第百四十八話 宇喜多のノックアウト願望 後編
催眠ガスのせいで、ホテル内を逃げ回ることになった俺たちは、運悪く廊下でスーツ男と出くわしてしまった。いや、巧妙に誘い込まれた訳だから、運悪くという表現は相応しくないな。
やつはいきなりミルズを渡せと要求してきたが、当然拒否。強めに断ってやったのに、やつは薄く笑ってやがる。
「くそ……! いつでも力づくで勝てると思っているのか、余裕の表れなのか、にやにや笑われているのが腹立つな」
「感情を顔に出しちゃいけないね。人をからかうのが好きなあいつから、鴨にされる恐れがあるさ。ただでさえこちらが不利なのだから、平常心を意識するのさ」
ミルズに諭されたが、俺の内心は煮えくりかえったままだ。こいつのせいで、住処を失うことになってしまったのだ。その上、これまでのこいつの態度……。とても涼しい顔でお話し出来そうにはない。
「ちょっとちょっと~! どうしたのさ、顔色が優れないよ~? 俺を睨んでいるみたいだし、何か悪いことをしちゃったの~!? あ、もしかしてマイルームを台無しにしたことを根に持っているとか?」
こいつは人の心の中が読めるのか? いちいちピンポイントで挑発してきやがって……!
「腹にストレスをため込むのは良くないってば! そんなに俺のことが嫌いなら、一発思い切り殴ってくれていいよ? それから、ミルズちゃんを差し出して、後腐れなく、良いお友達になろうじゃないか!」
「見え透いた挑発だね。悔しいが、ここはグッと堪えるのさ」
スーツ男め。こともあろうに、一発殴っていいとまで言ってきた。ミルズは止めろと俺を制してきたが、俺は臆することなく答えた。ちょうど堪忍袋がプッツンきたところだったのだ。
「……じゃあ、そうさせてもらおうかな」
「君……!?」
口元を不敵に歪める俺を、不安げに見つめるミルズの他、ルネとシロを床に寝かせた。さすがに三人担いだ状態だと、フルパワーが出せないからな。
つかつかとスーツ男へと歩み寄る。俺のことを、人をまともに殴ることができないやつと侮っているのか、至近距離まで接近しても、顔には冷や汗一つ浮かべない。とことん馬鹿にしてくれているな。どうせ寸でのところで、怖気づいて引き返すとでも思っているのだろう。人のことを臆病もの扱いしてくれている訳だ。
だが、屈辱だとは思わないさ。たった今から、その認識は間違っているってことを証明してやるんだから。馬鹿にされて悔しがるのは、泣き寝入りを決め込んだやつのすることだ。
スーツ男の目と鼻の先までやって来ると、右手を思い切り振り上げて、力強く殴りつけてやった。
「ふがあっ!?」
まさか殴って来るとは思わなかったのだろう。驚いたせいで、身代わりを立てるのが、一瞬遅れた。そのおかげで、俺の鉄拳が突き刺さる。
攻撃の勢いに押されて、スーツ男の体が吹き飛ぶことこそないものの、ずどんとみっともない音を立てて、尻もちをついてしまった。
立ち上がることも忘れて、俺のことを呆けたように凝視している。人のことを舐めてかかるから、そういう目に遭うのだ。ざまあみさらせ!
馬鹿にされたお礼にと、スーツ男に向かって、高らかに宣言してやる。
「お前のことが大嫌いだから、殴ってやったぜ。だが、ミルズを差し出す気も、お友達になる気もない。悪く思ってくれていいぜ。俺とお前は、お友達じゃなくて、敵同士なんだからな!」
だんだんやり過ぎた気もしてきたが、こいつに受けた仕打ちを考えれば、このくらいは問題ない筈だ。とはいえ、人を殴ったのは久しぶりだ。握った拳がじんじん痛む。
「……いてえな」
尻もちをついたままの姿勢で、殴られた箇所を擦るでもなく、不機嫌そうに呟いた。口からは血がにじんでいて、ひたすら不愉快そうに、俺を睨んでいた。ずっと人を馬鹿にした目を続けていたこいつに、ようやくまともに見てもらえた気がする。
「お前……、結構力があるのな。いっつも他のやつに戦わせてばかりだから、自分一人じゃ何も出来ないチキンくんで雑魚だと、勝手に解釈していたぜ」
「そこは温存しているって言ってほしいな。能ある鷹は爪を隠すとも言うんだよ」
くっくっと笑いながら、口元を右手で拭いながら、スーツ男は立ち上がった。相変わらず笑っているが、俺への侮辱はもう含まれていなかった。
「良いのかよ? 俺を攻撃するごとに、無関係な人々が、怪我を負っていくことになるんだぞ?」
「人間、余裕がなくなって、選択肢が限られてきたら、四の五の言っていられないんだよ……! これからもお前が退散するまで、バンバン殴ってやるよ」
それにこいつを殴った際に、分かったこともある。こいつ、今俺の攻撃を身代りに受けさせなかった。どうやら不意をつけば、いくらでも直接攻撃することが可能らしい。
俺のとった行動は無謀かもしれないが、時には後先考えない蛮行が、道を切り開くこともあるのさ。
「あんた……、予想に反して、思い切りが良いんだな。でも、そういう向こう見ずな熱いやつは嫌いじゃないぞ。OK! 評価を一から改めて、対等の敵として対峙することにしよう。そう認識しないと、またぶん殴られるからな。……こう見えて、あまり打たれ強い方じゃないんだよ」
俺を睨んでいたかと思っていたら、突然明るく笑いだした。喜怒哀楽の激しさは、これまで会ってきた人間の中でもトップクラスかもしれない。
「俺としては、素直にミルズちゃんを引き渡してくれる展開がベストだったんだけど、あんたの思わぬ反撃に遭って、考えが変わったよ……。いいぜ。そういうことなら、とことんやろうか……」
無駄口の多さは相変わらずだが、その口調は次第に熱を帯びていく。本気で俺たちをつぶすことを、子供のようにワクワクしているのが伝わってくる。
話すほどに、目が怪しく光って、やがて興奮が最高潮に達したのか、窓ガラスを己の拳で叩き割ってしまった。やつの拳からは血が噴き出したが、ガラスが砕けた隙間からは、雪が一気になだれ込んできた。
確かこの雪は、やつの意のままに操られている特別製……。ということは、あの雪が全部、俺たち目がけてまっしぐら……。
「そう思うだろ?」
スーツ男に操作された雪はまっすぐ俺たちのところに向かってくる。……と思っていたら、こともあろうに、使い手のスーツ男の方へと向かっていくではないか。
「ふふん! 俺の能力には、こういう使い方もあるのさ♪」
「自分自身を消すつもりかね。行方をくらませて、私たちにこっそり近付いて勝つ算段とは、何ともせこい作戦さ」
「言ってろ!」
ミルズの憎まれ口を楽しそうに聞き流し、スーツ男は、愛用のスプレー缶とともに消えていった。




