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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
69/302

Lv69「陽炎の君」





 

 時間は蔵人が屋敷を手に入れるひと月ほど前に遡る。

 大都市シルバーヴィラゴの喉仏ともいえる物資の集積港ラージポイントにてとある事件は頻発していた。

 単純にいえば殺しである。

 この世界で殺人や傷害は日常茶飯事に起きている。

 通常ではそれほど目立ちもしない事件であったが、死者がすべて身元不明であり、残らず顔面が原型を留めず破壊されていたことが人々の耳目を集めた。

 ラージポイントは、クリスタルレイクを挟んで対岸のセントラルリベットをつなぐ唯一の港である。

 大きな港には人や金や仕事が集まり、それらは常に流動し摩擦する。人々は一箇所に集まる富へと、蜜に引き寄せられる蜂のように凝り固まり、それらをめぐっては争った。

 夏も終わりに近づいたある夜、ラージポイントの港湾検査官ブラッドは定時巡回を終えて、相棒の待つ事務所に戻る途中であった。

 波止場付近は夏とはいえ、冷えた湖風が吹きつけひどく肌寒かった。

 ブラッドは今年で二十五になる中堅の検査官である。領主であるアンドリュー泊から俸給を受け、対岸からやってくる船を検査するのが主な仕事であった。

 位としては最下級に近い役人であったが、それでも荷主や船主から受け取る余録は相当なものでありその職を熱望する人間は多かった。

 もっとも、ほぼ世襲制であり、領外の生まれの人間で新規採用はここ数年皆無だった。

「ううう。それにしても、今日はやけに冷えるなあ」

 ブラッドは短く刈りこんだ金髪を逆立てて背筋をぶるると震わせた。

 そもそもが、このブラッド、要領というものがよろしくない。十五の歳から丸十年熱心に仕事を勤め上げているが、口数が少なく、また上司に自己主張するのがいまひとつ苦手であった。ゆえに、同期がすべて事務方に上がって楽をしているのに彼ひとりはいまだ現場仕事からはなれられずにいた。今夜も、五つも歳下の同僚に上手く乗せられて、巡回のついでに買い出しもすませてきたところだった。

 定時巡回とは決められた時間に決まった場所を、異常がないか確認する保安業務である。

 だが、所詮は形式的な行事であり、適当に流すのが慣例であった。

 もし、異常事態が発生したとしても、ただの検査官に事態を収拾する能力があるはずもない。酔っぱらいやゴロツキの喧嘩、あるいは倉庫荒らしや船荒らしを見つけたときは、ナイトウォッチ(夜警)に連絡して、最終処置は領主の騎士団に任せるのが関の山であった。要領の良くないブラッドである。こんなやらなくていい仕事であるとわかっていても手を抜けない性分だった。

(我ながら嫌になるけど。でも、最後まできちんと確かめないと気持ち悪いだよなぁ)

 ブラッドは苦笑しながらランタンを引き回すと、辺りを見回しながら足を早めた。

 彼自身は昨年没した実父に似ており、百九十を超える身長と人並み外れた膂力はあったが兵役に取られた二年を除けばたいした武術の心得もなかった。

 船留めのボラードを打ち寄せる波の音が小さな音を立てて反響している。

 いつもは気にならないその音が、今夜はやけに大きく聞こえるような気がした。

(そういえば、この辺りはおとといも殺しがあった場所じゃないか)

 割と鈍感な部類に入るブラッドでも、やはり深夜に人が殺された場所へ立ち入るのはなんとなく気味が悪い。

「さ、さすがに今日はなにもないよな、うん」

 ランタンを持つ手が心なしか震えた。

 振り返ろうと、ブーツを反転させたとき、光の向こうになにか動くものがチラリと見えた気がした。

 不意に、ガタっと木材が擦れ合う音が大きく響いた。

 ギュッと心臓が握りこまれたような悪寒を覚えた。

 岸壁の古船の陰になにかがうずくまっている。

 ブラッドの頭の中は瞬間的に、無数の想念が浮かび消え去っていく。

 喉がカラカラに乾く。

 思わず見なかったことにして逃げようかと思ったが、意思に反して自分の足は物陰のなにかに向かって近づいていた。俺も男だ。覚悟を決めよう。

「誰だ! そこにいるのは!!」

 ランタンの光を真っ向から浴びせ、いつ飛びかかられてもいいように身構える。

「……え、女か?」

 まばゆい光の中に映し出されたのは、まだ幼さの残る可憐な少女の寝顔だった。

 なにをやってるんだ、俺は。

 ブラッドは気づけば少女を抱き上げると実家の二階にかつぎこんでいた。

 急用で仕事を早引けしたのは生まれてはじめてである。

 一階で休む実母に気づかれないよう少女を運びこみ、自分の寝台に寝かせた。

「それというのも」

 少女は身にまとった衣類を見れば乞食そのものであったが、昏昏と眠る横顔はブラッドがいままで見たことのないほど整った容姿の持ち主であった。

 闇を溶かしこんだような美しい絹のような黒髪。

 長いまつげは伏せられているが、おそろしく長く整っていた。

 肌の色はやや青みがかっているが、雪のように白く細やかだった。

 朴念仁と陰口を叩かれるブラッドでさえ、見ているだけで吸いこまれそうな美貌を持った少女だった。歳の頃は十五、六くらいだろうか貴族的な雰囲気すらあった。

 ブラッドは、生唾を呑みこむと、無意識に伸ばしていた腕に気づきを頬を紅潮させた。

 これではまるで、酔いつぶれた女を無理やり部屋に引きこんで乱暴する無頼そのものではないか。

 自分は違うと、首を左右に振った。

 俺は善意から彼女をかつぎこんだんだ。とにかく、朝まで待って目が覚めるのを待たねばならない。それが良識ある大人というものじゃないか。

 ブラッドは自分に強くいい聞かせると、文机の椅子に尻を落として腕組みをした。

 なあに。いくら、ドンくさいと小馬鹿にされようが、現場では自分が一等の古株なのだ。

 いざとなれば、休みの二、三日は取ってやるとも。

 若造どもに、文句などはいわせるものか。

 ブラッドは、なにか神々しいものを眺めるような気持ちで、少女の寝顔を見ながら壁際の時計を眺めた。

 それから、神に感謝する。

 夜明けまでは、まだ時間はたっぷりあった。






 気づけば、朝の強い光が目蓋の上に降り注いでいた。

「しまった!」

 ブラッドが慌てて腕組みを解いて立ち上がると、寝台の少女が上半身を起こしたまま目を大きく見開いていた。

 パッチリとした切れ長の瞳が黒々と輝いている。

 ブラッドの想像通り、いやそれ以上の美しさだった。

 とにかく説明をしなければならない。自分が彼女を見つけた経緯と、部屋に運んだのはあくまで官吏のはしくれとしての正義感だということを伝えねばならない。

「い――」

 勢いよく椅子から立ち上がったせいか、バランスを崩してしまっていた。

 ブラッドは顔面から寝台の毛布へと勢いよく倒れ込んだ。

 ばふん、と大きな音とホコリが同時に上がった。

 陽光に踊る塵の中で、少女が薄くくちびるを細めたのを目にする。

 ひだまりの中の子猫のように、しあわせそうな微笑みだった。

 ブラッドはズキンと、強く胸が疼いた。

 少女はシズカと名乗った。

 彼女がいうには人探しに旅に出ていたが、途中で崖から転落する事故に遭い記憶を失ったとのことだった。

 なんとか、ラージポイント港にまでたどり着いたのだが、そこで路銀を使い果たしてしまい、ここ数日は古船に寝泊りをし、雨露をしのいでいたと途切れ途切れに話していた。

 昨日は、空腹に耐えかね、いよいよ身体を売ろうか逡巡していた。そう聞かされたとき、ブラッドは心の底から自分が見つけることができてよかった、と胸をなでおろした。

「なに、そんなことなら幾日でも泊まっていくがいいさ。幸い、ここはオフクロ以外に煩わしいコブ付きもいないことだし。お金なんか、気にしなくていいさ。これでも、僕は歴とした港湾検査官なのさ。おまけに、この歳で嫁もいない。ああ、勘違いしないで欲しい。金には困っていないということを伝えたかっただけさ!」

 シズカはブラッドが役人だと知ると、素直に目をうるませて、ああブラッドさまはお役人さまなのですね。安心いたしましたわ、と鈴のなるような美しい声でつぶやいた。

 自分よりもひと回りも歳下の美少女に素直に褒められて、ブラッドは今日という今日は代々がご領主に仕える役人で良かったな、とほとんど生まれてはじめて感謝したのだった。

 ブラッドは母親が勝手に家へと女を連れ込んだ(真実は違う!)ことを咎めると思いきや、顔をほころばせて家事のイロハを教えだした。

 シズカもそれを厭うことなく、従順に習った。後ろ髪を引かれながら、昨夜の仕事を片づけるためブラッドは家を出て港湾事務所に向かった。

 終業時刻になると、仕事の虫とされるブラッドが一番早く上がるのを、同僚たちが目をまん丸にして眺めていた。

 夕方、家に戻る頃には母とシズカは仲良く夕餉の支度をしていたのだった。

「お帰りなさいませ、旦那さま」

「あ、ああ。ただいま戻りました」

 ブラッドの姿に気づいたシズカが、当然のように深々と身体を折り曲げて頭を下げる。

 白いエプロンが夕焼けの中でまぶしく輝いていた。

 シズカは料理も超一流であった。

 母が二日目にして、もはや教えることはないね、と太鼓判を押すほど基礎がしっかりしていたのだ。

 ブラッドが、母以外の女が作った手料理を口にするのは生まれてはじめてだったが、素直に美味しいと心から賞賛できるものだった。

 我ながら芸のない褒め言葉だと自嘲するが、それでもシズカは気づかない程度に頬をゆるませ喜びを控えめに表現する。ブラッドは、居候の娘にどんどん傾倒していく自分を止めることが出来なくなっていた。

 こうなると、仕事の方にもいつも以上に意欲が増すものだ。

 ブラッドが、日頃の鈍重さを脱ぎ捨て、月例会議で業務の効率化を声を大にして全面に押し出すと、たまたま上役である幹部のひとりの目に留まった。

 その幹部は元軍人であり、性格的に大柄で朴訥なブラッドを一目見て気に入ったようだった。ブラッドはその幹部に誘われるまま飲みにいくと意気投合したのだった。上機嫌でシルバーヴィラゴに帰っていく上役に、あの男をよろしくといわれれば、ラージポイントの幹部たちも意に沿った方向へと配慮するしかなかった。

 元々、すでに幹部になっているほとんどは、ブラッドの昔の同僚である。

 シズカが来て数日もしないうちに、ちょうど夏の区切りとして、一名を現場主席検査官へと上げる時期に来ていた。万年ヒラであるブラッドには、もはや関係ないと思われていた地位であったが、幾人かの候補を叩き落として、その座を射止めたのはブラッドであった。

「どうせ、頭打ちさ」

 などと陰口を叩かれても、現実は位がすべてであった。

 もはや、主席検査官になったブラッドに面と向かって逆らう者はひとりもいなくなった。

 さもあろう。現場事務所においては、彼が絶対的な任命権者である。

 わずか、半月前まで彼に買い出しをさせていた後輩たちは、いまとなってはブラッドに犬同然の忠誠心を見せて、競ってしっぽを振るようになる。

 元々が、驕り高ぶることの少ない彼も、これには胸がスカっとした。

 やがて、事務所にはある噂が流れるようになる。

 ブラッドに女房同然の恋人が出来たという話である。

「どうせ、二目と見れた顔じゃないだろ」

「いやいや、激安亜人の年増を買ったって話だぜ」

「俺は、商売女を引っ張りこんだって耳にした」

「あの、朴念仁のブラッドが自分で女を引っ掛けれるわけもない」

「どうせ、激ブスさ。証拠に、家からは一歩も外に出さないらしい」

「誰も見たことがないのがその証拠さ」

 突然の昇級も相まって、ブラッドの噂の女の評価は滅茶苦茶であった。

 普通なら、激怒しそうなものであるが、ブラッドにしてみれば負け犬の遠吠え程度にしか聞こえなかった。

「真実は俺だけが知っているのさ」

 事務所の部下たちはブラッドがシズカの手作り弁当を広げるたびに、わざとらしく近づいて、いろんな意味に取れる言葉でからかい続けた。

「いやあ、さすが主席検査官! お熱いこって」

「おやおや、なんともウマそうな弁当ですな。料理好きは美人って聞きますが、是非とも未来の主席検査官夫人の顔を一つ拝ませもらいたいものですな」

「もしや、オフクロさまのダミー弁当ってのは勘弁ですぜ」

「まさか! そんな、セコイ手を主席検査官さまが使うはずなかろうて」

「そのうち、おウチの方にも、皆でお邪魔したいものですな。もちろん、よければの話ですが」

 どれほど、侮蔑的な言葉を放っても、眉ひとつ動かさないブラッドに次第に調子乗った部下たちは、皆で押しかけようと、ブラッドの幻の恋人の化けの皮を剥がそうと半ば脅しのような形で声高に話しあった。

「調子はどうだい、ブラッド」

「んん、ああ。レガートか。そうだな、普通だよ。いたって普通さ。特筆することはなにもなし、だ」

 そんな噂が飛びかう昼休憩さなか、ブラッドの従兄弟で四つ上の会計事務員であるレガートが顔を出した。

 ブラッドは書類から目を離さずに、筆ペンを巧みに走らせながら返答した。

 その、仕事一途な実直さを目の当たりにし、レガートは深く息を吐いた。

「……なんだ。どうやら、噂はガセだったようだね」

「なんの話だよ」

「とぼけるなって。まあ、いいか。どうせ、僕だって君に女が出来るなんてありえないと思ってたんだが。でも、少しは可能性に賭けてみたくなるじゃないか。ああ、僕の百(ポンドル)よ。さらば」

「だから、いったいなんの話をしてるんだよ、レガート。女うんぬんて、もしや皆が噂してることかい」

「だって、勘違いもしたくなるじゃないか。万年ヒラだった君が急に発言するわ、バンバン改善案を出すわで、こりゃもう、女が出来たとでも思うしかないだろうが! 男が極度に変わるなんて、そうそう理由はないだろう!」

「なーにを勝手にキレてんだか。ったく、こっちは業務中だぜ。あんまり会計がドンブリ勘定ばっかだって、堂々と遊んでるとまた叱られるぞ」

「あのな、もう昼休みだよ。そんなんだから君はますます煙たがられるんだ。少しは、女の子と遊んで、頭をやわこくしたほうがいいぜ」

「んん。そうか、もう昼休みか。んじゃ、メシでも食うかな。レガートはどっかいってていいぞ。あー、やっべ、弁当忘れたかも」

「いい歳して、よくオフクロさんの弁当ばっか、毎日食べれるな。いい加減飽きないか?」

「いや、最近はオフクロのじゃなくてだな」

「いいっ!」

「は?」

「従兄弟の僕には強がらんでいいぞ! 君に、女ができうるはずがない! ガキの頃から知ってるから! ありえへん世界だから、それ!」

「……さすがに、俺だって怒るぜ」

 ブラッドとレガートの話を聞いていた部下たちの間にいっせいに弛緩した空気が流れる。

 あちこちから、やっぱな、とか予想通り、といった声がもれ聞こえた。

 幾人かは、賭けをしていたようで、配当を回す銅貨のこすれる音が乾いた音を立てた。

 噂の根源はもっとも近しい親族の手で白日の下にさらされた。

 そして、ブラッドに対し、課員全員から憐憫に似た表情や、半ば親近感を込められた視線が送られた。

 ドンくさいが、たまたま順番で出世した運のイイ男。

 ブラッドの評価はそのように定まるはずだった。

 ある少女が、事務所に現れるまでは。

「あの、ブラッドさまはどちらに」

 男たちの視線は入ってきた少女へと釘づけになった。

 小柄な少女は、白いローブを身にまとい、おずおずとした様子で頼りなさげに室内を見回していた。

 薄い青のウィンプルをかぶっている。

 目線を下げて身を縮こませているが、その人並み外れた美貌は隠しようがなかった。

 心細そうに目をしばたかせ、小さなバスケットをギュッと抱えこんでいる。

 いまにも泣きそうなほど心細げな様子は、男の潜在的な庇護欲を強くかき立てる。

「ちょっと、待て。いま、あの娘、なんて」

「……主官の名前いわなかったか?」

「は、はは。まさか」

「ありえんし。あんな美少女が主官の恋人なわけ、ないし」

「おお、シズカか。弁当届けに来てくれたのか。悪いな」

 あたりまえのようにブラッドが少女の名を呼んだ。シズカは、心細げに事務所の中をたたっと突っ切ると、巨躯の男に駆け寄っていった。

 課員たちは口をあんぐりと開けると、アホヅラを晒しながら、目の前の出来事を夢だと思いこもうと努力していた。

 レガートもその場に固まったまま、親しそうにふたりが話しあっていることを耳にし、自分の脳を疑った。ブラッドとシズカの話題は家の中の瑣末な出来事で、それらはまるで同じ家に住む夫婦のように具体的かつ所帯じみた懸案であった。

「おい、おい、待って。ちょっと待ってください。もしかして、おまえ、おまえら」

 ブラッドは震えながら指差すレガートに、決まり悪げにうなずいてみせた。

 シズカも恥ずかしげに、追従する。

 レガートは白目を剥くと、ショックのあまり昏倒した。

 あまりにも失礼な反応だった。 

 せっかく仕事場まで来てくれたシズカをそのまま帰すこともないだろうと思い、ブラッドは躍起になって自分の業務を説明した。

「この、朴念仁が……」

 かたわらではレガートが腕組みをしながら苦虫を噛み潰した表情で睨んでいる。

 む、無視だ、無視。

 ブラッド自身も半ば理解していた。

(こんなつまらねえ仕事の話、若い女が好きなわけねえだろよう)

 だが、仕事一筋に生きてきたブラッドにとって、他に自信を持って説明できる話題などなかった。湾内に入る船の積荷を調べるイロハから、密輸を企む商人を見分ける方法など、実務的なノウハウを出来るだけ噛み砕いて説明する。

「すまない。さすがに、こんな話つまらないよな」

 ブラッドは巨体を縮こめて、語尾も絶え絶えになった。

 自然と大型犬が、主の機嫌をうかがうような、愛嬌の溢れたものになった。

 シズカは、波止場の検査所を通過する旅人たちを熱心に見ながら、慰めではない真摯な口調で応えた。

「いえ。ブラッドさまが心を砕いているお仕事ですもの。つまらなわけがないです」

「シズカ」

 ブラッドが感動に打ち震えている横で、レガートが、「マジかよ。天然記念物指定だ」などとほざいているが黙殺する。

 ついでに蹴りをケツに入れておく。

 あがっ、と品のない声が聞こえたがそれも黙殺した。

 しばらくして、その状態でいるシズカを案じ声をかけた。

「ブラッドさまのお仕事が終わるまで、ここでお待ちします」

「そ、そうか。飽きたら、すぐに教えてくれ。家まで送らせる」

「ここまで来れたから大丈夫ですよ」

 シズカはいつもの落ち着いた口調ながら、ブラッドがわかる程度に眉をゆるませる。

 一方、レガートは彼女の声音から冷たい印象を受けたのか、愛想の良い顔はしなかった。

 別に構わない。彼女の良さは、自分だけが知っていればいいのだ。

 その日から、シズカは作りたての弁当を港の事務所まで毎日持参するようになった。

 彼女は昼時にブラッドの事務所まで来て湯気の出るような弁当を渡すと、必ずブラッドが仕事の終わる夕暮れまで船着場でを眺めながら待った。

 まもなく、気を利かせたブラッドの部下がシズカのために椅子を用意した。

 彼女は検査所の軒先でちょこんとそれに腰掛け、午後を丸々費やして船着場から降りてくる人々を眺めながらブラッドを待った。

 文句ひとついわずに、黙々と男を待つ彼女を見るにつけ、事務所の男たちがブラッドをやっかみ半分にからかうことは徐々になくなっていった。

 男たち曰く、「ウチの女房なら絶対真似できない」「むしろしない」「そもそもが、想定の範囲外」「若くて美人であれほど従順な女がいるなんて、頼むウチのと交換してくれ」などは残ったが、ほとんどが悪意はないものに変わっていた。

 世間の人は、ブラッドとシズカはそのうち正式に婚姻するものと思っていた。むしろ、もはや籍を入れていると思いこんでいた人間も少なくなかった。

 ブラッドは正常な成人男子である。

 むしろ、性欲は人並みに以上に強かった。

 シズカが家に転がりこむ前までは適当に女を買って処理していた。

 しかし、彼女が家に来て以来というもの娼婦を買うことはなくなっていた。

 なんとなく、彼女に知られたくないという、照れが生まれていた。

 勢い、彼は仕方なしに自慰に励むようになった。成人してからというもの、幼稚な自慰行為からは遠ざかってはいたが、代償行為は必要だった。もちろんネタはシズカであった。

 自涜行為に励んだあと、ブラッドは常に強烈な罪悪感と己の不甲斐なさに苛まれた。

(なにやってんだ、俺は。ガキみてえに、こんなことばっかり)

 男らしく、シズカを抱けばいいのである。無理やり夜這いをかけても、彼女は自分を拒否しないだろうという自信はあった。

(けど、そういうのとは違う。シズカとは、ちゃんとしてぇ。俺の口から、一緒になろうって伝えて、そういうことをキチンとしたあとじゃないと、なにかダメな気がする)

 シズカは人探しをしているといっていた。

 だが、ひと月以上彼女はとりたてて家を空けることなく、半を押したような決まりきった生活を行っていた。

 早朝、暗いうちから家のことを切り盛りし、昼飯は必ず温かいものをわざわざ仕事場にまで届けて、そのあとはブラッドが仕事を終える夕方までずっと忠犬のように船着場で湖を眺めながら待ち続けている。

 夜勤時は、ブラッドの母と常に過ごしており、夜は同じ部屋で寝ているらしい。

 まさに、理想の嫁といえる完璧な存在だった。

 愛しあった夫婦ですらここまで情のこもった行為はしないだろう。

 自分たちは、身体の繋がりこそないが、心は奥底でわかり合っている。

 ブラッドは心の底からそう思っていた。

(もう少しで来月の俸給が出るだろう。そうしたら、俺はシズカに立派な婚約指輪を渡して、人探しなんてやめて、いっしょに暮らそうって、ちゃんと伝えよう)

 薔薇色の未来を描くブラッドの元へ従兄弟のレガート訪ねてきたのは、唐突だった。

「どうしたんだ急に。まあ、かけてくれよ、いま茶を淹れさせる。ああ、そうか。いま、シズカはオフクロと出かけていないんだった」

「知ってる。だから、来たんだ」

 普段は陽気な彼はうつむきながら、吐き捨てるようにいった。まるで、自分が意に染まぬことを無理やりやろうとしているような、半ばヤケっぱちな態度であった。

「おい、知ってるってどういうことだよ」

「悪いことはいわない。あの、女と一緒になろうとなんて馬鹿なことは考えるな。いや、いますぐに、ここから叩き出すんだ」

「あの女って、シズカのことかよ。いきなりやって来て、なにいってるんだよ。おかしいぜ、レガート。理由をいえ、理由を」

 ブラッドはカッとなりそうな自分を押さえながら、努めて平静に応えた。

 レガートは一族でも変わりものであり、ときには歳下のブラッドに対し余計なおせっかいを焼くことが多々あった。

 だが、いつもなら最初に必ず理由を聞けば説明してくれたのだ。

 かつて、二十歳くらいのころ、女をよく知らないブラッドが水商売の女にハマって俸給を残らず注ぎこんだことがあった。

(ああ、確かにあのときは俺が間違っていた。あんな安っぽい女に入れあげて、ろくすっぽオフクロの意見も聞かなかったもんなぁ)

「なあ、レガート。確かに、俺には前科があるよ。けど、シズカは違うんだ。彼女は家のことはよくやってくれているし、手癖が悪いわけでもない。飯は美味いし、裁縫の腕前なんて玄人はだしだ。なにより、あいつはオフクロが気に入ってるんだ。だから」

「そういうことじゃない! ぜんぜん、そういうことじゃないんだよ! ブラッド!!」

 レガートは甲高い声を張り上げると、金色の頭髪をかきむしりながら、やや高い頬骨を歪ませた。異様な雰囲気に圧倒され、ブラッドの脇の下を冷や汗が流れた。

「理由はいえない。けど、あの女だけはあきらめるんだ。アレが、おまえと一緒になれるはずがない。あんなやつが」

 ブラッドはその先をいわせることが出来なかった。

 あっ、と思った瞬間には身体が前のめりに飛び出し、手が飛び出していた。痩せぎすなレガートは居間の椅子ごと板塀に吹っ飛ぶと、頭を強く打ちつけて鋭く呻いた。

 脳髄が沸騰する。

 怒りで目の前が真っ赤になった。レガートの顎を殴った拳が熱い。

 視界が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて、立ち上がるレガートの姿が二重にも三重にも増えていた。

「おまえになにがわかるっ!!」

 シズカは毎日俺のために弁当を届けてくれたんだ。

 ほおばる飯のなんとうまかったことか。

 シズカは毎日俺のために掃除をして部屋をキレイにピカピカにしてくれた。

 毎日、清々しい気分で朝を迎えることができた。

 シズカは毎日俺のために心を砕いて衣服を洗濯し、ほつれを繕ってくれた。

 作業着に袖を通すたび、ほころびの縫い目を見るたびに、一日を頑張ろうって思えたんだ。

「俺は、朝起きて彼女の顔を見るたびに、生きてて良かったって思えるようになったんだ。

 まだ、伝えてないけど、ちゃんと彼女に愛してるっていって、一緒になろうっていおうって、そう前向きに思えるようになったのは、彼女と出会えたからなんだっ! それを、おまえはなんだ! レガート!! 彼女のことをなにひとつ知らないで、よくもそんな、淫売を追い払うような口調で罵りやがって!!」

 巨体を震わせながら激昂するブラッドに対し、レガートは冷静さを取り戻した目つきで口元から流れる血を拭ってつぶやいた。

「淫売の方がまだマシだな。金で解決できる」

「おまえはああああっ!!」

 ブラッドは子供に戻ったように全身でレガートに飛びつき組み伏せた。

 簡単にねじ伏せられると思いきや、どこにそんな力が潜んでいたと首をかしげる筋力でレガートは反撃に出た。

 机や、椅子を蹴飛ばしながら、床板をゴロゴロと組み合ったまま転がった。

 茶器が跳ねて割れ、壁に掛けた絵の額がガタンと落ちた。

「このわからず屋めっ!! 黙って年長者のことを聞いてればいいんだっ!!」

「ふざけんなよっ! こればっかりは、いくらレガートのいうことでも聞けないからなっ!!」

「目を覚ませよっ!! 正気に戻るんだっ!!」

「くっそ、さてはおまえもシズカのことをっ。彼女は渡さないぞおおおっ!!」

「馬鹿がっ!!」

 ふたりの喧嘩は永遠に続くかと思われたが、事態はブラッドの母の帰宅により中断された。

 それよりも、もっともブラッドを打ちのめしたのは、母がシズカとはぐれたという一点だった。

「帰ってくる。はは、なに。ちょっと、寄り道してるだけさ。シズカは若い。そういうこともあるさ。きっと、そうに決まってる」

 レガートはいたましいものを見るような目でブラッドを眺めた。

 そこには、強い同情と憐憫と、長い付き合いによる親愛の情が深く横たわっていた。

 日が暮れるのを待たず、ブラッドは血相を変えて家を飛び出していった。

 彼が家に戻ってきたのは三日後だった。

 すべてを知っている雰囲気のレガートは、事務所にブラッドの長期休暇を申請した。

 一ヶ月後、シズカを探し出すのをあきらめたのか、ブラッドは仕事に復帰した。

 皮肉にもその日から、彼の仕事の能率は、休む前の何倍もアップしていた。

 レガートは、仕事の合間に机の引き出しから、小さな手帳を取り出すと放心したようにときどき眺めていた。

 その黒く小さな手帳には、独特の女の字で暗号のような文章が書かれていた。

 深い学識のないブラッドにその文字を読み取ることはできない。

 しかし、シルバーヴィラゴにある王立迷宮探索研究所には、あらゆる暗号文に通じる権威の学者がいることを耳にしたことがある。

 いまのブラッドの楽しみは、秋になったら長い休みをとってシルバーヴィラゴに行くことであった。






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