Lv283「悪疫Ⅴ」
蔵人の活躍によって病の出処は突きとめられた。リジー地区の古着屋でタルキンという男による暴挙だった。この男、未だ病が猖獗するこの界隈にて逃げずに残っており、防疫隊が捕手を出して付近一帯を探らせたところあっさりと捕らえることができた。
病の源泉はタルキンが他国から取り寄せた古着や毛布にあった。レコプラ病の菌を保有したノミが古着に残っており、それを使用した癈兵院の傷病兵が噛まれ徐々に病が拡散したのであった。
だが、不幸のなかにも「ツキ」というものは残っているものである。レコプラ菌は齧歯類を媒介とするロムレス地方特有のノミの体内にしか存在することができない特殊なものだ。
重要なのは、このリジー地区にはワーキャット族といわれる猫型亜人やダークフォックス族といわれる狐型亜人、それにトンチボー族という狸型亜人が多数居住していたことだった。彼らあるいは彼女らは、いにしえの習性によりネズミを捕らえて喰らうという悪癖があった。このため、この地区周辺ではネズミ自体がほぼ一掃され、衛生状態は異常なほどよかった。
トッドがいうには防疫隊には王都の錬金術師が開発したノミを徹底的に殺しきる薬が多量に備蓄されており、封鎖線の外にあるそれを取り寄せれば徹底的に駆除を行うことはそれほど難しくないらしい。文字通りの光明だった。
「泰山鳴動して鼠一匹。しかし、極めつけの大ネズミだったな」
病は依然街中を席巻している。しかし、なんとか焼き討ちに対する目処はつけられた。蔵人は古着屋タルキンを住民の怒りから守っている防疫隊の厚い守りを見ながら息を長く吐きだした。
タルキンはシルバーヴィラゴではなかなかに名の知れた商人であり、他国との交渉も多かった。
よって、この春レコプラ病が蔓延したユーロティアから裏ルートを使って汚染された古着類を手に入れることはそれほど難しくなかった。
聞けば、十日ほど前、タルキンのかわいがっていた愛娘が癈兵院にいる傷病兵に乱暴をされたことによる意趣返しであったことが判明した。
タルキンの娘マルグリットはそれこそ彼が目に入れても痛くないほど猫可愛がりをしていた掌中の珠であり、その宝物を無残にも砕かれたことが今回における事件のはじまりであった。
タルキンは常々、国のために戦って不具となった兵士たちに強い尊崇の念を持って接していたため、娘にも彼らを敬うように常日頃いい聞かせていた。そのような下地があったからこそ、彼の娘マルグリットもよく知らぬ兵士にほいほいとついて行き、貞操を穢されることとなったのだ。
タルキンの感謝の念が裏目に出た格好であった。まさしく可愛さ余って憎さ百倍である。
「タルキンからすれば、強姦の罪をわずかの銀貨で償いとされる法律院のやり方は我慢がならなかったのでしょうね」
防疫隊のトッドは、群衆のなかに潜んでいたタルキンが縄を打たれて引かれているさまを、どこかもの寂しげな風情で見やりながら蔵人にそう語った。
この世界の概念では処女性というものはもっとも守られなくてはならない絶対的な規範であった。基本的に婚前交渉などはもってのほかであり、被害者である女性が処女ではなかったことが立証されたことにより加害者が無罪になったケースもあるくらいだ。
タルキンは娘のこともあれば表立って癈兵やそれを監督する州軍にも抗議はできなかったのであろう。それが今回のような結末となったのだ。
正義感にあふれるクリスはいたたまれない様子で護送されてゆく憐れな男の背をジッと眺めていた。蔵人はかける言葉もない。因果応報というべきだろうか、娘を陵辱した兵士はすでに病によって死亡していた。
「お父さん、お父さんっ!」
連れて行かれる父を追ってミノタウロスの娘が嘆きの声をほとばしらせていた。あれがおそらく操を穢され、今また多数の民衆を悪疫で死に追い込んだ男の娘として生きねばならない運命を背負わされたマルグリットなのであろう。蔵人は目を閉じると唇を強く噛んでこらえた。
「あの娘の親父が……」
「アイツのせいで俺たちは……」
「なんでこんな目に合わなきゃならねえんだ……」
「吊るせ……」
「吊るせよ……」
捕縛されたタルキンは法によって処罰される。できるならば我が手で打ち殺してやりたいと思っていた住民たちの怒りは座り込んだまま泣き叫んでいる「犯罪人」の娘へと収斂されてゆくのも無理のない道理だった。
「クランド、やばいぞ。このまま、あの娘が殺される」
私刑。火がついた怒りの奔流は誰にも止めることはできなかった。数百を超える民衆はドッとマルグリットに押し寄せるとたちまちに捕らえて、手製の処刑台へ押し上げた。
なんだこれは――。なんだ、この理不尽さは。蔵人やクリスにカレン、それに残っていた防疫隊の面々が怒声を張り上げ暴挙を押し止めようとするが、それらは怒りと殺意の熱気でたちまち掻き消された。怒りの密度やむせ返るような殺気の濃さが先ほどとは違いすぎる。
「実力行使でいくか!」
「ダメだ! どれだけ斬っても焼け石に水だろ!」
抜剣したクリスが吠え立てるが、「吊るす」という意思で統一された群衆は、たとえ後方の数十人が斬り殺されても揺ぎもせずに私刑を執行するだろう。
――結局のところ救える人間は限られている。
その証拠に、防疫隊の面々には今回の悪疫を街中に撒き散らした元凶の娘を命を賭けて救い出そうとする熱意は感じられなかった。彼らにとっては、感染源の特定ができた時点でラデクより与えられた命は果たせたのだ。己の身を投げ出して――そもそもの禍の種――ともいえるマルグリットを救う必要性はこれっぽっちもない。
顔を上げた。演説台のような木製の処刑台には長い柱が建てられており、伸びた縄の先には今まさにマルグリットの首がかけられようとしていた。
蔵人は知らず、人ごみのなかへと突貫していた。無法者や幾多のモンスターと戦い鍛え上げられた剛力である。相手を構わず掴み引っ張り突き飛ばし隙間に身体をねじ込んでラッセルを開始する。
しかし、立ちふさがる肉の壁はぎゅうぎゅうに詰まっていて簡単には蔵人を受け入れようとはしなかった。
押せ、押すんだ。これでもかというくらい全力を込めて身体を前に押し出した。固く重い戦車をイメージする。両足は力強い無限軌道でビルだって押し倒してやる。
おお、と荒い呼気を吐きだしながら顔を真っ赤にして前進した。両肩へとみるみるうちに乳酸が溜まってゆく。酷く頭のなかが重くなった。
どうしてここまでやるのか。自分がやる必要があるのか。なんのために汗を流すのか。なにが気に入らないのか。
蔵人はすべての理不尽が許せなかった。手前勝手な理屈で病をバラ撒き自分の家族を苦しめ、街の人々を苦しめ、しなくてもいい苦労を自分にさせ、今またやり場のない怒りのために贄にされそうになるマルグリットの運命やそれらに付随するありとあらゆる不幸そのものが気に食わなかった。
なら、全力で叩き潰すまでだ。汗が流れ落ちて目に入った。思わず顔を上げた。まわりの熱が一気に上がったのだ。ドッと歓声が沸き立った。マルグリットの身体が外された処刑台の羽目板から落下したのだ。赤々と燃える松明の灯火に、ピンと張った縄が照らし出された。
「――遅かりし由良之助!」
蔵人ががきっと奥歯を強く噛み込むと同時に風を巻いて光が走った。ぷっと縄が千切れて少女の身体が虚空から消え失せる。
「今よ、早く!」
群集たちの硬直を破ってカレンの声が奔った。彼女が得意のエルフィンボウで吊るした縄を射抜いたのだ。蔵人はここぞとばかりに火事場の馬鹿力を発揮すると処刑台の下に座り込んで咳き込むミノタウロスの少女マルグリットのもとへとすべり込んだ。
「あ、あなたは……」
「通りすがりの召喚英雄だ! ってなんも解決してねぇし!」
私刑を邪魔された群集たちがゾンビさながら台の下へと潜り込み手を伸ばしてくる。もう躊躇している暇はない。蔵人は腰の長剣黒獅子を引き抜くとやたらめったらに狙いもつけず振り回した。伸ばした腕を斬りつけられ、あるいは同じく台に潜り込んできた男たちは身体の一部を損傷して惨めったらしい泣き声をほとばしらせた。
が、それも時間の問題だ。このままでは、怯えるマルグリットともども引きずり出されて吊るされるのは目に見えている。肩に抱き寄せた少女が震えながら抱きついてくる。
「必ず助けてやるからっ。離れんじゃねぇぞ!」
「う、うんっ」
とはいっても処刑台の下は狭かった。大人が立ち上がることができない高さである。蔵人は四方から迫る群衆を長剣で牽制しながら座り込んだまま戦うしかなかった。
「チクショウ、このままじゃ千日手だ!」
けれども思ったほど膠着状態は長く続かなかった。身を押し包むように迫っていた強烈な圧迫感が揺らいだかと思うと、群衆が口々に悲鳴を上げだしたのだ。
「火だ!」
「誰かが火をかけやがったぞ!」
男女を問わず口々に異変を叫んだ。同時に、ぴゅんぴゅんと雨降るようにどこからか矢が射かけられる鋭い音が耳元を木霊した。四つん這いになって迫っていた男の背にざくりと太い矢が刺さり血が飛び散った。カレンが行う単発的なものではない。組織だった集団的な攻撃だった。
理解はできないが逃げるチャンスはこのときを置いてほかになかった。蔵人はマルグリットの手を引くと、逃げ惑う男女を蹴りつけながら台の下から這い出した。
「なんだ、こりゃ?」
目の前の癈兵院だけではなく周囲にある建物すべてが燃えはじめていた。押し合いへし合いで我先に逃げ出そうとしている群集の真っ只なかへと断続的に火箭が走っていた。
こうなればもはや私刑だなんだといっていっている暇はない。蔵人は混乱のうずと化した暴徒の波にを見やりながら呆然と立ち尽くしていた。
不意に背後からヒヤリとする剣気を感じとった。蔵人は外套を広げてマルグリットの身体を覆ってしまうと長剣を水平に振るって殺意の影と入れ違った。
ズンと重たく脇腹を叩き切る感覚。振り返るとそこには、目だけをギラギラさせているあきらかに常人とは違った毛色をした異質な男が血泡を噴いて倒れているのが見えた。
「クランド、だいじょぶ?」
弓を片手に飛び込んでくるカレンを抱きとめると、その背後をついてきたトッドに声をかけた。
「隊長、こいつはもしかして――」
「クランドさま、ここは四方からゴドラム教徒に囲まれております。直ちに脱出を!」
「あいつら、この状況になるのを狙っていやがったのかよ……!」
完全に理性を失った群衆を一箇所に集め、狭い路地を封鎖して巻狩りのように一気に仕留める。
はじめは火矢。人間は火を見れば神経が高ぶり、頭のない集団は手のつけられない状況へとまたたく間に変貌する。多数の人間を殺傷するためには最適なシチュエーションであった。
「待ってくれ……」
ざらついた声に視線を転じる。そこには防疫隊に肩を借りてなんとか立っている備品庫で見つけた青年の姿があった。
「……オレは盗賊ギルドのトーセキってケチなもんだ。外へ行くんなら、冒険者ギルドのマスターに伝えてもらいてぇ……ことがあるんだ」
「ヴィクトリアは市中にいないのか?」
蔵人は長剣を鞘に落とし込むとトーセキに駆け寄って顔を覗き込み「話せ」といった。
「オレが備品庫にいたのは火事場泥棒するためじゃねえ。ヴィクトリア公に頼まれて、役人どもの横領を探っていたからなんだ……」
トーセキの話はこうだった。彼は先代の城将オレールから尾を引く備蓄品横流しの件に関しての調査を引き続き行っていたのであった。
ヴィクトリアに代替わりしてからからは汚職役人は大方刷新されたが、長らく慣習とされていた役人に対する余録は消えることなく細々と続いていた。
「横領ってのは長く続けていると、そのうち神経が麻痺してそれがあたりまえになっちまう。去年の戦役の傷が癒えぬうちから、こうも水が澱むなんて……。へへ、笑っちまうぜ。
おまけに、今回の頭が黒いネズ公は図々しすぎた。やつら、備蓄庫にある薬品類を郊外のカーチス商会に残らず流してやがった。旦那、アンタは防疫隊の面々に顔が利くお偉いさんみてぇだから、誰でもいい。この話を、上にあげてくれ……。
〈オキトールシン〉のほとんどは、封鎖線の外にあるカーチス商会の倉庫で値が上がるのを待っていやがる。あれさえあれば……助かる。みんなが助かるんだ……。
役人ども、オレを懐柔しようとして、一服盛りやがって。酔ったところを事故死に見せかけて殺そうだなんて、そうはいかねえんだよ。証拠は、事務所から手に入れてきた……。これさえあれば、腐った野郎どもに一泡吹かせられる……」
「わかった。あとは、俺に任せろ」
「す、すまねぇ。身体さえ平気なら、オレが行くんだが。この毒は、いかんせん強すぎらぁ」
「トッド、それにカレン。事態は一刻を争う。なんとか、ここを切り抜けて中央広場まで逃げてくれ。俺はこの書類を持って封鎖線の外へ行く」
「クランドさま。内と外とは管轄が違います。ここへ来られるときはそれほど難しくなかったでしょうが、あれから時間が経ちすぎているのです。外はおそらく石頭の鳳凰騎士団が張っています。一度、我々と一緒にお戻りになって、ラデクさま経由で使者を出されたほうが確実かと……」
「そこまで聞いて逃すわけにはまいりませんねぇ。ええ」
ラデクとの話に割って入った声があった。視線を向けるとそこにはいつ姿を現したのか、剣・槍で装備した灰色のローブを着た一団が並び立っていた。
――十五、十六、十七ってとこか。やけに多いな。蔵人反射的に周囲のあちこちに潜んでいる殺気を数え上げた。逃げ惑っている群衆や、路地の四方に伏せられた数はそれの数倍はいるだろう。男たちは誰もが胸元に〈壺と雌雄の蛇〉をかたどった邪悪極まりない紋章を染め抜いていた。
「俺たちゃ忙しーんだよ。消えろや」
「いえいえ、そうもいきません。あなたがお持ちになっている書類は、おそらく城の高位におられる人々にも繋がっているはず。そのような貴重なものは、いろいろと有効活用できるはずです。我々教団にとっても喉から手が出るほど欲しいシロモノです。是非にもお譲りいただきたい」
「はい、そーですかと渡すわけねーだろ。バカかてめーは」
「仕方がありませんね。かくなる上は、この私ボーバル・ボーバさま直々の手によって異端のあなた方を葬って差し上げましょう」
ボーバル・ボーバは杖の先に巨大な金剛石を嵌め込んだ重たげなものを手のひらで軽く打ちながらジリジリと間を詰めてきた。
――だが行動はカレンのほうが早かった。
「行って、クランド!」
彼女は目にも止まらぬ速さで矢をひょうと放つとボーバル・ボーバの右目を射抜き叫んだ。ボーバル・ボーバが「あおっ」と太い声で唸ると地響きを立てて頭からひっくり返った。
「カレン、マルグリットを頼んだぞ!」
「任せてよ!」
蔵人は右手を上げてウインクしたカレンの跳ね上がったツインテを視界にとどめると、そのまま倒れ伏したボーバル・ボーバの腹を踏んづけて高々と跳躍した。
さあ追いかけっこだゴドラムども。蔵人は身を低くして放たれる火矢をかわしながら地を這うようにしてひたすら走った。路地にはそれぞれ弓を持った男たちが逃げ惑う人々を獣に見立て追い詰めるようにして狩っている。その卑劣さにカッと頭のなかへと火柱が湧き立った。
蔵人は素早く長剣を引き抜くと、まだ血糊が残っていた刃を真正面の男の顔面へと鋭く叩きつけた。悲鳴が耳を劈いた。男たちは折り重なって倒れる。蔵人は外套を肩から外すと無茶苦茶に振り回しながら射かけられる矢を叩き落としつつ、後ろも見ずに駆けた。
ぴったりとくっついてくる。十人は超えないだろう。石畳を蹴りながら不意に反転を行った。想像の予期せぬ動きだったのだろうか。剣を構えて追っていた男たちの速度が鈍った。
蔵人は長剣を左右に鋭く振るってたちまちにふたりの男を血祭りにあげた。続いて槍を構えて突き入れてくる男を迎え撃った。穂先を右手で掴むとグイと引き寄せ武器を奪った。同時に男の脇腹を長剣で深々と斬り裂いた。
脇腹を裂かれた男は武器を取り落とすと濡れたローブを押さえながら苦悶したまま地面に転がり悶絶している。すぐさましゃがんで男の剣を拾い上げ、遅れて迫った男へ投げつけた。
男は反射的に剣を身体の前で斜めにして防御に回った。蔵人は無防備になった男の脛へと長剣を叩きつけ骨ごと断ち割った。
ぎゃお! と物凄い断末魔が響き渡った。蔵人が呼吸を整える前に、三方から男たちが捨て身で伸しかかってきた。蔵人は遮二無二剣を振り回した。
真正面の男の顔面を水平に断ち割りなんとか転がってその場を離れるが、右肩と腹を浅く抉られ視界が痛みで真っ白に染まった。膝立ちの状態で襲い来る男の喉を鋭く突き刺した。滝のような血潮がドッと顔に降りかかる。
息つく暇もなく剣を素早く引き抜いて狙いも定めず左に回った男へと叩きつけた。硬い金属音が鳴った。その隙に立ち上がると黒獅子を両手持ちにして男を唐竹割りにした。
敵はすでにふたりにまで減っていた。ひとりが手斧を頭上に振りかざし猛牛のように突進してくる。蔵人は素早く男の前に出ると足払いをかけて転ばせ首筋を斬り払った。ぶしゅっと生あたたかい血が半長靴を濡らした。最後のひとりは真正面から剣を撥ね上げ、ガラ空きになった胸へと剣を突き入れて始末した。
「……行くか」
ノロノロしていれば増援が来ないとも限らない。蔵人は胸元に書類があるのを確認して夜道をできるだけ急いだ。
「はあっ、クソッ。いってえなぁああ……」
蔵人が意識せずとも不死の紋章は発動したちまちに肩と腹の傷を修復した。こればかりはどれだけ戦いを経ても慣れるということはない。傷が治っても、直接脳にやってくる痺れるような痛みはあとを引いて早々に消え去らないのだ。脳の奥にズキズキする痛みを感じながら、ともすれば口から吐き出しそうになる弱音を押し殺して歩く。
どれだけ戦っていたのだろうか。見上げた街角の空は水のような青に変わりつつあった。夜明けが近い。こうしている間にも、屋敷で自分の帰りを待ちわびている女たちは心細い思いをしているだろう。
どうにかしてこの書類を封鎖線の外にいるヴィクトリアに渡して薬の都合をつけてもらわなければならない。もうちょっとだ。あとちょっとだ。乳色をした濃い霧の向こう側に、内と外を隔てるために作られた頑丈そうなバリケードの姿が浮かんでいる。
「街の者か! それ以上、近づくな。これは警告だ!」
若い男の荒々しい声が耳朶を打った。と、いわれて引き下がるようでは話にならない。なにがどうあっても、この書類を届けないと。
「――ま、待ってくれ。これを、見て」
蔵人がヴィクトワールから受け取った指輪を取り出す前に、矢の雨が降り注いだ。完全に予想していなかった処置だった。
ざあっと音を立てて水平に走ってくる矢の嵐に、まるで遮蔽物のない場所で不意を打たれた蔵人はかわすべくもなかった。
どっどっと。肉を激しく叩くような音が全身から聞こえた。まさか――ここまで病を警戒しているだなんて。蔵人は背後に倒れながら、喉に刺さった矢羽根へと指をかけた。
ああ、これは。完全に喉を貫いている。声が出にくいのは、なにか固いものがつっかえているからだ。まばたきをしようとして右目が動かないことに気づいた。それで射抜かれているとはじめて知った。ドクドクと身体のなかから生気が流れ出すように、血が失われていゆく。そういえば、戦国時代でもっとも人を殺傷したのが「弓」であることを思い出し、苦笑が漏れた。
――うなじに伸ばした手のひらで掴んだそれを音を立ててへし折った。それから苦労して喉元に刺さった矢をズルズルと引き抜いた。
けれど、そこまでが限界だった。ばったりと仰向けに再び倒れた。ごぼごぼと食道を血の塊がせり上がってくる。ツバキを吐き出すように、「べっ」と勢いよく唇から放った。古いレコードを再生するようなざりざりした音が耳につく。それが、今の自分の声だった。
「し、ぬかよ……」
足腰が立たない。膝も腰骨も綺麗に射抜かれている。立ち上がろうと右手を差し上げたところ、正確に打ち抜かれた。蔵人はそれでもなんとか転がってうつ伏せになると顔を上げて立ちはだかる壁の前を見た。〈鳳凰〉をかたどった隊旗は気迫に満ちあふれている。侮りがたし鳳凰騎士団。
確かにおまえたちは街を守らなければならない使命があるだろう。けれどそれは自分だって同じだ。たとえこの身が朽ちようとも、家族を守りぬく責任が自分にはあるのだ。
――さあ、立ち上がれ蔵人。
――立ってやつらを怒鳴りつけ、書類を手渡してケツを蹴り上げてやれ。そのくらいはカカシ同然のおまえにだってできるだろうよ。
蔵人は両手を伸ばして地面の冷たい石畳を掴むと、もはや不可能と思われた「立つ」という行為に魂をかけて専心し、腹の底から咆吼した。
息を詰めて戦況を見守る。それくらいのことしかできない自分がシズカは腹立たしかった。激戦は長く、いつ果てるとも思えなかった。なにせ、この広い屋敷を守れるのはもはやドロテア、リザ、ルールー、ポルディナの四人しかいなかった。
窓の向こうに見える空は青く澄んだものから濃いブルーへと変わりつつあった。シズカは熱っぽい額に手を当てながら、荒い息をなんとか整えて腰の剣を引き寄せようと苦心した。いつもであれば苦もなく抜ける自慢の愛刀がひたすら重たく感じる。本能的に悟った。こんな身体では、万が一にも防御陣が破れてしまえば立ち会うことなどできっこない、と。
幾度かルールーが戦局の報告がてら部屋まで様子を見に来ていたのだが、随分もの長い間途絶えている。暴徒の集団は数が減るどころか、時間とともに増えているような気さえする。
(剣が使えないということが――これほど恐ろしいとは)
ぐるりと室内に視線を巡らせても状況は悪化の一途をたどるだけだ。特に酷かったヒルダは、一旦小康状態を保ったのだが、今はまったく静かに眠っている。いや、気を失っていると考えたほうがいいのだろうか。
(どちらにせよ、たぶん、それほどみんな、もたない……)
シズカは頬を伝って流れる熱いものに気づき、それが涙であるとわかり愕然とした。なんという情けなさだ。今や、暴徒がなかに侵入した際に戦えるのは自分だけだというのに。
そして、ついに恐れていたことが起きた。暴徒が屋敷のなかへと乱入したのだ。ドタドタと、あきらかに女性のものでありえない重たげな靴音を耳にしてシズカは血が凍った。
「へ、へへへ。ようやく見つけたぜ、子猫ちゃんよう」
目を血走らせた五人ほどの男たちが身の厚い蛮刀を手に手に持ち、野卑な臭気を全身から発散させて泥靴のまま踏み入ってきたのだ。
「こ、の――」
暴徒どもが屋敷のなかに乱入したというのであればドロテアたちは敗れた、あるいはもはや余裕がなくなるほどに疲弊しきっているということだ。
シズカはよろよろとした足取りで剣をなんとか構えて見せたものの、立ち上がって数歩踏み出したままなにもできず、そのままパタリと倒れてしまった。
「なんだぁお嬢さま。ずいぶんと活きのいいのが残っていると思ったが、死にていじゃねえか」
「とはいえよう。ほかの転がってる女どもは病で臥せってやがる。マシなのはそれくれぇだ」
「金目のもんはあとでいい。んん、とりあえずといっちゃなんだか、この黒髪で我慢しとくかァ」
「や、めろ……」
男に腕を引っ掴まれて転がされた。シズカは熱い息を吐きながらボロボと涙をこぼした。万全の体調であるならばこんな連中に影も触れさせない。あからさまに下賎な連中の慰み者になるのは自尊心の強いシズカにとって耐えられるものではなかった。
「るせぇよ。俺たちゃどうせまとめて死んじまうんだ。今のうちに楽しまなきゃ嘘だろ」
男の声。どこか諦念の籠ったもので、それは陵辱を楽しむといった強い欲望のほとばしりを感じないどこか萎えた色合いが漂っていた。
「兄貴ィ……」
「うるせぇうるせぇ。なんなんだよっ。なんで俺たちがこんな目に合わなきゃなんねぇんだ……」
「うっ……くっ」
シズカは絨毯の上に押さえつけられながらも、どこか苦しみに満ちた男の瞳に強い憐れみを覚えた。
「待ってください」
涼やかな声が病の熱と濁った空気で満ちた室内に凛と響いた。
ヒルダである。彼女は、紙のように白くなった顔で薄い毛布の上に立つと、するすると自ら僧衣を音を立て脱ぎはじめた。
男たちは突如として脱ぎだしたシスターの行為に見とれながら、口をそろって開く。強い戦意を失ったのかどこか呆けた表情で一糸まとわぬ姿になった彼女を凝視する目に淫欲の炎はなく、どこか貴いものを見るような切なさがあらわれていた。
白く、小ぶりであるが形のいい胸元の中央にはうっすらとした赤い発疹が見えている。それらを差し引いても、シミひとつない透き通った雪のような肌は息を呑むように美しい。
「その方を襲うのはやめてください。代わりに、私の身を捧げます」
「バカな……シスター。そんなことをしたって、一体どんな得があるっていうんだ」
男がまぶしいものを見るような目でヒルダを見ながらいった。ほかの暴漢たちも、どこか気まずそうな雰囲気でそれぞれがヒルダから目を背け出す。室内には、色っぽい空気はもはや微塵も存在せず、どこか調和の取れた清らかな聖堂を思わせるような錯覚が生まれた。
さすがにヒルダは名門貴族の生まれである。所作は清げで無駄がなく、いつしか男たちの目は気まずい雰囲気を漂わせ、いたずらっ子が咎められたような空気になり誰からとはいわず手にした武器をその場に置きはじめた。
「目を開けたままではやりにくいですか? ならば、こうしておりましょう」
ヒルダの声は熱と咳で聞き取りにくくなっていたが、その神聖性は異様なまでの透明度でその場の人間の心を打った。人は死の際に落ちると、なにかが降りるという。シズカも自然とその場に跪くと、神々しいまでの気配を放つシスターに対し傅いていた。
「……怖かったんです。どうしたらよかったのか」
「オレも……」
「俺も……」
男たちは耐え兼ねたように口々に懺悔を行い、ヒルダはふらつきながらも男たちの額に手を当て、母親が愛しい子にするように撫でさすった。
「祈りましょう。祈りはきっと天に通じます」
ヒルダは男たちの愚行をただのいちども責めなかった。異様な雰囲気に包まれて、室内はしんと静まり返った。やがて、全員がその場に座り込んで熱心に祈りはじめる。しばらくして、外で戦っていたドロテアたちや、今まで悪逆の限りを尽くしていた男たちですら、武器を放り捨て神を想った。
あまり長い時間は経たなかった。静かだった表から、ガラガラと荷車を曳く馬車の音が聞こえ、それはドンドンと大きくなってきた。シズカは立ち上がってようやくのこと窓にまで立った。
「ほら。祈りはきっと通ずると――」
ヒルダのふわりとした声を聞きながら、シズカは馬車の上で立ったまま手を振り続ける蔵人の元気そうな姿を見て、思わず嗚咽を噛み殺した。
ロムレス歴千百四十九年、シルバーヴィラゴ市記録によれば「リジー地区を席巻した悪疫はヴィクトリア公の手腕により一掃される」とある。付随記録には「横領を行ったカーチス商会、欠所の上縛り首及び病を撒き散らした古着屋タルキンは火刑」とされ、そのほかの記載はない。




