第百九十六話 袋小路のネズミの料理法
一か月も空いてしまった……。次はせめて6月上旬のうちに……。
「逃げるが勝ち」という言葉があるが、今の俺たちのしていることは、まさにそれだった。
迎え撃つとか格好いいものではなく、全力で身を隠すために汗水たらして、てくてくと階段を下っていた。いや、進んでいるというよりは地下に向かって一心不乱に降りていたという方が正しいか。
エレベーターを使わないのが辛いところだが、シロの話ではワープ出来ないように結界も張っているそうなので、ここに来ようとしたら、鬼役であるゼルガも同じように階段を頑張って降りるしかない。今死ぬ思いをしているのは、安全を確保するためなんだと自分に言い聞かせて、余計なことは考えないように一歩一歩しっかりと降りる。上からの光が届かないくらいのところまで降りる頃には、流れる汗は滝のような量になっていた。
もう頭が真っ白になって肩で呼吸をするようになって久しい。集中を意識するまでもなく、余計なことが頭に上らなくなった頃、ようやく最深部に到着した。階段を踏み外す心配がなくなっただけでも気が和らいだ。
だが、シロの足は止まらない。階段を下りた足で、てくてくとさらに進みだした。その先には、明らかに巨大な力で破壊されたような空洞が広がっていた。やつの仕業であることは聞くまでもないこととはいえ、相変わらず力はすごいが雑だ。
「ふっふっふ! 残念ながら、まだ終わりじゃないんだよ! ここからもうちっとだけ進むのさっ!」
人の思考を盗み読んだかのように、釘を刺してきやがった。そんなことは見れば分かるが、改めて説明されると疲れがドッと出てくる。本当に要らないことをしてくれたよ。本音を言うと喉から手が出るほどに一休みしたいが、生憎とシロだけでなく城ケ崎までも既に歩き始めている。こうなると俺だけが疲れたので休もうとは言い難い雰囲気だ。
仕方なく、亜美を担いでいる手にもう一度力を入れる。せめてこいつだけでも床に下ろして、乳酸でガチガチに固くなった腕をほぐしてやりたかった。女性に対して失礼かもしれないが、こいつ、結構重いのだ。階段を降り切った時に、一瞬とはいえ、緊張の糸が緩めてしまったのがまずかったからか、さっきよりも重く感じる。心なしか、呼吸も荒くなっている気がする。
結局、そこからも散々歩かされた挙句、ようやく目的地に到着した。その時には、もう腕が千切れそうになっていて、内心では百回くらい盛大な悲鳴を上げていた。
通路の突き当たりに、扉が一つだけ。周りの壁は適当に崩れているのに、扉の周りだけきれいに削られていた。絶対に壊されないという自信があるのか、扉は真っ赤に塗られていて、不遜なくらいに思いっきり目立っていた。壁と見分けがつかなくして見つけられないようにしようという気はまるでないらしい。
「ここにゲームが終了するまで籠城するんですね」
「そうだよ! ここに一晩引きこもるのさ! お兄ちゃん、美少女が三人いるからって、変な気を起しちゃだめだよっ!!」
そんなことはないと力強く否定してやった。お前は美少女じゃないだろうという根本的なツッコみは抜きにしても、この緊迫した状況下で変な気を起こすほど馬鹿な男ではない。
「なあ、やたら壁にお札が貼られているんだが、幽霊でも出るのか?」
発言してから気付いたが、異世界関連の話だと、この札を剥がすと大爆発が起こることが多かったっけ。背中に冷たいものを感じて、やっぱり興味ないと制止しようとした時には、シロの手はお札の一枚に伸びていた。そして、そのまま自信たっぷりにビリッと剥がす。
俺の予想を裏付けるかのように、シロが札を剥がした途端に、大爆発が発生する。俺が木の葉のように宙を舞ったのは言うまでもない。
「この通り!! 派手に爆発して敵を木っ端みじんにしちゃうんだよ!」
今回は俺たちの方が木っ端みじんになりかけたがな。壁に叩きつけられた際に強打した箇所を擦りながら、威力は申し分ないなと太鼓判を押した。傷口は痛んだが、歩くのに支障はなかったので扉の内側へと入る。
「頑丈そうだな。さっきの爆発を百回くらい起こしても問題なさそうだ」
中にはテーブルや椅子すらも置かれておらず、いかにも防空壕といった造りだが、頑丈さはピカイチなことだけは見ただけで伝わってきた。
シロの少々大袈裟な説明を加えるのなら、核爆弾が百回投下されても余裕で持ちこたえるらしい。もしそうなったら、地球の方が先に消滅して跡形もなくなりそうなので、実証してみることは難しいが、頼もしいことだ。
担いでいた亜美を丁重に寝かせると、限界まで張りつめていた筋肉をほぐしてやる。重量という呪縛から解放されて得られる何とも言えない快感。久しぶりに娑婆の空気を吸ったような快適で満ち足りた気分だ。ぜいたくを言わせてもらえれば、水があると尚言うことなしなんだがね。
「ふっふっふ! お兄ちゃんには悪いけど、食料や水の買い置きはしてないよ! この空間は短期決戦専用だから、ぜいたくは言いっこなしなのだよ!」
「……」
またしても俺が考えていたことに対してツッコまれた。何らかの方法で心を読んでいるのではないかと、本気で心配になってきたな。いや、それよりも水がないと念押しされたのが、割と本気でショックだ。
「水分補給はここを出るまで我慢しましょう。ここには何もありませんが、争いの種もない。それで良しとしましょうよ」
城ケ崎が慰めてきたが、元々水分を持参しなかった俺にも落ち度はある。汗を大分流してしまったが、一日くらい摂取しなくても死にはしない。俺は観念して、明日の朝まで瞑想に専念することにした。
そうとも。水や食料と引き換えに安全が手に入るのなら、安いものじゃないか。だから、ここにゼルガが攻めてこない内にタイムアップを迎えてくれ。俺は戦闘が大嫌いな平和主義者なので、争いたくはないのだ。
結果から言うと、その願いは儚くも潰えた。具体的な時間にすれば、立てこもり開始から三時間弱だ。
どういう手段を用いたのかは不明だし、知ったところで今更どうしようもないのだが、ゼルガはあっさりと潜伏場所を嗅ぎ付けてしまったのだ。
「ねえねえ、引きこもってないで、俺と遊ぼうよ。……いるんだろ?」
こっちは一言も返事をしていないのに、やけにしつこく呼びかけてくる。いくら無視を決め込んだところで無駄らしい。だからといって応じたりすることもないがね。
「ねえってば。いるんでしょ? シカトをするなんて、気分が悪いなあ。そんなに相手にしてくれないっていうんならね……」
わずかの沈黙の後、扉を通じて殺気が伝わってくる。ゼルガが強引に扉を切り刻もうとしているのが容易に想像出来た。
「むむ!?」
金属の折れた乾いた音と、ゼルガの唸り声がした。自慢の愛刀が折れたか……。続いて、強い力で乱暴にドアを破壊するような轟音が木霊して、室内も振動したが、それにもひび一つ入らない。続いて、悔しそうな獣の唸り声が漏れ聞こえてきた。ここに来ているのは、ゼルガ一人だけではない……?
「やれやれ。全くしぶといね、君たちも」
口調からは苛立ちを微塵も感じず、むしろ手こずらされていることを快感に感じているような雰囲気が漂っている。こっちは命がけで頑張っているというのに、鼻につく余裕だ。
ともかくゼルガの最たる攻撃手段の愛刀が折れてくれたのは助かる。これでやつの攻撃力は大幅に落ちる筈だと考えていると、ドアの向こうから爆発音が聞こえてきた。まさかあんな見え透いた罠に引っかかってしまうとは……。ひょっとしたら、俺はやつのことを買い被り過ぎていたのかもしれない。隣ではシロが自分の罠に引っかかったのがよほど嬉しいのか、手で口を押えて笑いを必死に押し殺している。
「……」
爆発音が収まっても、やつの声が聞こえてこない。そろそろ扉が破壊出来ないことに苛立ってくる頃かと予想していたが、意外なことに聞こえてきた声は、相変わらず落ち着き払っていた。
「前言撤回。やっぱり出てこなくていいや。引きこもり続行でよろし♪」
「?」
意外な言葉に中の三人で顔を見合わせる。もう出てこなくていい?
俺たちを殺すのを諦めたのかとも思いかけたが、ゼルガに至ってありえないとすかさず振り払った。
「……うん!?」
轟音が鳴り、室内が軽く揺れる。天井からは微量の土埃が舞ってきた。ゼルガ……。また札を剥がしたのか。一度嵌った罠に再び引っかかるとは、焼きが回ってきたのだろうか。
行動の真意が分からず頭を捻っていると、爆発音とは別の轟音が聞こえてきた。これは、岩盤が崩れる音だ。あれだけ大きな爆発が起こったのだ。当然、通路だって無事では済まないだろう。
崩れる……。
このままの勢いで崩落が続いた時のことを考えて、ちょっと怖くなってきた。ゼルガの狙っていることは、もしや……。
「あの……、ドアが開かなくなっているんですけど……」
「何だと!?」
不安を裏付けるかのような声が呟かれた。城ケ崎がドアノブを捻って回しているが、扉はピクリともしない。
もしかして、これは……、生き埋めにされようとしている……?
扉の向こうからは、依然轟音が続いていた。
職場の近くに、日付の変わる頃、路上で無料の人生相談をする人が出没するようになりました。十五分くらい営業した後、いつの間にかいなくなっています。それなりに歓楽街で治安も良い方だとは思えない地域なので、無料でやるメリットはあるのだろうかと不思議です。なんか怪しいので、相談に乗ってもらおうとは思いませんけどね。嘘のような本当の話です。




