お父さんの事
「大和ってお父さんの事、名前で呼ぶんだね」
「…………」
いつも通り品物の検分を済ませた千乃が、何気なく呟いた。
大和は少し首を傾げ、
「……それが何だ?」
「いやぁ、何か珍しいなと思って」
「珍しい?」
「うん。だってあたし、親父を名前で呼んだ事なんて無かったし。知り合いでも両親を名前で呼ぶ人居ないからさ」
「…………」
言われて、大和は沈黙した。
と、背後から、
「あー。確かに……お前に『親父』とかって呼ばれた覚えはねぇな」
大和は肩越しに背後を見やる。
そこには何やら感慨深げに呟く斬影の姿があった。
その斬影に向かって、
「呼んだ覚えも無いし」
と、大和はあっさり言う。
今日は仕事帰り、「ついでに買い出しに行こう」と言う斬影と町まで来ていた。
斬影は両腕を広げ、
「たまには『親父』とか『父さん』なんて呼んでみても良いんだぞ?」
「……千乃。ついでにコレも見てくれ」
「えっ!? 無視!?」
大和は、懐から取り出した妖魔の鱗を千乃に手渡しながら、
「斬影は斬影だろ」
「……いやまあ……それはそれで良いんだけどよ」
期待はしていなかったが、あまりにも予想通りの反応に、斬影は頭を掻いた。
それを見て、千乃は思わず吹き出す。
「でも何か良いよね。親子仲が良いって感じでさ。ちょっと羨ましいよ」
「…………」
「仲が良い……か。まあ、いがみ合う事はねぇかな」
千乃はクスクスと笑い、
「はいコレ。また寄ってね」
千乃から代金を受け取り、二人は店を後にした。
それから買い物を済ませ、町を歩いていた時。
「父ちゃん!」
と、大和と斬影の側を、小さな子供が駆けていく。
「…………」
あの頃の大和と同じくらいの年頃だろうか――ふと、斬影はそんな事を思う。
視線で追うと、父親がしゃがみ込んで子供を抱き上げるところだった。
思えばあの頃――あんな風に構ってやる事は出来なかったような気がする。
(……大和は甘えるのが極端に下手くそだったしな)
斬影は、苦笑混じりに胸中で独りごちた。
歩調を緩めた斬影に対し、大和はそのまま歩いていく。
斬影はやや小走りになって大和の後を追う。
「どうしたんだ?」
斬影が追いついてくると、大和がこちらに視線を向け問い掛けてきた。
「いや。何でもねぇ」
「…………」
大和は暫し斬影の方を見据え、
「……さっきの事……」
「ん?」
「さっきの事……気にしてるのか……?」
「さっきの事?」
斬影が疑問符を浮かべる。
大和は買い物袋を抱え直し、
「……だから……親……の呼び方がどうのって……」
「ああ」
それを聞いて、斬影はかぶりを振った。
「違う違う。それは別に良いんだよ」
大和が斬影の事を名前で呼ぶのは、斬影が自分の事を“父”と呼ぶように教えて来なかった事にある。
それに、大和も斬影が実の父親で無い事は気付いていた。
尤も――それは後から分かった事だが……
大和が昔の事――自分が捨てられた時の事――を覚えているとは、流石に斬影も思わなかった。
斬影は短く嘆息し、
「ちょっと昔を思い出してな。昔……あんな風に構ってやれなかったなぁと思っただけだ」
「…………」
視線を向けた先に、先程の親子は居なかった。
既にどこかへ移動したらしい。
斬影は大和の頭に手を乗せ、
「それに……お前がそんな呼び方出来ねぇのは分かってるしよ」
「…………」
斬影が笑いながらそう言うと、大和は少し身じろぎし、
「……別に……その……一回……くらいなら……」
「……へっ?」
大和は買い物袋で顔を隠すように俯き、小さく呟いた。
「……と……父……さん……」
その瞬間。
ガンッ!――
「なっ……斬影!?」
斬影は目の前の看板に思い切り激突し、その場に倒れた。
「あでででで……」
「何やってんだ!?」
「……いや。大和……今のは……ちょっと……言い方が……」
斬影は頭を抱え、のろのろと起き上がる。
大和は斬影に手を貸してやりながら、口を尖らせた。
「何だよ。言い方って。あ……ああいうのが普通なんだろ!?」
「うん。まあ……でも、お前はお前の普通で良いよ。何かお前に『父さん』って呼ばれると……変な気分になる」
「何だ。変な気分って」
大和は半眼になって呻く。
斬影は服に付いた埃を払い、
「良いんだよ。呼び方なんかどうだって。お前が俺の事を父親だって思ってくれてんのは分かったから」
「……どういう事だ?」
大和が訊くと、斬影は口元を緩めた。
「さっき千乃ちゃんが言ってただろ? 『お父さんの事、名前で呼ぶんだね』って。そん時お前“お父さん”の部分否定しなかったじゃねぇか」
「…………」
言われて――気付く。
昔の大和は、斬影を父と言われる事を否定しなかったが、肯定もしなかった。
斬影は含み笑いを漏らし、
「呼び方より……お前がそう思ってくれてんなら……俺はそれで充分だ」
「……ん」
大和は斬影の顔を見上げ、
「斬影」
「うん?」
「今日は俺が飯作る」
「おっ? お前が進んでそんな事言うなんて珍しい。んじゃ、任せるぜ。大和」