第百四十六話 転落する音
スーツ男によって、今いるこの部屋に時計仕掛けで催涙ガスの罠が仕掛けられていることが明かされた。安全地帯だと思っていたのに、やつのせいで一気に戦場の真ん中に放り込まれてしまった。
「人が留守にしている間に、ずいぶんと至れり尽くせりな飾りつけをしてくれたな……」
「俺ね、パーティを盛り上げるためには、準備を惜しまないタイプなのよ! だから、お前も労に報いるために、懸命に逃げてくれよ。でないと、俺も捕まえる愉しみが……」
もうこいつとの会話は限界だったので、わざと荒々しく切ってやった。会話した時間は短いのに、なんて腹立たしいやつなのだ。こっちは、この仮住まいまで追い出されたら、行く場所がないというのに……!
「お兄ちゃん、どしたの? 今の電話、誰から?」
通話を終えて、荒々しく肩で息をしている俺を見て、シロが心配そうに声をかけてきた。もう隠している場合でもないし、そんな余裕もないので、手早くスーツ男の話を二人に伝えた。
「な、何てことだよ……! この場所がばれるなんて……! きっと、おばさんがばらしちゃったんだよ! これだからおばさんは嫌!」
「どうせいつかは知られていたことさ。うろたえるんじゃないね。平常心で、これからのことを考えるのが大事さ」
「むう~! 元はといえば、ミルズのせいなのに、上から目線なのがムカつく!」
「気にしていることをずけずけと……、困ったお子様だね」
これからどうすべきかで、頭が痛いのに、幼女二人が言い争っている。みんな一丸になって協力していこうとか、ないのかね。
「コホン! とにかく危機が迫っているのなら、私たちが取るべき行動は一つだよ! 一刻も早く、この部屋から出ないとね! 者ども、私に続くんだよ!」
「お、おい! ちょっと待てって! 迂闊に突っ走るな!」
ドアを開けたら、いきなり催眠ガスがお出迎えってことも考えられるんだ。勢いだけで先行するなと叫ぶが、張り切るシロの耳には届かない。遠足に出かける園児の如く、どこかに向かって全力疾走をしている。
そして、ドアを開けた途端、あろうことか、本当に催眠ガスが室内に流れ込んできたではないか。
「い、いつの間にか、廊下にガスが充満している!?」
「は、早く閉めるのさ。万が一ガスを吸ったら、私たちもおねんねだね。おい? シロ!?」
シロを叱責しつつも、早くドアを閉めるように促すが、やつに動きがない。これはひょっとして……。
「キュ~!!」
「案の定かよ!!」
ガスをまともに吸ってしまい、その場に倒れてしまうシロ。これで、ガスの犠牲者は、ルネと合わせて、二人となった訳だ。
「全く! 不用心にドアを開けるものじゃないね。余計な荷物が、また増えてしまったのさ!」
ちなみにドアはミルズが閉めてくれた。俺は、シロを引きずって、ドアの前から退避した。
しかし、危機はそれで終わりではなかった。
ドアを閉めたのに、隙間から催涙ガスが部屋の中に侵入してくる。勢いこそ弱まったが、確実に室内を充満していっているのだ。
「これに加えて、十分後にはさらに別の催涙ガスが噴き出すことになっている。ここに留まっていたら、全滅は必至だな」
問題はどこから脱出するかだ。正規の入り口からの脱出が困難なことは、幸せそうに鼾をかいているシロが実証済みだ。
窓から逃げようにも、ここは結構地面から距離がある。普通に飛び降りたら、自殺になってしまう。
「やれやれ、これしきのことでピンチに陥っているようじゃ、君に先はないね。ここは私に任せるさ」
頭を悩ませる俺に、ミルズが助け舟を出してくれた。愛用のフードの隙間からは、ネズミほどもある大きさの白アリたちが這い出してきていた。
「慌てるところじゃないね。正面から出られず、他に出口がないというのなら、新しい出口を自分で作りだせばいいのさ」
「白アリたちに壁を食い破らせるつもりか……!」
「少し違うね」
ミルズの人差し指は、壁ではなく、足元。床に向いていた。
「床をくり抜くのかよ……」
「廊下のガスが充満しているのなら、隣に逃げたところで、無意味だろうさ?」
彼女の意見は間違いではなかったのだが……。床をくり抜くか……。これはもう、このホテルを仮住まいとして利用するのは諦めなければいけないな。
懐具合を想うと、自然と滲んでくる涙を拭っている間にも、白アリたちは気ままに食事を開始していた。狭いながらも気に入っていた俺の城が、無残にも食い散らかされていく……。
底なしに沈んでいく気持ちとは裏腹に懸念もあった。白アリの脅威については人並みに知っている。だが、ここはコンクリート製のホテルだ。しかも、ガスが蔓延するまでのわずかな時間に、床をくり抜くことなど出来るのだろうか。
「案ずることはないね! 私の白アリは、顎の力が尋常じゃなく、とても悪食で、食欲が旺盛で、獰猛なのさ!」
ミルズのペット自慢通りに、白アリ軍団は床を警戒に咀嚼していった。あの小さな体のどこにそんなにコンクリートが入っているのだろうか。連中の胃袋は宇宙なのか!?
小さな食いしん坊たちの活躍により、あっという間に、自分の立っている辺りが地震でも起こったかのようにグラつきだした。直に床が下の階へと落ちようとしているのだ。
異世界産とはいえ、あんな小さな体で、とてつもないことをしでかしてくれる。ここからは、微力ながら、俺も協力させてもらうとしよう。
部屋の心配など、今更したところでどうしようもあるまい。もうこうなったら、自棄だ。身の安全を確保するのが先だと、自分を奮い立たせる。
「うらああああ!!!!」
気合と共に、床を何度も踏みつけた。目から涙が溢れてくるが、そんなこともお構いなしだ。バキバキバキと、床が抜けていく音が、自分の人生が崩れていくのを聞かされているようで、哀愁を誘う。
そして、予告された十分を迎える前に、床が抜けた。
「おおおおおお!!!?」
俺たちを中心として、床が下に向かって真っ逆さまに落ちていった。転落しながら思う。ああ……、またも俺は住まいを失ったことになるのだな。安定した我が家を取り戻すことが出来るのは、いったいいつになることやら……。
落ちるといっても、ワンフロアだけなので、すぐに衝撃が襲ってきた。痛みはあったが、動けないほどではない。
すぐに立ち上がると、ドアに向かって走る。
ドアを開ける前に、耳を当てて廊下の様子を伺う。ガスが噴射される音は聞こえてこない。次にソッとドアを開けた。
「……自分の部屋を駄目にしただけあって、一難は去ったようだな」
幸い下の部屋のドアには、罠が仕掛けられておらず、廊下に出ることが可能となっていた。上の方からは、相変わらずガスが噴き出している音が聞こえてきているので、あまりウカウカはしていられないな。
小さく息を吐くと、早速廊下から逃げることにした。




