Lv281「悪疫Ⅲ」
「どうやらレコプラ病の感染源は亜人街である。といった噂が流れているようですね」
広場に建てられた天幕の指揮所で、ラデクは淡い燭台の灯りに照らされながら憂鬱そうな口調で呟いた。
「それが、さっきの諍いの原因ってわけか」
蔵人はすぐそばで手当てを終えたばかりの不安そうな顔をしたシスタークレアに向かって、元気づけるようにやわらかく微笑んで見せた。
小さなもみじのような手のひらを握ってやると、心が落ち着いたのか、クレアはわずかに表情をゆるめた。日本人同士ならば夫婦であっても人前では到底しない行為であるが、ロムレスの人間は過剰なほどのスキンシップを好む傾向がある。実際に肌に触れて「ここにいるよ」と意思表示をすることはそれほど目立つ行為ではない。
「シスター。先ほどの行いは素晴らしかった。あなたの行いは神もきっとおよろこびになるでしょう」
「そんな。光栄です、ラデクさま」
「えっと……。クレアはラデクさんのこと知ってんの?」
「クランドさま。ラデクさまはロムレス教会の司教補でございます。階位はマルコ司教に次ぐ貴いお方なのですよ」
「マジか。というか、あのおっさんの地位が高いことのほうが驚きなのだが。ちゃんとお坊さんしてたんだね」
「クランド殿。マルコ司教はこのあたり一帯の統括者ですよ。私などとは比べものにはなりません。それよりも、話を続けてよいでしょうか」
「ああ、話の腰を折っちまって悪かったな」
「結論から述べましょう。状況は極めて悪い、としかいいようがありません」
「……それは感染経路が完全に特定できないからか?」
「市内を調査した結果、レコプラ病がはびこっているのはここリジー地区のみです。素早く外界と隔離したのが功を奏したようですが、私が防疫隊に調べさせて朱引きした範囲に居住する市民だけでも、五万を超えています。これらの人間が感染しているかどうかを見極めるのには、七日は猶予が欲しい。もっとも、もしこれ以上病が広がれば薬のほうは当然のことながら足りなくなるでしょうね」
「その薬ってやつを飲めば、レコプラ病は治るんだよな」
「王都の錬金術師協会が作り上げた〈オキトールシン〉の効果は絶大です。けれども、この薬を飲んで快癒する人間は、ふたりにひとり、といったところでしょう。耐えられないのですよ。薬の強さに人間のほうが。あとは、神に祈るしかありません」
「そんな……」
薬さえ手に入れられれば、もう治るものと決めてかかっていた蔵人は愕然とした表情で目の前にいるラデクの顔を思わず凝視した。あまりの事実の重さに、瞳に映ったラデクの顔が、身体がぐにゃりと歪んだ。
――ふたりにひとりだって? そんなバカなことって……ねえよ。
蔵人はロムレスに召喚されてから両手の指では数え切れないほどの強敵と戦ってきた。形があって血の流れている怪物ならば、どれほど苦心しようとも今、屋敷で苦しんでいる女たちのために戦って斃してみせると断言できるが、相手が目に見えないほど微細なウイルスではどうしようもなかった。たかが風邪。寝ていれば治る。そう決めつけてかかったことが、後手に回ってしまったのではないか。
「クランドさま、お気を確かに持ってくださいっ」
よろり、と知らずふらついたのか。心配げなクレアの声が間遠に聞こえた。
「や、俺は大丈夫だ」
「クランド殿。クレアのいうとおりです。あなたは、今まで神を冒涜する異端の悪を数多く討って来なさった。神は、きっとあなたの善行をはるか天界から見守り続けているはず。神は、あなたのような敬虔な使徒をお見捨てになどなりはしません――」
「そうですよ、クランドさま。ラデク司教補のおっしゃられるとおりです。神は、あなたさまをお見捨てになどなりませぬ」
――ああ、そういうことになっているのか。
蔵人は、教会で正式に書類を提出した際、表向きはロムレス教に改宗したことになっていた。
国教であるロムレス教に歯向かう邪教のともがらを、次から次へと打ち倒してきた事実はすべて教会に筒抜けになっており、その一事をもって宗教者である目の前のふたりは蔵人のことを慰めるべく心を砕いているのだ。
神に祈りたい。なんでもいい、自分以外の大きな目に見えぬ力にすがりたいというのは、こういう状況にならなければわからないだろう。
「お気持ちはお察しします。ともかく、優先的に屋敷のほうには医者と薬を送ってありますゆえ。そう、お気を落とさないでください。シルバーヴィラゴ一の名医が奥方たちを治療いたします」
「そうだな。薬はたんまりあるんだっけ。ヴィクトリアちゃんの手際のよさに感謝だな。は、は」
「……」
「どうした?」
「〈オキトールシン〉、薬はそれほど潤沢ではありません。残念ながら」
「なあ、ラデクさんよ。今、市内にはどのくれーその特効薬ってのはあるんだよ」
「多く見積もって、三千人分しかないでしょう。故に、我々はこれ以上の蔓延を防がねばならないのです」
「なんだ。それだけありゃ充分過ぎらァ。患者は千人くらいなんだろ? これから多少増えても」
「その見積は甘いですな。今日から明日にかけてねずみ算式に増える。数万、もし仮に封鎖線から人が他の地区へ逃れれようものなら、月を跨がずしてシルバーヴィラゴという街自体が汚染されます。そうなれば、数十万単位の死者が出るでしょう」
「え、ちょっと待ってくれよ。それじゃ、ここにいる人たちもほとんど助からねえのかよ」
「多くの教会の者たちが懸命に看護を行っていますが……。こればかりは」
「そんな……」
「クランド殿。この広場に集められている罹患者たちは、強制的に避難させた直近の建家に住む者たちと――残りは、どうにもならなくなって家族が涙ながらに放り出した者で占めております。我ら、防疫隊は志願の決死隊。数は、三百人程度。その半ばを調査に当てており、残ったリジー地区市民のほとんどは自宅に引き籠ったまま、広場へと自発的に参集しようとはまるでしないのです。少なく見積もっても、万余の人死にはさけられないでしょう。特効薬のほどんとは、優先的に身分の高いものへと与えられます。命は――平等ではないのです」
蔵人はそれ以上苦しげにするラデクの顔を見つめられず、天幕の外へと飛び出した。あれから、どのくらいの時間が経過したのであろうか。先ほどは興奮していて見えてこなかった、患者たちの姿が闇のなからあぶり出すようにして蔵人の視界へと飛び込んできた。
ただ、寝転がって毛布にくるまっていると思っていた――いいや、思い込もうとしていた人々は、誰もが顔をゆでたように真っ赤に染め上げ、苦しそうにゴホゴホと咳き込んでいた。
「しっかり、しっかりしてくださいっ。大丈夫、大丈夫ですからねっ」
シスターや修道士などの教会関係者。それに、自らこの死地へと赴いた冒険者ギルドの職員たちは、患者の咳の飛沫を浴びることも厭わず、濡れた水で火照った頬や額を拭っている。
蔵人は背筋に伝った冷たい汗に大きく身体を痙攣させると、手のひらで顔を覆った。だが、その行為こそなんの意味もない。手のひらの向こうには、刻一刻と死んでゆく無数の人々が今もなお増え続けている。
燎原に野火が燃え広がるように――レコプラ病は増殖し続けている。それが真実だった。
そうだ。人間は見たいものしか見ないのだ。耳を澄まさなくても理解できる。あちこちから、自動車のブレーキ音にも似た、なんともいえない軋みに類する音が響き渡っていた。
「クランド殿。先ほどお飲みになった茶には薬が混ぜてありますが、あまり病人に近寄らないように……。あなたには不死の紋章があるとはいえ、万が一ということもありえるのです」
ラデクが天幕を出て隣に立った。彼の瞳は凪いだ海のようにまるで動きを見せなかった。
「かといって、このまま手をこまねいているわけにもいかねーだろ」
「市会議員たちの間には病が広がった区画をまとめて焼き払う強硬論が出はじめています。私個人としては、いたしかたないかと思うのですが、なかでもギーゼラ伯爵婦人などは恐怖からかその範囲をまるで関係ない区画まで広げようと昨晩から論陣を張ってほかの議員たちを説得しようと躍起になっておりますが無理からぬ話です。このあたりは、リースフィールドの商業地域に食い込んでいますので商工会ギルドが必死に食い下がっておりますが……このまま収束の気配が見えないならば、時間の問題でしょう。レコプラ病が広がり続ける限り、焼却は免れない可能性が極めて高い。そうなれば、住む場所を失った避難民は必ず暴動を起こすでしょう。我らは鎮圧の部隊を送りたいのですが、このような病原の巣に近づくこと自体兵たちは強烈に忌避しているのです。殺し合いがはじまってしまう。さけたい。なにがあっても……。きっと再び多くの血が流れるでしょう。私は、どうしてもそれを止めたいのです」
「だから、こんな危険な場所へわざわざ。ラデクさん、あんたも命懸けなんだな……」
感情を込めず語るラデクの相貌には静かな決意がみなぎっていた。同時に蔵人は己のことを恥じた。自分は屋敷にいる家族のことしか考えていない。それに比べてラデクの高潔さはどうだ。
クレアは彼を司教補といった。そのくらい高位の僧官になれば、自ら現場に足を運んで病にかかるリスクを冒してまで実態を調査する必要性はない。だが、彼は他人任せにせず、己の目で事実を確認して被害を最小限に食い止めようとしている。
「クランド殿。先ほどの諍いの原因分かりましたよ。どうやら民衆は、亜人街に住む人々がこの疫病を流行らせた――と思い込んでいるようです。あるいは、誰かがわざとそのような騒動の種になる噂をばら撒いた。その可能性があります」
「やはり、ゴドラムの仕業なのか」
「不穏分子は市中に幾らでもいますが、ことこのような状況で躊躇せず非人道的な策をとるやからは、ゴドラムだけでしょうね。おまけに、彼らは日頃なにかと差別的な――そう、一段低く見られている亜人たちが常の鬱憤ばらしにあちこちの井戸へと毒と病を投げ込んだ、と流言を着実に広めています。表立った攻撃だけではないだけに、こちらのほうが対処がしにくい。元々、双方に見えないわだかまりは溜まっていたのでしょう。結果、軽く煽られただけで先ほどの石合戦のような暴動に安々と繋がっていく危険を孕んでいるのです」
「見えない――敵」
「そう、見えざる敵です。レコプラ病をシルバーヴィラゴに持ち込んだのはゴドラムでしょう。とにもかくにも、敵の本拠地と首謀者を突き止めて、これ以上病が広まるのを防がなくては」
蔵人は空を仰いだ。ラデクははじめ可能性だけを示唆していたが、話の終わりには結論をゴドラムへと収斂させた。最初からそうといい切れる確信を持っていたとしか思えない。
広場のあちこちではかがり火が赤々と燃えており、真昼のようであるが露出している頬を撫でてゆく夜気は冷え切って氷のようであった。病人たちは、うう、うう、と獣のように呻きながら地べたの上で苦悶している。申し訳程度の毛布に寝ているが、あれでは直に大地の冷たさが身体にきて弱った身体にはたまったものではないだろう。
ラデクは首謀者と感染源を突き止めるといっているが、そうしたところでこれらの苦しんでいる患者は救われるのだろうか、とも思う。少なくとも、このあたり一帯を焼き払うとしているギーゼラ伯爵婦人以下の強硬派を説得する補強材料にはなるだろう。
「水……水をください……」
蔵人は脚首に触れる感触で患者が水を欲していることに気づいた。即座にかがんで転がっていたカップへとたらいの水をすくうと、三十くらいと思える女性に飲ませてやった。
「負けるなよ……。こんな病気に負けちゃダメだ」
女性はげっそりとやつれた状態で、ようやくひと口だけ水を嚥下すると弱々しい顔で微笑むとグッタリと首をうしろに倒して動かなくなった。
「く、そ……!」
「ラデクさま――」
蔵人が苦渋に満ちた顔つきでその場に立ち尽くしていると、鳥の防護面をつけた防疫隊の男がブーツを鳴らして駆け寄ってきた。
「どうしました?」
「備品庫から運ばせていた衛生材料と特効薬が襲撃を受けています」
男は片膝を地に突きながらすまなそうにいった。ラデクの表情がわずかに動いた。
「詳しく説明しなさい」
「は――。広場に運ぶ途中の道で、数十名ほど武装集団が現れ防疫隊を襲っています。現在、必死で応戦中ですが、どこから現れたのか、敵の数はドンドンと増え続けて。三十名を超えています――」
「ラデクさん。俺が行く! あんたは、指揮所を動いちゃダメだ」
「すみません。薬が届き次第、お屋敷へ医者を遣わそうとしたことが仇に。クランド殿。お願いできますでしょうか」
「ああ、任せとけ」
蔵人は防疫隊の男に道案内を頼むと夜の街を駆け出した。
聞けば、輸送隊はあちこちに人数を割かれわずか十五名ほどであるという。奇襲を受け、倍する敵を迎えては不利であろうと推測できた。
走り続けるうちに、ラデクの指示で加わった増援により蔵人のあとに続く防疫隊の数は二十名ほどになった。
現場にたどり着くと、備蓄品を積んだ馬車は今しも賊が乗り込み手綱を取った瞬間だった。あたりには鳥面をつけた防疫隊の男たちが死屍累々と横たわっている。彼らは決して弱くない。それどころか、手練ばかりであるといえた。
血の臭いだ。蔵人は腐るほど嗅ぎなれた濃厚なそれを鼻先で感じ、反射的に激しく武者震いを起こした。
熱い。燃えているのは自分の血だ。蔵人は素早く聖剣〈黒獅子〉を引き抜くとゆくてを遮る男たちへと躍りかかった。固く、刃が骨を割る音が鳴った。肉を両断する手応えを感じながら長剣を水平に振り切った。頬へザッと熱い血が降りかかる。むせ返る鉄錆に似た臭いのなかで遮二無二暴れまくった。
防疫隊の男たちが手にした松明をそこらじゅうに放り投げた。あっという間に闇夜は切り裂かれて、あちこちで必死の闘争が行われているのが視界に飛び込んできた。
防疫隊とやりあう男たちの胸には、壺に雌雄の蛇が絡み合う陰惨な紋章が描かれている。見慣れたゴドラム教団の明白な証であった。
蔵人は駆けながら防疫隊のひとりを押している男の腰へと長剣を叩きつけた。刃はざっくりと男の身体を半分ほど割って血煙をあたりに飛散させた。
悲鳴が剣戟の音に掻き消されるよりも早く次の敵へと向かった。左右から男たちが挟むようにして迫ってくる。
蔵人は長剣を風車のように振り回すと目にも止まらぬスピードでふたりの男の首を刎ね飛ばした。
噴水のように血飛沫を上げる男たちが崩れ落ちるよりも早く荷馬車に飛び乗った。
ここには、市民たちの命を救う物資が満載されている。なにがどうあっても奪われるわけにはいかなかった。
梱包された袋が破れ中身が露になった荷物の上で、男が槍を構え踏ん張っていた。手綱を取っているゴドラム信徒は防疫隊が奮戦しているせいで馬を出すことができないでいる。
「馬を出させるな!」
「薬を――物資を死守しろ!」
ゴドラム信徒たちは封鎖線から逃れようがないはずであるが、それでもわずかに残った希望が敵の手に落ちるという事実は蔵人の腸まで激しくひりつかせた。
本能的にこれが「玉」であると誰もが感じている。目の前の男が手にした槍を凄まじい速度で繰り出してきた。蔵人はかがみながら、首の皮一枚で突きをかわすと槍の柄をがっしと掴んだ。
己でもどうしてここまでというくらいの馬鹿力が左腕から膨れ上がった。細枝を折るようにして槍を半ばから叩き割った。ばきり、と物凄い音が鳴って男がたたらを踏んだ。
蔵人は長剣を反射的に繰り出して男の喉元へ見舞った。切っ先がやわらかな喉肉を喰った。素早く引き抜くのと外套を引かれたのは同時だった。
声も上げるまもなく荷台から引きずり下ろされた。肩から地面に落下して呻き声が漏れた。荷馬車の横にいたゴドラムたちにしてやられた。が、悔いている暇はない。
立ち上がらず本能的にそのまま転がった。蔵人は回転しながら長剣を細かく使った。切っ先は男たちの脛や太ももを傷つけ敵戦力の減殺に成功した。
息つく間もなく巨漢の男が手斧を振りかざしながら殺到してくるのが見えた。身構えた瞬間に、防疫隊のひとりが死角から強烈なタックルを食らわせ横倒しにした。危機は終わらなかった。蔵人が立ち上がる間を待たずに歓声を上げてふたりの男が突っ込んでくる。追い詰められた動物が泣き叫ぶような甲高い喚き声が響き渡った。片膝を突いたまま長剣を水平に振るった。男たちが胴や脇腹を傷つけられ無様に転がった。ようやくのこと立ち上がると再び荷馬車に目を向ける余裕が生まれた。車輪がわずかに転がりはじめている。荒い息を吐きだしながら指先を伸ばすと、車体の下に隠れていた男が飛びかかってきた。蔵人は目蓋を伝って流れ落ちる汗に顔をしかめながら全力でトゥーキックを放った。固い半長靴のつま先が男の顔の中心部をモロに抉った。鼻梁を砕き割る感触を確かめながら、悶絶する男の鉢を真っ向から両断した。
――早く、馬車の動きを止めなくては。
再び荷台に取りつこうとした瞬間、背後へと激しい殺気を感じ振り返ったのは奇跡に近かった。
刃を腰だめにした男が怒号をほとばしらせながら突っ込んできた。
命を捨ててかかっている。
蔵人はたまらず長剣を繰り出すが、男は胸元を貫かれてもなお激しく食い下がってきた。
満身の力を込めるが男はツバ元まで呑み込んだ黒獅子をものともせず、最後の力を振り絞って高らかに吠えた。
「出せ、馬車を出せ――!」
馬体へと重々しく鞭が落とされる音が響く。分厚い鉄の車輪がゆっくりとであるが確実に回転し出すのを目にして、胃の腑が焼け落ちるような焦燥感に駆られた。
ひょう、と鞭を再び振り上げた男が突如として横倒しに崩れ、馬車から転がり落ちた。ここぞとばかりに、防疫隊の男が取りついて制動をかけようと躍起になった。
そうはさせじと、ゴドラム信徒たちもわらわらと馬車に群がってくるが、闇を静かに渡って飛び来る矢が、敵影を次々と射抜いていくのを呆気にとられながらただ見つめる。
「なにやってんのよ、サッサとそいつらを追い払いなさいっ!」
凛とした若い女の声が戦場を駆け抜けた。蔵人が声のした方角に視点を移すと、隣接した二階屋の屋根から松明を手にしたカレンの姿が頼もしく映った。
そこからは一方的な勝負になった。地の利を得たカレンは得意のエルフィンボウを駆使すると、眼下に這っている敵影を逃すことなく次々と射止めていった。
ゴドラム信徒たちも弓矢を持っているのだが、たいした腕ではなくそれほど距離のない屋根で伏せ撃ちに徹しているカレンを微塵も捉えることはできないのだ。
勝負はついた。薬は守られたのだ。誰もがそう思って肩の力抜いたのが悪かったのか。追い詰められたゴドラムのひとりは腰の革袋に詰まっていたものを頭からザバリと浴びると、懸河の勢いで荷台へと疾駆した。
――油の強烈な臭い。
「そいつを馬車に近づけさせるなッ!」
これが、この夜の戦いにおける分水嶺であった。蔵人は喚きながら狂奔する男に向かって真一文字に向かっていくが、残った男たちが肉壁を作って必殺の刃をその身に受けつつ防戦する。
カレンの放った矢が男の側頭部を確かに貫いたのを見た。が、精神は肉体をときとして凌駕するのか、駆け寄る男の速度は微塵も揺るがなかった。
「ゴドラムに栄光あれ――」
男が両手を広げて荷台に倒れ込むと、視界の端を幾重もの火箭が光跡を残して流れていった。
ゴドラムたちが火矢を放ったのだ。物資は燃えやすい薬品を含んでいたのか、あっという間に火が燃え広がってあたりは真昼のように明るくなった。
燃える。
燃えてゆく。
最後の希望だった。蔵人の瞳は燃え落ちてゆく荷台をジッと凝視しながら、意識はそれを映していなかった。
必ずなんとかしてみせる。そのつもりだった。薬さえあれば、絶対に助かるんだ。記憶に残っていたすがるようなネリーの青い瞳が色を失って澱んでいく。
「させねぇ。絶対に、なくしたりなんかしないんだ……!」
行くな。危ない。蔵人はまわりが押しとどめるのを振り切るようにして、ゴーゴーと燃え盛る紅蓮の炎のうずのなかへと駆け入っていった。
激しい喉の渇きを覚えシズカは目を覚ました。
(寒い……それに、身体がだるい)
頭の芯が鈍く疼く。身体を起こしかけようとして、先ほどまで自分がどこでなにをしていたのか思い出せなく、軽く動揺した。
「か、か――はっ」
声を出そうとして舌が喉へと張りついたのを感じた。凄まじく動くことが億劫に思えてならない。二日酔いにも似た倦怠感ではあるが、熱っぽい頭の重さは今までの人生で味わったことのないほどものだった。
そこいらじゅうで巻き起こっている激しい咳き込みに気づき、目蓋を開けようとして驚愕した。びっしりとした目脂で、目そのものが凝り固まっているのだ。そもそもが、四肢に力を込めようとしても、ピクリとも動かない。
誰かの足音が近づいてくる。シズカはそのままジッとしていると、あたたかい布切れで顔をこすられ、それがようやく誰かが顔を拭いてくれたものだと察した。
「どうした。ようやく気づいたか、の」
ドロテアだった。彼女の大きな瞳が安堵に満ちて潤んでいる。シズカは苦心してわずかに顎先を動かし、声が出ないことを伝えようと苦心した。ドロテアは長耳をぴくりと動かすと、即座に意を掴み取って、水差しを口元に運んでくれた。シズカは子供のように抱きかかえられながら、くぴくぴと唇を震わし、膠のように張りつき凝り固まった口中を湿し、人心地ついた。
「わ、私は……どうなっ、た」
「流行病じゃ。じゃが、心配せんでもええ。今、クランドがよい医者を探しに行っておる。じき、皆も治るわ。気にせず休め。の」
う、うう。ドロテアは疲れたようにそれだけいうと、シズカを寝かせてほかの病床へと移っていった。どうやらここは居間らしい。並べられた寝床のひとつで、皆が唸っているのを横目で見て、軋んでいた理性の歯車がようやく動きはじめた。
これだけでもシズカが並大抵の精神力ではないことが窺える。レコプラ病は極度の高熱と発疹を伴う極めつけの悪病であった。聡明なシズカは起き上がることはできなくても、この病気がヒルダから皆へと移ったことは理解できた。
(そ、そう。そうだ。ヒルダが熱を出して……それから、アル、それに……ルッジと。順番に……倒れていって……ああ、もう。頭が……疲れて、上手く……前後が、思い出せ、ない)
うつらうつらしていると、隣で激しく咳をしていた小柄な人物が激しく痙攣しだしたのがわかった。金色の髪が放射状に広がり、人形のようにかわいらしい双眸が濁っているのがわかった。
ヒルダだ。シズカは呆然としたまま病み衰えた彼女が、白い泡を口元からごぼごぼと吐き出すのを他人ごとのように眺めながら、咄嗟に手を挙げた。
黒い影が矢のように飛びついてくる。リザだった。
「ドロテア! ヒルダが痙攣しているのだ! 早く、早くこっちに来て!」
「なんじゃとおっ!」
血相を変えたドロテアが素早く戻ってリザとふたりがかりでヒルダに取りついた。といっても、ふたりは医術の心得があるわけでもない。なんとか吐瀉物が喉に詰まらないようにするのが精一杯だった。
「つらいのう、苦しいのう。わらわが代わってやれればいいのじゃが……。許して……許しておくれ……」
「ヒルダ! リザがついているからっ。がんばれっ、がんばれっ!」
ドロテアとリザは大粒の涙をボロボロとこぼしながら、小さく丸まっているヒルダの手を握りこすっていた。
「寒い……寒いよ……」
ヒルダの向こう側では、アルテミシアが長身を折って苦痛に呻いている。
「お寒いですか? 毛布を増やしますよ、アルテミシアさまっ」
ルールーが蒼白な顔で手にした毛布を更に足しているが、ほとんどまじないにも似て無意味な行動にほかならなかった。
「うっ……!」
不意に激しい鈍痛が後頭部を襲った。シズカは目蓋の奥で閃光が弾けたような錯覚に陥り、耐え切れなくなって歯を食いしばった。
熱いのに寒い。身体の奥底、芯へとなにか赤黒い蛇が巻きつき盛んに締めつけている錯覚。
「神、さま……救いを……なにとぞ……お救いを……」
レイシーがくぐもった声で祈っている。
――ダメだ。気をしっかり持つんだ。この病気は祈りでは治らない。
そう。ドロテアがいっていた。クランドが、医者を連れてきてくれると。
シズカは蔵人を信じていた。どんなときでも、彼を信じていればどうにかなる。それはシズカにとって信仰心よりも深く、確かな唯一の寄る辺だった。
呻き声を一掃するような音が窓の外でワッと上がった。視界の端で看護をしていたポルディナが窓へと駆け寄るのが見えた。同時に、ガラスを突き破って石ころが室内へと飛び込んでくる。
「ダメ! なにをやっているのですか、シズカ!」
ポルディナが驚きとともに激し声を上げる。が、シズカは止まらない。
「なん、だ。私にも、見せて……」
「ああ、もう!」
ポルディナがしっぽを逆立てて拳を上下に振った。
「この意地っ張りめが!」
呆れ返った声でドロテアが顔を手のひらで覆った。
シズカは、ほとんど人間とは思われない精神力を振るって身体を起こし、立ち上がるとよろばいながら窓まで移動した。ぐらりとよろめいたところをドロテアに抱きかかえられた。
表に視線をやって驚愕した。そこには、剣や槍を振りかざし、庭のあちこちに放火しながら迫り来る無法者の集団が、津波のように押し寄せていたのだった。




