Lv19「月明かりに涙は砕けた」
墨を塗りつけたような闇の中、ぽっかりと切り抜いたように一部分が赤く光っている。
蔵人は物置小屋から目を離すと、リネットとルシルに目配せをした。
シズカから奪った真っ黒な外套を着けている。闇に身を隠すにはちょうど良かった。
足音を立てずに畑を迂回して母屋にたどり着くと、子どもたちが寝起きをする部屋の入口に立った。
ルシルの身振りからすると、捕らえられた子供たちはここに集められているらしい。
ほとんど手入れのされない板塀の所々には穴が空き、中の光がわずかに漏れていた。
中の音を聞こうとして耳を寄せた。
声高に話す男の声が聞こえたと思うと、甲高い叫び声が上がった。
リネットが止める前にルシルが入口から飛び込む。
「なんだ、てめえは!」
怒号が走る。男は血刀を下げていた。誰かが倒れている。
リネットが顔を覆って鳴き声を上げた。
血塗れになった少女はうつ伏せのまま動かない。
ルシルは瞳を大きく見開いたまま凍りついたように静止した。
それは子供たちの怯え切った塊の輪から外れて、小さなボロ切れのように見えた。
蔵人の目の奥が白く明滅する。
「このガキどもが騒ぎすぎるからいけねえのよ!」
若い男だった。自分自身の行為に怯えたように青ざめている。
彼は、切り捨てたエルメントラウトから離れるように後ずさると、いきり立ったように壁を拳で突いた。火がついたように子どもたちが泣き出す。
蔵人は、表情を消したままエルメントラウトの枕元に片膝を突き、乱れた髪を手ぐしで整え、裾を直してやった。
少女は自分の膝に座り幾度も抱っこをせがんだ。髪に顔を埋めるとミルクのような匂いがして、自分がしあわせだった頃の記憶を何度も思い出した。脇に手を入れて高く持ち上げると、最初は恥ずかしがったが、花のようにかわいらしい笑顔を見せた。足元にまとわりつく子犬のようで見ているだけで頬がゆるんだ。いつか白馬に乗った父が迎えに来るとうっとりした顔で夢を語っていた。
「クランドさん」
遠くでリネットの声が聞こえた。
一瞬で何もかもが色あせたのだ。
まだ、あたたかいエルメントラウトの身体をきつく抱きしめる。
すべてが終わってしまった。
輝かしい日々も。そしてこれからあったはずの明日も。
蔵人は座り込んだまま、背後の男に訊ねた。
「おまえは罪もねえ子供を斬ってなにも感じねえのか」
「罪がねえってのは知らねえが、運がなかったのは確かだな。そもそも、こいつらがハーフエルフだってのが一番の間違いよ。薄汚ねぇ混じりもんなんざ、遅かれ早かれこうなる運命なのさ。こいつらを切り刻もうが、叩き売ろうがどこからも苦情は出ねえんだ。ほっときゃ飢えて死ぬだけの間の子を銭に変えてなにがいけねえ!!」
蔵人は、少女を下ろすと大きく息を一度吐き出し、それから腰の剣に手をかけた。
「それが理由か」
「なんだ、なんだよ。やるってんだな! こっちにゃ十人以上の仲間が控えてるんだ!」
「いまはおまえしかいねえじゃねえか」
男は言葉にならない絶叫を響かせ剣を抜いた。
蔵人は無言のまま手首を返すと水平に刃を寝かせ迎え撃つ。
硬い金属音と共に男の剣が弾かれた。
男が泳ぐように背を向けて逃げ出した。
蔵人は剣を両手で握り締めて突き出し、深々と男の背中へ埋め込んだ。
低いうめきを漏らすと、男は黒々とした血を撒いて夜露の染みた大地に伏した。
頭上から差し込む月の光が、男の最期を照らし出す。かぶっていた頭巾が外れた。
人間よりは長く、エルフよりはやや短い特徴的なそれは、このひと月よく見慣れたハーフエルフのものだった。
夜空を流れる黒雲が月をたちまち覆い隠した。
蔵人は畑の畝を縫って走る。わずかに過ごした日々の思い出が流れて消えていく。
脳裏を様々な思いが交錯し、最終的に純化した怒りへと収斂された。
蔵人はここまで怒ったのは生まれて初めてだろう。
人を斬る罪悪感も、痛みに対する恐怖も、なにひとつ感じなかった。
物置小屋にたどり着くと、思い切り拳を固めて叩いた。
「おい、まだ交代にゃ早いぜ」
不用意に顔を出した男の喉笛に刃先を深々と埋め込む。
生暖かい血が顔に降りかかった。
蔵人が絶命した男の身体ごと戸を蹴破る。
室内には裸に剥かれたドロテアと、その長い両足を持ったままのオーク戦士アロルドの姿が目に入った。
「おまえはいったい誰なんでえ!」
下穿きを半ば下ろし、ドロテアの胸に顔を埋めていたベルナルドが振り返って叫ぶ。
あと十人。
蔵人は室内を見回してつぶやいた。
その抑揚のない声に、男たちは慌てて得物を探しはじめた。
「俺が誰なんてどうでもいいことだろうよ」
――なにがどうあったって、この夜はひとりも越えさせやしねえんだ。
予備動作なしに蔵人が跳躍した。
黒い外套が蝙蝠のように羽を広げた。
「おぶえるっ!!」
剣が半回転して、よけ損なった男の腹を深々と斜めに断ち割った。
湯気の出そうな赤々とした血が床板を叩いた。
蔵人は、足元のランプを持ち上げると膝立ちのまま呆然としていたアロルドの顔面に叩きつけた。油が飛散しアロルドの顔から上半身は一気に燃え上がった。怒張を突き出したまま仰向けに倒れる。火を消そうと亜人特有の太い指で顔面を掻きむしるが、油が飛び散りますます燃え広がった。
酒瓶と盃が蹴倒されあたりに火が燃え広がった。
怒号が飛び交い混乱が猖獗を極めた。
蔵人はアロルドの胸に片足を掛けると垂直に剣を突き立てた。
野太い絶叫が耳を聾す。
ひねるように剣を回転させる。臓器を刀身が猛獣のようにまとめて喰いちぎった。
アロルドは身をそり返らせ苦悶した。宙を掻く指が刀身を掴む。躊躇なく剣を抜き取ると、節くれだった指はまとめて切断され辺りに舞った。
裸のまま剣を抱えた三人が押し包むように囲んだ。
蔵人は床目掛けて飛び込むと飲みかけの酒瓶をひっつかみ天井目掛けて放り投げた。
砕けた破片が雨のように降り注ぐ。男たちはいっせいに顔をそむけた。
「野郎!」
「汚ねぇぞ! 畜生!」
目をつぶったまま剣を振り回していた男たちはお互いを浅く斬り合うと、悲鳴を上げて飛び退った。
「馬鹿野郎、相手はたったひとりだ! まとめてかかれ!」
ベルナルドの指示でそれぞれの動きに連携が取り戻される。
「おおう!」
「いくぜええ!」
目の前の男たちが殺到する。不意をつくならまだしも、八人の男を同時に戦うことは出来ない。男たちから飛び退いて距離を取った。
蔵人は隅に積み上げられた小麦袋を振り回すと中身を撒いた。視界を白い靄が覆う。目の前の男の胸を蹴りつけ、飛び込んでくる刃をしゃがんでかわした。
両腕を投げ出し仰向けになった女の裸体が目に入った。咄嗟にドロテアを腰抱きにした。意識が朦朧としているのか、脱力しきった人形のようだった。
隙をついて小屋を飛び出した。
燃え上がる小屋の中から次々と人影が飛び出してくる。
歓声と喚き声があたりを包んだ。
段々畑の傾斜を駆け下りながら、一番近くの小川に向かって走った。
途中、畑の畝にドロテアを放り込む。女を抱えて勝負は出来ない。
男たちの注意を引きつけるように剣を高くかかげて叫んだ。
水の匂いが鼻を突く。闇は深いが、感覚で理解した。
ぬかるんだ丈の長い草むらに飛び込む。
芦の群生地帯だ。
足首に巻きつく泥は冷たかった。
放たれた火で即席の松明を作ったのだろう、いくつもの灯が列をなして素早く移動するのが視界のはしにチラつく。芦の背にかがみこんで剣を斜めに構え、近づく光を待った。
水をかき分ける足音が近づいた。松明をかかげた男と目が合った。
蔵人は、斜め上方に剣先を滑らすと、男の脇腹から胸元まで深々と抉った。絶叫が流れた。水面を打つ音に気づいた光が集まってきた。
一番最初に追いついた男が剣を上段に振り上げ飛び込んできた。蔵人は打ち合うことはせず、身をそらしてかわすと足場を確認した。
今日まで無為に過ごしていたわけではない。もしものときのために、里の周辺の地形を隅から隅まで頭の中に叩き込んでおいたのだ。
追われる振りをしながら、敵を誘い込む。
沼地のもっとも深い場所を迂回すると、最短で距離を詰めようと直進してきた三人が腰まで深みにはまり身動きが取れなくなった。
蔵人は、足首程度で深みがとまる立ち位置を利用して剣を振るった。手首を切り落とされた男が女のような鳴き声を上げた。手にしていた松明代わりの木切れが、じゅっと音を立て泥土の海に消えた。男は逃げようと身をよじる。逆手に持った剣を、反転した男の背中へ深々と突き立てた。刃は深く皮と肉を切り裂き、真っ赤な飛沫を泡立たせた。
「後生だ! 降参する! もうやめてくれよう!」
剣を捨てて命乞いする男の喉元に剣を叩き込む。赤黒い鮮血が舞って、隣で呆然としている男の頬を濡らした。
「ひいいいっ、許してぇ! お願いだぁあ!!」
蔵人は足首まで浸かった泥を跳ね除けながら跳躍した。死神のように黒い外套を羽ばたかせ、剣を振るって男の顔面を真っ二つに叩き斬った。赤い柘榴のような切断面が揺れ、ゆっくりと泥の中に沈んだ。
息を整えようとしたとき、肩から背中へ熱湯を掛けたような衝撃を覚えた。振り返ると、蔵人の背中を割った男の剣がまっすぐ顔へと迫っていた。
泥土の中に飛び込みかわした。痛みで息が詰まる。
蔵人は立ち上がろうと手を突くが、手応えのない土を掻いて顔面から泥にもぐった。
薪を割るように上段から刃風が落ちてくる。興奮した男は盲滅法に得物を振り下ろすが何度も泥を叩くことに終始した。
蔵人は、泥の海を泳ぎながら身をそらし、片手撃ちで男の脇腹を深々と刺した。絶命した男が痙攣をはじめ、身を刀身にもたせかけた。鈍い音ともに刀身が半ばから折れた。
蔵人は舌打ちをすると、男の腰を蹴りつけ泥に沈める。それから男たちが使っていた剣を闇の中から拾い出し、歩き出した。
全身の筋肉が疲労と激痛で悲鳴を上げている。頭の中で傷口が塞がるイメージを構築する。蔵人の胸元にある不死の紋章が淡く輝くと、みるみるうちに血が凝固した。
残った力を振り絞りながら芦原を泳ぎきると、目前に槍を構えた男が駆け寄ってきた。
剣と槍ではリーチが違いすぎる。蔵人は即座に勝負にならないと判断し、撃ち合いを避け逆方向に駆け出した。
心臓の鼓動が頭の中を蠕動し、周囲の音が消えていく。
キーンと甲高い反響音の中、世界が静止した感覚がすべてを支配した。
背を向けたまま、坂の斜面を駆け上っていく。痛みはもうない。
後方の男が構えた槍を突き出してきた。
一撃、左肩を割られ、血潮が舞った。
二擊、脇腹を刺された。激痛で視界がたわんだ。
男の槍術はかなりの腕前だ。
柄の中程を持ち直し、トドメを刺そうと突き出してくる穂先が唸りを上げた。
蔵人は、真正面に向き直ると剣を片手上段に構えた。全身の痛みは消えない。怪我の頻繁さに回復力が追いつかないのだ。
上半身をずらし腰に回転を加える。
肩の外套を旋回させた。
穂先を紙一重でかわすと、ケラ首に外套をぴったりと巻き付けた。
男が槍を引き戻そうと満身に力を込める。
だが、泥土と水をたっぷり吸って濡れた衣は抜群の吸着力でぴくりともしない。
蔵人は、一瞬だけ力を込めてから、左手で外套を肩から引き剥がした。手応えを失った男がバランスを崩し、槍に外套を巻き取ったまま身をそりかえした。
蔵人は剣を握った両手を突き出すように坂の上から身を躍らせた。白刃が水平に弧を描く。男は両膝を斬られて倒れると、坂の下まで転がり落ちた。
蔵人は、傾斜の途中で、手を突き立ち上がる。
眼下には、大の字になって呻く男の姿が見えた。坂を転がるようにして走る。
蔵人は仰向けになった男の胸元へ剣を叩き込むと大地ごと縫いつけた。
剣を引き抜くと頭上を眺める。
黒雲が晴れ、眩しいほどの月光がきらめいていた。
「宴はどうやら終わりのようだぜ」
蔵人の声に弾かれるようにして、ベルナルドが坂の上から身を乗り出した。
頬のこけた顔はもはや蒼白だった。なにかを待つかのようにあたりを落ち着き無く見回している。遠くの草むらから、男の身体が飛び出した。
「ゴメス! さっさとやっちまわねえか! どうした!」
ゴメスと呼ばれた男は横倒しに背中を見せたままピクリともしない。蔵人が明るい月の光に目を凝らしていると、小さな人影がゴメスのそばにゆっくりとあらわれた。
黒ずくめの影が持つ曲刀が、白い光を反射して輝く。磨かれた刃の先が赤く染まっているのが、かなり離れた距離でもわかった。シズカである。
彼女が曲刀でゴメスを転がすと死相があらわになった。硬直した男の腕から弓矢が離れて落ちる。ベルナルドの喉がひゅうっと息を吸い込むのが聞こえた。
「助けてくれたのか」
シズカは無言のまま背を向けると、指を天にかざし、それから振り下ろした。
借りは返したってことかよ。
彼女は掴んでいたつつみを抱えると、蔵人に放って見せた。小石の多い地面を転がりながら、袋の中身が飛び出した。オークのダニオの首である。彼女は、あのあと傷ついた身の上できちんと障害を抜かりなく処理していたのだ。その酷薄さに慄然とした。
シズカの背中が闇に飲み込まれていく。溶けていく孤影を見ながら、蔵人はもうこの里にいられないことを確実に悟った。
「どうしてここまでキレてんだ。おまえはあのエルフたちのなんだってんだ!」
「おまえにわかりゃしねえよ」
剣を構えたままにじり寄る。
ベルナルドはひっ、と息を呑むと怯えながらあとずさった。
「なんでだよ畜生。簡単な仕事だったはずだ。どうして、こんな、どうして、こんなああああ!」
泣き声と絶叫を迸らせながら、ベルナルドが斜面を駆け下りた。
蔵人は、身体を半身に開くと斬撃をかわして剣を水平に振るった。
銀線が激しく交錯した。
「こんな、まさか」
脇腹を深々と断ち割られたベルナルドは、血潮と共に滑り出る腸を見ながらその場に両膝を突いて座り込んだ。瞳がぐるんと反転し、白目が露わになる。夜の冷気が音を立てて吹きすさぶと、ベルナルドは煽られたように大地へ両腕を投げ出して絶命した。
蔵人は抜身のままの剣を担ぐとゆっくり屋敷の方向へ戻っていった。
「待て、どこにいくんじゃ」
ドロテアの動揺した声。
蔵人は荷物をひと纏めにすると足拵えをし、無言で立ち上がった。
「いままでに世話になったな」
「ちょっと待ちぃ。また、冗談だろ。わらわたちは上手くやってきたじゃろおが。もしかして、もしかしてわらわが穢されたと思うておるのかぁ。だからかぁ、のう」
ドロテアの瞳に涙が滲む。端正なくちびるが悲しみでわなないた。
蔵人の瞳が女の姿をとらえた。傍らにはリネットとルシルが呆然としたまま立ちすくんでいる。なにもかもが現実ではない。彼女たちは世界を直視することをもはや否定していた。この里に居続けることは可能だが、それはさらなる不幸を呼び込むだけであろう。
シズカという存在。そしてそれを差し向けた黒幕。
彼女という刺客がいる限り、蔵人は狙われ続けるだろう。あの凄腕を奇跡的に倒したとしても、それで終わりとはとうてい思えなかった。
すなわち、それは誰かが傷つく可能性を秘めている。
いまの蔵人にはたったひとりで子供たちを必ず守りきる度胸も自信もなかった。
蔵人にとってそれは容認できるものではない。
自分の弱さに向き合うことは、つらく悲しかった。
「別口だよ。それに俺は処女厨じゃねーしな。しめっぽいのはきれぇなんだ」
「じゃ、じゃあ! いいではないか、追っ手はもうどこにもおらんし、その、おまえが居ればみんな喜ぶしのう。そう、わらわも」
「最後のは聞かなかったことにしとくわ」
惜しいけどな。自嘲がこぼれた。
「まだ、エルの弔いもだしておらんのに」
「薄情だと思ってくれてかまわねえ」
「でも、でも」
ドロテアは子ども返りをしたように引きとめる理由を探した。蔵人がさっと背を向ける。そこには無言の拒絶があった。
「待って、ならばわらわも」
蔵人は無言でドロテアの背後を指差す。そこには、夜風に身をすくませながら寂しげに身を寄せ合う子どもたちの姿があった。振り返ったドロテアは、力を失ったようにその場に座り込み、顔を上げて恨めしそうに月を睨んだまま無言で涙を流した。嗚咽を噛み殺している。白い頬に流れる涙が、雫になって闇に飲み込まれた。
「クランドさん、どこかゆくあてはあるんですか」
リネットがかすれた声で問いかける。
蔵人は無言で首を振ると、空を流れる黒雲を仰いだ。
所詮、この世界の人間ではなく、常に命を狙われるような男に安住の地はないのだ。
心の中でつぶやいた。甘ったれんじゃねえぜ、蔵人。おまえは、何があっても約束を果たさなきゃならねぇんだ。
あの王女を恨んでも、元の日本に戻りたいと思ってもかなわなかった。
そもそも、今日という日をかならず越せるかどうかなど誰にもわからないのだ。何十人という命を守る方法があるとするならば、少なくとも自分はここにいてはいけない。
冷徹な暗殺者の影を思い出す。
日本なら女子高生くらいの少女すら暗殺者に仕立て上げるこの世界は狂っている。
少なくとも、日本の倫理や常識は通用しない。
危機を遠ざけるためには、離れるくらいしか今のところ方法が思い浮かばなかった。
踏みとどまって戦う。選択肢のひとつだろう。ドロテアの力があれば、それは可能だ。だが、あの暗殺者をひとり斃したところですべてが終わるとは思えない。
いまなら、まだ肩の荷の比重は軽い。
捨て去るならいましかない。
例え自分は死ななくとも、もう子供たちが傷つくのを見るのはたくさんだった。
いいや、そうではない。それは嘘だ。要するに、自分は弱いから逃げるだけなのだ。
そんな簡単なことも認められない自分にほとほと愛想が尽きた。
「ルシル!」
ドロテアの声。少女は白い顔を硬直させたまま蔵人に駆け寄った。リネットが遮るように抱きとめた。ルシルはいやがって両手を振り回し唸りはじめる。それは獣が親を追いかけるような悲痛さがあった。
「もう、ダメなのよ。クランドさんは、遠いところにゆかれるから」
「うーっ」
「ダメだったら、もう。困らせないでっ」
蔵人は踵を返すと剣を腰に下げ、荷物を入れたズタ袋をかつぎあげた。
峠路を目指して歩き出す。
ルシルは、リネットの手を振り切ると蔵人の真後ろまで走り、白い喉を震わせた。小さな瞳は大きく開かれ、小さな赤い下が懸命にうごめく。
蔵人の背中がみるみる遠ざかっていく。ルシルは両足を大きく広げて踏ん張ると、孤影を引き戻そうとするように両手を突き出して虚空を掴んだ。
「く……らん、ど……っ!」
「そんな、ルシルが」
リネットはふらふらと歩み寄ると呆然と言葉を発する少女の背中を眺めていた。
「くら、……っんどっ! くらんど!!」
「しゃべった。ルシルが、言葉を」
ドロテアのくちびるが重たげに動いた。
リネットに続いてルシルに歩み寄る。子どもたちの一団も無言のまま、後に続いた。
「ルシル」
ドロテアがルシルの顔を覗き込むと、少女は涙で顔をグシャグシャに濡らしながら、無理やり笑っていた。瞳が潤み、キラキラと月の光を受け金色に輝いていた。寂しげな口元はゆがみながら静かに震えていた。
「わらわないと。そうじゃないと、くらんど、かなしい、から」
ドロテアは、涙をこらえながら手を振る小さな身体を抱きしめた。彼女を囲む子供たちの輪がぎゅっと小さくなりひとつになる。
淡い銀色の光が、いつまでも彼女たちを照らしていた。
流れ雲が疾駆する馬のように急速に流れていく。
蔵人は山を降りるため、足早に峠路を進んでいく。うっそうとした森には生き物の気配もなく、世界のすべてが死に絶えたように感じられた。
足元に青白い月光が降り注ぎ道を照らし出す。時折、梢を渡る風がなんとも寂しげだった。降りだしてまもなく、蔵人は屏風のように切り立った崖の路で足をとめた。
「こそこそ人をつけ回すのはやめてもらいてえんだけどな」
「あんた、気づいてたのか」
背後から頼りなげな優男が顔を出した。ドロテアの元婚約者で、奴隷商人の追っ手を引き入れたラルフというエルフ族の男だ。
「あんた、ドロテアとどういう関係だったんだ。まあ、これからあの里から出て行くっていうんなら僕には関係なけどな」
「どうするつもりだ」
「どうするって、あんな風にジョシュヤ商会の傭兵たちを皆殺しにして僕だってただじゃすまないよ! 受け取った前金だって、とうに使い果たしてるし、ホラ。へへ、あんたならわかるだろ」
ラルフが下卑た顔で笑う。端正な顔立ちの男がそうすると、人並み以上に卑屈に見えた。
「ドロテアは、いい具合だったろ。なに、あいつは処女だなんだっていってたって、男をひとところに、長い間咥えこんでなにもないっていうのがおかしな話だ。……相手があんたひとりきりってなら、それほどあいつも使い込まれてないだろうし、まだまだ楽しめると思ってよ。いや、そうじゃない。君が、出て行くなら、かわりに僕が厄介になろうと思ってね。あそこにいる限り食うには困らないだろうし、ほら彼女はものすごく押しに弱いんだ。僕が泣いて頼めば、放り出すってことまでしないだろうしね。そら! こいつは、なんだかわかるかい! 君は見たことないだろうが、本物の真珠の首飾りなんだ。いや、本当は他の女にくれてやるつもりだったんだが、こいつを渡して機嫌のひとつもうかがわなきゃなって思ってね。あいつは喜ぶだろう、いままでなにか贈り物なんぞくれたことはなかったしな」
ラルフは、いい訳するように飾り立てた言葉を並べると、さも大事そうに白く美しい真珠の首飾りを掲げてみせた。
よほど楽天的なのか、それとも頭がおかしいのか。ラルフは自分が以前にドロテアにまったく同じものを渡したことを忘れている。
いや、そもそもそんなことはこの男にとってこれっぽっちも重要ではない。ラルフにとって、女は飯の種でそれ以上でも以下でもないのだ。
以前、ドロテアが未練だといって蔵人に見せた首飾りは素人目に見てもイミテーションだった。
彼女も理解していただろう。
本物かどうかは問題ではない。形のある、なにかが必要だったのだ。
そんな思い出でも、すがらずにいられなかった女の気持ちを、いま、また踏みつけにしようとしている。
絶対に許せることではなかった。
闘気が横溢する。
蔵人の様子に気づいたラルフが、怯えたように身をこわばらせた。
「ちょっと、待ってくれよ。いったいなにをするつもりなんだ。君が、あの里を出て行くなら、彼女はひとりになってしまうじゃないか。僕が、そばにいてやらないと。彼女には僕が必要なんだよ」
媚びるように笑いながら、青白い顔を歪め、激しくあえぐ。
おまえは勘違いしている。ドロテアはそんなに弱い女じゃねえ。
蔵人は、抜く手も見せずに剣を鞘走らせると、ラルフの真正面から全力で振り下ろした。
ラルフの顔面から胸元まで垂直に銀線が走った。血しぶきが闇夜に鋭く舞った。
手にしていた首飾りが両断され、白い珠が飛散した。
それは、悲しみに染まった涙の雫が、青白い月光の中で踊っているように見えた。
「な、んで」
ラルフの膝が前後に激しく踊る。
蔵人は剣を構えなおすと、深々と胸元に突き入れた。切っ先が背中を食い破り虚空に顔を突き出す。腰を蹴って剣を抜き取る。断末魔と共に、ラルフの身体は轟々と唸る崖下の河に飲み込まれていった。
切っ先を斜めにして血振りをし剣を鞘に戻すと、再び峠路へと戻った。背中へと吹きつける山谷風に乗って蔵人は足取りを早める。
黙々と歩く蔵人の背中も、やがて月光の差さぬ深い闇の中へと沈んでいった。




