Lv161「金は天下の回りもの」
見渡す限りの平原を超えると、幾らか整備された街道に出た。蔵人は、頬を撫でる風に身を縮こませると白い息を吐きながら、そっと目を細めた。さほど高低差のない丘を下りきると目の前に巨大な城塞都市が映ずる。歩いていた皆の頬も自然とほころんだ。
「なんというか。ここまで来るとようやく帰ってきたって感じだよなあ」
「ですね」
蔵人の馬を引くルールーも表情がいつになくやわらいでいる。カレンとリザは荷物を放り出すと、先を争って城門目がけて飛んでいった。馬上で蔵人が苦笑していると、ドロテアが膨れながら唇を尖らせた。
「ま。誰かさんが、余計な道草をせねばもっと早く帰って来られたじゃろうがの」
「なんだよ。突然急に」
「翼人の小娘」
「う」
「別れ際。荷馬車の中。隠れてちゅっちゅしておった」
「かような事実はございません」
「嘘をつくでないわ」
蔵人たちは、ロムレスの国境線を越えたところで、エトリアの王子一行と別れた。彼らは、一族を頼って王都ロムレスガーデンへ向かったのだった。
「バカだな。あれは、ほんのあいさつだろ? ほら、おまえらもよくやってるじゃん。妬くようなことじゃねえだろ」
日本生まれの蔵人から見れば奇異に映るが、この世界の人間は、わりかし軽はずみにあいさつとしてキスをする傾向がある。蔵人は、唇をタコのように突き出して、チッチと舌を鳴らしてみせた。その仕草がカンに触ったのか、ドロテアの頬に朱が差した。
「ほーう。おまえは、あいさつでいちいちねっとりと舌を絡めるのか。それも、あんなに鼻息荒げて、前を固くしてのう。この、ケダモノがッ。きっとふたりきりなら、あのままおっぱじめてたはずじゃ」
「記憶にございません」
「あ。また、都合が悪くなると逃げおってからに! 待て!」
蔵人はそっぽを向くと、馬腹を蹴って駆けさせた。頭から湯気を出すドロテアとみるみるうちに距離が遠ざかっていく。その横を無言のままポルディナが併走しだした。
(知ってはいたが。とんでもねえスピードで走るな)
獣人の筋力はあらゆる面において、人間を凌駕している。
ドロテアの走る速さも決して遅くはない。むしろ、オリンピックメダリストを鼻であざ笑うレベルなのだが、ポルディナが規格外すぎるということなのか。
蔵人は馬を止めて、ドロテアたちを待った。ポルディナはおおよそ一キロ近く全力疾走したにも関わらず、息ひとつ切らしていない。驚異的な心肺能力だった。
しばらく遅れて、ドロテアとルールーが到着する。ドロテアは、その場で両膝に手を突くと、息を整えるため、激しく肩を上下させた。
と、なれば自然と豊かな胸もゆれまくる。
たゆんたゆんのぷるんぷるん。
蔵人はカッと両目を見開き、その貴い塊をガン見した。
つられて顔が上下に動く。悲しい男のサガであった。
「と、止まるなら、最初から駆けさすでないわ」
「いや。ただ」
「ただ、なんじゃ」
「ごまかせるかなー。と」
「全然、ごまかせておらんわ。もおいい。この件は屋敷に戻ったら、とっくり追求するでの。楽しみにしておくのじゃ」
「ええー。もお、やめようぜそういうの。今日はすっげえ疲れたからさ。たっぷり湯に浸かって、仲よくイチャイチャしようぜ」
蔵人はドロテアの肩に腕を回すと頬にキスの雨を降らせた。ついでとばかりに、たゆんたゆんの乳房を鷲掴みにして揉んだ。肉の塊が、むにゅむにゅと自在に姿を変化させる。拒もうとするドロテアの腕を巧みにさばいて、蔵人の指が縦横無尽に動き出した。
「ほーら、もにゅもにゅしちゃうぞお。うひひ」
「あっ。だ、だから。わらわは、お主のそういうっ。ふっ。なっ、なんでも、そうやって力づくでうやむやにするところが、キライなのじゃっ。……あふんっ」
ドロテアが切なげに甘い息を吐く。
ルールーが呆れたように、額に手を当てたまま、ため息をついた。
「ご主人さま」
「んんー?」
ポルディナが表情ひとつ変えず、前方に注意を促す。
蔵人がドロテアの白いうなじを指先でツンツンしていると、先行していたカレンとリザが戻ってきた。
やはり、城門をくぐるのは全員一緒がいいと判断し、入口で待っていたのだろう。
リザはくるくると円を描くようにして蔵人の腰に絡みつき、カレンは怒っているような顔つきで腕にもたれかかってくる。ドロテアもなぜか負けじと正面から抱きついた。
シルバーヴィラゴの城門を前にして団子状態である。遠くで、こちらの様子を窺っていた兵士たちがギョッとした様子で鎧をカチャカチャ鳴らしながら近づいてきた。さすがに、これは恥ずかしい。蔵人は咳払いをすると、ニヒルな男を取り繕った。
「オイこらエルフ娘ども。離れんかい」
「やなのだー」
「イヤなのじゃー」
「こいつらが離れたら解放してやってもいいけどっ」
団子状態でズリズリと前進する。
このままでは、家にたどり着く前に日が暮れてしまう。
そんな間抜けな結末は絶対避けたかった。
「す、進めん。おい、ポルディナ」
「はい」
ポルディナは、主にしがみつくエルフ娘たちをべりべり剥がすと、ゴミを放る要領でぽいぽいと投擲した。エルフ三人衆が抗議の意味を込めて突撃してくる。たちまち、一対三の格闘戦がはじまり出した。戦いは、数の優位性をくつがえして、圧倒的にポルディナが有利である。蔵人は、肩をぐるぐる回すと、首を左右に曲げて筋を伸ばした。
「あーらくちん。あら、なんだこれ」
シルバーヴィラゴは城郭都市である。城壁の周りには、敵の侵入を遮るために深く空堀が設けてあり、入口には巻き上げ式の橋が架かっていた。
蔵人が、ふと視線を落とすと、橋のたもとの草むらに、菰をかぶった小柄な人物が座っていた。この世界では物乞いは珍しくもない。小銭でもくれてやろうかと、ふところに手を入れた。同時に、菰かぶりは膝頭へと素早く抱きついてきた。
「うわっと。なんだぁ! って、おまえ、ヒルダ!?」
「クランドしゃーん」
ヒルダは煤けた顔で主にふるいつく子犬のようにむしゃぶりついてくる。尾羽打ち枯らしたといった形容がピッタリした絵に書いたような落ちぶれようだった。
「どうしたんだよ。その格好は。なんか、あったんか?」
「みんなが、みんなが私のこといじめるんでしゅう」
いつもはきっちりとかぶっているベールの端から金色の髪がはみ出している。蔵人は胸元にぐりぐりと頭をこすりつけてくる生き物をやさしい手つきでなだめた。
「ええっ。ちょ、ちょっと待て。ちょっと待て。一旦、落ち着こう。落ち着いて話そう」
「うう。語るも涙。聞くも涙のものがたりです」
「別に興味ないんですけどー」
「右に同じなのだ」
「がうっ」
茶々を入れたカレンとリザを、激しくヒルダが威嚇した。
「おまえら、聞いてやろうぜ。ヤだろうけど」
「クランドさま。なにげに、ひどいですね」
彼女はよほどひどい目にあったのだろうか。蔵人は、しゃがみこんでヒルダを抱きかかえたまさめざめと泣く彼女の背をさすってやった。
泣きじゃくりながら語る彼女の話はちょこちょこ脱線し、要領を得なかったが、かいつまんでいうと、あるクエストを巡ってのことで仲間と口論になり、最終的にヒルダは屋敷を追われるハメになった、とのことだった。
「あー。なんか、よくわかんなかったが。要するに、一緒に戻って、みんなにお仕置きをしろということか」
「そです。私が、私がいったい、なにをしたっていうんですか。すべて、皆さんのことを考えて行動したというのに。命がけの献身の報酬がかような追放とは。よよよ」
蔵人は、なんか嘘くせえな、と思わなくもなかったが、ヒルダの涙を見ているうちに疑念はどんどん消え失せ、代わりに彼女をいじめる屋敷の女たちに対する怒りが沸々と湧き上がってくるのだった。蔵人は至極単純な性格である。彼の欠点は、おだてと泣き落としに滅法騙されやすい部分だった。
「特に。メリーとハナが私をいじめるのです」
「なんだとっ」
「クランド。せめて、相手のいいぶんも聞いてから判断したほうがいいんじゃないかしら」
「しどいっ。カレンは私の友達だと思っていたのに! ね。友達ですよ、ね」
「う」
ヒルダは黙っていれば精巧な人形に近い整った容姿をしている。はかなげな風情でジッと見つめられ、友情に訴えられたカレンはさすがにたじろいだ。
事実、そんなものはあったかどうか怪しいシロモノなのであるが。
「と、友達って」
「トモダーチ。私ト、アナタ。トモダーチ」
「むちゃくちゃ怪しいのだ」
カレンは、視線を左右に動かすと、反射的にルールーの陰へと隠れた。
「そうか。考えてみれば、一家の主が不在中に勝手なことをされちゃいくらなんでも道理が通らねえよな」
「そです。そです。クランドさんはやさしいから、みんなになめられてるんですよう」
「そ、そうだったのか」
「ここはひとつビシッと決めて! 主としての威厳を見せなきゃ! 女なんてどうせバカでたいした判断力なんかない生き物なんですから!!」
「そ、そうだよな。ここは、俺がひとつビシッと決めてやらにゃあ。なめられっぱなしじゃ家庭が崩壊してしまう。一家ってもんがたもてねえ」
「そうそう。クランドさん。たまには、こわーいところも見せなければ。女はすぐ調子に乗る生き物なのです。ここは、一発ガツンといきましょう。神もそうおっしゃられておりますですよ!」
「そうか! そうだよな!!」
「そうだよな、じゃないっ」
「あだっ」
蔵人は、すぱこーんとカレンに頭を引っぱたかれて我に返った。
その背後では、ヒルダが顔をしかめて激しく舌打ちをする。
ひいき目に見ても悪人顔になっていた。
「な、なんだよっ。は? まさか、おまえも俺の家庭内における権威を貶めようと」
カレンは、銀色のツインテールをぶんぶん振り回すと、目をサンカクにして反論する。
「貶めるもなにもないっ。クランド。あんたこいつに思いっきり乗せられてんじゃないのよ。ちょっと冷静になりなさい。だいたい、ヒルダ。あんた、屋敷を追われて、ずっと野外で生活していたっていったわよね」
「ギクッ。そ、そうですよ。すべて事実です。なにか、不都合でも」
ヒルダは頬に手を当てたまま、カレンとは視線を合わせず、ホホホとつぶやく。その先には、季節感を無視してマイクロビキニを着込んでいるリザが正座して、無垢な瞳のまま覗き込んでいる。ヒルダの額。だらだらと、冷や汗が流れ出した。
「三日も四日も飲まず食わずで、雨やら霜やら雪やらに打たれて。そのわりには、なーんか異様に顔の色艶がよすぎるのよ。てか、あたしたちよりさー。なにか、体調よさげなんですけど。それに、なんかいい匂いがするわね。くんくん」
「ギクギクッ。私は、ひどい目にあっていじめられた悲劇のシスターなんですよ! 疑うなんてあんまりですっ。ね、ね? クランドさんは信じてくれますよねっ」
「確かに、カレンのいうとおり肌がぷりっぷりしてるような」
「しどいっ! クランドさんは私のこと愛してないんですねッ!!」
「あ、いや。別に疑ってるわけじゃなくてな」
「ずっと愛を捧げてきたのにっ! はじめての人なのにっ!! あんまりですうう!!」
「あわわ」
ヒルダは身をよじって草むらに倒れ伏すと、ひんひんと声を上げて泣きわめいた。
蔵人がどうしようと、周りを見渡すと、残りの女たちはとうにその嘘泣きを見破っているのか、白けた表情で佇立していた。リザは、これみよがしに、ぺっと唾を地面に吐いた。
すると、いままで無言を貫いていたポルディナが一歩前に進み出た。ヒルダは、本能的になにかヤバイと感じたのか、生まれたての子馬のように小刻みに震えだす。
「ヒルダ。いいですか」
「ポルッ。ポルディナは、私のいうこと信じてくれますよねっ。ねっ、ねっ」
ヒルダはポルディナの白いエプロンにしがみつく。彼女は、目を半月にしながら、媚びまくった表情でにゃーんと鳴いてみせた。
だが、同性にとってそれは逆効果だった。
ポルディナは、彼女の指をエプロンから切ると、あからさまに眉をしかめた。
「口元にグレイビーソースがついてますよ」
「え。うそ!?」
ヒルダは慌ててハンカチを僧衣のたもとから取り出すと、唇をぬぐった。
それから手鏡を出すと己の顔を仔細に点検しだす。うん。今日もかわいい、などといってスマイルを作り、すぐさま、ハッと顔を上げて目玉をまん丸にした。
「だが、マヌケは見つかったようですね」
ポルディナは切れ長の目を細めると、肩にかかった髪を指先で優雅に払った。
「ぐぬぬ。なんという巧妙な罠を」
「……こいつ、アホじゃ」
ヒルダは、間抜けな顔つきで固まった蔵人を無視して素早く立ち上がり逃走を試みた。
「あっ! 逃げやがった!!」
「逃さんのじゃ!」
「そっちよ、リザ!」
「任せるのだっ。とうっ」
が、あっという間に、ドロテア、リザ、カレンのエルフ三人組に囲まれた。
逃げることはできそうもない。鉄壁の布陣であった。
「あ、あはは。みなさん。ここは落ち着いて。ね、ね。あ! そういえば、無事に戻って来られたのですね。きゅううん。よかったですよお。本当に、毎日心配で心配で。私、夜も眠れずお昼寝ばかりしてましたよ」
「それで」
「いうことは」
「すべてか! なのだ!!」
ヒルダは犯行を自供した。皆に託された依頼料を、すべてバクチで溶かしたこと。あまつさえ、逆ギレして、メリーを共犯に仕立て上げようとしたこと。烈火のごとく怒り狂ったレイシーに追われて、小エルフたちを人質に取り、最終的には小エルフにも同情され、なんとか屋敷を逃げ出したこと。
「じょ、情状酌量を……!」
「おまえのやったことの、いったいどこにその余地があるというんだよ」
「みゃー」
蔵人はヒルダの首根っこを掴むと、ズルズルと引きずり出した。
「殺される! 負債を埋めねば、殺されてしまうのですよー!!」
「大丈夫だよ。なんとか、命だけは助かるようにしてやっから」
「クランドさんが悪いんですよ! 私の面倒をしっかり見ないから! 見ないから!!」
「こやつ、どうしようもないアホウじゃの」
「はあ。なんで、こいつこんなに愚かなのっ」
「なにもかも人のせいにするとは。ご主人さま。慈悲はお捨てください」
「どうして、そんなひどいこというのおおおっ!?」
「いわざるを得んだろーが」
ともあれ、想定の範囲外の帰還と相成った。
蔵人曰く、
こんなこと想定できるか。
とのことだった。
「これ以上、アホやってる暇はない。とっとと、家に帰るぞ」
蔵人はヒルダを回収すると速やかに帰宅した。妻及び擬似的家族の熱い歓迎を受けた後、ヒルダは満場一致の採決で、とりあえず地下倉庫に拘留することとなった。ヒルダに対する妻たちの怒りはかなりのものである。特に共同犯へと仕立て上げられそうになったメリー本人よりも、姉御肌であるレイシーの怒りは大きかった。
「ふえーん。悪かったよう。許してくださーい」
「ダメ! そう簡単には許さないよ! クランドも甘い顔しちゃダメなんだからね! ああ、もお。せっかく久しぶりに帰ってきたんだから、こんな風に出迎えたくなかったのに。ぜんぶ、ヒルダのせいで台無しじゃない。もお」
レイシーは砂色の髪をクシャクシャに掻き回すと、プリプリした顔で倉庫の扉を閉めようと、ドアノブに手をかけた。
「あ、ちょっと」
「なに」
ヒルダは泣き真似をやめると、ちょいちょいと招き猫のようにレイシーを引き寄せた。
「サケをスモークしておいてね。夕飯には戻ります」
「戻らないし、出さないッ!!」
レイシーは力いっぱい扉を閉めると、大きな足音を立てて階段を登っていった。
「皆の頭が冷えるまでヒルダは閉じ込めておいたほうが無難だと思うよ」
「そうなる前になんとかして欲しかったんだが」
「すまない。ボクの監督ミスだ」
蔵人はルッジを抱き寄せると、その細くたおやかな身体の感触を楽しみながら、ただいまといってキスをする。隣に立っていたハナが、きゃっと黄色い声を上げた。
「慰めてくれるの?」
「とりあえず、アレのことは忘れてお茶にでもしよう。少しはくつろがせてくれい」
「うん。わかった。ハナ」
「はいはーい。さ、勇者さま。今日は久々に全員揃って夕餉がとれますね。ハナ、とってもうれしーい、です」
「ははは。こやつめ」
蔵人たちは、仲よくじゃれあいながら、薄暗く湿った地下倉庫を後にする。
「ええっ。ちょっ、冗談ですよね? ほら。いつもなら、ここいらで、しかたがないなぁヒルダは、とかなんとかいって出してくれる流れじゃないですか。え? え? ちょ、マジで? うそお。そんなんありなんですかぁ。ちょっと待った。皆さん、私がいまからとっても面白いかくし芸見せますから。ね、ね? ほらほら。なんとね、こうすると。ほら、人差し指が大いどーうって誰もいないっ!?」
ヒルダはしばし監禁の憂き目に合った。
(すまねえ。あとでこっそり出してやっからな。いくら俺でも、目をサンカクにしたあいつらを前に、手前勝手なマネはできねぇんだ)
切り替えの速さは蔵人の利点でもある。彼は、瞬間的に脳を切り替えると、疲れた心を癒すためくつろぐことに決めた。
「せーの。クランド、おかえりなさーい」
「がはは。いやいや、ご苦労ご苦労。皆の衆」
幼女エルフたちが一同揃って祝福の歌を並んで歌う。蔵人は、新しく購入された巨大なテーブルの上で、無事の帰還を祝われながら、なみなみとつがれた酒盃を一気に干した。
食堂には、約一名を除いた家族が勢揃いし、この日のために作られた料理がところ狭しと並べられている。
「おい、シズカ。近う。近う寄れ」
シズカはととと歩み寄ると、目元を朱に染めて上目遣いに見上げてくる。
(これは、さすがにグッと来るな……)
白磁器のような艶のある肌がほんのりと赤く染まっている。シズカは、蔵人が知っている限り、ほとんど酒精を嗜まないが、今日は特別であると久々に口をつけたのだろう。ほんのりと、漂う程度に香の匂いが鼻腔を刺激する。不意に、恥も外聞もなく押し倒したい衝動に駆られたが、グッと我慢した。
「なんだ今日はいつにもまして無口じゃねえか。ホラ、飲めよ」
蔵人はシズカに杯を渡すと、なみなみと酒精をそそいだ。シズカは、しばらく黄金色の湖面に似たそれを見ていたが、サッと一息で飲み干すと、熱っぽかった瞳をさらにうるませた。細いうなじに指を這わせ、手前に引き込む。艶のある黒髪が豊かに流れた。
「ずっと心配していたんだ」
語尾が震えていた。泣きそうにゆがんだ顔を健気にとどめている。その、抱きしめたくなるようないじらしさに胸がキュッとしめつけられた。
「あーはいはい。お流れちょうだいっと」
「おわっと!」
ふたりのただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、レイシーが途端に割って入る。酒席におけるこの辺の呼吸はさすがに年季が入っている。シズカはあからさまに邪魔されたことでむっとした顔つきになるが、レイシーはあくまで明朗な笑顔を崩さない。その場に意地になって食ってかからせない雰囲気をうまいこと形成しているのだ。
「でもね、あたしだってちゃあんと心配してたんだよう」
「ううっ」
レイシーは蔵人の太ももに腰を下ろすとしなだれかかる。男のツボを心得た熟練の動きにシズカは圧倒されっぱなしでいた。いざとなれば、男の心を蕩かす方法など幾らでも知っているのである。蔵人は、首に腕を回されたまま、ギュッと押しつけてくる肌のやわらかさにデレデレと脂下がった。
「とと。そうじゃなくてだな。酔っ払う前に、話しておかねーと」
「静粛に。ご主人さまよりお話があります。そこ。私語は厳禁です」
「あいたっ。なにすんのよっ」
ポルディナはリザと皿を突っつき合っていたカレンに綺麗に肉を平らげた残りの骨を投げつけた。一同は、食事の手を止めて、ジッと蔵人をいっせいに見た。
蔵人は立ち上がると咳払いをして、ぐるりと周りを見渡した。
「まーあれだ。とりあえず、ここにある品物が苦労して手に入れた商品です」
蔵人はテーブルの上で包み紙をもったいつけて開いた。
中には一見して、枯れ木のような小枝がつつましく鎮座していた。
なにを期待していたのか、子供たちからはつまらなそうな声が上がるが、大人たちはある種異様な雰囲気に包まれ息を呑んでいる。
「リネット。約束はキチンと果たしたぞ」
「え、それって」
エルフの少女リネットは、よろよろと立ち上がると、大きな瞳でまばたきを繰り返した。
「これがようやっと手に入れた世界樹の枝だ。本物だぞ。明日にも、街の病院にゆこう。手術をして、しばらく入院だけど、我慢してくれよな」
「あたし、あたしの脚。治るんですか」
蔵人は無言で笑みを浮かべると、得意そうにサムズアップをつくった。
リネットは信じられないといった様子で、みるみるうちに瞳いっぱいに涙を浮かべると両手で顔を覆い、声を上げて泣き出した。
「リネット、またもとのように歩けるようになるんだってー」
「おいかけっこできるねー」
「よかったねー」
「泣かないで、リネット」
小エルフたちが泣き出したリネットを懸命になだめはじめる。釣られて女たちもそれぞれ目元をうるませ、連鎖的に泣き出した。
「よがっだ。よがっだな、でぃねっど、よ」
「お嬢さまったら、上手く発音できてませんよ」
ヴィクトワールに至っては、鼻を真っ赤にさせ滂沱のごとく涙を垂れ流している。
「よかったのう、リネット。クランドに感謝するのじゃぞ」
「うんっ。うんっ。あたし、一生クランドさんについてゆきますっ」
ドロテアは感極まってリネットの顔を自分の豊満な胸に掻き抱いた。
凄まじい肉厚に呼吸困難に陥ったのか、リネットはじたばたしはじめるが、悦に入っているドロテアは気づかない。すばやく見ていたレイシーが引き離しにかかった。
「ふがももっ」
「バカねドロテア。それじゃあ、息ができないでしょう」
「んんっ。ああ、すまんすまん。つい、興奮してしまっての」
(ぼくちんも興奮してしまいました)
蔵人は固くなったモノを隠すため、そっと腰を後ろに引きながら、目尻に浮かんだ涙をぬぐうフリをした。
視線を落とすと、ルシルが目を大きくして股間を凝視している。
外套の前を合わせて平静を装った。
「仲がいいのはよろしいことだ。んじゃ、ついでということで」
蔵人が手を打ち鳴らすと、ぎいと音を立て、扉が開いた。車輪がコロコロと乾いた音を立てて控えめに鳴る。
そこには、ルールーの手によって手押し台車に乗せられたヒルダが、正座した状態で室内に運び込まれた。
胸の部分を押し上げるようにして縄で台車ごとぐるぐる巻きにされていた。
恭順の意味を示しているのかヒルダの僧衣は白一色のものに着替えられている。
額のシスターヴェール部分には「反省しきりです」とロムレス語で書かれた札が、ぺたりと貼られていた。
「おまえたちも色々とあると思うがね。ここはひとつ、吉日ということで、ヒルダを恩赦にしてやっちゃ貰えねえか?」
子供たちは、依然としてキャッキャっと騒いでいるが、女たちはスイッチをオフにしたかのように、いちどきに押し黙った。エアカーテンで遮断されたかのように、一部の空気がまるきり違う。
蔵人は、女のこういう部分が非常に苦手だった。
凍りついた一群から、メリーの腕を引いたレイシーがずんずんと前に進み出た。
「いいよ、レイシー。もう、わたし怒ってないし。ね」
「ダメよ! こういうことはキチンとしないと。後々、よくないんだからっ。ヒルダ!!」
「ひゃ、ひゃい」
レイシーは目を剥いてカッと叫んだ。
異変に気づいた子供たちが、ブルブルと震えはじめる。
幼い子供たち。それも、日常的に虐待を受けていた彼女たちは、大人の感情の変化に敏感だった。レイシーがそれをわからないはずもない。わかっていて行わなければ、自分たちのグループとしての規律が守れないからである。
「今度こそ、本当に反省したの?」
「心の底から反省しましたー。これからは、生まれ変わったつもりで清く生きなおします」
ヒルダは後ろ手に縛られたまま、えぐえぐとしゃくりあげている。
レイシーは、ジッとヒルダの金色の瞳を見つめると、ふう、と大きく息を吐いた。
「じゃあ、ちゃんとメリーに謝って。じゃないと、もう、あんたのこと友達でもなんでもないんだからねっ」
「うう。ごめんなさいメリー。あなたのせいにしようとしたことを許してくださあい」
「んん。もういいよ、ヒルダ。わたし、ちゃんとわかってくれたならそれでいいから。レイシーも、ね。こんなおめでたい日に、ぐるぐる巻きなんてかわいそうだよう。もう、縄を解いてあげてもいいでしょう」
「なによ。それじゃあ、まるであたしが意地が悪いみたいじゃない。もお」
「ごめんねレイシー。ごめんねみんな。これからは、転生体となったヒルダちゃんをかわいがってね」
「なにをいっとるんだ。まったく」
蔵人は飛びついてきたヒルダのおでこを人差し指で弾いた。
「ヒルダさま」
ハナはいつものように屈託のない笑顔を浮かべながら、おでこを押さえてしゃがみこむヒルダに向かって手を差し伸べた。
「うう、ハナも許してくれるの?」
「ハナは最初っからなーんにも怒ってませんよ。ただ、ちょっとよくないな、とは思いましたけど。これからは、使う前に、ひとことことわってからにしてくださいね」
「ありがとう、ありがとうね」
「でも、お金はキチンと返してくださいねー」
「チッ」
「……あれー。ハナの耳が悪くなったみたいですねー。なんか、全然反省していない音が聞こえたようなー」
「わわわ、うそうそ。返すからっ、ぜったい返すよっ」
「てか、金のことなら心配せんでもいい。ほらっ」
蔵人は外套の前を開くと、バラバラとインゴットの塊を放った。
無論、ニコライ王子から貰った金塊をこのときばかりと見せつけるためである。
「わわっ」
「きゃっ。なにこれー」
ヒルダは瞳を$数字に変えて金塊に飛びつく。遠巻きに見ていた女たちも、まばゆい金の光沢に魅せられ、蛾のようにわらわらと寄り集まってきた。
「この大きさ、この重さ。少なくとも、ひとつ数百万Pはしますよ」
計数に明るいネリーが怯えたような声でいった。
インゴットは全部で五つ。ヒルダに至っては素早く袖のたもとにねじ込もうとしたところをポルディナに見つかって腕をねじられている。
「ふははっ。これは、ニコライ王子からいただいたお宝だ。銭のことでおまえたちにゃ不自由はさせねーぜ」
そういって歌舞伎役者のように見得を切る。
割れんばかりの賛辞の嵐を受けて、法悦の表情を浮かべる蔵人にルッジがひどく神妙な面持ちで声をかけた。
「ふうん。ちょっといいかい、クランド」
ルッジはインゴットのひとつを手に取ると、サッと顔色を変えた。
「これは……」
「ど、どうしたんだ」
「……いや、でもまさか」
「どうしたんだってば」
「……しかし、クランドが聞けば、傷つくかも」
「いいからいえって」
「……けどなあ」
「早く!」
「……ああ、やっぱりいえない」
「溜めんなよ! 早くいえや!!」
「……それでも聞くかい?」
「聞くよッ!! 早くいえよッ!!」
「……本当に?」
「ああああああっ!!」
ルッジは頭髪を狂ったように掻きむしる蔵人の前で、インゴットをふたつ折りにした。
「ほえあ?」
長方形の金塊。
折り割った中央部分から焦げ茶色の断面が覗いていた。
純金であれば、ルッジのひ弱な腕力でかようにもへし折れるはずもなく。
「中身は粘土だね。残念ながら」
「二束三文ってやつ?」
ルッジは無言で眼鏡の位置を直した。
蔵人は白目を剥いてその場に尻もちを突くと、ぶっとゆるく放屁した。




