Lv235「とまどいインテルメッツォ」
エドガーは蔵人が気の毒になるほど謝罪をくり返すと、妻のフロランスが突如として取り乱した理由を落ち着いた口調で話しだした。
「あのレタという少女は、二年ほど前に生き別れになった私の娘とうりふたつなんです」
エドガーとエルフのフロランスには、ひとりの娘がいた。名はシーリ。そもそもが、名のある商家の生まれであるエドガーとフロランスの婚姻には大きな困難がつきまとっていた。
フロランスはとびきりといってもいいほどの美形であったが、王都周辺では人間族より一段低いとされるエルフ族の生まれであった。ロムレスにおいては、常に国境周辺で熾烈な争いを続けてきた多種のエルフ族は恐怖の裏返しである侮蔑を伴うのが常であった。
異種婚による根強い差別。生まれてきた娘への拭い難い世間の視線。それでも、惚れ合って一緒になったふたりにとってはなにほどもなかった。
当時、塩商人であったエドガーは、家督を継いだ兄からいいつかった分量を売り歩く程度の半端仕事しかさせてもらえなかったが、恋女房と生まれたばかりの娘の顔さえ見れば、特に生活において不満はなかった。
彼にとっては、妻子を食わせられる程度の力があれば、それで充分だった。
エドガーは、生来、人と競い合うのが苦手であり、激しいよろこびや深い痛苦よりも凪続ける静かな海のごとき起伏のない人生を歩むのが性に合っていた。
王都近郊の小領主に対して決められた定量を納めていれば、この先も食っていくだけの生計は困らない。
それは、一族の意見を無視する形で異民族の娘を妻に迎えた、ある種の制裁だったが、エドガーは日々の生活にほぼ満足していた。
決まり決まったルートを回って仕事を終えれば、家には美しい妻と、幼い娘が両手を挙げて出迎えてくれる。贅沢などいらないし、必要以上の栄達も望まない。世界は、このままゆっくりとなにごともなく進んでゆく。エドガーは、それを教義のように信仰していた。
――そう。娘のシーリが人買いに拐われる、あの日までは。
「ええ、なにがどう悪かったというわけでもありません。私も、妻も、久々の市で浮かれていたんだと思います。ほんのわずかに目を離した隙に、娘の姿はもうどこにもありませんでした。探して、探して、探し抜いて。それでもどうしても見つからなくて。ええ、落ち込みましたよ。私は、それでも男ですからね。自分がしっかりしないと、ってねえ。その頃、娘は、もう、かなりしゃべるようになっていて。あの、舌っ足らずの声で、私やフロランスの名を懸命に呼ぶときときたら。思い出すたびに枕を濡らしましたが、詮無きことです。フロランスは、妻は、ひと頃、本当にダメでした。それこそ、ものいわぬ人形みたいに、日がな部屋の隅にある椅子に座ったまま。このままではダメになる。私は、そう思い立って、王都を離れて、このはるか南に位置するシルバーヴィラゴで一旗揚げようと、居を移したのです。働きました。ええ、それこそ生まれ変わったつもりで。生まれてはじめて、がむしゃらに働きましたよ。兄も、私どものことを不憫に思ってくれたのか、涙を流しながら力になってくれました。皮肉なことですね。愛娘を失うことによって、私はようやく一族と和解できたのですから。クランドさん。あなたが連れていた娘さんを目にしたとき、それはもう、魂が抜けかけましたよ。あの子は、いまはいない娘にそっくり過ぎて。レタ、といいましたか。あの子は、よっつかいつつですか? 考えてみれば、人買いに拐われた赤ん坊が、これほど離れた場所で、芝居のように偶然再び出会うなんてありえない話なんです。クランドさんのご妻女。彼女もあなたも人間族でありますから、そのお、養子でしょうか? そこいらは込み入った事情もございますでしょうが、他人である私どもが詮索する理由もございません。考えてみれば、他人の空似などいくらでもあることじゃありませんか。消えた娘が、今一度などと。未練ですねえ。恥ずかしい話ですが。許してくださいませ。暴漢に襲われたお礼をと、我が家に招いた結果が不快を買うような真似をしてしまい、これこそ恩を仇で返すような真似を。私は、恥ずかしくって、とてもではないがどう償っていいかわかりませんよ」
「でもっ。あなた! あの子は、確かにシーリ! シーリなのよっ!」
「うるさいっ。おまえさんはどこまで私に恥をかかせたら気が済むんだいっ。クランドさんは私の命の恩人。おまえはこともあろうに、その恩人の奥さまに反吐を吐きかけるような真似をしたんだよっ。これじゃあ、私の立場ってもんがないじゃないかっ」
フロランスは、夫に叱責されることによって、自分がしでかしたことの大きさにようやく気づいたのか、真っ青な顔をしたまま唇を細かく震わせた。フロランスは銀色の髪が美しい、いかにも清楚な人妻の典型である。抱きしめれば簡単に折れてしまいそうな腰や腕の細さに似合わない大声は、なくしてしまったものが不意に見つかった。そんな奇跡を逃せないといった焦燥感からきたものだろう。蔵人は、フロランスが目を閉じて涙をハラハラと流すさまに、胸をぎゅうと鷲掴みにされた。いけない癖だ。だが、黙っているわけにもいかない。手を大きく振って止めに入った。
「待って。待ってくれエドガーさん。奥さんを一方的に叱らないでやってくれ。それに、奥さんの直感もあながち間違いじゃねえかもしれねぇ。こっちにも理由ってもんがあらァ」
「クランドさん。それというのはどういう理由でしょうか」
蔵人は大きく息を吐き出すと、ソファに座り直し、顎鬚を決まり悪そうに掻いた。エドガーの細く頼りなげな顔つきは泣き出す寸前のようによじれていた。ありえないと口先ではそういっていても、なにかしら己の感じるただ一点にすがっているのだ。フロランスも夫に倣って、今にも涙がこぼれ落ちそうに潤みかけた瞳を揺らしながら、懇願するように見つめている。
「それほど込み入った話ってわけでもねえが――」
蔵人は請われるままに、レタが奴隷商人のもとにいたことや、現在は自分が仮親として彼女を養育していることを語った。はじめは理性的に振舞っていたエドガーであったが、レタの消えた年月日や細かな特徴を話し合う際に、いちいち符合する部分が多々見つかるたびに、彼もひとりの父親として平静を徐々に保てなくなりつつあった。
「あなた……! 間違いないっ。間違いないわ! あの子は、私のシーリなのよっ。ああ、神さま感謝いたしますっ」
「おい、フロランス。まだ、確かにそうと決まったわけではないよ。とにかく、落ち着いて」
妻を制するエドガーの声も喜びに満ち溢れている。親である限り当然の態度であろう。拐われた娘が再び己の手元に戻ってくるのかもしれない。それが真実であるとするならば、なんという数奇な運命であろうか。特にフロランスの取り乱しようは尋常一様なものではなかった。彼女は、もはやレタは自分の娘のシーリであるはずに違いないと決めてかかっている。確証はなくともそれは彼女のなかの決定事項なのだ。
「もし、仮に。仮に、レタがあんたたちの娘なら。寂しいけど、本当の親子はいっしょに暮らすのが一番だと思う」
蔵人の言葉に、エドガー夫婦の顔は喜色に満ちた。蔵人は所詮、生業を持たない根無し草の冒険者である。どう理屈を捏ねようと、屋敷のタコ部屋暮らしよりも、レタ自身、真っ当な商家の娘としてこの先を生きるのが幸せだろう。
「ありがとうっ。ありがとうございます、クランドさん。この御恩はどのようにして感謝したらいいのか……!」
「落ち着けって。まだ、レタをアンタたちに引き渡すって決めたわけじゃない。猫の子じゃあんめえし、そうホイホイなんでもかんでもすぐには決められねえよ」
「そんなっ!」
「フロランス。黙っていなさい。クランドさん。私は小さいながらも、ロムレスで五百年ばかり続く商人の家柄です。会ったばかりのことですし、そう簡単に信用できないということはもっともなお話です。けれども、ことは大切な一人娘のことです。必要とあらば、教会で宣誓もしますし、どこへ出しても通用するクランドさんが納得する請け人をいくらでもご用意させていただきます。ですからっ、ですからっ」
「まあまあ、エドガーさん。あんたのいうことを疑うわけじゃないが。その、なにか決定的な証拠みたいなものはないか? レタがあんたの娘だっていう証拠かなにか。その、身体にある傷とか、いつも身につけさせていたものとか?」
「ありますっ。シーリは、右の内腿のつけ根にホクロが、こう、綺麗にみっつほど三角の形に並んでいましたっ」
フロランスは蔵人の胸元に掴みかかりながら叫ぶようにいった。彼女の開いた胸元から、たっぷりとした乳房の谷間が垣間見えて、蔵人は目を白黒させながらなんとか引き剥がす。
「クランドさんっ。シーリには、常に守り袋を持たせていました。こう、首に下げさせるちっちゃなものですが。なかには、私が持っている指輪と対になるものが入っています!」
「うわっと! おい、わかった。わかったから、あんたら夫婦でのしかかんのはやめてくれよっ。中身が出ちゃうよっ」
「これは、失礼しました。つ、つい興奮してしまいまして」
蔵人はエドガーから指輪を受け取ると、手のひらで転がしながらジックリと見入った。真っ赤な宝石が嵌め込まれた、いかにも高価そうなものである。
(けど、レタが奴隷商に拐われた時点で金目のものはすべて取り上げられているはずだ。そっちの線から確かめるのは不可能だな)
レタがエドガー夫妻の本当の娘であるならば、当然の措置として返すべきである。
もちろん、蔵人は、養育している小エルフたちを邪魔者だと微塵も思っていないが、血の繋がった親が見つかったならば、ともに暮らすことが一番の幸せであろう。
(けどなぁ。真実そうだったとしても、アルテミシアがなんというか……)
彼女のレタに対する溺愛ぶりは並大抵のものではない。手放すとなれば、そう簡単に納得などするはずもない。蔵人は、とにかく、一旦家に帰って確かめさせてくれとエドガー夫妻に告げると屋敷を後にした。
「まったく! なんという礼儀知らずな連中だ!」
(あらら。これはまた、想定内の反応だわ)
蔵人が自宅に戻ると、想像通りアルテミシアはおかんむりであった。彼女は、基本的に温厚であるが、一旦スイッチが入ると感情が爆発してそう簡単には収まらない。
実に近視眼的な部分があるというか。現にアルテミシアは、蔵人が死んだと早合点して修道女になってしまった過去があった。
アルテミシアは、居間の絨毯が広げてある場所で座り込みながら、カレンやリザに延々と愚痴を聞かせている。当然のことながら、掌中の玉のごとくレタをギュッと抱きしめながら片時も離そうとはしない。
(これじゃあレタの証拠調べなんてできる状態じゃねえな)
蔵人は、室内を覗いていた扉の影からそっとその場を離れると、まずは、当時の状況に関して一番詳しいと思われるドロテアの部屋へ行った。
「なるほど。レタの親が見つかったというのじゃな」
「どうでもいいけど人が話しているときくらいそのふざけたカッコやめろよ……」
ドロテアはベッドの上で、いわゆるヨガでいう「鋤のポーズ」といわれる、寝そべったまま身体をくの字の状態へと極度に反り返らせた状態を保っていた。
具体的には、仰向けの状態から両脚を限界までしならせて甲の部分を自分の顔の後ろの床に設置するという見ようによっては破廉恥極まりないものだ。蔵人は椅子に座ったまま、ドロテアの大事な部分とお話する形になっていた。
「誰もふざけておらぬわ。わらわは常日頃、身体を硬くならんようにストレッチを心がけておるだけじゃ。人聞きの悪い」
「いや。でもその格好、この前俺がさせたときにそのまま動けなくなったやつだよね」
「そんな事実は存在せぬ」
「……ま、どうでもいいや。今日は、そんなくだらねー議論にしにきたんじゃねえ」
「お。負けを認めるのかの? わらわからしっぽを巻いて逃げるのかえ」
「ンなことグダグダいうやつはこうだあー!」
「んきゃぅ!」
蔵人はドロテアに襲いかかると、久々に思う存分肉体的言語で語り合った。
語らいは思ったほど長引き、気づけば日が落ちるほどになっていた。
――巨乳エルフのおっぱい美味しいです。
「まったく、なんというケダモノじゃ。もともと話をしたいというのは口実なんじゃろうが。素直ではないやつめ。わらわは、まったくそんな気はなかったというのに。困った男じゃのう」
「げっそり」
ドロテアはほどけた髪をベッドに腰かけて結い直しながらウキウキした口調でいった。
一方、蔵人はこれでもかと搾り取られたので、青い顔をしてベッドに横たわっている。
気のせいか、若干、頬がこけたような印象さえあった。
(くそう。超・肉食女子め。この俺がいいようにやられてしまうとは……)
「俺だってそんな気はなかったんだが」
「強がるな強がるな。ふふ、所詮男などわらわの魅力にかかればイチコロよ。ん?」
ドロテアは淫蕩な笑みを浮かべると、両手で白いブラのなかに収まったたわわな乳房を、ゆさゆさと揺らしてみせた。圧巻である。蔵人は、それを素直に認めるのが嫌でぷいと顔を背けていった。
「おまえ、ちょっとデブったんじゃね?」
「――いま、なんというたかの」
ドロテアの瞳がすぅと細まった。危機を感じた蔵人がベッドからガバと跳ね起きて、床に降り立つが、そのまま膝から崩れ落ちた。力を使いすぎて完全に腰が抜けているのだ。
獲物を捕捉した狩猟者は勝ち誇った笑みを浮かべると、ゆっくり歩み寄ってきた。蔵人は床をいざりながら後方に下がってゆく。ドロテアが両手を広げて飛びついてきた。
「誰がおデブじゃ? ん。これでも、まだわらわにそんな口が利けるかの」
「もがっ。ふがっ、ふがももっ――!」
蔵人はドロテアの乳房に顔を埋めながら激しくもがいた。想像以上の圧力である。軽く汗ばんだ肉の塊と、若干の固めの突起が頬にすりつけられる。
「ご主人さま。夕飯のお時間でございます」
「ポルディナ! お主、人さまの部屋に入るときはノックくらいいたせっ!」
「時間で動いていますので。さ、ご主人さま」
ポルディナは流れるような動きでドロテアの肉塊から主をばりばり引き剥がすと、しっかと抱き起こして、上半身裸体である豊乳エルフを凄まじい目つきで睨みつけた。ポルディナは、しっぽをピンと垂直に振り立てて、やんのか? やんのかああんっ! と全力で怒りを表現している。
たちまち一触即発の雰囲気である。蔵人は、ドロテアに抱きかかえられながら、そうえいば話がまるでできなかったな、とぼんやり考えていた。
かつてない問題を棚上げにしながら夕食をつつがなく済ませた。アルテミシアは、いつになくプリプリしながら食べ終えると、レタを抱えたまま部屋へと早々に引き上げてしまった。
「なあクランド。アルといったいなにがあったんだ?」
食後の茶を飲んでいると、ルッジが心配そうに問いかけてきた。このなかで、アルテミシアともっとも仲がよいのは彼女である。蔵人は、まだ確定していないレタの話をいたずらに話すのは家庭内に混乱を招くだけだと思い、あえて黙っていたのだが、ルッジには話しておく必要性があると考え直した。
「その、いろいろとだよ」
「いろいろじゃわからないよ」
「実はな――」
蔵人が昼間あったできごとをかいつまんで話すと、ルッジはカップをテーブルの上に置いて神妙な顔で小さく唸った。
「幾つか心配な点がある。ひとつ。その夫婦は信用に足る人物なのか。ふたつ。この先々レタに関してなにか不都合が起きた際、それをボクたちが知る方法はあるのか。みっつ。これが一番大切な点なのだけれど、レタは本当にその夫婦の子供なのか。最低限、この問題をクリアできなければ、レタを引き渡すことはできないね」
「俺だってなにも考えていないわけじゃねえよ。少し話をしたところ、あのふたりは敬虔なロムレス信徒だそうだ。週に一度は必ず大聖堂で礼拝を行っているらしい。マルコのおっさんに聞けば、ひととなりがどんなもんかは掴めるだろう」
「なんだかんだいって、君は司教を信頼しているんだね」
「宗教のことは門外漢だけどな。なら、あとは本職に頼ったほうがいい。まさか、彼らも信ずる神の前で誓った言葉をそう簡単には違えないだろう」
――そう、ここは日本ではないのだから。蔵人は言葉を飲み込むと、やや冷めかけた茶をグッと呷った。
「それで最後のみっつめなんだが。なんとか今日中に確かめたい」
「エドガーの娘である証拠。守り袋のなかの指輪と、内腿にある三角形のホクロか」
「たぶん、金目のものは人買いに拐われたときにすべてかっぱがれた可能性は高いと思う。だから、ドロテアに話を聞きたかったんだが」
「君も相変わらず抑制のきかない男だね。もう少し上手くやれないのかい」
「いや、上手くやったつもりなのだが」
「つけ加えていうと、ボクだって最近ご無沙汰だ。堂々とそういう話をされると、面白くないよ」
「勘弁してくれよ。おまえにまでそっぽを向かれた日には俺ァどうしていいかわからなくなっちまう。おまえだけが頼りなんだよう。な、な。頼むよう、ルッジ」
「君ってやつは、本当に甘え上手だな。まったく仕方のない。ちょうどいい。これから入浴の時間だ。証拠のホクロはボクがレタを風呂場に連れて行って入浴ついでに確かめるとしよう」
「さすが俺のルッジたん……! ペロペロしてもいい?」
「ダメ。といいたいけど、ふたりきりのときなら」
蔵人はテーブルの上でルッジの両手を取ると、やさしく握り締めながら熱の篭った瞳でジッと見つめた。目は口ほどに物をいう。ふたりの間に、甘く濃密な雰囲気が漂いだした。
「ほらほら、チャッチャッと飲み終わったらかたす。あー大変だー。あー忙しい」
ふたりの繋ぎ合った手を裂くようにして、メイド服姿でキビキビ働いていたヴィクトワールが、だんどん音を響かせてわざとらしくテーブルを片づけはじめた。
ルッジが整った眉を寄せながら激しく舌打ちをするが、ヴィクトワールは鼻歌まじりで茶器をお盆に乗せて、とっととその場を離れてゆく。冷や汗三斗。蔵人は消え入りたい気持ちで肩を縮こませると、上目遣いでルッジをチラと見た。それは見ることを後悔させる類のものであり、賢い蔵人はたちまち記憶のなかからそのメモリーを削除した。
「さて。証拠のホクロを確認する前に、まずはレタからアルテミシアを引き剥がさにゃならんわけだが」
アルテミシアはあれ以来レタを完全に抱え込んでしまい、容易に他者を近づけない。蔵人本人が自室を訪ねても「気分が悪い」の一点張りで完全に閉じ篭ってしまったのだ。
「なんとしても、レタからアルテミシアを引き剥がさねばならない」
蔵人は忠実な下僕であるポルディナとルールーを呼びつけると、いかなる手法を用いてもふたりを分断せよ、と命じた。
「かしこまりましたご主人さま」
「命に代えましても……!」
「いや、ルールーはそんなにマジになんなくていいから」
たとえ超人的な肉体と意思を持つアルテミシアでも生理的欲求からは逃れることはできない。
ポルディナは小用に立ったアルテミシアをすかさずトイレに閉じ込めて、その隙にルールーはレタを見事に奪還することに成功した。
「ところでクランドさま。レタにはどのようなご用件が」
「入るんだよ」
「え?」
「レタを風呂に入れなくてはならないんだ」
蔵人は困惑しきったルールーに引き続きアルテミシアの足止めを命じると、浴場に向かった。
風呂好きの蔵人が作らせた天然の湯が出る露天である。落ち合うことになっていたルッジを見つけると、小走りに駆け寄る。
「どうしたんだ?」
「どうしたー」
ルッジは青い顔をして壁に手を突いている。抱えていた小エルフのレタも心配そうに真似をして声をかける。
「すまない。急に、生理がはじまってしまったみたいだ」
「ええー。じゃあ、しょうがねえな。あとは俺が確認しとくけど。平気かよ、おい」
蔵人はルッジを部屋に戻すと、服を脱ぎながら思った。
別に、湯に浸からなくてもこの場でホクロを確かめればよかったかも。
「クランドー。はやくはいろー」
「おお。ま、いっか。どうせ、こいつをジャブジャブ洗うんだし」
蔵人は服を脱ぎ終えると、キャッキャとはしゃぎながら走るレタを追った。湯船や濡れた岩場は意外にツルツルすべるので危険である。下手に目を離してひっくり返られた日には、自分がアルテミシアに脳天をかち割られない保証はない。なかんずく、床を蹴る足指に力が篭る。
「こらっ。危ないから走るんじゃないっ」
「やだー。クランドおそいよー」
「待てっ。このおっ。ええい、ちょこまかと。それっ」
蔵人が追うほどにしてレタは興奮して走り回る。ようやく隅に追い詰めて捉えたときは、さすがの蔵人も息が切れていた。
「はあっ。やっと、このっ。捕まえたぞ。もお、逃がさねえ」
「やだっ、やだっ。はなしてー」
ヤダといいつつもゲラゲラ笑っている。げに恐ろしき女の習性よ、と蔵人は不敵に微笑むとレタの片脚を掴んで宙吊りにした。
「やだっ。やだやだー。もっとやって、もっとやってー」
「どっちなんだよ、おまえは。ほいっと」
蔵人はとりあえずレタを宙吊りのまま、左右に振ってみせた。洋の東西を問わず、幼児は粗野に扱われることを好む。この子、ドMに育たなきゃいいのだが、と思いつつ適当に弄んでやった。
「もういいか。さすがに、ちょっと腕が疲れたー」
「やだっ。もっともっとー」
「そんなことばっかいってるとな、将来男に逃げられるぞ。女ってもんは慎みが重要なんだ」
「つつしみー?」
「そうだ。いくらご馳走でも、無理無体に鼻先に突きつけられりゃゲップがでるぜ。大切なものほど出し惜しみをすりゃ、男って生きもんはありがたがると古来から決まっておるのだ」
当初の目的通り、内股のつけ根にあるホクロを確認しなければならない。蔵人は遊んでもらっていると勘違いしているレタを床に押さえつけると、顔を寄せてホクロを仔細に確認した。
(漢の高祖は内腿に七十二のホクロがあったというが。それって誰がどうやって調べたんだろうか。……うん。間違いないな。確かに、トライアングルの形でみっつある)
ホクロを確かめるのに夢中になっていたせいか。蔵人は背後に迫る人影にまるで気づいていなかった。床石を叩く音が鳴る。振り返るとそこには、蒼白の表情を凍りつかせたレイシーとヒルダのわななく姿があった。これはただごとではない。緊張した面持ちで立ち上がると、弾かれたようにレイシーが顔を覆って泣きはじめた。
「ひどいっ。ひどいよ、クランド。いくらなんでも、そんなちっちゃな子にまで……!」
「クランドさん。最低ですよ。軽蔑します」
ヒルダが蔑みきった目線で睨んでくる。ビスクドールのように精緻な容貌を持った彼女がいうとなかなかに迫力がある。
蔵人は、冷静に今自分が行なっている行動が、他人からどのように見えるか考えた。
素っ裸になりながら、裸に剥いた幼女を押さえつけ、股ぐらに鼻先を突っ込んでいる。
……うん。間違いないな。これって完全に誤解してる。極めて不幸な誤解だ。
「よし、一旦、落ち着こう」
「こないでっ。ごめん、いくらあたしでも今のクランドは受け入れられないよっ!」
「不潔! 不潔! 最低の卑劣漢ッ! まさか、そんな異常性癖を隠し持っていたのだなんて! 神さまだってお許しになられない悪徳の極みですっ。……はっ。まさか、幼女たちを集めていたのも、やたらと女好きを公言していたのも、今日というXデイを迎えるための遠大な計画の一部だったのですかっ?」
「オイイイッ――! 違うからねっ。ぜんっぜん、おまえたちの考えていることって見当違いだからねっ。蔵人さんは、プリッとしたおっぱいとか発達したお尻が好きなんだからねっ」
「そして、プニっとしたロリマンも……! 嗚呼、神よ。我が夫を地獄の業火に飛び込んでゆく悪魔の所業を、なにとぞお救いください」
「ヒルダぁああっ! 勝手に妙な設定盛り込んでんじゃねええっ! ドン引きすんだろうがっ」
レイシーがその場にペタンと座り込んで悲痛な声で叫びはじめる。レタはなにがしか怖いことが起きたと気づいたのか、レイシーに倣って大合唱を行なった。
「ふええ。クランド、ダミーだったんだぁ。あたしとの結婚もダミーだったんだあ!」
「ダミーじゃない! ダミーじゃないからっ。大丈夫だから!」
なにがいったい大丈夫だというのであろうか。蔵人は混乱しつつある自分をなだめるようにいい聞かせながら泣きじゃくるレイシーに近づいてゆく。顔中からは嫌な汗がダラダラと流れて前がよく見えない。
「私たちに近づかないでくださいっ。この異常性欲者ッ」
「ちょっ、まっ! あだっ」
ヒルダがだっと床を蹴って飛び蹴りをかましてくる。下は固い石だ。このまま着地すればドロップキックをかましたヒルダも無事では済まない。蔵人はヒルダの両足を掴みながらも、勢いを殺さずそのまま後方へ跳んだ。どっぼん、と飛沫を立てて湯壷に尻から飛び込んだ。
「きいいっ」
「待った! 落ち着けってば! よお!」
「落ち着いてなんていられますかっ。よくも私を騙しましたねっ」
「騙してない、騙してない」
蔵人はキイキイ叫ぶヒルダと取っ組み合いになりながら、強く打ちつけた尾てい骨をさするのであった。




