Lv201「蛙を巡る冒険(後編)」
蛙王が末子のレナードを連れてはじめて狩りに出た日は、ここ数十年、類を見ないほどの積雪に見舞われた冬の寒い朝であった。レナードは蛙王が最後に作った息子である。すでに耄碌しかけていた蛙王にとってはまさしく眼に入れても痛くないほどのかわいさであった。王は、臣下が眉をひそめるほど、この少年王子を溺愛した。
「父上。雪。雪です。僕、雪ってはじめて見ます」
「せがれや。そう急ぐな。慌てて走ると転んで怪我をする」
蛙王が命じると、護衛の兵士たちが素早くレナード目がけて駆け寄った。王が末子を寵愛すること甚だ激しく、もしカスリ傷ひとつでも負わせればどれほどの怒りを買うかわからない。
王の私的な狩猟につき添うのはトード族の近衛にとって名誉であったが、同時に、白刃を素足で渡る危険性も孕んでいた。
もっとも、そんな事情も知らず、無邪気に走り回るレナードを蛙王は、目を細めて優しく見つめるだけであった。
――儂も、あとどのくらい生きられるかわからない。願わくば、レナードが嫁を貰うまでは生きていたいものじゃ。
蛙王レジェス・ミラージェスはすでに千年以上の齢を重ねている。長命のトード族であっても、ここまで長生きした記録は、後にも先にもレジェスのみだった。
つまりは、もう、いつ命の灯火が消えてもおかしくはない。むしろそれが自然の摂理である。
が、あらゆる男は、晩年にできた新たな命に対して異常なまでに執着する癖がある。それは、もはや次代を担うにふさわしい後継者としての長子よりも、共に長い時間をもう過ごせぬとわかった愛息に対する哀しみの残影がいつまでもつきまとい、苛むからであった。
蛙王から見れば、ひょこひょこつたない足取りで飛ぶ、レナードは見ているだけで危うく、儚げな存在である。王の巨体のように育ちきるまでは、少なくともあと、数十年近くは待たなければならない。かつては瞬きに思えたその年月も、いまではとうてい届かない夜空の星のように、かなたに思え、蛙王の胸はシクシクと痛んだ。
「この悪戯ものめが。おまえの母が夜なべして編んだ掻巻をしっかり巻かねば風邪をひくではないか。ほれ、こちらに来てみろ。儂が巻き直してやろう」
「はい、父さま」
通常、これだけ甘やかされれば、少しは傲慢の芽も育ってしかるべきだが、レナードは父のいいつけにはよく従った。昔語りをすれば、瞳をキラキラと輝かせ聞き入るし、約束はどんなことがあっても守った。またレナードには不思議なほど我欲がなく、わがままひとついわない。兄弟に至ってはその聖人のような心持ちを気味悪がって遠ざけるものも多々存在した。
が、誰になんといわれようと、蛙王はこの息子がかわいくて仕方がなかった。自分でも、どうかしているというほどかわいがり、眠るときは必ず寝所に呼び寄せた。愛妾を叩きだしてもレナードを抱いて寝ずにはいられない。蛙王は、いまだ存命であった実母にもたしなめられるほど、この息子が好きで好きでたまらなかった。
「ほれ、これでよし」
「ありがとうございます。父さま」
寒くないようにと、赤い掻巻を首に巻きなおしてやると、天使のような愛らしさでニッコリと微笑んでいる。蛙王は、レナードの喜んでいる顔を見るにつけ、実にだらしない表情を晒す。
「さ。きょうははじめての兎狩りだ。父の手並みをよく見ておけよ」
「はい、父さま」
蛙王は、臣下に命じて、巣穴から野兎を追い立てさせた。真っ白い雪の塊をパッと跳ね飛ばしながら、兎が駆けてゆく。王は、弓をぎりりと引き絞ると、狙いたがわず、ひょうと射た。
矢は、美しい軌道を描いて、逃げ去る兎を見事に射止めた。とはいえ、この兎、通常のものとは違い、大きさが子牛ほどある。蛙王の技量がいかにつたなくとも、外しようはない。が、素早さはないのだが、その分凶暴で知られるロムレス兎である。蛙王は、兎がなんとはなしに、逃げ足をゆるめたように思えて、チラと心の中に影が差した。
「さすが王だ。見事なお手並み!」
「ささ、王子。近寄ってトドメをば」
もっともその不信の根も、臣下たちの賞賛の声にたちまちかき消されてしまう。愛息にいいところを見せたこともあり、鼻っ柱も高くなるのは致し方ない。
「せがれや。もはや、兎は虫の息。トドメを刺すも慈悲というものよ」
「父さま、あれを」
レナードは、指差すが早いか、弓を放り捨てると、ピョンピョンと倒れ伏した獲物に走り寄る。
いまだ、死が確定していない獣に駆けてゆく愛息の背を見て、蛙王や臣下は一斉に青ざめた。
「レナード!」
「王子さま、危険でございます!」
緑の波がザッと王子を追って動いた。蛙王は、傍まで近づいて、レナードが抱えている黒っぽい塊を見やった。それは紛れもなく、野兎の赤ん坊で、同時に親兎がなぜ動きをゆるめたのか理解した。兎の赤い瞳。涙に濡れたレナードの顔を交互に見やった。
「かわいそうにございます」
どれほど慈悲をかけたところで、親兎を助けることはできない。
殺すこともまた慈悲なり。王者としての言葉。態度で示さなければならない。蛙王は、引き抜いた刃のきらめきをいつまでもジッと見やっていたレナードの瞳の切なさを、その日から、忘れたことはなかった。
シズカは蛙王がゆっくりと目蓋を持ち上げるのを見て、ほっとため息を吐いた。
「儂はいったい。そうだ、せがれは!」
「重症です」
戦いは依然として続いていた。ジャイアントバグベアは群がる軍兵たちを薙ぎ払いながら、雄叫びをいまも上げ続けている。
先ほど、蛙王を健気にもかばおうとしたレナードは、大木の一撃を食らって、すでに半死半生であった。あれほど巨大な樹木の一撃を受けたのに、いまだ命を永らえているのは、僥倖であるといえよう。レナードの身体は、小柄ながら、実のところよく鍛えられてあり、普通の人間であればバラバラになるほどの衝撃を、そのゴムまりのような脂肪に包まれた硬い筋肉ですべて吸収したのであった。
シズカは、意識を取り戻した蛙王を草むらに倒れ伏しているレナード王子の元へと導いた。
そこには白い腹を見せてひっくり返る無残な王子の姿があった。トード族の兵士が心配そうな面持ちでレナードを見やっている。盟約を破って、一族を危機に落としれた張本人であるはずなのに、臣下たちは怒りなど微塵も見せず、この殉教者をただ慕っていた。
蛙王は、くふっと奇妙な声を喉から漏らすと、苦しげに視線を逸らした。太く、ゴロンとした腕が小刻みに震えている。シズカは、彼が我が子を抱きしめてやりたいという切ない衝動を無理やりこらえているのを知り、目頭が熱くなった。
「王よ。レナード王子は、怪物の一撃からあなたを身を挺して守り、いまやこの状態です。せめて、お言葉を」
「……だとしても、掟は掟だ。臆病者が。女が欲しければ、堂々とラジャ王に一騎打ちを申し込めばよいものを。それを、逃げるなどとは。レナードは私事で我が一族の誇りに泥を塗り、あまつさえナーガ族との盟約を穢した。死罪は免れない」
死。明確な言葉を口にした蛙王の身体。
その巨体がひとまわりもふたまわりも縮んだように見えた。
王も苦しんでいる。それは、息子を愛しているからだ。シズカは思う。人は人を愛するから苦しまねばならぬ。
ならば、自分は蔵人に出会う前の自分に戻ることを望んだりしようか。
いや、それは想像もできないことだった。
シズカという女は、蔵人に出会っていなければ、きっとこの世にはすでに存在していない。そのくらい、世界に絶望していたからだ。
「なぜだ、せがれよ。儂は、苦しい。どうしてこのような仕儀に……!」
「私は、そうは思いません。失礼。続きは、あの怪物を倒してから」
「待ってくれ、ロムレスの客人。これ以上は、この森に住む我らの問題だ。これ以上、お主たちに手間をかけさせるわけにはいかない。呪いを解く薬剤は、たとえ一族が滅びようとも、誰ぞに頼んで届けさせよう。もう、これ以上の手助けは不要だ」
「それはできません」
シズカは毛皮の帽子を脱ぐと、長い黒髪を左右に振った。篭った汗が白い蒸気となって立ち昇る。切れ長の瞳が黒曜石のように濡れて輝いていた。
「なぜだ。お主らに、命を張る理由などあるまい」
「なぜなら、私の夫がいまこの場にいれば、きっとこうするからに決まっているからです」
シズカは奇妙な昂ぶりに胸を躍らせながら駆けていった。前方には、幾重にも群がる戦士たちを蹴散らかすようにして巨大な怪物が爪を振るっている。
命を挺して父を守ろうとしたレナードの行動が、彼を彷彿させたのだろうか。だとすれば自分という女はなんとも安っぽい感情で動いていることになる。去年の今頃の自分を思った。きっと冷徹であった昔の己ならば、こんな茶番劇には眉ひとつ動かさなかっただろう。現に、いま行っていることは、蔵人を救うという戦略的には無意味だ。効率だけを考えれば、最初に出会ったとき、蛙王を虜にしても、薬剤の供出を強要したであろう。
(けれど、不思議だ。私は、いまの自分がそれほど嫌いじゃない)
白い雪山のように聳え立つ大熊は、衰えることなく縦横無尽に暴れまわっていた。ふたりのナーガ族の戦士が盾ごと胴体を引き裂かれて、臓物を露出させながら新雪の積もった大地を赤黒く汚してゆく。飛び散る肉片を、ひらりとかわして距離を詰めてゆく。
ドロテアが炎の魔術を使ってジャイアントバグベアの脇腹を灼いている。
――さあ、そろそろ決着をつけようか。
「ドロテア、待たせた!」
「本当に遅いのじゃ!」
シズカは腰から自慢の曲刀を引き抜くと軽やかに地を蹴って高々と飛翔した。
目の前の荒れ狂う熊が憎い。心の底からそう思った。
白刃を前にした獣の双眸は、怒りに燃えて輝きを増した。
ぶおん、と四つの前足が颶風のように轟音を奏でて大気を割った。
シズカは上段に構えた曲刀をなめらかに二度三度動かすと、ジャイアントバグベアの爪をかわして後方に降り立った。
ぴ、と赤い大きな筋が、怪物の左腕二本にたちまち浮かび上がる。
紅の筋は、徐々に太く、大きくなると、凄まじい量の血潮を噴き上げさせた。
ぼとり、ぼとりと熊の前足が落ちて、巨体がバランスを失って崩れる。
痛みと恐怖に駆られたジャイアントバグベアの攻撃対象は、シズカひとりへと完全に絞られた。
山が動き出すような錯覚。巨木のような太い腕の一撃が、頭上から襲いかかってきた。
が、いかにも遅い。
幾多の激戦をくぐり抜けてきたシズカにとって、敵の攻撃は破壊力だけの、あくびが出るようなスピードだった。
ごおお、と。腹の底に響くような重低音が、獣から吐き出された。
悔しいか。さぞ、悔しいだろうな。お前は、私に出会うまで、この森の王者をきどっていたのだろうが、いまからその頭にかぶる見えない王冠をひっぺがしてやる。
ジャイアントバグベア。ムキになってシズカを的にする。
それがいい。その方が、こちらとしては好都合だ。
シズカはザクザクと雪を蹴って、ジャイアントバグベアの周囲をコマのようにくるくると回転しだした。
「そらそらどうした怪物よ。私はこちらにいるぞ」
雪を蹴って動く彼女の足音がどんどん軽みを増してゆく。それは次第に表面上を撫でる程度になり、シズカの動きは疾風のようにスピードを上げていった。
真っ白な雪煙がジャイアントバグベアを囲むように上がってゆく。
それは奇妙なことに、見ている者にはシズカが幾人もいるように錯覚させた。
残像が、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、と矢継ぎ早に数を増やしていく。
とお、を超える程度に増えたところで、潮合が極まった。
ジャイアントバグベアは苦し紛れに、腕を振るって攻撃を試みるが、シズカの姿を捉えることはまったくできなかった。
「ローグ流、陽炎の太刀」
無数に増えたシズカの影。
とまどったまま仁王立ちしているジャイアントバグベアへと一気に襲いかかった。
右腕二本のつけ根。首筋。右肩から左腰。臍の下から胴回りを一周。額から後頭部まで。鼻先から垂直に顎下。右胸乳の下から左脇腹。両足太もも。両膝。
シズカの影はジャイアントバグベアのありとあらゆる部位を斬り裂くと、やがて残らず消えて、ただひとりに戻った。
ふう、と深く息を吐いて、曲刀を鞘に仕舞う。
怪物は、両目を見開いたたまま、微動だにせず剥製のようにその場に凍りついた。
見ていた戦士たちも息を呑んでその場に張りつけとなった。
斬りつけられた箇所から、無数の赤線が浮かび上がる。
その場にいる者すべてが途方もない血の臭いを嗅ぎ取った。
線。真っ赤な線が、白い毛皮の表皮を埋め尽くしていく。
ドッと。重たげな肉塊が、雪崩のように崩れだした。
幾多のブロックに切り分けられたジャイアントバグベアは原型を留めることができず、積み木が倒壊するように四散してゆく。
シズカは、くるりと背を向けると懐から出したボロきれで刃をぬぐうと、曲刀を鞘に収め、まるで貴婦人が礼をするように、マントの端をつまんでちょこんと頭を下げた。
危機は去った。が、件の問題はなにひとつ解決していない。蛙王の表情は憂悶に満たされ、どことなく色味が落ちて、幽霊のようであった。
森の中は後始末で騒然としていた。傷ついた戦士たちを運ぶ担架が忙しなく動き回り、集落から駆けつけた医者たちが簡易的なテントを張ってさながら野戦病院そのものである。
その喧騒から離れるようにして、シズカたちはひっそりと、ひとりの青年を囲んでいた。
レナード・ミラージェス。蛙王の末子にして、この戦いで唯一傷ついた王族であった。
医者のひとりが、手当をしつつ、王たちの様子を伺っていた。レナードは、日頃の温厚な態度から、臣下の忠誠は篤く、そのため此度の処置を思えば気が気ではないのだろう。
シズカは思う。助かった命ならば、永らえさせてあげたい。それに、わずかであるが会話をかわした彼は、どう考えても父や一族の命運をないがしろにして色香に迷うような、軽佻浮薄な行動を取る人物とは思えなかったのだ。
「蛙王。王子は、身を挺してあなたを守ろうとしたのです。せめて死罪だけは」
ピンと張り詰めた空気を破るようにして助命の言葉を口に出した。隣で腕組みをしていたドロテアが、長耳をふるふると震わせた。
「それは、できぬ」
蛙王の言葉。重たげで、悲哀が篭っていた。側に立つラジャ王を意識しているのであろう。無理もなかった。盟約が完全に破談になれば、両族にどのような不利益が生じるかわからない。即座に開戦といかないまでも、この始末は素知らぬ顔をして済ませられる類のものではなかった。
ラジャ王がずいと一歩前に出た。指先が、そっと剣の柄にかかる。
空気がピリピリと肌を刺すように、尖っていく。
場の流れを変えたのは、ひとりの若い女による絶叫だった。
「待ってくださいッ」
天幕の入口から飛び込んできたのは、若く美しいナーガ族の女であった。
美麗な灰色の髪を後頭部でくるくるとまとめてある。耳には、ウザったいくらいの宝飾類が垂れ下がっており、顔つきは彫りが深く、瞳は涙で黒々と濡れていた。
一同が呆然としていると、その女は蛇と同一のものである下半身をずりずりこすらせながら近づいてくる。ラジャ王がいった。
「ナジャ。どうしていまさら、ここに」
目の前の女こそが、みなが血眼になって探していた、ナーガ族ラジャ王の王妃候補、ナジャその人であった。
「……すぐそばで隠れていたの。ラジャ。王子はなにも悪くない。悪いのは、わたし。駆け落ちをでっち上げたこのわたしなの」
「なんだって。それは、どういう、意味なんだ」
ラジャ王が呆然としたまま、区切るように言葉を発した。
「あなたは、いつも政務に追われて、わたしのことはなにひとつ構ってくれなかった。さびしかったの。だから、人のいい王子に頼んで、少しの間だけでもどこか身を潜める場所を、と」
シズカは脳が煮え立つような鋭い痺れを感じ、思わず片手で顔を覆った。
ふざけるなよ、この構ってちゃん女め。
傍らを見れば、気の短いドロテアが紅潮した顔で下唇を強く噛み締め、怒りをこらえていた。
えらいぞ。評価する。
シズカは、そっとドロテアの手を取ると握り締め、忍び耐えることを目線で懇願した。
「レナードはそんなことを承諾したのか」
「ううん。するわけないわ。だから、いますぐここで死んでやるって。喉に剣をあてて」
シズカは脳内で、目の前のナジャの手足を切り取って、多数のオークに輪姦させ、頭蓋骨に錐で穴を開けて煮えたぎった銅を流し込み、歯という歯のすべてをやっとこで引き抜いて、千枚通しで下腹を嫌というほど突いて、最後に寸刻みに切り裂いたものを粉末状にして、河の魚に撒くことを妄想することにより、己の自我を保った。
「なんという愚かな。蛙王。罪は、この自分にある。盟約を穢したナーガはこの手で始末する。それで和睦の話は、なんとかもう一度考え直してはくれまいか」
「――待ってください」
「レナード!」
「それじゃ、それじゃあ意味がない。まるで、意味がないんだ」
レナードは、傷口に巻かれた包帯を押さえながら、ヨロヨロと簡易ベッドの上から身を起こそうとしている。ぼご、とたちまち縫われたばかりの傷口が開いて、体液が染み出してくる。
「のう、レナード王子。お主は、どうしてわざわざあんなにすぐ見つかりそうな場所をウロウロしていたんだ。はっきりいえば、ナジャ姫はそこまでして庇うほどの者ではない」
ドロテアがいった。彼女は先ほどから、自分の腹をかばうようにアピールしているラジャを注視していた。ああ、そういうことか。シズカは得心した。
「まさか……!」
ラジャ王は、両眼を見開くとクールな表情を破壊して、ナジャの両肩をグッと掴んだ。
「そうです。彼女には、ラジャ王。あなたの子がいるのです……」
「レナード……」
蛙王。脱力したように、よろめいた。
「ラジャ王。私はそれほど長命ではなく、歳も若い。ですが、王子の判断を批判する気にはなれないのです」
ここが幕の引きどきだ。シズカは、蛙王の背を押すようにして、そっと言葉をかけた。
ラジャ王は、よほどの己の子がかわいいのだろうか。即座に手のひらを返すと、その場に跪いて蛙王に許しを請うた。ナジャもそれを最初から狙っていたのだろう。地面に顔を埋めるようにして這い蹲る。その抜け目なさは、もういうことがなかった。
「すべて、私の不明です。ナジャのさびしさをわかってやれなかった。偉大なる蛙王よ。我ら愚か者夫婦の罪を詫びさせてください。どうか、寛大なるお慈悲を……」
「父上。僕からもお願いします」
レナードはこの中でもっとも気高い魂を持っている。彼は、自分の不利益を顧みず、懐に飛び込んだ凶鳥をあえて救おうとしたのだ。
彼が集落の周りをうろうろしていたのは、わざと捕まって命を投げ出し、のちに見つかったナジャに怒りの矛先が向かないよう苦慮したのであろう。
腹の中に子があれば、ラジャ王も蛙王に命乞いをする。ひいてはナーガ族は、今後半永久的にトード族に頭が上がらなくなる。極めて計算され尽くした、恐るべき自己犠牲精神であった。
「蛙王よ。これでも、彼は臆病者ですか」
「……詫びるのは儂よ。せがれは、儂の誇りじゃ」
ひとりの女のわがままではじまった騒動であったが、落ち着くべき場所に落ち着いた。
シズカは、今度こそ終わりだと、かつてないほどの疲労を全身に覚えていた。
「とんだ茶番だったのう」
「し。黙って。話は屋敷に帰ってから聞く」
無事いい感じで終わったのに、ドロテアはそれが気に入らないと見て、帰途の道程でずっと愚痴っていた。ちなみに蛙化の呪いを解く秘薬とは、蛙王の身体から抽出した脂汗である。
シズカたちは、台座で唸りながら懸命に体液を搾り出す王を、長時間直視し続けて新たなトラウマを抱え込んでいた。
「しかしマリカはいいやつだったのう。土産物もたんとくれたし」
シズカたちはマリカと別れを済ませ、旅立っていた。彼女は、素っ気ない素振りで手を振っていたが、つば広の帽子を傾け、しきりに鼻をすすっていた。素直ではない。自分とて同じだが。
彼女たちは固く抱き合って親愛の情を示すと、再び出会うことを誓った。
マリカは心根の優しい女である。また会いたい。シズカにしては珍しい感情であった。
「そうだな。彼女はいいエルフだ。私たちは、よい知己を得た」
「なんじゃ、そのいい草は。それではまるで、わらわがよくないエルフみたいじゃろうが」
「そんなことはいっていない」
「いや、いうた!」
「いってない!」
「いうた!」
ふたりの諍いをどこ吹く風と、グリフォンのグリ吉は軽快に空を羽ばたいている。
魔女の森が、みるみるうちに遠ざかり、緑の点は小さくなって消えてゆく。
シズカはドロテアを意識の外に追い出すと、握る手綱に力を込めた。千切れた雲が、急速に背後へと流れ、もはや念頭には、マリカも、蛙王たちも、戦いのことも消え去り、屋敷で待つ愛する男の笑顔だけがくっきりと浮かんでいた。




