第百四十話 静寂は伝染する
下水道を伝って、仮住まいであるホテルまで戻ってきた。歩いて帰ったというと、かなりの距離を移動したように思われがちだが、実は一時間にも満たなかったりする。スーツ男と一戦を交えたモールが、俺の宿泊しているホテルの隣町だったのだ。
ちょうどマンホールから外に出ると、地下道を経由して、ホテルに帰還した。帰ってくる時はルネも一緒だと固い決意のもとで後にした場所だけに、志半ばで戻ってきたことに、一抹の寂しさを感じていた。
外に広がっていたのは、下水道に入る前と同じ、静寂に満ちた世界だった……。
スーツ男は、ミルズがいる街だけでなく、彼女が立ち寄る可能性のある街にも、催眠ガスをばら撒いていたらしく、このホテルも例外ではなかった。ロビーや廊下で、人とすれ違うのだが、例外なく立ったまま意識を失っていた。
変わらない光景に辟易したが、一方で気を失っていてくれて助かった部分もあった。仕方ないとはいえ、下水道を移動してきたせいで、今の俺たちは体臭が気になる状態だ。他人から顔をしかめられていないかを気にせずに済むようになる分、ホテルを歩くのがだいぶ楽になるのだ。
きれいに掃除されたホテルの廊下を、汚れた足で闊歩し、宿泊している部屋に入った。二人用の部屋に四人だが、うち二人が幼女だったので、あまり手狭に感じることはなかった。
部屋に入ったら、早速臭い消しに移った。女性陣がシャワールームに入る際に、「覗かないでね」と、お決まりの文句を言われたが、面倒くさいし、イラッとしたので、そっぽを向いて無視してやった。
俺も女性陣が上がった後で、ようやくシャワーを浴びた。降り注ぐ熱いお湯が、なんともいえない気持ち良さだ。
だが、しばらく浴びていると、自分の体が透明になっていないか、つい気になって確認してしまう。
女性陣は、ずっとキャッキャしていたから、気にしていなかったように思える。あんなことがあった後なのに、剛毅なことだと尊敬の念すら抱いた。
冷蔵庫で冷やしていた缶ビールを飲みながら、部屋の片隅で、ぶつぶつと呟きながら、毒の調合に勤しんでいる。
スーツ男に対抗するためには、クリアの毒攻撃が有効だと睨んで、あいつを倒せるほど強力な毒の調合を、頼んでおいたのだ。
しかし、風呂上がりで気が緩んでいたのか、そこで一悶着が起きてしまった。
クリアのやつめ……。一度毒の調合を始めると、他のことは一切頭に入らなくなるタイプらしく、風呂上りにこともあろうにそのままの姿で作業を始めやがった。
俺がクリアを正視しないように、服を着ろと投げてやったのに、向こうは「あたしは気にしないから」とにべもない。冗談じゃない。お前が気にしなくても、俺が気にするんだよ!
放っておけばいいのに、俺はムキになってしまい、意地でもタオルくらいは任せてやると、変な使命感に捕らわれてしまった。
そのために、クリアのあられもない体にタオルを巻こうとする俺と、そんな布は不要だと言い張るクリアとの間で、ちょっとしたすったもんだがあったりした。
そのごたごたの合間に、……不本意ながら拝んでしまったではないか。
顔にひっかき傷を作りながらも、どうにかミッションに成功して、ぐったりと座り込む。シロが起きていたら、腹を抱えて大笑いしていた光景だろうが、幸いなことにやつはシャワーを浴びると同時におねんねしていた。
だが、ミルズは起きていて、俺を興味深そうに観察してきた。
「さすがに鼻血は噴き出さないね」
「当たり前だ。良い歳をして、そんなマンガみたいなリアクションをするか」
俺とクリアの揉みあいを傍らで観察していたミルズからの皮肉に、赤面しつつ反論する。ミルズは、抱きかかえるようにして持っているビニール袋からナゲットを取り出しては、大事そうに食んでいた。
ちなみに、今ミルズが食べているのは、さっき俺が買い与えてやったナゲットだ。最初に持っていたナゲットは、シロが結局全部食べてしまったのだ。自分の食べ物を盗られるというのは、ミルズにとって、かなりの屈辱らしく、涙目になっていた。俺が悪い訳ではないので、そこまでする義理はないのだが、どうも放っておけず、新しいのを買ってしまったのだ。ちなみに、店員はやはり立ち寝ていたので、カウンターに代金を置いてきた。だから、万引きにはならないよな。
「傷の治り具合はどうなんだ?」
「どうもこうも……。すぐに良くなったりしたりしないさ。肉を食べた程度で回復してくれるほど、簡単な構造でもないんでね」
「全快したら、またシャロンのところに戻るのか?」
「分かりきったことを聞くんだね。当然さ。私は、シャロン様に仕える身だからね」
何を当たり前のことを聞いてくるのだと、ミルズは不思議そうな顔をしている。もし、そうなれば、こいつとはまた敵同士か……。
「お前……。死んだことにされていたぞ」
ナゲットを貪るミルズの手が止まる。何事もなかったように、すぐに口を動かし始めたが、彼女が受けたショックは伝わってきた。
「お前だって自覚しているんだろ? シャロンは、お前のことを消耗品としか思っちゃいないんだ。あいつのところに戻ったら、また過酷な日々に逆戻りだぞ。それを繰り返していたら、いつかは本当に死んじまうぞ。そして、死んでもシャロンは、悲しむようなことは一切しないだろうな。お前が報われることはないんだ。それじゃあんまりだろ? だからな……」
「だから、何だというんだね! 私がどんな扱いを受けようが、君たちには関係がないことさ!」
俺の言葉を、強い口調で遮りつつ、ミルズは床をバンと叩いた。結構な剣幕に、俺は思わず口をつぐんでしまう。それを逃すまいと、ミルズが一気にたたみかけてきた。
「それとも、傷心の私をたぶらかして、仲間に引き入れるつもりだとでも、言うんじゃないだろうね?」
「……そうだよ。俺はお前に、こちら側に寝返ってほしいと思っている。それを伝えるために、ここにやってきた!」
ミルズに睨まれて、言葉を濁そうとしてしまったが、取り繕ったところで意味はないので、正直に目的を伝えた。ここまで堂々と宣言されるとは思っていなかったのだろう。ミルズは、威勢を削がれたようで、言葉に詰まっていた。というか、俺自身、するすると言葉が出てきてくれて驚いていた。
「そんなことは知っているさ。君の言う通り、とっくに自覚しているね。いや、シャロン様が戴冠した時から分かっていたことさ」
「だったら……」
「それでも、私が裏切ることはないさ。君だって、そうじゃないかね? 政策が気に入らないからといって、総理大臣や天皇陛下に刃を向けることはないね? それと同じさ。扱いが気に入らないからといって、君主を裏切ることは皆無だね!」
「……」
「敵である私に近付いてきて、何の用かと思えば、予想通り過ぎて、拍子抜けしているさ。でも、意思は変わらないね。次に会った時は敵同士だが、ナゲットの分、手は抜いてやるさ」
素っ気ない態度で、会話は打ち切られてしまった。取りつく暇もないという表現が当てはまるほど、あっさりと終了してしまった。こんなにも手ごたえがないものなのかと、やや唖然としてしまう。
気が付くと、クリアの手が止まっている。会話を盗み聞きしていたらしい。話さなくなったのを知ると、また毒の調合を再開する。他人の話に耳を傾けたがる困った性分の持ち主だな。
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