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第百四十七話 宇喜多のノックアウト願望 前編

前編と後編に分かれるのは、久しぶりです。

 部屋を催眠ガスが取り囲む中、俺たちは床をくり抜いて、下の階へと移動することで、辛くも難を逃れたのだった。


 しかし、失った代償は大きかった。出来るだけ上は見ないように努めていたが、それでも、胸に巨大な穴がポッカリと開くのを止めることは出来なかった。


 はあ……。これでこのホテルからも追い出されるのか……。業者のブラックリストにも乗るだろうから、他のホテルの予約も厳しくなるかもなあ……。


 外は季節がら暑いというのに、世間の風が冷たく身に沁みて、風邪を引いてしまいそうだよ。


 あ……、悲しい未来を想像していたら、頑張って堪えていたのに、涙が……。


 沈んだ心を叱咤しながら、移動を開始しようとすると、青い顔をして仰向けに倒れているミルズと目が合った。着地した際に、打ち所が悪かったのかと危惧したが、彼女の様子を見るに、どうも違うようだ。


「済まないが、他の二人同様、私も運んでもらえないかね。白アリを呼び出したせいで、力を使い果たしてしまったのさ。歩くどころか、指一本動かすのも苦労する状態に陥ってしまっているね」


 一回昆虫を呼び出しただけで、体力がすっからかんになってしまうのか。まだまだ能力を使うには、制約がかかる状態ということか。申告していることは本当らしい。いつも生意気なミルズにしては珍しく、申し訳なさそうな顔をして頼んできている。幼女にそんな顔をされては断れない。助けてもらった恩もあるので、二つ返事で了承した。結局、俺一人で、女子三人を担いで逃走する羽目になってしまった訳ね。


 催眠ガスのせいで、寝息を立てているルネやシロと共に、ミルズも抱き上げる。その際に、変なところを触るなとか、お決まりの文句を言われるのかと思ったが、意に反して人形のように大人しかった。


 女子供とはいえ、三人も集まると、しんどいな。シロは首根っこを掴むっていう手抜きで良いかな?


「済まないね。偉そうなことを言っておきながら、迷惑をかけるさ」


 俺が持ち方を微調整しながら、廊下に出ようと悪戦苦闘していると、ミルズから声をかけられた。こうして逃げられているのはミルズのおかげなので、もっと胸を張っていていいのに。


「気にするなって! 三人とも軽いし、同時に持ったところで、全然きつくないしな。むしろ丁度いい運動だ」


「痩せ我慢をしているようではなさそうだね。一人の女子として、心が躍ることさ」


 幼女とはいえ、女子。体重が軽いというのは、嬉しいらしい。心なしか、ミルズの表情がはにかんでいるように見えた。こんな時に不謹慎かもしれないが、緊迫した空気がほんの少し緩んだ。




 子供も含まれているとはいえ、三人も担いだ状態で、俺はあちこちで催眠ガスが充満しているホテルの中を逃げ回った。


 ホテル内は既に催眠ガスの支配下に陥りつつあり、どこにいっても、ガスに先回りされた。


 しかし、運が良いというかなんというか、必ず一つはガスが漂っていない、通って大丈夫な道が存在した。


 しばらくは無我夢中だったこともあり、たいして疑いもせずに進んでいたが、だんだん不審に思うようになっていった。


 必ず道が開けているなどという都合の良いことが、果たして存在するのだろうか……?


 というよりこれは……、誘導されている?


 不穏な空気が、内心で漂ったが、既に遅かった。まあ、仮に早い段階で気付いていたとしても、道がほぼ一本道である以上、どうしようもなかった訳だがね。


 何度目かの角を曲がったところで、廊下の真ん中に椅子を置いて座っているスーツ男と遭遇した。


 曲がったところで気付いて、慌てて物陰に引っ込んだのだが、向こうには、しっかり見られてしまっていた。


「もしもし~? そこに隠れたの見えたから、無駄なことは止めて出てきなよ。そして、俺と今後のことについてトークしようぜ♪」


 思い切り声をかけてこられた。ていうか、椅子に座って待ち構えているところから、最初から俺たちの接近には気付いていたようだ。やはりここに誘い込まれていたのだ。俺は、ずっとやつの掌の上で踊らされていたという訳だ。


「……」


 要求通りに出ていくのは腹が立ったが、立ち去ろうとしても、からかわれて、より腹が立つことになるのが目に見えている。ミルズを見ると、諦めたように首を横に振っている。悔しいが、ここは出て行かざるを得まい。


 鬼の形相で、脅しつけるように睨みながら、スーツ男の前に姿を晒した。催眠ガスのスプレーをいつ吹きかけられても良いように、警戒も怠らない。


「おいおい! せっかく会えたのに、そんな嫌そうな顔をするなよ。人との出会いはもっと明るいものであるべきだぜ」


 出会いがいついかなる時でも喜ばしいものであるとは限らねえだろ。少なくとも、お前は、その中には含まれていないと断言させてもらおう。


「まあ、挨拶はさておき、こうして対面するのは初めてだな。お互いこそこそ相手の顔を確認する回数だけは多かったけどね」


 椅子からおもむろに立ち上がると、スーツ男はこちらに向かって悠然と歩いてきたのだった。


「おやあ~? ずいぶんと可愛らしい子を抱いているね。いくら子供でも、何人も抱いていると重いでしょ? 手伝ってあげるから、俺にも持たせてよ♪」


 俺の腕の中で、ミルズがスーツ男をキッと睨んだ。俺も、やつの歩みに合わせて、一歩ずつ後ずさる。


「そんな警戒するなよ。大の大人が、何を恐れているんだい? あ、ひょっとしてこれかな?」


 スーツ男の手にスプレーが出現する。しかも、いつでも催眠ガスを吹きかけられるように、スイッチに親指まで添えてある。鬱陶しい演出だ。


 いつの間にか背後から催眠ガスが迫ってきていた。このままでは、スーツ男とサンドイッチになってしまう。


「なあ、その金髪の子で良いから、抱かせてよ……」


「断る! 渡した途端に逃げる気だろ」


「逃げる? ぶっ……! アハハハハハ!!」


 俺の強がりがおかしかったのか、スーツ男が腹を抱えて大爆笑した。どうして格下の相手から逃げなくちゃいけないんだよという副音声が、ハッキリと伝わってきた。


 舐められている。


 確信していたこととはいえ、突きつけられるのは、何度経験しても、慣れることはないな。


 ああ、本当に……。こいつ、腹立つわ。


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