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第百九十九話 刹那の判断

新しい電子レンジを買いました。

 拍手してやりたいくらいにきれいな右ストレートを決められてしまった。そして、俺はそのまま気を失う。以上だ。簡単すぎるかもしれないが、あまり自分が殴られる話を詳しく話したくもないのだ。


 それでその後、気絶した俺は揺すって起こされるまで間抜けな体勢で伸びていたのかというと、そうではない。いや、実際そういった姿で伸びていたのは確かだろうが、意識は別の世界で覚醒していたのだ。特徴としては白と黒の二色しかない世界だ。そして、今そこを憂鬱な気持ちで歩いているというのが現状だったりする。


 断っておくが、気を失ったのに、こうして歩いているからといって、決して死んだ訳ではない。ここはあの世ではないのだ。


 突然飛ばされたとはいえ、この世界には覚えがあった。というか、ここで散々嫌な目に遭わされたことがあり、もうトラウマの域に達してしまっているレベルだ。可愛いメイドと添い寝している天国から、いきなり地獄に叩き落された経験を思い出す。精神的に弱い人なら発狂しても責められないほどのジェットコースター的悪夢展開だ。


 いつもなら就寝後に飛ばされる夢の世界に、どうして飛ばされてしまったのかについては、心当たりがあった。


 気絶する原因となった一撃を食らう前に、ゼルガからルネの魂を投げ渡された。何か裏があるのではないかと疑いつつも、二度と離すまいとしっかり握ってポケットにおさめた。あれが原因なのではないか。


 もし仮説が当たっているのなら、就寝中でなくても、ルネが近くにいる状態で気を失うとこの場所に送り込まされてしまうということになる。ともかくこんな世界からは早々とおさらばしたいところだが、起きた先も地獄だから、どっちがマシなのか、つい考えてしまう。


「それにしても……、痛みまで継続しなくてもいいのにな……」


 気絶する直前にぶたれた後頭部をさする。そっと撫でても痛みはどこにも飛んで行ってくれなかった。救いがないことに、痛みの方は継続していたのだ。どうして気が付いた先でまで痛い思いをしなければならないのだと、理不尽な身の上に怒ったが、どうしようもない。行き場のない怒りのはけ口を探すように、自分をノックアウトしたやたら図体の大きい熊のことを改めて苦々しく思い返す。気を失う直前に丸焦げにされているのを確認したが、今頃はあの世でソースでもかけられて神様の食卓にでも出されていることを切に願うばかりだ。


「……げ」


 失望の呻きを出して、前方向に向けていた足を止める。というよりは、固まって動けなくなったと表現した方が正確かな。災いが待ち構えていた。痛みで歪めていた顔を、さらに歪ませる。


 この世界には以前黒太郎という真っ黒な正体不明の巨大な人型が存在した。最終的には異世界の力により、俺の下僕となって数々の強敵たちと代わりに戦って、今ではどこでどうしているのかも分からない。早い話がそいつのお友達と遭遇してしまったのだ。


 うん。相変わらず風景を墨汁で塗りつぶしたかのように、やつのいる部分だけが純粋な黒で占められている。白と黒しかないこの世界でも際立っている。表情は当然読めない筈なのに、何故かこっちを見ているのが分かってしまうという不思議。ついでに言うと、俺に対してあまり好意的でない。


 ただ今回はちょっと違っていた。俺が見知ったやつではない。初めて見るやつだ。しかも……、単体じゃない。


「……」


 なんか多くないか? 指で数えてみると、全部で八体いた。みんな俺の知っている初代の黒太郎と同じ強さだと仮定すると、非常にまずい立場に置かれていることになる。


「……な~んで増えているんだよ。家族なのかお前ら? 元は一体だったのが、頑張って分裂していったとか」


「……」


 話しかけてみたが、返事はない。無口なところは初代と変わらない。あいつから増殖した説が最有力かね。


 本当に多種多様な黒太郎たちだった。大小様々と表現しても良い。太っているやつもいれば、痩せたやつもいた。ただ一番小さいやつでも俺よりは一回り以上大きいから可愛くはない。


 繁々と観察しても、少しも嫌そうな顔をしない。真っ黒だから、表情なんて読み取れないから、正しくは嫌そうな素振りは見られないというところか。だが、一様に殺気を飛ばしてきていることだけは察した。


 どいつもこいつも大人しくしているように見えて、揃いも揃って臨戦態勢という訳か。俺がそんなに気に入らないのかね。それとも、ここに来たやつはみんな黒太郎たちから可愛がりの洗礼を受けることになるのかな。


「いいぜ。とことんやろうか」


 こいつらは会話が出来ないからな。単に無口のだけかもしれないが。襲い掛かられるのが避けられないというのなら、やけだ。わざとらしく拳を鳴らしながら、一体ずつ黒太郎たちを睨んでいく。そうすると、向こうも「お、やる気か?」とにじり寄ってくる。


 精いっぱいの虚勢を張ってギロリと睨みつつ、内心では走り出すタイミングを計っていた。走り出すと言っても、前方に飛び出すためではない。


 くるりと回れ右をして一気に駆けだす。一目散に逃げ出す。頭の中では何度も「逃げるが勝ち」を繰り返し、自らの行為を正当化した。


 戦うとでも思ったか? そんな無謀なことをする訳がないだろ。俺に戦闘力が欠けていることなど、最早周知の事実だ。今更逃げたところで誰も驚いたりしない。この展開を予想していた人だって、少なくはない筈だ。


 初代と同じく単細胞なのか、俺の行動に反応できず動き出すのが一瞬遅れたのが、連中に背を向けながらでもハッキリと分かった。だが、すぐに猛追を開始する。かなりの重量で地面を蹴るので、地鳴りみたいに揺れる。背中越しにもすごい迫力だ。


「スタートは上々! このまま行くぜ」


 自分で言うのも何だが、出だしは最高だった。




 決着はすぐに着いた。もちろん俺の惨敗。最高だったのは出だしだけだった。最初こそロケットスタートを決めたと思ったのも束の間、黒太郎たちの猛追の前に、あっという間に追いつかれてしまい、一匹のたくましい腕に襟元をがしりと掴まれてしまった。走る速度でも向こうが圧倒的だったのだ。


 その後のことは思い出したくもない。ひたすら苦痛だけだった。


「う……」


 呻きながらも咳き込む。ごほんとむせるたびに痛みが全身を駆け巡る。謝ってみようかとも思ったが、俺が謝る理由がないし、さすがに腹立たしいので止めた。そう思っていたら、また脳天をドカリと蹴られた。


 黒太郎たちはどれだけ殴りたいのか、暴力の雨が止む気配は未だに感じられない。こいつら、呼吸するのと同じように、何かを殴っていないと死んでしまう体質なのではないだろうか。もうボロ雑巾みたいな俺の足をグイと掴まれる。そして、バットの代わりに、俺の体でフォームが滅茶苦茶な素振りのバッティング練習を行う。体中に痣が量産されていく。どこかからホームランと叫ぶ歓声まで聞こえてきそうな勢いだ。上出来なのはゼルガからの連戦で、まだ歯が折れていないことくらいではないだろうか。


 掴まれている状態なので、自由は利かないが、もう足元がフラフラなので、どっちにせよ自らの足で立つことは厳しい。


 もうこんな目に遭いたくないので、さっさと気絶してしまいたい。そもそも気絶して、ここに来てしまったのではなかったか。というより、この世界では気絶も死亡も出来ない仕様だったような……?


 殴られる。逃げることも叶わず、仕方なくぼんやりと考える。また殴られる。気を失いたい。でも、出来ない。


 愉快とはとても言えない負のスパイラルが続いていくが、予想通り、気絶することは叶わなかった。


 そろそろ目の前の風景がぼやけていくかなと思っていたら、そうならなかった代わりにスッパリと裂けていく。いや、正確には、俺は男なので経験はないのだが、ストッキングが伝線していく時ってこんな感じなのではないかと思う。


 言っておくが、俺は正常だ。いつ気が狂ってもおかしくないほどボロボロだが、今はまだ正常だ。


 ゆっくりと、少しずつ、空間が横一文字に裂けていく。いや、斬られている。向こうに広がっているのは、慣れ親しんだ色とりどりの世界。だが、白と黒ばかり見ていたせいか、ちょっと目に痛いかな。すぐに慣れるだろうがね。


 空間は軽快に裂けていき、あっという間に標準的なドア一つ分の大きさにまで広がった。その後も、止まることなく、依然裂けていっている。


 向こうの空間から人影がちょこちょこと動いているのが見えた。小さい一つの人影が境界をまたいで駆けてくる。


「お兄ちゃん!!」


「シロ……」


 ついさっきまで顔を合わせていた相手だというのに、再会がこんなにも喜ばしく、胸が弾む。年上のプライドとか抜きにして、顔がほころぶのを好きに任せたい。


 続いてシロの後ろからあまり会いたくない相手が顔を見せる。


「やあ♪」


 友人にでも話しかけるようなフレンドリーな態度だが、俺たちの間にそんな建設的な関係は存在しない。挨拶代わりに思い切り睨んでやった。


「ひどい顔だね。せっかくのイケメンが台無しだよw」


 そう返してきたか。毒舌の方も健在な訳ね。ゼルガの皮肉を受け流し、気を失った時のことを回想する。


 意識を集中すると、するすると記憶が紐解かれていく。依然、黒太郎の一匹に捕まれたままだというのに、俺は奇妙なほどに落ち着いていたのだ。


 え……、とっ。確か、熊の攻撃を食らって、気を失って……。違う、違う! 思い出すべきは他のことだ。


 攻撃を食らってしまって……、自分でも意識が遠のいていくのが分かったのだ。本当は……、その時点で気付いていたのだ。気絶したら、この世界に飛ばされることが。


 頭によぎった途端、ある考えが思い浮かんだ。ゼルガの相手なんぞ、黒太郎に押し付けてしまえと。


 とにかく俺はもうすぐ気を失ってしまうため、直接ゼルガに話を付けるということは出来ない。気を失うわずかな時間で、シロに伝えなくては。


 回らない頭で反射的に右手に力がこもった。


 シロに向かって、ルネの魂を掲げて見せたっけ。


 無関係の一般人にこんなことをしてみせたところで、何をしているのがサッパリだろう。俺がおかしくなったと思われる場合もあるかもしれない。だが、俺と一緒にここへやってきたことのあるシロなら、それで十分なのだ。実際、やつには正しく、こちらの意図が通じたみたいだしな。


 そうだ……。そうだったのだ……。


 そんな大事なことを大変信じられないことに、たった今まで忘れてしまっていたのだ。我ながら間抜けなことだが、それだけ大変だったのだと、弁明させてもらう。


 とりあえずよくやったと、咄嗟に取った自分の行動を褒める。


 作戦は成功したらしい。ゼルガが俺を掴んでいる黒太郎の顔面に、激しい蹴りを見舞っていた。いきなりのことに驚いたのか、手にかけられている力が緩む。その瞬間を見逃さず、渾身の力で拘束から逃れた。その際に転倒してしまい、尻を強打してしまったが、そんなことに構っていられない。すぐさま、四つん這いで黒太郎たちの元から離脱した。既に黒太郎たちの興味がゼルガに映っていてくれたおかげで、退避はことのほか順調に済んだ。もう連中にとって、俺はもうどうでもいい存在なので、このままどこへでも自由に行けるだろう。


 もう本当に体力の限界だったのだろう。シロのところに辿り着くと、突っ伏したまま動けなくなってしまった。


「お兄ちゃん、大丈夫だね!」


「ゴホッ! そこは大丈夫かどうか聞くところだろ……」


 大体今の俺のどの辺りが大丈夫に見えるんだよ!? もう早く家に帰って休みたい……。いや、そうじゃなくて、この傷をどうにかしないと。


「お医者さんに診てもらわないとね!」


「鶏頭のやつのところだけは勘弁してくれよ」


 背後からは早くもゼルガと黒太郎たちが刃を交える音が聞こえてきていた。


 さっきまで俺にご執心だったくせに、なんとも浮気性なことだ。もっともそちらの方が死ぬほどありがたいので、その隙に退散させてもらうとしよう。ゼルガが勝手にリタイアしたことで、ゲームの方も俺たちの勝ちのようだ。もうゲームのことは忘れているんだろうがね。


 周りが敵だらけで戦いには困らない筈のゼルガのやつが俺たちに(いやもしかしたら俺個人にかもしれないが)、どうして執着したのかは謎だが、今となってはどうでも良い話だ。願わくば、双方仲良く力尽きて、消滅しやがれ。


真夏の炎天下、重いレンジを泣き言を漏らしながら家まで運びました。かなりの肉体労働です。汗をすごくかいた上に、腕がまともに持ち上がらなくなるくらいプルプルいってました。

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