第十四話 怖い夢を見た朝は、白いハチミツミルクを
意味が分からないのだが、就寝中に廃墟のような建物で、謎の存在に襲われることになってしまった。いつの間にかそこに飛ばされて、これまたいつの間にか自宅に戻されたのだ。全く訳が分からん。
「あ。ご主人様、起きられましたか?」
額に浮かんだ脂汗を右腕で拭っていると、エプロン姿のルネが、キッチンから顔を覗かせた。先に起きて、朝食の準備をしていたみたいだ。エプロン姿が初々しい。
ルネがしているエプロンは私物らしい。そんなものを入れるバッグなどは持っていなかったと思うのだが、どこに隠し持っていたのかね。
まあ、いいや。ルネは異世界の住人なんだし、特別な力でも使ったんだろう。さっきまで必死で逃げ続けていたせいで、未だに放心状態なのだ。そんな細かいところは、どうでも良かった。
パジャマ姿のままでぼんやりしていた。
やっぱりアレは夢だったのだろうか。そう考えるのが自然なんだろうが、説明出来ないのは、右手の傷だ。あの説明しがたい世界で負った傷が、刻み込まれていた。それが、あの出来事が夢ではなかったことを証明していた。
マジでパラレルワールドに移動していたのか? だとすると、一体何が原因で移動して、また戻ってくることが出来たのだろうか。それが分からないと、また突然移動することになりそうで怖い。
いっそ夢で片付けられたら、どれだけ気が楽だったろうな。
異世界から来た幼女やら、美少女やらに、ようやく慣れてきた頃合いなのにな。今度は、オカルト方面から目をつけられてしまったというのか。
分からないことはまだある。見るもの全てが朽ちていたのに、どうして俺の部屋だけが、原型を保っていたのだろうか。
あ~、駄目だ。俺の頭じゃ、いくら考えたって、答えなんて出てこない。いや、こんな非常識なことに、容易に答えを出せるやつなんて、そうそういるもんじゃない。いるとしたら、あいつか……。俺を賞金探しに誘った幼女……。
だが、シロはルネに嫌われているからな。なるべく彼女がいないところで、話しかけないと。そうなると、今夜の賞金探しの時が最適だ。
気が付くと、ルネがコップを一つ持って、俺の横に立っていた。コップからは湯気が立っていたので、中に入っているのは、温かい液体と見たね。
「あの……。朝食はもうすぐ出来ますので、それまでこれを飲んで、リラックスされてはどうでしょうか」
ルネが出してくれたのは、温めた牛乳だった。飲んでみると、ほのかに甘い。微量だが、ハチミツも入れているみたいだ。彼女の優しさも溶けているみたいで、どことも知れない場所で襲われたせいで、荒くなっていた心拍数がだいぶ落ち着いた。
「心が洗われる思いだ」
「そんな……、大袈裟です」
褒められることに慣れていないのか、顔を手で覆いながら、はにかんでいた。こういう引っ込み思案っぽいところは、きっと人によっては、イタズラ心をくすぐられてしまうだろうな。
「ルネちゃんは飲まないの?」
この美味しいドリンク。俺の分だけ作っているみたいで、彼女はまた朝食の準備に戻ろうとしている。だが、お代わりを要求した時に備えているのだろうか、余分に作っているのがあるみたいなので、そっちを飲めばいいじゃんと考えたのだ。
「いえ。私は喉が渇いていないので……」
「朝食を作っているって言ったけど、俺と同じメニュー? 自分だけ侘しい料理で済まそうとしていない?」
返答はなく、ルネは困ったように顔を背けてしまった。図星か、やれやれ。
「これは命令。君のご主人様としてのね」
命令と言われると逆らえないらしく、ルネは恐縮して頷いていた。
命令に忠実か……。そういう風に教育をされているってことだろうが、ルネを買う予定だった富豪は、どんな命令を下すんだろうね。
俺がルネを買ったせいで、代わりに富豪の元へ送られることになった女性のことを考えると、気が重くなるな。
「あ、あの……」
「ん?」
「ご主人様って、優しい方なんですね。私、ご主人様みたいな人のところに来られて良かったです」
「……」
「あ……! 話し過ぎました。今のは忘れてください」
赤面すると、ルネはキッチンへと走り去ってしまった。俺はというと、そんなふうに言われたことはあまりないので、呆然としてしまった。
「……。チェッ、可愛いなあ」
一つ一つの仕草が、グッとくるんだよな。これ、今晩は紳士でいられないかも。
朝食を終えると、ようやくエンジンがかかってきてくれた。それまで怠けていたせいで、おろそかになっていた朝の支度を急ピッチで進めていく。
働き者のルネは、着替えも手伝ってくれようとしてくれたのだが、気恥ずかしいものがあったので、自分だけで出来ると声色に気を配って断った。
スーツに着替えながら、昨夜のことを想う。帰宅してから怒涛の展開だった。これから外に出たら、また日常が始まる訳だが、ちゃんと頭を切り替えられるか不安だね。
「あ、あの……。ご主人様が働きに出ている間、私は何をしていれば……」
「ああ。俺の留守中は家にずっといてくれ。冷蔵庫の中の物は自由に使っていいから」
女の子を、家に缶詰めにするのは気が引けるが、下手に外出されて騒ぎになるのは避けたい。シロは、こっちの世界の常識を一通り教えていると言っていたが、安心出来ない。やつの言う一通りが、どこまでの範囲なのか、俺が同伴した上で確認せねば。
何せルネは、元々売られる筈だった子なのだ。いや、俺もルネを買っているので、その予定に変更はないのだが、売られる筈だった相手が富豪なのだ。シロが、富豪の元で生活する上での知識しか与えていない可能性もあるので、油断が出来ないのだ。悲しいことだが、金持ちと庶民の生活には、雲泥の差があるのだから。
「あ、冷蔵庫の中身は自由に使ってくれて構わないから。足りないものがあったら、帰りに買ってくるし……、そういえばパソコンって使えるの?」
一応、デスクトップのパソコンがあるので、それを使って、俺の携帯電話にメールを送信してもらえれば、勤務中でもルネと連絡を取り合うことは可能だった。
異世界の民であるルネにパソコンが使えるかどうか聞くのは、馬鹿げている気がしたが、電気器具を問題なく使えたし、もしかしたらというのがあったのだ。
「はい。使えますが、ご主人様にお使いを頼むのは申し訳ないです。どうか私にやらせてくださいませ」
聞いてみるものだ。自信満々で問題ないと胸を張って答えられた。そればかりか、もっと働かせてほしいとまで言われる始末。もうそんなに俺に尽くしてくれなくていいよと言ってしまいそうになる。
もう本当に……、愛しいわ!!
朝から主従関係というより、主従関係プレイをしているバカップルっぽいことに熱を上げてしまっている俺だったが、その模様をリアルタイムで覗いている不届き者がいた。
「あらら~。お兄ちゃんとルネちゃん。すっかりラブラブだね~」
昨夜、俺にルネを売りつけたシロだった。テーブルに置いた水晶玉に、俺とルネの様子を映し出して、鑑賞しているのだ。人のプライベートを盗み見るとは、エチケットが鳴っていないな。
「でも、手を出さないところは、好評価だね。ルネちゃんの色気に目がくらんで、欲しがったと思っていたから、これは意外!」
そう言いながら、両手に抱えている二メートルはあろうかという巨大魚の腸にかぶりつく。体液が床に滴り落ちるが、この幼女はお構いなしだ。テーブルマナーもなっていないな。
「あ、そうだ! お魚さんを食べていたら、面白いことを考えちゃった♪」
シロにとって良いことは、俺にとってはろくでもないことの場合が多い。今回もそのパターンだった。残っている身をがぶ飲みすると、シロは張り切って立ち上がった。
「じゃあ、張り切って、本日のリフォームを始めちゃいますか!」
どうやらこの幼女にとって、部屋の大規模リフォームは、毎日やるものらしい。どこまでも、俺たちの常識とはかけ離れたことをしてくれるよ。
「でも、早速洗礼を受けちゃったね、お兄ちゃん……」
シロの呟いた一言の意味を、俺が知ることになるのは、もう少し先のことになる。
ギリギリまで寝てしまうので、こんな落ち着いた朝は、滅多に迎えられません。




