白鬼と久遠
『うわわわわわわわっ……!』
『……ちょこまかちょこまかと……逃げ足だけは速い狐よ』
久遠は逃げた。
背後から追ってくる声から全力で逃げた。
そして――その名を叫ぶ。
『鬼様……鬼様……鬼様ぁーっ……!』
『……そろそろ観念して我に喰われるがよい!』
『ああっ!』
迫り来る巨竜から、身を隠すように久遠は体を丸めた。
刹那――
ドンッ! と短く腹に響く音が響いたかと思うと、次の瞬間、竜は大量の血飛沫を上げて絶命する。
久遠が恐る恐る顔を上げると――……
『ああっ! 鬼様!』
見上げた先には、長大な刀を肩に担いだ白い鬼が立っていた。
鬼は半眼で久遠を見下ろし、
『……何をしている。狐』
『は……あのっ……えっと……鬼様の為に食糧を調達して参りました! はいっ!』
元気よく答える久遠に、鬼は嘆息した。
きっぱりと告げる。
『調達とは言わんだろう。これは』
『ええと……』
まごつく久遠は放っておいて、鬼は先程仕留めた竜を担ぎ上げ、
『――まあよい。今日の昼飯はこれにするか』
『は……はい!』
鬼の言葉に、久遠は嬉しそうに何度も頷いた。
少し場所を移動し、切り株の上で木の実をすり潰す久遠は、にこにこと笑顔で、鬼に話し掛ける。
『鬼様』
『……何だ』
『私は今、とても幸せです』
『……何を言いだすかと思えば……』
久遠の発言に、鬼は呆れたように一つ溜め息をついた。
取り合おうとしない鬼に、久遠はかぶりを振り、
『本当にそう思うのです。日々、鬼様のお側でお世話をさせて頂いて……鬼様のお役に立てる事が――……』
『別段、世話にはなっておらぬし、これといってお前が役立っているという事は無いが』
『はうっ!』
思い切り急所を抉り込む鬼の突っ込みに、久遠は若干涙目になりながらも続ける。
『で……でも今日は昼食の調達を……』
『まあ、お前が誘き寄せた中ではそれなりの獲物だが……』
『ですよね! 今日の獲物は大物ですよね!』
『普段、俺が狩る獲物に比べれば小物だ』
『……ですよね』
鬼に褒めてもらえるかと思い、キラキラと輝いていた久遠の瞳は、瞬く間にどんよりと曇った。
無論、鬼と久遠では実力が違い過ぎて、比較にすらならないのだから仕方の無い話ではあるのだが。
今日の獲物も、“巨竜”とは、あくまでも久遠から見た場合の話であって、数居る竜族の中では最小とも言える大きさであるし、鬼が仕留めてくる“巨竜”とは比べるべくもない。
そもそも、久遠がわざわざ誘い出さずとも、この妖の島には鬼を倒して名を上げようとする妖魔がひしめき合っており、鬼が寝ているだけで“食糧”の方から鬼に寄ってくるのだ。
食糧の調達に時間を割いて、獲物を探す必要など無い。
『……では……やはり私は鬼様のお手を煩わせているだけなのでしょうか……?』
『そうだな』
『はぐぅっ!』
鬼に即答され、久遠はその場に突っ伏した。
そんな久遠の様子を見て、鬼はくくっと笑った。
すると、久遠は涙で濡れた顔を上げ、
『……鬼様……?』
『まあ、暇潰しには丁度良い』
『はい?』
『それより、お前は何をしている』
何の事か理解出来ず、不思議そうな表情を浮かべる久遠には構わず、鬼はさっさと話題を変える。
鬼に問われて、久遠はぱっと起き上がり、
『あっ、はい! 森で見付けた木の実をすり潰しています!』
『……それは見れば分かる。そうではなく、何故そんな物を潰しておるのだ』
『はい。これはですね、こうして細かく潰して肉にまぶすと、臭みが取れて香りが良くなり、肉の旨味が増すのです』
『ほう』
『この間、偶然見付けたのですが……鬼様にも美味しく召し上がって頂きたいと思い……』
説明しながら久遠は、すり潰した木の実を竜の肉にまぶすと、それを鬼の前に差し出す。
『どうぞ鬼様』
『……ふむ』
一つ唸り、鬼は久遠から肉を受け取ると、一口かじった。
『いかがですか? 鬼様』
『――そうだな。悪くない』
その瞬間、久遠は幸福な気持ちで満たされた。
やっと一つ、鬼の役に立てたと思うと幸せでたまらない。
『……だが』
『えっ!?』
幸せ気分に浸っていた久遠は、鬼の一言でびくりと体を震わせる。
何か気に障るような事があったかとびくびくしながら、
『お……お気に召しませんでしたか?』
久遠が訊くと、鬼はかぶりを振り、
『そうではない。お前が拾って来た物だけでは足りんだろうという話だ』
『えっ……あ』
いくら小物とはいえ、竜の体は巨大だ。
その体――肉全てに潰した粉をまぶそうと思えば、相当な量の木の実が必要になる。
その上、竜に襲われた時、大半を落としてきた。
しかし、これは久遠が思っていた以上に、鬼に気に入って貰えたらしい。
肉をかじりながら、鬼は言う。
『今後はこの実も集めておくか。狐、この実はお前が集めろ』
『は……はいっ!』
鬼からの命に――残りの木の実を潰しながら、久遠は満面の笑顔で頷いた。