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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第1章「遥かなる旅路」
30/302

Lv30「おしまいの風景」




 

 叫ぶような女の嬌声と男の吠え声が、交互に響き渡った。

「ったく、船長も中々お盛んだねえ。これじゃあ、オレたちの分が今日中にまわってくるかわからねえや」

「へへ、まあ気を落とすな相棒。アジトの島につきゃ、三日三晩と酒盛りだ。女はそのとき、好きなだけ抱けばいいさ。へへ、ま。豚公、女はたくさんいるからよう。祭りのときにゃおまえにもちゃーんとまわしてやるからさ。使い倒した使用済みをよ!」

 バルバロスの部屋の前で、見張りをしていたふたりの湖賊はそういって首をしゃくると、暗にゴードンにここから去るようにうながした。

 完全に瞳から生気を消したオークの青年は、名残惜しそうに、嬌声が漏れ聞こえる部屋を眺めると、肩を落としたままゆっくりと部屋から遠ざかっていった。

「考えりゃ、あの豚公よく最後までキレずにしたがったな。よっぽど臆病なのか、それとも理性的なのか」

「あいつは、普通のオークとは違う。屈辱を噛み締めても、最後まで女房を取り戻すチャンスを捨ててはいねえ。もっともオレたちの下につくっていうなら、あの身体はあの身体で充分役に立つさ」

「しっかし、船長もえげつねえぇな。あそこまでされたら、たまらねえだろうよ」

「いや! あれでいいのさ! 男が一番大事にしていた女を完全に組み伏せることで相手の牙を徹底的に抜き取る。二度と逆らおうなんて思わせねえようにな。あの、ゴードンというオークは利口そうに見えて、実はたいしたことない。機を図ると思った時点で既に一歩引いてるんだ。一度下がれば、男はもう前に進めねぇ。あとはズルズル行き着くところまで落ちるだけだ。お互いそこいらは気をつけようや!」

 ふたりの見張り番が顔を見合わせたとき、船の中央部分から、多数の男たちが駆け回る音が大きく響き渡った。

「なんだあ、騒がしいなあ、おい」

 男のひとりが怪訝そうに鼻先を掻いていると、船長室から物音がした。

 きい、と音を立て、部屋の中からミリアムが姿を見せる。見張り番たちの瞳から、自然好色そうな視線を感じ、ミリアムは肩を震わせた。

「あの、ゴードンは」

「おいおい、船長だけじゃモノ足りずに、あの豚公にもかわいがられたいってのかい? だが、おめえを船倉にやることはできねえな。船長に、おまえさんは絶対に旦那に会わすなって厳命されてるんでね。きひひ」

「そう、ですか」

 ミリアムはゴードンの小さくなった背中を思い、胸が張り裂けそうだった。そもそもが、あんな男の言葉を真に受けたのが間違いだったのだ。

 身を任せれば、ゴードンだけはこの船から解放する、と。

(彼を傷つけてしまった、あんなにやさしい彼を)

 思えば、ゴードンは性に淡白だったわけではない。大事な妻だったから、必要以上に手厚く扱い、遠ざけたのだった。そんなことも理解できなかった。ミリアムは、怯えてみせた自分の情けなさが許せなかった。

(わたしが、もっと勇気を出していれば。ちがうわ、そもそもあんな小娘相手にバカみたいなヤキモチを焼いて、ヤケになって、自分の身体を汚してしまった)

 ミリアムは、正直なところクレアを凶暴なくらいまでの熱心さで抱いている夫を見て、激しく嫉妬していた。

 バルバロスとかいう男の口車に乗ってしまったのも、馬鹿な女の浅はかさだ。

 おまけに、ゴードンは船を降りずに湖賊となって残るなどという始末だ。それは、つまりはミリアムを絶対に取り戻すという執着の表れであり、頭の芯がしびれるほどうれしい反面、危険値からいえば承諾できるものではなかった。

 バルバロスは、異常な執着を自分に見せている。

 もう、ミリアム自身は汚れてしまった。ならば、せいぜいこの身体を使ってあの男を手玉に取り、ゴードンだけはどうやっても五体満足のまま地上に返さなければならない。それが、妻である自分にできる最後の償いだった。

(わたしは、もう汚れきってしまいました。あなたに合わせる顔もありません。だけど、必ず、あなたの身体だけは守り通してみせます。そうでなければ)

 だが、ミリアムの誓いをよそに、船内は大きなうねりに巻き込まれていくのだった。






 蔵人が貨物室から甲板に上がると、出航前の目の覚めるような青白い空は頭上から消え失せていた。 

 墨をぶちまけたような黒雲が中天を覆っている。

 水の匂いが濃くなった。

 ギラギラと、獣のような瞳をした湖賊たちが、剣や手斧を構えて、蔵人たちの包囲の輪をゆっくりと縮めていた。

「くそ、よく気のつくお友達だ」

「だから友達じゃないっての!」

 湖賊の仕事は大きく分けて三つに分類される。

 船のメンテナンスに、航行、戦闘である。

 乗船している以上、仕事は二十四時間途切れなく行われ、すべては常に細分化され、協調性を持って行われていた。

 つまりは、狩りの対象が元船長であろうと、彼らの個人的な感情は、この際一切配慮されることはない。

 中世、近代と、男にとって暴力とは己のアイデンティティそのもであった。

 とりわけ、力のみがもっとも尊ばれる船では尚のことである。

 根無し草の船乗りにとっては、聞いたこともない法理などよりも、自らの手で掴み取ったものがすべてで、組み伏せた相手がもっともすぐれた勲である。

 そもそもが、二十そこそこのグレイスが荒くれ者の長である理由としてあったのが、先代から受け継いだ血縁と力の象徴であった腹心ラフィットの存在であった。

 だが、現在のそのふたつを欠いたグレイスという存在自体が、彼ら湖賊にとってはなんの枷にもなってはいなかった。

 むしろ、昨日まで自分の上にあった存在を公然と汚すことができるのである。

 それは、降り積もった純白の新雪を、泥靴で踏みにじるような下卑た快感を確実にもたらせてくれることに間違いなかった。

 男たちはなんの呵責もなく、この狩りを思う存分楽しむことができる。そこには、免罪符として、それを許可した新たなリーダーであるバルバロスの存在が大きかった。

 一度つかまってしまえば、昨日まで顎で使っていた男たちに引きまわされたあげく、容赦のない陵辱を受けることは間違いない。

 グレイスの心情はいかばかりだっただろうか。

「すまないね、なんの関係もないあんたにまで迷惑かけちまって」

 青ざめた横顔をわずかに伏せながら、グレイスがいった。

 蔵人は無言のまま、彼女の手を引くと、にじり寄ってくる敵の数を数えようとしてやめた。あまりにも、多すぎるのだ。

 この状況なら、たとえ、宮本武蔵や塚原卜伝であろうと全力で降伏するだろう。

 そして、蔵人は彼ら偉人に劣るはるかに矮小な存在だった。

 グレイスの表情。

 絶望に染まりきっていた。

 そもそもが、体格と強さは比例するものである。

 彼女の並程度の体つきでは、男をベッドの上で蕩かすことはできても、甲板の上での斬り合いは期待できそうもないものだった。

 男の世界で女が頭を張ろうとすれば、一頭抜きん出た腕っ節、集団を完全に統率するカリスマ、目もくらむような財力、触れようとすら思わない高貴な血統、など、どうしても一般の船乗りとは隔絶したなにかが必要だった。

 だが、彼女にはなにもない。

 蔵人が知る限りでは。

「んで、ジョニー・デップはいつ出てくるんだ?」

 実力本位のこの異世界ではリテイクなど存在しない。手に持つ刃は本物で、ひとたび舞えばあっさりと人間の命を刈り取っていく。

 とはいえ、彼女の怯えもわからんでもない。

 女性の存在など、このすべてがはかない世界においては、屈服した時点で、ただの排泄を行う共用設備になってしまうことも自明の理だった。

 周囲を囲む殺気が、一際大きく膨れ上がった。それは、獣が跳躍する際に全身の毛を逆立てるのに至極、酷似していた。

「理由も知らずに殺されるわけにはいかねぇし。とりあえず逃げるか」

「え」

 蔵人はグレイスの身体を横抱きにすると正面突破を図った。

 何十人という多勢を頼んでいた敵影の真正面に向かって駆け出した。

「え、あ? ちょぶっ!?」

 滑るように抜かれた白刃の銘は“白鷺”。

 古今に並ぶものないロムレス三聖剣のひと振りだ。

 長剣が水平に走ると、手斧を構えていた男の首がなんの抵抗もなく切断された。

 振られた雨傘から飛び散った水滴のように、辺りに血潮がけぶった。動揺した男たちが、波のようにサーっと引いていく。人垣の切れ目を狙って、錐のようにもみこんでいく。身の厚い船べりが見えた。一瞬逡巡する。

「翔べ!」

 子猫のように身を小さくしていたグレイスが叫んだ。

 翔ぶも翔ばぬもない。そもそも、この船に逃げ場などないのだ。

最初(ハナ)からそのつもりだっ!」

 後方から激しいどよめきが沸いた。

 蔵人は船べりを大きく蹴って、虚空に舞った。

 全身に浮遊独特の背筋が凍る感覚。

 自由落下に移る直前、グレイスが激しく指笛を吹き鳴らすと、大きく眼下の湖面がうねった。

「ジェイミー! しっかり受け止めておくれよ!」

 激しい飛沫をかきわけるようにして、その巨大な生物は水中から顔を突き出した。

「マジかよ。さすが、ファンタジー」

 それは、巨大な蛇だった。

 ジェイミーと呼ばれたそれは、黒と白に塗り分けられた体色をうねらせながらとぐろを巻くと、湖面に落下していくはずだったふたりを器用に受け止めた。グレイスは、ジェイミーの背びれらしきものに両手でつかまると後方の蔵人に向かって叫んだ。

「しっかりつかまって! って、どこにつかまってんのさ!」

「おっぱい。いや、お約束かな、と」

 蔵人は遠慮なくグレイスの両胸を鷲づかみにして、それからおもむろに手の位置を細い腰へと移動した。

「ああ、もう好きにしなっ」

「冗談だって、おっぱいとれたら悲しいだろう」

「バカ!」

 ふたりを乗せた大蛇は湖面を滑るようにして、レッドファランクス号から遠ざかっていく。大蛇の異様さに圧倒されていた男たちは、蔵人たちの背中が小さくなるにつれて我を取り戻し、いっせいに狼狽しだした。

「おい、なにぼさっと見てやがんだ。矢を射かけろ!」

「え、だってバルバロス船長が飛び道具は使うなって」

「ケースバイケースだ、クソが! 指示がないと、なにもできないのかっ、これだから呑百姓や漁師あがりはっ!」

 バルバロスの側近である幹部のひとりが、部下の湖賊を思い切り罵った。男の顔にあからさまに怒りの表情が浮かぶが、そんなことは気になどはしない。幹部は、男の手から弓矢を奪うと二三度射てみるが、とうに射程圏内を離脱していた蔵人たちに届くはずもなく、矢はむなしく湖に沈んでいった。

「ちっ!」

 獲物を逃がしてイラついた男の舌打ちだけが、波風に吸いこまれていった。






 二十二歳のグレイスが漁師である夫に嫁いだのは、七年前の十五の夏だった。

 グレイスの実家、オールストン家は、元々が湖畔に住む漁師や百姓たちの束ねを行っており、近在ではもっとも栄えていた土豪だった。家族の中で湖賊として主に活動していたのは、祖父と父であり、特にそれが専業というわけではなく、生活の基盤は漁にあった。

 つまり、湖賊として活動する時期は、特に不漁や不作の時期に減免が認めらないときなど、抗議の意味合いが強かった。彼らは、ポーズとして領主の保持している船や客船を襲い、交換条件として税の減免措置を交渉する場を作り出していた。

 だが、年々周辺で一番だった大都市のシルバーヴィラゴが栄えていくにつれ、クリスタルレイク周辺から取れる税金はあまり重要視されなくなった。

 湖畔の漁師や百姓に気を使わずとも、客船を大量かつ定期的に周回させ、シルバーヴィラゴに人を呼びこんで金をどんどん落としてもらえば、時間ばかりかかる土民たちとの交渉などほとんど気に留める必要がなくなったのだ。

 勢い、クリスタルレイクには領主の目は届かなくなる、私腹を肥やすことばかりに汲々する低劣な代官ばかり送られる、と負のスパイラルが連鎖した。人々は重税にあえぎ、塗炭の苦しみにまみれた。

 ここまで踏みつけにされれば、近在の土民たちの束ねであったオールストン家も黙ってはいられない。船を揃え、軍需物資をかき集め、戦える漁師や百姓を集めて訓練を行い、湖賊黒蛇党を旗揚げした。最盛期には、三千を超える軍勢を誇った彼らも、七年前領主軍との大戦で敗れ、ほとんど全滅したかに見えた。だが――。

「そこで、神輿に担ぎ上げられたのは、当時の船長のひとり娘だったあたしってわけ。女に湖賊はつとまらん! とかなんとかいっちゃって、無理やり人を嫁に出しておいて、いざ必要になれば、道具のように無理やり別れさせて、挙げ句の果てにはこんなカッコまでさせて、さ」

 蔵人は、湖畔にある船小屋の前で焚き火をしながら、グレイスの話に耳を傾けていた。

 時刻は既に夜半を過ぎていた。火を前にしてふたり寄り添うように、倒木に腰かけている。季節は、夏とはいえ、日が落ちれば露営の寒さは身に染みた。

 レッドファランクス号は、出航してすぐに襲われたので、現在の場所も出発地点だったセントラルリベットからそう離れていなかった。南に視線を向けると、巨大な竜王山が確認できる。つまりは、ダークエルフの領土に接しているもっとも危険な境界線の一部に上陸していたのだった。

 それにしても先ほどの、蛇は。

 ジェイミーは、グレイスが卵の時から育てていた水蛇で、いわば彼女の最後の隠し球だった。もっとも、デカイ水蛇は気性がやさしく、主に湖底のコケを常食にしており戦闘には期待できないのは、かなりの見掛け倒しだったが。

 グレイスは、日が落ちて辺りがなんとも寂しげな風情になると、途切れなく話を続けた。

 蔵人が、相槌を打とうが打つまいがあまり関係ない。彼女は自分の中の恐れをかき消すように、次から次へと身の上話を続けた。

 要約すれば、領主の重税に立ち上がった義賊の後継者が、部下の造反によって組織を乗っとられ難儀している、ということらしい。

 蔵人にいわせれば、どっちもどっちだった。

「そんで、話は聞いたけど。そろそろ寝かしてくんねえかな」

「寝かしてくれって、そりゃあんまりじゃないか。なにか、いうことはないのかい」

「ねえな。その続きは、どうかお助けください、力になってください。とかありきたりに続くんだろう。数人相手ならともかく。あれだけの数じゃあ、さすがの俺もどうにもならねえ。美人の頼みなら、聞いてやりてえのやヤマヤマだが相手が悪すぎらぁ。気の毒だが、これ以上他人の難儀につきあってちゃ、こっちの身がもたねえんでな」

「……あの船に密航してたってことは、シルバーヴィラゴに用があるんだろう。どうせ、男の考えそうなことだ。あんたも、冒険者になって一旗揚げようって腹積もりだろう」

「まあな。なんだよ、随分、冒険者に恨みがあるような口ぶりだな」

「大アリだねっ!」

 グレイスは、焚きつけの薪を炎の中に投げつけると歯ぎしりするように、蔵人の外套をにじった。

「元はといえば、あたしに噛み付いたあのバルバロスも元冒険者なのさっ。あいつが、黒蛇党に入ってからどんどん組織がおかしな方に傾いてったんだ!! 戦う相手が領主の軍隊だとわかれば亀の子みたいに首をすくめて隠れて、そのクセ分捕り品は適当な理屈をつけていっつも自分が多く取ってどんどん自分の子飼いを増やしていったんだ! おまけに襲う相手が武装してない旅行者とわかれば真っ先に襲って、子どもや年寄りは傷つけ、女は手篭めにして女郎屋に売り払うっ!」

 グレイスは真っ赤な顔を炎に照らし出しながら、不満をぶちまけていった。彼女の滔々と述べる理屈はいずれも自分の頭領としての実力不足を露呈するものだったが、蔵人はあえて否定せず、いいたいことをすべて吐き出させた。彼女は、自分の正当性を誇示したいわけではなくただ自分の話を誰かに聞いてもらいたいだけなのだった。

 怒鳴るように喋っていたグレイスが思い出したように蔵人の顔を見やった。

 同時に、彼女の顔から表情が失せた。

 蔵人が軽いいびきをかいて目をつむっていたからである。

「あんたって男はっ!!」

「ちょっ、わっ、待って! 聞いてる、聞いてるから!」

 グレイスは蔵人に飛びかかると、喚きながら顔に爪を立てた。蔵人はたまらず、彼女の両手首をつかむと、愛想笑いを浮かべた。

「……まったく、そういうところまで」

 グレイスは、不意にうつむくと、脱力して蔵人の胸にもたれかかった。

「おいおいおい、今度はなんだよ」

「ひとつ聞かせておくれ。冒険者になって五体満足でいられると思ってるのかい? あたしから船長の座を奪ったバルバロスでさえ、たった三年で目と腕を失って帰ってきたんだ。迷宮に潜り続けて人生をまっとうした人間はいないんだよ」

「さあ、そいつは俺にもわからん。ただ、ひとつだけ見てみたいもんがあるんだ」

「ひとつだけ?」

 グレイスが聞き返すと、蔵人は困ったように頭をかいた。

 それ以上聞かれたくないと察したグレイスが、そっと身体を蔵人へとさらに密着させた。

 湖畔には、闇の中で時折聞こえる火の粉の音と、虫のさみしげな鳴き声以外にはなにもなかった。

「せつないんだよ。……本当のところをいうと、あたしは元の亭主にゃ三行半を突きつけられたのさ。いちいち、吠え付くあたしの性格がたまらないってね。自分でも、ひとさまより気が短いってのはわかってるよ。でも、生まれたときからこうなんだから、いまさら変えることもできやしないし。父が、あたしのそういうところを見こんで後釜に据えたつもりだろうけど。やっぱり女なんだよ。誰も、頼るものがないってのは、つらすぎるよ」

「甘ったれたこといってもらっちゃ困るぜ。それにな、グレイス。どんな道だろうと、最後に選んだのは自分自身のはずだ。都合が悪くなったからって、お鉢をこっちにまわされてもどうにもならねえぜ。つけ加えていえば、そもそも人間なんて誰もがひとりぼっちなのさ」

「キツいね、本当に。最初さ、クランド。あんたのこと、別れた亭主に似てるって思ったけど、全然違うね」

 グレイスは、蔵人の瞳を覗きこむと、肩を小さく震わせる。それから、怯えるような瞳でささやいた。

「ねえ、抱いておくれよ」

「おいおい。俺は自分を大切にするんだ、とかつまんねえことはいわないぜ」

「もお、どうでもいいよ。たぶん、あたしひとりじゃどうにもならないし、最後の晩に、ひとつくらい良い思い出があったってバチはあたらないだろう」

「交換条件ってことか?」

「無粋なこといわないでおくれ。ただ、寒いだけさ」

 蔵人は、グレイスの顎をつまむとそっと口づけた。

 グレイスは、情熱的に両手を蔵人の肩にまわすと、舌を自ら入れてきた。

 蔵人は目を白黒させながら、互いの唾液を交換すると、口中で舌を絡ませあった。






 蔵人が余韻に浸りながら、倒木を背に空を見上げるとグレイスが火照った身体で抱きついてくる。真っ赤な赤毛を抱きとめると、彼女は顔を伏せたままいった。

「あたしが寝ている間に、旅立っておくれよ。もし、目が覚めて、あんたの顔を見たら、きっとくじけちまうよ」

 蔵人は無言のまま、彼女を抱きしめると、燃え盛る炎に向かってじっと目を凝らした。

 そこには、先程まで逃げを必死に口に出していた臆病者は、もうどこにもいなかった。

「結局やってしまった。いったい俺の説教とはなんだったのだろうか」

 蔵人は、朝焼けに目を細めながら、倒木にもたれながら寝入っているグレイスの顔をそっと見やった。

「んんん、クランドぉ」

 グレイスは、真っ黒な外套に包まれながらいい夢でも見ているのだろうか、にやにやと口もとをだらしなくゆるませている。その寝顔には日頃の勝気さはまるで見えず、蔵人から見れば、同年代の学生となにひとつ変わらぬ幼さがあった。

 湖畔から、清々しい空気が静かに吹き渡って来た。

 空を染める水のような青さと、輝く湖面の白さが視界の向こう側で溶けあっている。

「ま、やるしかねーのか。結局」

 なんだかよくわからないうちにグレイスを抱いてしまったのも運命だろう。

 それに、あの客船にはマルコや、気のいい若夫婦も乗っていると思えば、やはり見過ごすわけにいかなかった。

「一宿一発の恩義か。やべぇ、いまなにげに故事成語を冒涜してしまった」

 くだらない減らず口を叩きながら、蔵人は半ば完全に死を覚悟していた。寝物語にグレイスから聞いたところ、敵の数はおおよそ百五十人はくだらないという。

 各個撃破とか、そういうレベルの問題ではもはやなかった。蔵人とグレイス、ふたりで闇雲に湖賊の船に乗りこんでいっても、たちまち押し包んで討ち取られるだろう。

 いままでの冒険で度々、死を覚悟してきたが、今度という今度は確実に死が目前に迫っている。

 グレイスに至っては、既に命を投げている。

「だが、勝たなければ意味がない」

 蔵人にとって武器といえば、ひと振りの剣と、意地と度胸だけである。

 願ってみても、急に秘められた力が覚醒するはずもない。

 まごうことなく、ヒーローとしても、ひとりの男としても半端な人間である。

「クランド、あ、あれ」

 いつの間にか起きていたのか、グレイスが黒い外套を羽織ったまま、すぐ傍まで来ていた。

「どうして、寝ている間に行ってくれって……」

「ま、俺もたいがいの大馬鹿野郎だよなぁ」

「そんな、うそだろう」

 蔵人は、目を細めながらグレイスを見やった。無精ひげだらけの顔が、奇妙に歪む。しばらくたって、グレイスはようやくそれが笑顔だと理解したのだった。

「だって、ぜったい、死ぬっ……て、意味が、ないって」

 グレイスの瞳から、大粒の涙がぼろぼろこぼれる。流れ落ちるそれらは、青白い空を溶かしこんで淡く輝いた。

「どうやら、この湖が俺の死に場所みたいだな」

 グレイスが駆け寄ろうとして、足をもつれさせ転びかける。さっと、近づいた蔵人が彼女を抱きとめた。親を探し当てた子犬のようにむしゃぶりつく、彼女の頭を撫でながら、蔵人はもう一度だけ青い輝きに視線を移して、その輝きを脳裏に焼きつけた。






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