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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第1章「遥かなる旅路」
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Lv2「無道なる獄卒長」





 蔵人は闇の中で身体を起こそうとして、激痛にうめいた。全身の筋肉を引き千切るような感覚が波濤のように絶え間なく脳髄を襲っている。息を吐いただけで全身がバラバラになりそうだ。燃えるように身体中が熱い。

 しばらくすると、自分は、ひんやりとした石の上に転がっているのがわかった。歯を食いしばりながら、指先の一本一本に力を込める。痺れるような鈍痛と共に、意識が覚醒していく。後頭部が重い。最悪の二日酔いを酷くしたような感じだった。たちまち吐き気が込み上げてくる。

 だが、喉の奥に栓をされたように呼吸ができない。助けてくれ、と無我夢中で口を開く。

 飢えた犬のように、舌を出してあえぐ。努力の甲斐あって、視界に貼られた白い膜が溶かされるように、徐々に光が戻ってきた。

 蔵人は口の中に溜まった血だまりを吐き出すと、数回咳き込んだ。びたびたと、吐瀉物が固い石を叩くような音がした。ひたすら気分が悪い。目尻に涙が自然と溜まった。

「おーい、ジイさん。こいつ気づいたみてーだぞ」

「だから、俺はまだそんな年じゃねえっていってるだろうが」

 甲高い若い男の声と、低い苦みばしった男の声が交互に聞こえた。

「おい、起きれるか」

 年かさの男の声。

 応える気力が出ない。無理やり顎を僅かに動かして、返答と代えた。

「随分、参ってるみてぇだが、おまえは若い。大丈夫だ」

 根拠のない励ましの声。

 できれば、そうありたかった。節くれだった大きな腕が自分を引き上げていく。

 蔵人は自分の上半身を、隣にいた男に支えてもらい、両手の力を振り絞り、なんとか壁際に背中をもたれかけさせた。

 目蓋をゆっくり持ち上げて視線を動かす。ひたすら薄暗い。饐えたカビのような臭いと動物園のようなケモノの臭いが混合した酷いものが、鼻先を横殴りにする。なにも見えないと戸惑っているうちに、自然と目が慣れた。薄ぼんやりと、周囲の全景がはっきりしてくるに連れ、意識が凍結しそうになった。

「なんだよ、ここは」 

 蔵人のいる場所は、古い石を組んで造ったいかめしい牢獄と思われる一室だった。四畳半程度の部屋は三方を厚い石壁で覆われており、まったく陽が射さないので今が昼なのか夜なのか判別できない。唯一の光は、廊下のところどころに立てかけてある、ひどく頼りないロウソクのともしびだけだった。

 通路と自分を遮る目の前には、栗の木で出来た身の厚い格子が組んであり、それらは薄暗い闇の中で、明度の低い燭台の照り返しを受け、ぬめりを帯びて見えた。

「牢屋なのか」

 蔵人は震える声で、誰となく訊ねた。妙な光に包まれたかと思えば、気づけばここにいた。狐につままれた、というが正しいか。一瞬だけ、いい思いをしたような気もする。気づけば、上半身は裸で、下だけは申し訳程度のモノを履かされている。

 無論、裸足である。だんだんと気分が落ち着いてくるうちに、差し込んでくる寒さに耐えられなくなりつつあった。

 いまは、十二月じゃねえのか?

 寒いとはいえ、冬の気温ではなかった。そうでなければ、凍死していてもおかしくないが、牢内はそこまで過酷な気温ではなかった。

 いままでの人生には確かに退屈しきっていたが、かといって、いきなり塀の中で名前を奪われ番号で呼ばれたかったわけでもない。大きく、クシャミをすると、人相の悪い顔つきの男が上着を投げて寄越した。日本人の常として、ペコリと頭を下げる。饐えた臭いのする上に、ツギハギだらけであちこち穴が空いているが、着ていないよりかはマシだった。

「春とはいえ、上がハダカじゃあな。着心地がいいとはいわねえが、幾分マシになっただろう」

「すまねえ。助かった。にしてもよ……」

 顔を見てギョッとした。なにしろ、日本語で話していると思った相手が、あきらかに白人なのだ。蔵人が、戸惑っていると、三十過ぎの男はまばらに生えた顎鬚をこじりながら、皮肉げに笑った。

「ンだよ。おれの顔になにかついてるのか」

「い、いや。随分と日本語が上手いなと」

「ニホンゴ、たぁなんだ? おまえの故郷の言葉か? おれは生まれも育ちもロムレスだぜ。ほかの国の言葉はわからん」

「んんん。まあ、いいか。とりあえず、なんでも通じれば。というか、なんで俺はここにいるんだ。ここは、もしかして牢屋ってやつなのかよ」

「おまえわかりきったこと聞くんじゃねーよ。バカか?」

 焦げ茶の髪の少年が快活にいい放った。ふた昔前の、洋画に出てきそうなそばかすを散らした、典型的なアメリカ人に酷似している。蔵人は、かつて見たスタンド・バイ・ミーという映画をなぜか思い出した。

「おい、マーサ。こいつは、しこたまかわいがられたみてぇだぜ。状況もわかってねぇらしいしあんまいじめるなや」

「べっつに、イジメてねえって」

「まあ、同じ同房ってよしみだ、兄ちゃん。ひとつ、ここは仲良くやろうや」

 焦げ茶の少年を三十男が促すと、部屋の隅にいた線の細い青年と、髭モジャの年齢不詳な男が近寄ってきた。名前もわからなければお互いやりにくいということで、蔵人たちは軽く自己紹介するために牢内で車座になった。

 茶色の髪をした男は、マーサといい鍛冶屋志望らしい。

 歳は十七でこの中では一番の年若だった。

 獄中だというのに暗さが微塵も感じられない。白い歯が闇の中で際立っていた。

 頬に傷がある男は、ゴロンゾと名乗った。

 歳は三十三で、本格派の盗賊らしい。

 なんでも本格派というのは、困った人からは盗まず、盗みに入った時は誰も傷つけず、一部は必ず社会の貧民に還元する、という鉄の掟があるらしい。

 だが、所詮は盗賊風情であり、内実はやはりドロドロとした綺麗なものではなかった。

 畜生働き、という行為がある。盗みに入って残らず家人を殺戮し、女は犯し尽くすという最低最悪のやり方をいう。このゴロンゾという男は、盗賊だてらに仲間の残虐行為をとがめて逆恨みを買い、身柄を官憲に売られたらしい。少しばかり、照れ混じりに述べるその顔は、生まれついての悪党とはとても見えなかった。すべてが中途半端である。どう考えても盗賊には向いていない人間だと思った。 

 線の細い青年はヤルミルと名乗り、自称革命家を名乗った。

 歳は二十六で黒縁の尖った眼鏡をかけている。信用金庫の行員をやさぐれさせたような感じだった。目元に知性と虚無的な雰囲気を漂わせている。ほっそりとしたマスクと切れ長の目は、比較的に女に好まれそうであり、蔵人は本能的に警戒感を覚えた。

「ジイさん、どうしたんだ。次はおまえだろ」

「いや、俺よりもあんたのことを聞きたい」

 ジイさんと呼ばれた年齢不詳の男は、胸もとまで伸びた白い髭をしごきながら、金壷眼をぎろりと光らせた。髭があると、存外男の歳はわかりにくくなるものである。彼の瞳や、髭から覗く肌の色艶は、若くはないものの、老人とは思えない張り艶を保っていた。粗末な囚人服から覗く節くれだった指先はまだ脂ぎった精力を感じさせ、誰が見ても彼を老人と呼ぶには早すぎると思わせるものがあった。

「なんだ、顔が近いぜ。俺は、志門蔵人ってもんだ」

「シモン・クランドか。シモンて名前は別に珍しくねえな」

 ゴロンゾが懐手にしたまま、訳知り顔にうなづく。

「いや、シモンは家名で……」

 蔵人が、ゴロンゾの思い違いを訂正しようとした、そのとき。

 ジイさんと呼ばれていた男は、突如として立ち上がると、蔵人の両肩をガッシリ掴むと、頭からつま先まで舐めるように視線を動かし、奇妙な吠え声を上げた。

「おい、ジイさん。どうした!」

「うおお、おいおい、どうしたどうした」

 マーサとゴロンゾが慌ててジイさんと呼ばれている男の肩を左右から揺さぶる。比較的沈着冷静に見えたヤルミルも目を大きく見開いていた。

「何年ぶりだ、同胞に会えるのは……!」

「同胞だって? だから、それはなんの話なんだよ、オイ! クソジジィ!!」

 マーサがジイさんの肩に抱きつくと、耳のそばで叫ぶ。甲高い反響音が、狭い房内にとびかった。

「だから、俺はジジィじゃねえ! クランドっていったか。まるで古臭い名前だな。昔の侍みてぇだ」

「侍だって? あんた、まさか」

「そう。そのまさかさ。俺の名は、古泉功太郎。歴とした日本人にして、この国は滞在三十年の大ベテランだ。ここで、おまえさんとこうして会えたのも、運命的なものを感じずにはいられないな。おそらくは、召喚された憐れなる生贄よ。ロムレス王国に、ようこそ」

 ジイさんと呼ばれていた年齢不詳の男は、今年で五十二歳になる日本人であった。

 古泉は、同じ日本人に会うのは三十年ぶりであり、異様なはしゃぎ方で、自分の来歴とこの国のアウトラインを大まかに語ってみせた。

 蔵人の脳で把握できたのは、以下の事柄である。古泉は日本で生まれ、日本で育った歴とした日本人であったが、大学四回生のある日、不思議な光に導かれるようにして、このロムレス王国に呼び出され、勇者としての称号を受け、国事に奔走することとなった。

 この西洋ヨーロッパに似た国は、かつて巨大なひとつの王国であったが、正当後継者である王家が力を失ったことによって、有力諸侯が反旗を翻し、全部で六つの領土に分割された。文化的には、ほぼヨーロッパにおける十五世紀ほどの文化を保ちつつ、地球とはところどころチグハグな乖離点が見受けられた。火薬や銃は発達しておらず、原始的な武器や馬が幅を利かせ、もっとも違った部分といえば、魔術の存在が上げられた。

 魔術。実に神秘的な響きである。

 とはいっても、魔術を使える人間は限られており、決して万能ではない。

 個人技としてはすぐれていても、それだけで大勢をひっくり返すほどの力は持ち得ていないとされるのが常識であった。

 追記しておけば、魔術は、地・水・火・風、の属性に大別でき、それらに含まれない、無を加えた五元素で構成されている。

 基本としては、ひとりの人間に与えられる属性は、ひとつのみであり、地属性の魔術適性がある人間は、火属性は行使できないといった具合である。

 ただし、この場合無属性は例外とされる。無属性の魔術は基本、補助的なものと考えられるのが一般的であった。

「待てよ、ジイさん。ってことは、勇者として召喚された俺にも、魔法が使えるってことなんか? こう、指先からくるくるって火を出して、気に入らないやつをブリの照り焼きみたいにしたり」

「えええっ! すげーっ! クランド、つぇえーっ!!」

 マーサが両手を振り回しながら無邪気に驚いている。切り捨てるように古泉がいった。

「使えるわけない。クランド、おまえのその胸の紋章を見ればわかる。その、刻印は、ひとつしかないからな」

 蔵人は、はだけていた胸元の紋章に視点を移した。うっすらと、かすかだが奇妙な文様が刻まれている。顔を上げる前に、古泉がいった。

「そいつは、不死の紋章イモータリティ・レッドといって、フィジカルに関する能力を極限にまで跳ね上げるものだ。俺が、かつて持っていたものは、知恵(タクティカル・ワン)といって、個人の知性能力を引き上げる紋章だった。それと、伝説に謳われる、魔力(マジョリカル・マナ)のみっつを併せ持った者が、真の伝説の勇者らしい。不死の紋章イモータリティ・レッドだけのおまえさんには、もちろん不可思議な魔術などは使えないし、そもそもが欠陥品なのさ」

「欠陥品……! マジかよ。いまから、俺のハリウッド映画並みの物語が始まるんじゃないのかよ」

「始まらない。牢番がいってた話によれば、クランドよ。おまえは、王族侮辱罪でどっちみち死刑らしいぜ。とんでもねー野郎だな」

「ちょっ、それは誤解だ! 俺はなんもやってない!! たぶん」

 蔵人は意識が薄れる直前に見た、半裸の美少女のことを思い出していた。確かに、誤解を招きかねないシチュエーションであったが、それは不可抗力というものである。

「待ってくれよ、古泉さん。あんた、確か先代の勇者だったんだろう。どうして、こんな檻の中にいるんだよ?」

「それは、まあ。いいじゃねえか」

「いや、よくねえよ。よくないからね、全然。あんたの話によって、これからの俺の身の振り方にも関わってくるからね」

「クランド。身の振り方も糞もねえだろうが。けけ、第一この房にいるのは基本終身刑かそれに準じる重罪犯だ。どうにもらねえっての。どっちにしろ、なにもかもが絶望的なのさ」

「クランドは絶望的なのかー」

 マーサはあまり理解していないのかゴロンゾに向かって首をかしげる。

「ま、真実がどうであろうが、こんなところにぶちこまれた時点でついてなかったことには変わりはないだろうな」

「僕の記憶によると、王族に対する侵害及び不敬はもれなく死罪あるいは終身刑ですね」

 ヤルミルは参考までに、とつぶやくと人差し指で眼鏡の中央部の位置を直した。

「オイオイ、おめーさんだって終身刑だろーがよ」

 ゴロンゾがさもおかしそうに笑いを咬み殺す。

 ヤルミルは下唇を軽く突き出すと鼻を鳴らして、ギロリとゴロンゾを睨みつけた。

「おい、やっべーぜ、クランド。おまえ殺されちまうぞ!」

 マーサは血相を変えて蔵人の両肩に手をかけて揺する。

 もっとも、蔵人はゆとり教育のたまものか、あくまで余裕を崩さなかった。

「おいおいおい、そんな簡単に死刑が執行されるわけがねーだろ」

「簡単に、ね」

 ヤルミルが心底あきれ果てたかのようにため息をつく。蔵人は少し不安になった。

「ところで、マーサだっけっか、お前はなにやったんだよ。どう見ても、こんなところに放り込まれるタイプじゃないだろ」

「うん? 俺か。俺はなぁ」

「待てよ、クランド。こいつに込み入った話は無理だぜ。代わりに俺が、説明してやろう」

 ゴロンゾはマーサを押しのけて前に出ると、髭をいじりながら話しだした。

「そう、クランドの疑問のとおり、マーサは好んで重罪犯になるタマじゃねえ。ま、よくある話で、山出しの田舎モンが一旗揚げようと都に出てきた直後、街中で女に絡んでたタチの悪い男たちを五人まとめて半殺しにしちまったんだ。いや、若者は怖いね、手加減てもんを知らなくて。ところが、半殺しにした相手が悪かった。王都でも名うての不良貴族のおぼっちゃん。んで、オヤジが公爵と来たらもう話のオチは決まったようなもんだ。金にあかせて女を口止めし、法律院の判事も丸めこみ、事件そのものを根底から書き換えやがった。マーサのやつは一方的に悪者にされちまったってわけだ。白昼堂々貴族の子弟に乱暴をはたらいた暴漢。実にやつらにゃ都合のいい話のおさまり具合だ。俺自身はこういうま正直な馬鹿嫌いじゃないが、世間では受け入れにくかろうが」

「俺は悪い奴から女を助けただけだ!」

「あーらあら。相変わらず、たいした話題もないのに、でなにをぺちゃくちゃさえずってんのかしら、アタシの小鳥ちゃんたちはァ」

 ヒキガエルを磨りつぶしたときに上げる断末魔にも似た耳障りな声が、重低音で蔵人たちの腹を打った。房の男たちがいっせいに下を向く。蔵人は不審に思い、声の方向に顔を向けると怯え切った古泉の声と共に、袖を引かれた。

「目を合わせるんじゃない。死ぬぞ」

 それは、ある意味人類の遺伝子プール外の男だった。

 背丈は二メートルをはるかに超えており、飛び跳ねれば廊下の天井に頭が届きそうなほどの巨体だった。龍を模した銀造りの兜から、肩の辺りまで伸ばした金髪が波打っている。

 両の胸筋は鍛えに鍛え抜いたのだろうか、巨岩のように雄々しかった。毛むくじゃらの体毛が繁茂した素肌に胸当てを付けている。上腕の太さは女性の腰くらいの太さはある。

 つり上がった瞳に、頬桁の張った顔。

 申し訳程度の口髭を長い舌でペロペロ撫で付けている。見るからに卑猥だった。

 王室獄卒長カマロヴィチはこの牢獄における神だった。

「あら、新入りちゃんじゃないの。あの傷じゃ朝までもたないと思ったのに。これは久々に楽しめそうじゃないの。あたしは、カマロヴィチ。このロムレス第一監獄の責任者ってことになってるのよん。以後よろしくねん」

「ターゲットロックオン」

 カマロヴィチの傍らに控える、やけに色白で小太りの獄卒らしき男が卑屈そうにつぶやく。男の目はあきらかに蔵人に対して敵意を孕んでいた。

「あーらあら、モリーノ。どうして、そんな目してるのん。もしかして、嫉妬かしらん」

 カマロヴィチはシナを作って自分の舌をぬめぬめと軟体動物のように動かす。

 果てしなく気分の悪い光景だった。

「だって、カマロヴィチさま。そいつを、お気に入りにしようとしてる」

 モリーノと呼ばれた小太りの獄卒は、すねたように顎をしゃくると、そっと蔵人に向けて指を突き出す。指先にまで濃い毛がわさわさとくるまっていて、まるでチンパンジーに嘲られているようで不快だった。

「ん、もー。モリーノはやきもち屋さんなんだからん。しょうがないわねえ、いまここでもう一度かわいがってあげるん」

 カマロヴィチの顔がモリーノの脂ぎった顔に近づく。

 まさか、いや、まさかだよな。

 蔵人は神に深く祈った。

「みんな、できるだけ耐えろよ。もう、ゲロ掃除はいやだ」

 古泉の絶望しきった声。

 神は死んだ。

 嘘だろお! やめてくれよ、マジで!

「ん、モリーノ。相変わらずここだけは暴れん坊なんだからあん」

「カマロヴィチさまぁ」

 中年ふたりの聞くに堪えない睦言が耳から侵入してくる。

 蔵人は、強く目蓋を閉じるが、すぐ傍で粘性の高い液体音と不気味なうめき声が消え去ることはなかった。

「あああ、カマロヴィチさまぁ、うまい。うますぎですぅ」

「モリーノ。あたしの、モリーノたくましいわあん」

 暑苦しい中年男ふたりが、抱き合いながらディープキスをかわしている。

 蔵人は、いまこの瞬間が神から課せられた試練のひとつだと確かに感じていた。

 自分の両手のひらを全力で両耳に押し付け、聴覚を遮断する。

 目を開けたら間違いなく死ぬと確信した。

「おぼえええっ」

「あ、コラ! マーサまたテメェ吐きやがって。……うぼろえっ」

「ゴローンゾ! お前だってもらいゲロを、ちょっ、待て見せるな僕は、そんなの、ぼえええっ!!」

 マーサ、ゴロンゾ、ヤルミルの順番で嘔吐の連鎖が始まった。

 古泉も壁に頭をついて、えづいているが、もうろくに胃の中にモノが入っていないのか、うす黄色い胃液しか出ていなかった。

「カマロヴィチさまあああん!!」

 モリーノの絶叫。

 蔵人が、嘔吐に耐え目尻から涙を垂らしていると、カマロヴィチがひと仕事終えたように口元を拭っていた。

 カマロヴィチの目には、どうだとばかりの理解しがたい優越感が漂っていた。途方もない無力感に苛まれる。自然に膝が崩れ、ひざまづく格好になった。

 蔵人は両目を見開き、口元を手で抑えると、脳内のメモリを無理やりスロットから抜き出し、記憶のスイッチを切った。

 ふたりは満足したのだろう。

 手をつないでスキップしながら、房の前からゆっくりと遠ざかっていく後ろ姿が見えた。

「嫌がらせだ! あいつら、メシどきになると必ず牢内の中を、順繰りに見せつけるようにして乳繰り合うんだ! ふざけんな!」

 ゴロンゾは泣きが入った声で叫んだ。

「しかし僕の確率論からいえば、今回は隣のはずだったのに」

 呆然とした口調でヤルミルは眼鏡を取ると、ボロボロになった手ぬぐいで拭きだす。

 瞳は精気を失っていた。

「おぼえええええっ、えぐっ」

「おい、大変だ。マーサがゲロをのどに詰まらせた!」

 古泉が、びくびくと打ち上げられた魚のように仰向けになっていたマーサを指差す。

 ゴロンゾが頭を抱えて頭髪を掻きむしった。

「マジかよおおおっ、んもおおおっ。おい、クランド、そこの木の枝取ってくれ、俺が掻き出す」

「おい、こんなデカイので大丈夫なのか」

「やんなきゃどうせ死ぬんだ! やってもあんま変わんないかもしれないがよ」






 ゴロンゾの必死の救助活動で、マーサは一命を取り留めた。

 だからといって、この先どうなるわけでもないが。

 蔵人が暗い顔でジッと虚空を見つめていると、近くの房が激しくざわつき始めた。

「夕メシだ。ここには、朝と夜の二食しかねぇ。しっかり食っとけよ」

 ゴロンゾは大儀そうに身体をボロ毛布から起こすと、大あくびを漏らした。

「牢内では、食物くらいしか楽しみはないですからね。はぁ」

 ヤルミルは、まるっきり楽しくなさそうにため息をついた。

「なんだよ、その割にはまるでよろこんでるようには見えないんだが」

「あのなー。ここのメシはクソまずいんだよなー」

「あ、ネタバレすんじゃね。マーサ、くのくのっ」

 ゴロンゾがマーサを捕まえると、頭を拳でたたき出す。年の離れた兄弟のように、ふたりは仲がよいのだ。蔵人が格子の前で佇んでいると、周囲の房からの声はドンドン大きくなっていく。どうやら、ただ単に食欲だけの興奮ではないらしい。それは、配膳用の台車を押してくる小さな影に向けられていた。

「なんだ、なんだ。マズイって割には、すっげぇ人気じゃねえか」

「ああ、それはマゴットですよ」

 ヤルミルがつまらなそうに、囚人へと食事を配っている給仕係に向かって顎をしゃくる。

「マゴットってのはな、ここで唯一の女奴隷なんだ。もっとも、いっつも仮面で顔を隠しているから、どんなツラかはわからねぇがな」

 ゴロンゾは鼻毛を抜くと、フッと息を吹きかけ壁に植える作業に没頭している。マーサは女自体にあまり興味がないのか、飢えた野良犬のように目を光らせて、食物の入った巨大な鍋を注視していた。

「ここは女っ気が皆無だからな。どんな、女でもその名残くらいには触れてみたいんだろうよ」

「だから、囚人どもはバカ騒ぎするのか」

「穴ボコが空いてりゃ、なんでもいいんだろうよ。けけ」

「あんた、女は卒業したのか」

「あん? 俺か、俺はだな。糖尿だ。女よりも、コッチの方がありがてぇな」

「女より酒か」

 ゴロンゾはクイとコップを傾ける真似をして、寂しそうに笑った。

 格子越しに見える奴隷は厚いローブで身を包み、妙な面をかぶっていた。

 年齢も顔つきもまるでわからない。

 けれども、椀を差し出す際にチラリと見えた手首の細さは確かに女のものだ。

 マゴットは小柄な身体を精一杯使い、重い配膳台の車を軋ませて近づいてくる。

 やがて、順番が回ってきたのか目の前で止まった。

 新入りである蔵人は気を利かせて皆の分を受け取ろうと、小窓の前に立った。

「すまねえな」

 蔵人が声をかける。

 マゴットは電流に打たれたようにその場に棒立ちになった。

 大きな音を立てて、彼女の手にしていた椀がひっくり返る。

 吐瀉物のような色をしたうすい粥が辺りに散らばった。

「うっわ。なんだぁ、どうした。ケガねえか!?」

 蔵人の問いかけには応えようとはせず、マゴットはしばらくその場に立ちすくむと、いきなり配膳台を置いたままその場を駆け出していった。牢内にざわめきが走った。

「おいおい、いったいどうしたんだよお」

「いや、わからねえよ。なにがあったんだ?」

 ゴロンゾの問いには、蔵人はまるで返すことができず、マゴットの走り去った背を呆然と見つめ続けるだけだった。しばらく経つと、代わりの人間が配給を行なった。蔵人は狐につままれたような気分でその場にあぐらをかいた。狭い房の中で、男五人が顔を寄せ合う。ひたすらむさくるしいが我慢するしか他はなかった。

「クランド、無理してでも食え。ここは日本とは違う。なんでもいいから、とにかく腹に入れとかなきゃもたねぇ」

 古泉が、古びた木の匙を持ち上げ憂鬱そうにいった。牢内は、先ほどの騒ぎが無かったかのように静まり、各自配給された食事をあちこちですする音が聞こえだした。

 蔵人は配られた、茶色のかゆのようなものをじっと眺めながら眉をしかめた。

 鼻先を近づけて匂いを嗅ぐ。

 古雑巾を煮しめたような不潔極まりない香りが漂っている。ゴロンゾたちが眉間にしわを寄せて啜りこんでいるところを見ると、たぶん食して害のないものなのだろう。

「おい、食えんのかよ、これ」

「食えんのかよって、食ってるだろ。馬鹿だなー、クランドは」

 マーサは先ほど死にかけていたことも忘れたかのように、碗の中身を飲み干しながら快活に笑った。

「クランドも自分の吐瀉物で死にかけた男にバカとはいわれたくないと思いますよ」

「目をつぶっていっきにかきこめ。食を楽しもうとするな。それが生き延びる秘訣だ」

 ゴロンゾの瞳は哀愁に満ちていた。

 蔵人は、サジで汚物にも似た椀の中身を弄び、それから意を決したかのようにひとさじすくって口に含む。履き古した靴下のような異臭が口いっぱいに広がり、涙目になった。

「おえええ」 

「おい、男だろ。我慢しやがれ」

「クランド、これは試練です」

「つくづく思うよ。あの国がどれだけ豊かだったかってことが」

 古泉はつまらなさそうに椀の中身を残らず飲み干すと、鼻にシワを寄せた。

「おーい、食えそうもないなら俺が食ってやってもいいぞー、クソマズイけどな」

 皆の励ましに支えられながら、一気に碗の中身を掻きこむ。

 一同から拍手が自然と沸き起こり、そこはかとない一体感が生まれた。 

「なあ、古泉さん、そういやさっき話の腰をへし折られたけどよ。なんか、途中だったよな。聞かせてくれよ。結局あんたが、なんでここにいるのかとか」

「どうしてもその話に固執するかね。仕方ねえな。長くなるがいいか。ここにいる奴らにも話したことがないからな」

 古泉は遠い目をすると一同の顔を見渡す。皆の目に好奇の色が宿った。

「おい、前置きはいーからさっさと話せや、ジイさん」

「暇つぶしにはなりますかね」

「そうか、みんなも聞きたいか、俺の過去を」

 一同、浸ってんじゃねーよカスが。

 と軽くむかっ腹を立てながらも、あえて罵倒はしなかった。

 牢内は暇なのだ。

「さっさとしろよ、つまんなかったら寝るからなー」

 古泉は、ニヒルに笑うと壁に背をもたれかけさせ、視点を中に彷徨わせた。

 白い髭に埋もれた唇が、カサカサと乾いた音を立てて動き出した。








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[気になる点] 「クランド。身の振り方も糞もねえだろうが。けけ、第一この房にいるのは基本終身刑かそれに準じる重罪犯だ。どうにもらねえっての。 どうにもならねえっての? [一言] うわぁ、そういやこん…
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