Lv245「蔵人匍匐」
朝、目が覚めて、世界が変わったことを感じ、ジュディは神の恩寵へと感謝の意をゆっくりと捧げるのが、ここ数日の日課だった。
首元に指をやると、そこには奴隷の首輪の痕を隠すチョーカーが嵌められている。ふんわりとしたなめらかな布でできており、とてもオシャレだ。
ジュディはかつてのような、重たい首輪とは似ても似つかぬこの戒めの軽さに、半ば陶然となってベッド脇の鏡台に自分を映し見ることが日課となっていた。
事実上、自分が奴隷の身分であることは変わりない。それでも、あの陰気で臭くて身震いがするほどおぞましい小屋から解放されただけでも、気分は天上世界で遊ぶような心持ちであった。
るんるん、と。鼻歌のひとつも出ようものだ。ジュディは思う。あのときの、彼の行動に関しては感謝の念しか浮かばない。怖気をふるうような大男を片っ端から叩きのめし、それどころか自分たちを追っていたマスカール家の手代と話をつけ、あっという間に買い取ってしまうほどの手腕は惚れ惚れするほどの手際のよさだった。
どのようなコネがあったのだろうか、強面で知られる騎士団の男や自警団の顔役と話をつけてしまうさまは、実に堂々としたものだった。ジュディたちは、なんのことはない。主が変わっただけであるが、その待遇は天と地ほどの差があった。
彼女たちに新たに与えられた役目としては、この銀馬車亭と酒場で給仕及び雑用を務めることだった。
とはいえ、お店がはじまるのは夜からだし、仕込みは昼が過ぎた頃から取りかかってても、なんの問題もなく間に合う。
はじめの日は、やはり客を今自分たちが寝泊まりしている二階で取らされるかと思いきや、極めて健全であり、また店の客層も近所のお職人衆が大半で、特に度が過ぎたいやらしいことも起きなかった。
むしろ、ジュディは一夜にして銀馬車亭の人気者となりつつあった。誰もが、自分をかわいいかわいいと寄ってたかって褒め立ててくれるのである。承認欲求の強いジュディにとっては、二十代の客が多いこの店を、ただの数日で気に入ってしまったのだった。
(お小遣いはくれるし、寝る場所はあるし、外を出歩くのも自由なら休みまであるなんて、ね)
ただひとつ不満があるのは、彼が自分の身体を要求してこないことである。
(私って、そんなに魅力のないお子さまなのかなぁ)
ジュディはややきわどいながらもかわいらしくて客たちに好評だった銀馬車亭の給仕姿に着替えると、姿見の前でくるんと回ってみた。うん。特に問題ない。男は必ず自分の身体に興味を持つと決めつけていた彼女は、仮にも健康的な男子である新たな主が寝間に忍んでこないことに、ちょっと不満感を持っていた。
(しょうがないよね。レイシーさまは、ちょっと、というか。かなり嫉妬深そうだったし)
いろいろと理屈をつけてみたが、ジュディにとって酒場の仕事は合っていたのだった。小奇麗な服を着て、客に愛想をいい、明るい雰囲気で夜遅くまで盛り上がったり、ちょっと小粋なお兄さんに手を握られたり、ときには酒盃をお義理で飲んでみたりとすべてが性に合っていた。
現在、銀馬車亭は、マーヤ、ジュディ、プリヘリヤの三人で回すことが決定している。女主人であるレイシーは色々と忙しいらしく、ほとんど本宅に泊まり込みで、通いで代理の長を務めるマーヤが出勤してこない限りは、自分を見張る目はほとんどない。
いうなれば、ジュディは労せずして、家一軒をタダで間借りしているようなものだった。これは美味しすぎる。
「ジュディ」
「んなっ! ちょ、いきなり声かけないでよね。プリヘリヤ!」
姿見の前で頭と手に腰をやってセクシーポーズを取っていたジュディは音もなく部屋にすべり込んできたプリヘリヤに抗議の声を上げた。
「すまない。それよりも――」
まあそんなことよりも。問題なのは目の前の女だった。元剣闘奴隷のプリヘリヤは、蔵人に救われた一件以降、目に見えて女らしくなった。がさついていた肌や髪を綺麗にして、染みついた汚れをとって、化粧を施せば、なんともたおやかな美女がそこにはあった。
プリヘリヤは長身であり実に出るところと締まるところがハッキリしている素晴らしいボディである。
整えられたライトブラウンの腰まである髪の先端に近い部分を真っ赤なリボンで結んでいる。ちょっと派手派手しいが、不思議と彼女が身に纏う雰囲気には合っており、ちょっと見は清楚な上流階級の奥さまのように見えた。
「なあ、この服。ジュディの目から見て、なにかおかしなところはないだろうか?」
そうなのだ。
「このような服を着るのは久しぶりで、もし、変なところがあってはまずいかと思うし」
プリヘリヤは恥ずかしげに自分のスカートをつまみながらモジモジしている。そう、つまるところ、彼女は主である蔵人にベタ惚れしてしまったのだ。
「ねえ。これでもう三日目よ。毎朝同じこと聞かないでちょうだい。服装チェックなら姿見ですれば?」
「でも、自分ではわかりにくい部分もあるし。もし、おかしなところがあって旦那さまの恥になってしまっては困るし……」
もじもじもじもじ。はじめはからかったりしていたジュディであったが、直に飽きた。なぜならプリヘリヤは滅多に店にやってこない自らの主人を一日千秋の思いで待ち焦がれているのだ。
人間変わるといえばここまで変わるものか。あれほど冷徹かつ酷薄な目をしていた女が、今は見る影もない。聞けば、二十六になる彼女の初恋らしい。こういうことはやはり幼い頃に済ませておくべきものなのだと再確認したジュディだった。
「ぶ、ぶへーくしょんっ!」
「わ、きちゃないなぁクランド。唾が飛ぶのだ」
「いや。誰か俺の噂をしているらしい。モテる男は辛いぜ」
「なーにをいっているのだか。リザもへそで茶を沸かしちゃうレベルなのだ。ほら、チーンしなさい。チーン」
蔵人はリザが差し出したハンカチに顔を突っ込むと、ずべーっと鼻をかんだ。純正日本人ではない蔵人にとって、ティッシュ以外で鼻をかむことに、毎回躊躇を覚えるのであるが、リザはだらっと鼻水がついたハンカチをポシェットにしまうと平然としている。
以前、「それあとで舐めるの」と聞いたら道端のゲロを見るような目をされたのも今となってはいい思い出だ。
ついに銀星杯武闘大会の当日がやってきた。蔵人たちはコネを使って手に入れた観覧チケットを片手に、シルバーヴィラゴ市内のやや西方よりにある闘技場へと足を運んでいた。
大会を全面的に支えているのが冒険者ギルドなのでネリーは夜を日に継いで準備に追われ、ここ数日屋敷に戻っていない。
つまり、ネリーとあの日以来屋敷を出て行ったヴィクトワールやシズカを除けば全員のハーレムメンバーが揃っている格好である。
「わーたくさん人が集まっているんですねぇ」
ヒルダが脳天気にいった。
そりゃそうだ。そのためにここまで足を伸ばしているんだからな。蔵人はあたりまえのことを口に出さなければ気がすまない彼女の性格にちょっとイラついた。
これはいけない兆候だ。考えれば、ここ数日、異様に忙しくて花を愛でる余裕もなかった。シズカやヴィクトワール、ドロテアたちは勝手な判断でパーティーを抜けて未だに姿を見せようともしない。
これはあれだな。俺が舐められてるんだろうな。蔵人は懐でガサゴソいっている紙袋の存在を感じながら、あははあははレイシーとおしゃべりに興じているヒルダの後頭部を睨みつけた。糞。
考えればこいつがわがままいわなければ、俺は頭をカラッポにしたままこのお祭り騒ぎを一歩離れた場所から見ることができたのに。もういっぺんガツンと物陰に引き込んでパコッてやろうかいな、と思いながら蔵人は激しく親指の爪を嚙んだ。かじかじ。
「ご主人さま。いかがなされました?」
「や。別に」
顔色を伺うことがすぐれているポルディナが横から心配げに覗き込んでくる。くぅーんと犬耳が寝ており、いつもキリッとしたモフモフしっぽも垂れ下がっている。蔵人は黒々としたポルディナの髪を崩さないように撫でながら首を左右に振ってコキコキと音を出した。
「クランド。かなり疲れているようだが。ポルディナではなくても、さすがにわかる。もし、気分がすぐれないのであれば、屋敷に戻って休んだほうがいいと思うぞ」
アルテミシアもタレ目気味の瞳を細めていった。
蔵人は片手を振って「考えすぎだ」とだけいうと、進むにつれ密度を増す人ごみのなかを泳ぐように進んだ。広い道の両脇には今日が稼ぎどきとばかりに屋台がズラリと並んでいる。肉を焼く香ばしい匂いや物売りの声があちこちから飛びかいさながら戦場そのものだ。
目的の闘技場は、さすがといわんばかりに立派だった。入口の警備兵にあらかじめ配布されたチケットを渡すと観覧席へと移動する。
蔵人は、一応、便宜上は領主の姻族に類するので、案内された場所は、円形の闘技台がよく見える最上階に陣取ることとなった。
場所としては遠すぎて観覧においては不向きにも思えるが、ギルドお抱えの魔術師が「遠見の窓」という魔術を使って映像をすぐそばに流し続けるので問題はない。そもそも、一般招待客から離してあるのは、ゴドラム教やその他の刺客から身を守るため保安上必要な措置なのである。
「ようこそクランドくん。今日はゆっくりと楽しんでいってちょうだい」
「ああ。お招き感謝するよ」
すでに到着していたヴィクトリアは白いドレスをふんわりさせながら優雅にジュースを啜っていた。傍らには警護役として巨漢のレオパルドと法衣を纏ったラデクが控えている。
ちょっと気を配ってみれば、周りにはいかめしい甲冑を着た重武装の騎士が目につくだけでも数十人は配置されている。蔵人がわずかに頬を引きつらせたのに気づくや、ヴィクトリアは困ったように微笑んで見せた。
「ここまでする必要はないと思ったのですけれど、ね。念には念を入れて」
「こういってはなんですが姫さまは無警戒過ぎます。もっとも、その点クランド殿たちがそばにいる限り、オレたちもその限りではないのですが。ま、期待してますぜ。大英雄殿」
レオパルドは蔵人が単騎でステップエルフの驍将バトルシークを討ち取ったことを知る数少ない人間のひとりだ。蔵人があの戦いで見知っている限り、古の張飛や樊噲の武勇を思わせるレオパルドの剛勇さがあればどんな刺客が来ようとも特に気にすることはないと思うのだが、防備を厚くしておくのに関しては「これまででいい」ということはないのだろう。
「レオパルド。クランドくんは、本日お招きしたお客さまなのですよ。失礼があってはなりませぬ。控えなさい」
「は、失礼をば」
「でも、なにかあったらそのときは、守ってくださいね。勇者さま」
「は、はは。ま、俺にできることならな」
ヴィクトリアが扇を開いたままそっと顔を近づけ耳打ちしてくる。どうやら、ヒルダとの約束がなくてもお気楽にソファでごろ寝と決め込むわけにはいかなかったようだ。蔵人がヴィクトリアと話し込んでいる間、連れてきた女どもは気を使ってか離れた場所で闘技場に見入ったり持参した菓子や茶を早速広げていた。
「ね。ところで、あの子。大会に出場するって聞いているのだけれど。本当?」
「はぁ。本人は本気みてーだ。ずいぶんとやる気になっているみたいなんで。まあ、好きにさせたよ」
「勇者さまは寛大ですね。私が夫ならば、頬のひとつやふたつ張りつけて無理矢理でもいうことを聞かせますのに。だいたいが、ヴィクトワールはわがまますぎますのよ。もお! そもそも領主の娘が出ると知れば、ほかの参加者が気後れしますでしょうに」
「いや、そこはいくらなんでも心配しすぎでは。普通の神経じゃ実名は名乗らないだろう?」
「あの子は普通じゃないですもの」
「……」
「なんにせよ、悪いことが起きなければいいのですが」
「悪い。ちょっと用事を思い出した。少し席を離れると思うけど、うちのもんをよろしく頼まぁ」
ヴィクトリアは「ん?」とばかりにかわいらしく小首を傾げると、やがてパッと扇を開いて右手の人差し指を丸めてオッケーサインを作った。
蔵人は、やいのやいのいう女どもをけむに巻くと、たったか小走りに駆けながら、闘技場入口付近の大会受付窓口へと向かった。途中の小部屋でルールーと落ち合うと、用意させておいた荷物を受け取って着替えた。
万が一、ということもある。下手に途中で気づかれて騒がれるのも面倒だ。蔵人はその場でもろ肌脱ぎになると、いつも着ている衣服一式と黒外套を白一色に変えた。仕上げに紙袋をかぶると覆面は完成した。
ルールーは淡々と着替えを手伝っていたが、蔵人が紙袋を頭からすっぽりかぶったときはさすがに無表情を保てなかったのか、横を向いて「ブハッ」と吹き出した。
「なんだ。なにかおかしなところでもあったか?」
「……いえ。皆さまに急用ができたとでも上手く取り繕っておきますので、あとのことは気にせずご存分になさってくださいませ」
「ああ、助かるよ。いつも悪いな、ルールー」
「いえ。このくらいのことは当然でございます。クランドさま」
蔵人はルールーを抱き寄せて熱いベーゼをかますと、素早く走り出した。時間はまだ余裕なので走る必要はないのだが、そこはノリだ。
――そうだな。リングネームをなんとしようか。まずは、それが重要だな。
ちょっとした覆面レスラー気分だ。半ば脅されるようにして出場を決めた蔵人であったが、どうせ出場するなら優勝を目指したい。とすると、大会のどこかでシズカやヴィクトワールとかち合う可能性が出てくるが、そこは上手くなだめすかせば自分の不戦勝は確実だろう。
銀星杯武闘大会の出場受付は入口前で行っていた。蔵人は白い上下に新調したばかりのこれまた真っ白な外套を羽織り、頭からは少年から買い求めた紙袋をすっぽりかぶっている。
これで、もし知り合いに会ったとしてもしらばっくれることができる。たぶん、まあ、そんなことはありえないだろうが、仮に負けたとしても俺はそんなの知らないよと口笛を吹きながらささやかばかりのプライドも守れるということだ。
蔵人は、登録を行う列に並びながら、前後の男たちが微妙に距離を空けたことを、少し悲しく思う。なぜだ。こんなにもフレンドリーなのに。
「ふむ。チラホラと女性の方もおりますなァ」
列に目をやると、やや露出過多なビキニアーマーを着込んだ女性選手が何人も見られた。極めて嬉しいことだが、誰もが一定水準を超えた美女であり、これはムフフな展開もありですなと期待に胸を膨らませていると、前方で怒鳴り合う声がここまで聞こえてきた。
「なんでぇなんでぇ。ちっとも列が進まねえじゃねえか」
「いったいなにをもめてやがるんだか」
参加者たちから不満の声が漏れはじめる。蔵人がヒョイと顔を列の横に突き出して最前列に視線を動かすと、なにやら一際目立つ大男が長机に座っていた受付嬢とやり合っていた。
オイオイなにをやっているんだか。ってネリーが巻き込まれてるじゃねえかッ!
ドキドキしながら見守っていると、大男は止めに入ったネリーを無視してキャンキャン喚いていた小柄な受付嬢の喉元を片手でヒョイと差し上げた。ぐるりと周りを見渡すと、試合前にゴタゴタは御免だとばかりに沈黙を守っている。仕方ねえなあ、もう。
「待ちたまえそこの君」
「ああん? なんだぁテメェは!」
――うっわあ、なにこのオッサン。目が完全に逝ってるやん。
蔵人は勢い込んで止めに入ったものの、大男の荒みきった表情を目にして「あちゃあ」という気分になった。いわゆる金壷眼というやつだ。おまけに特徴的な鷲鼻が鍵のように張り出しており、一見するだけで異相そのものである。肩幅は壁のように広く、鍛え抜かれた胸の厚みはオークと遜色ないほどであった。
受付嬢の女の子は蔵人が見知らぬ顔であったが、すでに首を掴まれて息も絶え絶えであった。これはいかんと、大男の腕に手をかけ、やさしく諭した。
「なにがあったのかは知らないが、乱暴はよしたまえ。力を示したいのであれば、闘技場の上で存分に見せつければいいのでは」
「さっきから聞いてればなんなんだテメーは! だいたいが、この女はよ、他国者は出場できない。金を払うのすら腹立たしいのに、そのうえしかるべき人物の添え書きを寄越せとまでいいやがったんだ! このフンベルトさまはよ、人さまにコケにされんのが死ぬほどきれぇなんだ!」
「けれど、その方はギルドの職員でしょう。ただ、職務に忠実なだけで――」
顔の中心部が爆発したように感じられた。殴られたのだ。後頭部から吹っ飛んで離れた壁際に全身を打ちつけた。視界が真っ赤に染まる。痛い、などというレベルではない。この男の鉄拳は規格外だ。たかが喧嘩でここまでの殺意が出せるものか。
一瞬、反撃しようかと思ったが、すぐそばにネリーがいることを思いだし、巻き添えを恐れてやめた。第一、これ以上無駄に動けば受付する前に、覆面が剥がれてしまう恐れがある。
なんというか、色々な思いが頭のなかをぐるぐる回って上手く考えがまとまらない。そう思ったときには追撃に備えてその場で身を亀の子のように丸くした。背面の防御力は無防備な腹などに比べれば極めて高い。蔵人は大男のストンピングの嵐が来るのをジッとこらえた。が、予想に反して蹴りはいつまで経っても降り落ちてこない。
「やめだ。このおれさまは弱いものイジメをする趣味はないのだ。よう、そこの覆面男。ここでことを収めて欲しいか。ああん?」
「それは、もう、是非にも」
「じゃあ、寛大なおれさまが許してやろう。その代わり、皆の前でおれの股の間をくぐれ」
蔵人は男だ。プライドだってないわけでもない。しかし、いまここでこの凶暴な男が暴れれば、鬱憤晴しに先ほどの受付嬢に怒りの矛先が向かぬとは限らない。深くため息を吐きながら、大男がガニ股に大きく開いた間を、そろそろとくぐった。同時に、ハラハラとことの成り行きを見守っていた参加者たちから、蔵人の臆病ぶりを嘲笑う声が高らかに響き渡った。
「おいおい、いくらなんでもそりゃねえだろ兄さん!」
「いやしくも武芸を志す者が、立ち向かう素振りも見せずに、いいなりになるとはな!」
「まさか、この上参加して恥の上塗りをするつもりなのかよ? そいつは時間の無駄ってもんだ」
「今回、おれは自信なんてあまりなかったがよう。あんな臆病者がいるとわかっただけでも、いい具合に力が抜けて、こりゃそこそこの結果が出せそうだぜ!」
フンベルトは自尊心が満たされたのか、参加登録を拒絶されたことなどは忘れたような顔で列を離れていった。
蔵人は、なに食わぬ顔で立ち上がると膝についたホコリを払い、列の最後尾に戻り直す。やがて順番が来て、先ほど助けた受付嬢の前に来た。蔵人が参加費の登録料一万Pと冒険者ギルド登録のときに使った書類一式を手渡そうとすると、彼女はあろうことか救ってもらった恩人に対して明らかに蔑んだ表情を見せた。
――さすがにコイツはこたえるぜ。
紙袋をかぶっていてよかった。そう思ったときには、隣に立っていたネリーが凄まじい勢いで娘の頬に平手打ちを喰らわせると阿修羅のような表情で両眼を見開いて叫んだ。
「助けてもらった分際で! あなた、あなただけは感謝の意を示すべきでしょう? ホリー、あなたは恩を仇で返す人非人! 畜生ですら恩を受ければその人を噛まぬというのに、その蔑みの目はなんですかッ! 恥を知りなさい、恥をッ!」
「え、あ、え。そのネリーさん。あたしは、そんなつもりじゃ……」
「――出て行きなさい。冒険者ギルドは荒っぽい気風でありますが最低限の倫理くらいは持ち合わせています。あなたのような人間に任せられる仕事はありません」
冷え切った声だった。それは反論を許さない絶対者のものだった。
ホリーと呼ばれた少女は、涙をボロボロこぼしながら立ち上がると呆然とした顔つきで、受付を離れていった。ネリーは古参の人間で、職制級だ。受付に関してはある程度の人事権を持っている。たぶん、もう二度とギルドでホリーと顔を合わすことはないだろう。
場の雰囲気がしんと静まり返る。烈火のごとく火を噴いたネリーの怒りによって完全に呑まれたのだ。空いた受付席を、一歩離れていた残りの職員が立ちどころに埋めようとしたが、素早く蔵人の前にネリーが腰を下ろした。彼女は蔵人から登録料と書類を受け取ると淡々とした声でいった。
「お名前のほう、よろしいでしょうか」
「ん? ああ、えーと。パピルス仮面でよろしく」
「はぁ、パピルス仮面ねえ。あのパピルス仮面さん。少しばかりお時間よろしいでしょうか」
――オイオイ亭主のいないとこで逆ナンかよぉ?
蔵人は、ちょっとばかり肩を落とし気味にネリーについて受付席から離れた場所に移動した。
でも、これもしかしたら、俺の知らないネリーの奔放な性の一端が見られるかもだし。などと不埒な妄想をたくましくして一部を硬化させはじめていると、ネリーは髪の毛をかき上げながら疲れたようにいった。
「で、これはいったいどういう風の吹き回しなの、クランド」
「んなっ! わ、わわわ、私は志門蔵人などというナイスガイでは断じてありませんよ、奥さま」
「……」
「らめえええっ! 無言で紙袋ビリビリしちゃだめなのおおっ! せっかく補修したのにい! 彼との思い出、裂いちゃらめなのおおっ!」
「なんじゃいなそれは。それと人と話をするときくらい、その変なものを脱ぐの。ともかくっ。あれほど頑なに出場を拒否っていた男がどういう思想の方向転換なのかしら。さっさと、お吐きなさいなクズ。穀潰し。人でなし、イイカッコしいめが」
「ああっ! なんだかなつかしいフレーズが耳に心地イイっ?」
蔵人はあっさりと自供した。ちょっとネリーの責めが気持ちよかったのは内緒である。
「はあ、まさかそんなしょうもない理由でとは……」
「ご心配おかけしますう」
「もう手続きはしてしまいましたし。ことの発端を考えればヒルダが怒るのも無理はないですが。まあ、いいでしょう。そちらのことは、私がなんとかしますから」
「フヒヒ。ゴメンでござるよ」
「まったく、ぜんっぜん反省してないわよね、あなた」
「正直、怯えるヒルダに勃起したといわざるを得ない」
「なんたる変態性癖か。とにかく、女房だからってあんまり好き勝手やってたら、そのうちみんな愛想尽かすわよ。女の気持ちなんて、コロッコロ変わって信用できないものなんですから」
「しょ、しょんなぁ」
「クランドは女に幻想見すぎ。強く出れないなら、そうね。もっと女を道具のように扱いなさいな。下手に出るよりも、強く押したほうがずっということを聞くようにできてるんだから」
「ど、道具扱いですか。ちょっと僕には難易度高いかもぉ」
「それと。さっきは頑張りすぎ。あまり、心配させないで」
「う、む」
ぼうっとしているとネリーに唇を奪われた。瞬間的であるが、甘いハッカのような匂いが口中にふんわりと広がった。恋は人を盲目にするが、結婚は視力を取り戻してくれるとはリヒテンベルグの名言だが、夫はときどきこうやって目をくらませられるものなのだろうが。
ネリーは恥ずかしそうに自分の唇を人差し指で触れると、小走りに去っていった。なんとなくフフッと笑いがこみ上げる。
蔵人が再び紙袋をかぶって振り返ると、そこには腕組みをしながら妙な仮面をつけている珍妙な格好をした女が立っていた。
と、いうかヴィクトワールだ。彼女は顔の上半分を覆い隠すように蝶型のマスクをつけており、衣服は見慣れたメイド服ではなく、大きな胸の谷間がくっきり見えるピッタリした黒の動きやすい上下を着込んでいた。肩には真紅の派手派手しい外套を纏っている。
「なんというか、どエロい格好だなヴィクトワール」
「なにをーッ!」
「あはは。勇者さま。お嬢さまはこの格好を褒められたくてそのへんで出待ちしてたんですよー。でもでも、先ほどのような騒ぎになっちゃいまして。おまけに勇者さまは、ネリーさまとチュッチュし出すから、なーんともかんとも出るタイミングを失っちゃいまして。かような次第です」
「説明ありがとうハナくん」
ヴィクトワールの背後からひょっこり顔を出したハナが現状を簡潔に話し出す。
そうか。ごめんねヴィクトワール。僕が疎外感を抱かせてしまったんだね。
「じゃあ、お詫びのしるしに再会のチュッチュを」
「やめんか! そのタコのような口を近づけるな!」
「まあ、お嬢さま。ホントは勇者さまの熱いベーゼで出迎えて欲しかったくせに、またそのようなツンツンっぷりを。すでに、これ以上の抵抗は誰得なんですから、そろそろお覚悟をお決めになればよろしいのに」
「そうだぞー。メンドクセーぜ、ヴィクトワールちゃん」
「ふん。黙れ黙れ黙れ! いいか、クランドよ。今日こそは私とシズカのどちらかが真の勝者か決まる運命の日なのだ。その細い目をしっかり開けて、結果をしかと見届けよ。私が堂々と優勝し、銀星杯を手にするその勇姿を。そのことだけは伝えておかねばと思ってな。それだけだっ!」
ヴィクトワールは片手を上げてシュッと素早く真紅の外套を翻すと、高らかに笑いながら闘技場の入口へと消えていった。異様な空気を感じ取ったのか、付近の家で飼われている犬たちが一斉にけたたましく吠え出した。
「あのーお嬢さま。まだ、受付が済んでいないのですがー」
「おまけに今日は予選だけで、決勝は明日なんだが……」
こうして波乱含みの銀星杯武闘大会はついにはじまったのであった。




