女なら、泣き出すくらいハードな説明をよ!




