Lv149「すべては主のために」
蔵人はベッドの中で猛省を繰り返し、結果として、軽く鬱になった。下等な昆虫のオスですら、メスを争った戦いに敗れると脳内に、ある種の神経伝達物質が分泌され欝になる。
すなわちやる気を失うのだ。
だが、三日ほど経つと鬱状態から立ち直って再び再戦を行うのである。この場合、昆虫の中でなにか心理的葛藤が生まれ、それが自己的に決着づけられるわけでなく、ただ単に忘れるだけである。
頭の中から敗北したという事実が消えて「うっしゃ、もう一丁やってやろかい」などと奮起するわけではない。敗北という忌まわしき状態が保全できなくなるのである。
比べて、蔵人は昆虫よりも、少しは知能レベルが高い生命体であった。
青竜に負けた。コテンパンに。
男として、激しく自尊心が傷つけられたのだ。身体に対するダメージも大きかった。青竜のブレスで氷漬けになった蔵人の身体は一種の仮死状態になり、すべての機能を擬似的にシャットダウンした。体力や臓器の損耗を避けるためである。援軍が来るまでモンスターと戦い続けたルールーの方が、比較的に傷は浅かった。彼女は主を守るために、実力以上の力を最大限にまで発揮したのだった。
ポルディナたちは、鬱々としている男を見て、とにかくひたすら献身的な奉仕を続けていた。横になったまま動かない蔵人をなだめすかして、熱い湯で身体を拭き、幼児をやしなうようにして食事までも手にとって食べさせた。
だが、回復は遅々として進まなかった。
数日が過ぎた。
女たちもポルディナを除いて蔵人を必要以上に構うのをやめた。
彼がふてくされているだけに気づいたのだ。
ある晴れた日の朝、ポルディナは許可を取って蔵人を車椅子に乗せ、庭へと連れ出した。
「ご主人さま。今日は、とっても日差しがよく、外は気持ちがよいですよ」
「あ、あうう」
蔵人は虚ろな目でこくこくうなずき、外へ引き出されていった。
ほとんど廃人である。フリだが。
ポルディナの献身ぶりはとびきりである。
とはいえ、攻城戦のまっただ中な上、辺りには散見するような花々もない雪山だ。
(シティボーイの俺にはチト退屈すぎるぜ……)
蔵人はボへっとした状態で、ポルディナに車の背を押されながら兵舎の周りをゆっくりと散策した。
実際、呆けた状態を装っていたが、蔵人の脳内はめまぐるしく回転を続けていた。
もちろん、青竜に対する次戦への対抗策である。
初戦は、ほとんど刃を合わせることもなく敗れ去ったが、このままにしっぽを丸めて逃げるわけにもいかない。屋敷ではリネットが蔵人たちの帰りを待ちわびているのである。
男のメンツにかけても世界樹の枝は手に入れなければならない。
(とはいえ、あの攻撃は厄介だ。今回は、たまたま逃げ出せたからよかったものの。運が悪ければカチカチに凍らされたまま叩き割らても不思議じゃない)
青竜の放つ冷気のブレスは強力だった。遠距離から放つ攻撃は、遮蔽物の見当たらぬ笊を伏せたような山頂では避けようがないものだ。
かつて赤竜であるヴリトラと戦ったときは、まがりなりにも身体を隠す家屋が村のあちこちにあったことも有利に働いた。
一番いいのは、あの場所で青竜と戦わないことである。敵の動き回れない場所に誘い込むことが第一だろう。蔵人は思考する。そうだ。もっと、混み合った。たとえば、動きのとれないような、樹林帯、狭い場所、身を隠せる穴。
「ご主人さま。なにか、おっしゃいました?」
「……いや」
無意識のうちにつぶやいていたのだろう。ポルディナが整った美貌をゆがませ、せつなげに唇を心持ち噛み締めていた。
「ひとりごとだ。気にするな。忘れろ」
「はい」
年頃の少女にしては自我が喪失しているかのように、どこまでも従順だった。
たちまち、やや冷たいとも取れる氷にも似た表情に戻った。
斜めに視線だけを転じて彼女の様子を窺った。
ポルディナの表情はいつもと変わらないが、モコモコとしたしっぽがやや下げ気味に左右に振られている。
どうしたの? 心配だよう! とばかりに彼女の心情を強くあらわしているのだ。
蔵人は、気分を変えようと手を伸ばしてポルディナのなめらかな髪をゆっくりと撫でた。
彼女は、目を心持ち細めながら気持ちよさそうに震えている。
ふやーん、とゆるんだ顔になった。
続けてもう片方の手で喉の部分をさすってやる。
ポルディナの瞳がよろこびでじんわりと潤みを帯びていく。
冷徹な美貌の少女が己の行動ひとつでいかようにも態度を変える。ゾクゾクするような征服感が蔵人の全身を駆け巡った。男の支配欲をふるうには理想的な女である。奴隷の鑑といえよう。
(……こいつたまらねえぐらい、かわいいな)
蔵人が車椅子に座ったまま撫で続けていると、ポルディナはふにゃふにゃと崩れるように膝の上へと身体を寄せてきた。
そのまま、真正面から抱きかかえるようにして愛撫を続けた。
小さく白い端正な顔と向き合った。
「あっ」
蔵人は両手で彼女の頬を包むようにして引き寄せ口づけた。調子に乗ってちゅっちゅっと音を立ててキスをしていると、兵舎の影から数人の集団が姿を見せた。
中央には、一見して貴人であるとわかる美麗な装いをした淑女が数人の侍女にかしずかれていた。反射的にポルディナから顔を離す。彼女の、桜色の唇から透明な唾液が糸を引いて垂れた。
ポルディナは、ほややんとした表情で、どこか事後を思わせるようなうっとりとした顔つきである。他人さまに見られるのは、さすがにチョット恥ずかしい。大きくひとつ咳払いをした。それから、いま気づいたかのように、淑女へと視線を向け、硬直した。
(ほっ。これは、まあ。なんというか、お人形さんのような美しさだ)
白を基調としたドレスは、ところどころわずかな金の刺繍が施されている。
静かな気品を感じさせた。
どう見ても、十代前半の少女である。
なんとも繊細で精巧な人形を思わせる整った顔立ちだった。
蔵人が目尻を下げたのに気づいたのか、膝の上のポルディナが身を離しながら、かすかに怨むような目つきをした。自分では己を律しているようだが、無意識なだけに鋭すぎる嫉妬が込められていた。蔵人はちょっと引いた。それから敢えて気づかないフリをした。
「あら、あなたは、確かロムレスのお客人ではなくて」
淑女は鈴のなるような涼やかな声を発した。
「妃殿下。かような者に声をかけてはなりませぬ」
すかさずおつきの者がたしなめる。
蔵人の耳には、侍女の言葉遣いですら、どこか一段上品なものに思えた。
「もう。いいではないですか、かように固いことをおっしゃらずとも。確か、あなたはロムレスのクランド卿でしょうか?」
「ああ、そうだけどよ。えーと」
人形のように冷たい容姿は、一旦話し出せばガラガラと音を立てて崩れていった。
「お初にお目にかかります。妾はエカチェリカ。陛下の后でございますわ」
蔵人はひゅっと口笛を鳴らす。侍女の顔がいっそうこわばった。
ここで陛下といえばニコライしか存在しない。
いわれれば、彼女の年格好は若い王子に似合いである。
蔵人が当然のように直答を繰り返すたびにおつきの侍女たちは色めき立つが、エカチェリカが制すと彼女たちは石のように動かなくなった。
ニコライ王子の后はずいぶんとフランクな性格のようだ。
それならばこちらもフレンドリーに対応したほうがいいのだろうか。
と、ゴチャゴチャ悩んでいるうちに向こうの方から声をかけてきた。
「お身体の具合はいかがですか? たいそう難儀なさったと聞いておりますの」
「えー、まあ、ボチボチかな。これもいい骨休めと思って養生してるよ」
「ほね……休め、ですか」
大きな金色の瞳がパチクリ動く。精巧なドールを想起させた。
「バケーションだ。憩いだ。中休みだ。とりあえず、のんびりさせてもらってる」
エカチェリカは白い手袋を頬に当てて、大きな瞳をしばたかせた。見た目の高貴さとは違って、どことなく動作が子供っぽいのだ。小動物のような小気味よさも兼ね備えていた。
そんな蔵人の考えをよそに、エカチェリカは急にモジモジしだすと、恥ずかしげに眉をピクピク動かした。
「で、見ましたのですか」
「へ、なにを」
「竜を」
「え、あぁ。竜ね、見ましたよ。見た見た」
「……詳しく、聞かせてもらってもよろしいでしょうか?」
「お、おい」
「もちろん、聞かせていただけますよね」
「ちょ、ちょっ、待った。近い、近いから」
(おいおい、ずいぶんグイグイ来るお姫さまだな。てか、上流階級のお嬢って、みんなこんなんか?)
蔵人は脳裏に、どこぞの跳ねっ返り騎士娘やツンデレエルフを思い浮かべた。
エカチェリカは侍女に椅子を用意させると、ドレスの裾をふんわりと持ち上げて軽やかに腰を沈めた。視線を動かすと、おつきの侍女たちが半円形に周囲を取り囲んでいる。絶対に逃がさないわ、という気迫を感じ取った。蔵人は観念すると、青竜との激闘をかなりのボリュームで盛りつつ、語りだした。
(もう勘弁してもらいてえよ……)
歓談は和やかに続いた。表面上では。蔵人は物怖じしない性格である。基本彼が敬意を評したり、へりくだったりするときは、なにごとか腹に含んでいるときのみである。目の前の女性は、ニコライ王子の歴とした妃である。この砦にいる以上は、機嫌をとっておくのが上策であるということくらいは、いくらなんでも判断できた。
貴種であるといっても、蔵人からすれば、見栄えのすぐれた素朴な人種に過ぎない。彼女が口にする、竜に対する情報は、幼女が絵本を鵜呑みにしたかのような、失笑ものであった。
赤竜、青竜と実際に戦った蔵人からすれば、かの怪物はあくまで生物の規格を超えていないといえた。確かに脅威ではあるが、間違っても神話に語られる犯すべからざる神聖さはない。剣や弓といった、原始的な兵器で戦うのでそう捉えがちだが、蔵人が見たところ、現代兵器である砲や銃器を活用すれば充分に対処できるレベルである。
この異世界においては、奇妙なことだが、火薬や砲といった概念がまるで発達していない。戦争において、もっとも中核的な役割を果たしているのは、いまだ弓と騎馬であり、おとぎ話の騎士が華々しく活躍する牧歌的な世界であるといえた。それに、現実問題、この世界に放り出されている以上、現代兵器を手に入れる方法などはないのである。巨大な怪物たちが安心して人類を脅かせる、平和な世界といえた。
お姫さまはよほど山暮らしに飽いていたのか、蔵人のたわいのない話でもコロコロと上品に笑った。
とはいえ、青竜との戦いは敗北しただけであり、屈辱の記憶であった。蔵人にしてみれば思い出したくない部類のものである。道化に徹するのも自ずと限界があった。
ポルディナは、主の精神状態に関して本人以上に聡い。チラチラと、気遣わしげな視線に気づきながらも、楽しげに会話を楽しむ淑女を強引に遮るのは中々に難しい。タイミングが問題だった。
変化は突如として起きた。いままで楽しそうに談笑していたエカチェリカが、不意に顔をそむけたと思ったら、激しく咳き込みはじめたのである。
「妃殿下っ」
「おいっ、だいじょうぶか!?」
エカチェリカは身体をくの字に折ると、全身をブルブルと震わせた。瞬間的に、悲壮な空気が辺りを支配した。侍女たちから、金属的な悲鳴が上がった。エカチェリカが激しく吐血したのだ。純白のドレスの裾が、紅に染まった。
侍女たちは、真っ青な顔をしたまま泣き叫ぶだけで、どうにもできない。彼女たちの頭の中には、対処の方法などないという証明だった。
「エカチェリカ!」
一同が呆然としているうちに、ニコライ王子がフリストフォルを引き連れ、血相を変えて駆けつけた。とはいえ、状況が改善することもない。王子は雪の上であお向けになったままのエカチェリカを覗き込み、声をかけ励ますくらいしかできなかった。
「フリストフォル、医者は! 軍医はまだなのか!!」
「ただいま、早急に呼んでおりますッ」
冷徹な武人であるフリストフォル・ロバーノフが額に冷や汗をかいて硬直していた。エカチェリカの不運は、この時間にちょうど、軍医が砦の中核からやや下った前線基地へと傷ついた兵士の診察に赴いていたことが重なったことだった。
いまや、はかなげな少女は相貌を蝋人形のように白くさせ激しく痙攣させている。このまま手をこまねいておれば、幽明境を異にするのは時間の問題である。
「フリストフォル、なんとか、なんとかしてくれっ。エカチェリカは余の宝だ!」
ニコライ本人が病人のような顔色で吠えた。少年王子は、声変わりのせぬ甲高い声で叫ぶ。おつきの侍女たちは、残らず顔を覆って泣き叫びはじめた。
「は。な。なれば、なんとか」
フリストフォルは長身を折って、かがむが、なにをどうしたらいいかわからず、うろたえているだけである。彼は根っからの武人であり、高位の貴族である。医療行為は、軍医や治癒師の担当である。金瘡の手当ならばまだしも、内科の範疇である病などお手上げだ。フリストフォルは軍を進退させ前線で剣を振るうのは得意でも、とっさの機転で病人を助けるなどできようはずもなかった。それでも、なにもしないわけにはいかない。見よう見まねで、脈をとり、胸に手を当てて鼓動を確かめる。
「い、息が。心の臓も」
青ざめた顔で、フリストフォルが告げた。
エカチェリカの呼吸と心音が止まったのだ。
ニコライの絶叫が響いた。
見かねた蔵人は、硬直から解き放たれると、ついに動き出した。
「ああっ、もお! どいてろっ!!」
「な、なにを」
蔵人はうろたえるふたりを突き飛ばすと、ピクリともしない少女へと覆いかぶさるようにして顔色を見た。
エカチェリカは激しく血を吐いていた。意識を失ったのは、喉に血痰が詰まったと推測するのが妥当だろう。
現在では、感染症防止のため人工呼吸を行わない場合もあるが、ここでは救急車の到着も最先端の医療器具もない。
切所であった。顎先をつまんで気道を確保する。躊躇せず唇へと吸いついた。背後で大きな声が上がった。彼らの心情を慮る暇もなかった。思いきり息を吸い込んで、ずるずるとエカチェリカの喉から血の塊を口中へと納めた。唇を離して血痰を吐き出す。真っ白な雪の上に、真っ赤な花弁に似た血潮が広がった。吸っては吐き、吸って吐きを繰り返すうち、蔵人の行っていることが医療行為だと理解したのか、ざわめきは水を打ったように収束した。
「頼む。クランド、室を、室を」
王子の嘆きが聞こえる。蔵人はエカチェリカから身体を離し大きく息を吐いた。すかさず、心臓マッサージに移った。両手を重ねて胸の部分に置き、胸骨を圧迫する。
血痰を除ききったことで自発呼吸が戻ったのか、少女は激しく咳き込みながら、あきらかに意識を取り戻した。
「い、生き返った。妃殿下が」
「か、神だ。神の御技だ……」
「魂を、呼び戻したのか」
人々は、天使が降臨するのを白昼に目撃したかのように、蔵人を仰ぎ見た。
「感謝する、感謝するぞ。クランドよっ」
ニコライはエカチェリカを抱きかかえたまま、涙を流して絶叫した。現代とは違って、簡単な病ではるかに命が失われる時代である。古く、土臭い中世気質を持つエトリア人であるニコライは感情の高まったまま感謝の言葉を喉からほとばしらせた。それほどまでに、妻を愛していたということもあったが、クランドよこの恩は終生忘れまいぞ、という叫びは人々の胸を打った。激しい感情は、周囲の人間に伝播する。見れば、あの冷徹に見えたフリストフォルですら涙をにじませて頬をゆがめ、先程まではお高くとまっていた侍女たちも感動に打ち震えたまま熱い瞳で蔵人を仰いでいた。
ややもすると、砦から駆けつけてきた人々が辺りを輪のように囲みながら声高に話し合っている。兵士たちは甲冑を鳴らしながら、感動にむせび泣き、馴れ馴れしく肩を叩き、感謝の意を伝えてきた。その場にいなかった男たちも、電流が瞬く間に拡散するかのように、ある者は滂沱のごとく涙をこぼし、女たちは神にすがるようにして足元へとすがりついてきた。
「な、なんなんだこれは。さすがに、ちょっと異常じゃないか、これは」
「ご主人さま」
艶かしい声に振り返る。かたわらのポルディナを見やった。彼女は、誰よりも顔を真っ赤にして、大きな尾を左右へと千切れんばかりに振り続けていた。
(どうですか。これが、私のご主人さまなのです。私の、私の! 誰でもない、この私だけのご主人さまなのです!)
その後、騒ぎが収束するまでに蔵人はかなりの忍耐を要して、なすがまま人々からもみくちゃにされるのであった。
夕刻、蔵人は、フリストフォルから晩餐へと招かれた。王子は、いまだ安静を要するエカチェリカについているため、重臣である彼が代理というわけである。ヴィルヘルムでは大規模な戦いこそ起きていないが、小競り合いはしょっちゅうである。山海の珍味とはいかないまでも、普段、配給されているものとは別格の料理に、蔵人は息を呑んだ。
「まずは、一献」
「はあ」
蔵人が盃を持つと、年若いメイドが琥珀色の液体をこぽこぽとそそぐ。なんともいえない、いい匂いの酒精がグラスの中でたゆたった。
「クランド殿。改めて、陛下になり代わってお礼を申し上げる。それから、いままでの無礼な態度をお許しいただきたい」
確かに、はじめて会ったときから、フリストフォルの蔵人たちに対する態度は一貫して邪魔者、以外のなにものでもなかった。
しかし、それは当然といえよう。敵である、革命軍の兵士と共にこっそり侵入してきたならず者である。捕虜にされた時点で首を斬られてもおかしくはない。蔵人は、婉曲にそのことを告げると、フリストフォルは恥じたように身を縮こめた。
「いや、お恥ずかしい。できれば、そのことは触れないでいてくれると、助かるのだが」
「んじゃま、細かいことはお互いチャラにするってことで、オーケイ」
「そうしてくれると、こちらも助かる。さ、冷めないうちに腹を満たしてくれ。陛下と私からの気持ちだ」
「いわずとも、およばれになるよ」
蔵人はモガーっと大口を開けて、片っ端からテーブルの料理を平らげていった。給仕のメイドが、目をまん丸くして驚いている。フリストフォルは神経質そうな眉をゆがめて、くっくっと低く笑った。
「ずいぶんと、いい食べっぷりだ。ときに、竜と戦ったと聞いたが。どうだ」
「どうだって、やられたよ。こてんぱんにな」
「そう、イヤな顔をするな。こと、武人であれば、竜との戦い、気にならないわけがない。とくに、貴殿は、氷漬けにされたにも関わらず、命を拾うた。これは奇跡的なことだ」
「知ってたのか」
「陛下が枝の採取を許さなかったのはそういうことだ。別段、意地悪をしたわけではない。あのバケモノ。青竜ズメイは、いにしえの昔からこの国の守り神として存在していたのだが、いまになって、王家に害をなすとは、はなはだ理解に苦しむよ」
「かつてはそうでなかったというのか」
「少なくとも、無意味に苦しめられたという話はついぞ聞いたことがない。我が一族は、古来よりあの世界樹から神薬とされた、極めて薬効の高い枝を選別するお役目を受けておったが、かような話ははじめてだ」
「あの青竜は砦も襲ってくるのか」
「いや。兵が傷つけられるのは、あの世界樹に近づいたときだけだ。このヴィルヘルムに陣を移してからは、城を攻撃されたことは一度もない」
「だったら、青竜はあの世界樹を守っている、というわけか」
「いままでに、三度ほど兵を送ったが、まるで太刀打ちできなかった。すでに、三百近くをのされたよ。奇妙なことに、全員誰ひとりとして、命に別状はなかった。殺すまでもないということか。不思議と世界樹に近寄らなければ積極的に襲ってくることもなかったので放置していたのだが」
「俺もそうだが、あんたたちも、あの枝が必要なんだろうな」
「いくさの最中だ。高い薬効を誇る世界樹の枝が以前の如く、定期的に接収できれば、その戦略的効果は我が軍にとって計り知れない。薬剤としてだけではなく、売却すれば多大な金穀を得るための貴重な財源ともなりえる。喉から手が出るほど欲しい。だが、陛下がな。それを許さんのだ。むざむざ死ぬとわかっている竜のあぎとに兵を放り込むことはできんとおおせられてな」
「あの枝があれば、お姫さまもよくなるだろうに」
「陛下は公私混同することによって、いたずらに兵を傷つけるのをよしとせんのだ。おやさしい方なのだ。クランド殿。聞けば、わざわざロムレスから世界樹の枝を求めてやってきたと聞いたが。難病の知り人でもいるのかな」
「ああ。俺の妹同然の、家族だ」
「病は重いのか」
「そうじゃねえ。けど、リネットは幼い頃からずっとしなくてもいい苦労をずっとしてきて、俺が目を離したすきに、奴婢同然の境遇に陥った。一端には、俺にも責任がある。彼女は、物乞い同然の俺を蔑みもせず、食事を用意し、衣服を誂え、それこそ血の繋がった家族ですらできそうもないほど世話になったんだ。彼女のは、お姫さまのような、それこそいますぐ命に関わるような病気じゃねえ。足が悪いんだ。医者がいうには、そいつを治すにはどうしたって、世界樹の枝が必要だっていってよ。確かに、脚一本ていど満足に動かなくたって、生きるのにはどうってことはねえ。けど、やっぱり治せるものなら、俺はリネットの足を元通りとまではいえなくても、少しでもよくしてやりてえんだ。彼女は若い。ビッコを引いてこの先の人生を生きるなんてより、また、昔みたいに走り回れるようになれたらってきっと思ってるはずなんだ。リネットは、ちっせえ頃からの苦労が骨身に染みてるから、そんなことはおくびにもださねえが、俺にはイテェほどわかっちまう。王家の存亡を賭けて切った張ったを繰り返す兵隊さんから見りゃ、大義もなにもないちっぽけな話だろうが、俺にはそれがすべてなんだ。できることをしてやりてぇんだ。俺は、あんまり頭がよくねえから、うまく話せねえけど、そんなところなんだ」
(そうだ。リネットがあんなふうになってしまったのは、俺の責任なんだ)
考えればドロテアの元を手前勝手に離れた時点で、彼女たちは傷つかなくともいい場所を無慈悲な大人たちによって踏みにじられ続けてきたのだ。
あのときの蔵人は、確かに普通の状態ではなかったにしろ、マゴットとの約束を果たすという理由で、あらゆる面倒事に背を向けて生き続けてきたといってもいい。
結果、奴隷商人によってとらえられた、ドロテアをはじめとする少女たちは長きに渡って辛酸を舐め続けた。ステップエルフの襲撃がなければ、シルバーヴィラゴを離れて郊外のクエストを受けるということもなかっただろうし、場合によっては彼女たちはバラバラになって、命を失っていたとしてもおかしくなかった。
「その伝からいくと、まったくあきらめた様子はないな」
「勝手に、砦を抜け出した上に、アンタんとこの侍女をさらうようなまねをした。罪は、どのようにも受ける。煮るなり焼くなりどうとでもしてくれ。ただ、それは俺があの青竜を打倒してからということで、しばらく待ってもらえないか」
「あれほどまでに、死の淵へと叩き込まれて、なおも立ち向かうというのか」
「ああ。アンタとこうして話しているうちに、腹が決まったよ。無茶苦茶いってるのは自分でも理解してるよ」
フリストフォルは目をつぶったまま、テーブルの上で両手を組んだままジッとしていた。
眉間には深いシワが寄っており、一気にひとまわりも年を重ねたかのよう見えた。
「その話の続きは、数日、待ってもらえぬか。それと、そうそう。ひとつ、忘れていた」
フリストフォルは手元の鈴を、ちりんと鳴らした。たちまち、給仕のメイドたちが絨毯の上をすべるようにして部屋を出て行った。
しばらくして、ひとりの年若い侍女が姿をあらわした。
「エリナ」
それは、先日、蔵人が拉致同然に山頂まで連れていった不運な翼人の娘であった。
「この娘は私の遠縁にあたる。よって、裁きは彼女にゆだねたいと、思ってな」
これはマズイだろう。
蔵人の腹の中を冷たい汗がひとしずく流れた。彼女は、身体を辱められた上に、命まで危うくされたのだ。自分がエリナの立場であれば、許す道理がなかった。
フリストフォルは、そっと席を立つと、奥の扉を指した。
「宴が中途半端になったのは残念だが。あとは、ふたりきりで話すといい。クランド殿。私は、軍務の時間なのでこの場で失礼する」
「あ、あはは」
フリストフォルは退室の際、すれ違いざま、ボソッと耳打ちをしていった。
貴殿の女たちにはうまくいっておくゆえ、ゆっくりしていってくれ、と。
「はあ?」
蔵人が呆然としていると、エリナがこわばった顔でズンズンと接近してきた。
(こ、殺されるかもしれん)
そんな怯えをよそに、彼女は蔵人の手を取ると、食堂の奥まった扉へと素早く引きずっていく。
(あ、あれ? この娘、なんかすごくいい匂いがするぞ)
奥の小部屋には、何人かが並んで座れる大きなソファと、小さなテーブルが置いてあった。落ち着いてみると、エリナは薄く化粧をしており、着ている服も、最初のお仕着せではなく、地味ではあるが品のいいものであった。
蔵人がおどつきながらソファに腰を下ろすと、エリナもちょこんとそのそばに座った。
よく見れば、彼女の顔のこわばりは怒りではなく、緊張しているものだと判断できた。
それよりもなによりも、エリナはなぜか自分の身体を密着させるようにしてグイグイと押しつけている。部屋の中には暖炉にたっぷりと薪がくべてあり、寒さは微塵も感じさせなかった。
「は、は。なんか、暑いな。ワイハだ、ワイハ。常夏気分だな」
エリナはねっとりとした視線で媚びるように見つめてくる。
(な、なんだいきなりこの態度は? 弾劾されるかと思いきや、このヘヴン状態。理解の範疇を超えてますよ、神さま)
「あっ」
蔵人はとりあえず、エリナの白くつややかな手を握って、まっすぐ彼女を見つめ返した。
花のようなさわやかな芳香が鼻腔をくすぐる。
股間は、あっという間に、じゃきーんと臨戦状態に変貌した。
(お、おおっ? おうっ、おおっ?)
「あなたが悪いんですよ。わたしをこんなふうな気持ちにさせるのですから」
「んほおっ、そこ、撫でちゃらめええっ」
エリナは蔵人のいきり立った独立峰を、シフトレバーを操作するように、淫靡な手つきでこね回した。これには、蔵人の孝行ムスコも直立不動明王として覚醒するしか手はない。
「って、ちょっと待て。なぜに、いきなりこんな好待遇。これは楽天家の俺でも、少しは疑いの目を向けざるを得ないんだぜ」
「ああ、我がいとしのクランドさま。こんなにもいきり立たせて。エリナはどうにかなってしまいそうですぅ」
「ってか、聞いてねえし!? ちょっ、まっ、マジでその手つきはヤバイって!!」
「ああん、すごぉい。クランドさまぁ」
「なにがだよっ。というか、いきなりなんなんだ。理由をいえ、理由を」
「ぶぅ」
エリナはむくれて頬をふくらませると、しなだれかかる。喉元に頭を寄せながら、身体を預けてくる。完全に発情しきったメスのそれだった。
蔵人は、元来、それほど思い悩む性質ではない。いつもならば、特にあれこれ考えず彼女を喰らっているところだろうが、彼女の態度は脈絡がなさすぎた。蔵人が彼女に行ったことを考えれば恨まれていても仕方がないくらいである。
それが、突如として久々に再開した恋人もかくやという態度で迫られれば、警戒もしようというものである。
「今朝のこと、見ていましたわ」
「ああ、今朝。今朝のこと?」
「妃殿下をお救いなされたクランドさまの御技。わたし、感動いたしました」
――ああ、あのことか。
「あれから、フリストフォルさまにあなたさまにお会いできるようお願いいたしましたわ。直接会って、いままでの無礼をお詫びしなければ、眠ることすらできそうにありませんもの。ああ、エリナの想いを幾分でも汲み取っていただければ、もう、今生に思い残すことなどありませんの」
(てか、瞳がハートマークじゃねえか。これは、ひどいファン心理ですね)
エリナの熱っぽい目を見れば、彼女が昼間の感動を継続したまま会いに来ているのは明白であった。一種の集団催眠に近い状態であったあの状況に彼女は居合わせたのだ。彼女の主人に対する強い忠誠心と、場の熱気と興奮がないまぜになった異様な心理状態が、贋造的英雄である蔵人という男に対する盲目的な恋慕に昇華されたのであろう。
現に、蔵人はあのあと、軟禁されている部屋へ戻る途中、幾人かの侍女からつけ文らしきものをもらった。ロムレス世界の言葉が読めない蔵人は、解読をドロテアに任せたが、真っ赤な顔で破り捨てたの見れば、内容は想像に難くない。
「あの日の続きを、いたしましょう」
「続きって……」
エリナは蔵人の膝から降りると、絨毯の上で四つん這いになって、尻を突き出した。先ほど漂った爽やかな香気は水の貴重な山頂で身体を丁寧に清めた名残だろう。
つまり、彼女は抱かれる前提でこの会見に望んだのだ。
「クランドさま。エリナは、お情けを頂戴いたしたく、存じます」
雪のような白い肌と、匂いたつような色香がむんと立ち篭めた。
理性の糸がぷつんぷつんと音を立てて、引き千切れていく。
特に拒む理由はない。そう思えば、若い男の常で、自制など効くはずもなかった。
「フヒヒ、まあそういうことなら、遠慮なく」
(ダメです、クランド。不用意に姦淫してはなりませぬ!)
――だ、誰だ。俺の脳内で叫ぶやつは!
蔵人がムッチリした尻へと覆いかぶさろうとしたとき、心の中の天使が咎め立てた。
(あなたは、歴とした妻があるのですよ。彼女は、あきらかに己を見失っています。ここは、穢れのない英雄らしく、エリナを教え諭し、淑女らしく貞操を守るよう啓蒙するのが正道をゆく者の努めです)
――で、でもよう。据え膳食わぬは男の恥っていうだろう?
蔵人は、詰まりながらも天使に反論した。
エリナは、エカチェリカを救ったという英雄の幻影に踊らされている。
ならば、いっしょに踊ってやるのが男の嗜みというものではないのだろうか。
(あなたの、いとしい妻たちの顔を思い出してください。彼女たち、悲しみますよ)
心中の天使が悲しげに語りかけてくる。
正直、グッと息が詰まった。
(バーカ。なにいっちゃってんの? んなこと、黙ってりゃ誰にもわからねーぜ)
(あ、あなたは蔵人の悪心! なぜ、ここに!?)
心中の天使が驚きの声を出す。蔵人の欲望を正当化するため、負のもっとも濃い部分、悪魔が深層心理にこうべをもたげてあらわれたのだ。
(このネーチャンは、蔵人に抱かれたくって、勇気を振り絞ってここまで来たんじゃねーか。こぉんなおぼこ娘が、自分から男を誘うなんざよくせきのことだぜ。断りゃ、きっと一生深く傷つく。喰っちまえ、喰っちまえ。それこそ功徳ってもんよ。へへ。なあ、見ろよ。エトリア女の雪に磨かれた肌の白さをよ。連れてきた女たちは、屋敷に戻ったって、それこそ、これから先、飽きるほど抱けるぜ。旅先で、一夜妻を楽しむってのも男子の本懐よ!)
(い、いけませぬ。なりませぬ、そのような不埒な行為は! 妻。妻たちに悪く思わないんですか! 恥を知りなさい、蔵人よ。このような悪魔の囁きに耳を貸してはなりませぬ)
――うん。てか、それも俺の心の一部なんだけどね。
(なーにを、いい子ぶってんだか。ほらぁ、あのケツみろよ。プリっぷりしてやがるぜ。合法だよ、和姦だよ、愛のあるまじわりだよ。誰も無理無体に、強姦しろなんていってねえ。お互いに楽しみゃいいんだよ、楽しみゃよ!)
(ダメええええ、不義反対ぃいいいいっ!! 正道をゆくのですっ!)
(ハハハ、これはこれは。おふたりともなにを争っているかと思えば)
(あ、あなたさまは!)
(おっ、軍師殿じゃねえか。てめぇもケチつけようってハラかよ)
――おいおい。またおかしな野郎が脳内に。
蔵人の脳内会議に、新たな人物が登場した。
中華風の冠をかぶり、右手に扇を携え、深層意識からやってきた心の中の軍師である。
(軍師殿、軍師殿っ。あなたさまは、姦淫に反対ですよねっ)
(あっ、コノヤロー。卑怯にも抱き込みにかかりやがって!)
(これはこれは、天使殿は。エリナをこのまま返せば、万事うまくいくとお思いか)
軍師は扇をゆったり使いながら、大人風に告げた。
(だってそうでしょう! 蔵人は、彼女が思い描くような高潔な人物じゃないんですよ! エカチェリカ妃殿下を救ったのだって、たまたま心肺蘇生法が成功しただけであって。この男は、このかよわき娘に、日頃妻たちにできない超絶変態プレイをやろうと思ってるに違いなんですよ! 彼女を丁寧に諭して純潔を守るようにいい聞かせるのが聖人の道ではないですか!)
――ふざけんなよ、コノヤロー。
蔵人は天使を密殺しようと指の骨を鳴らした。
(なんとも小児病的発想ですな)
(な、ななな、なにをっ)
(天使殿。あなたは、エリナをこのまま抱かずに返せば、物事がすべてうまくいくと思っているようだが、そのことこそ大きな勘違いだ。彼女は、蔵人に拒まれれば、間違いなく逆恨みに思うでしょう。その害は、まったくもってこれから行うつもりである世界樹の枝入手作業、しいては青竜討伐に対して禍根を残すことになる。フリストフォルがゆっくりしていけといったのは、エリナからの根回しを充分に受けてからの発言であったと思い至らなかったのは、あまりにも浅慮。それに、彼女が身体を捧げるというのは、王子からの感謝の意味合いも含んでいるのですよ。謝礼を拒めば、角も立とうが。いらざる軋轢を生むよりも、エトリア女とまじわることによって、断ち難い擬似的血縁関係を構築することこそ、寛容なのですぞ。それに、一度寝ればこの女、情が生まれます。他国において仲間は多いほうがいい。また、彼女は翼人の一族であり、そういう意味でも有効に活用できるはば、というものを作ることができると、なぜ考え至らぬのでしょうか)
(ぐ、ぐぬぬ)
(ぐぬぬではない、愚か者め。というか、悪の心がずいぶんと静かですね)
(つーか、さぁ。もう、話してる意味なくね? もう、旦那はやっちゃっておますがな)
(え?)
(え?)
「……あれ?」
気づけば蔵人はエリナへと後ろから襲いかかっていた。
合体である、パイルダーオンである。
彼は心の中で葛藤しながらも、すでに直結を果たしていたのであった。
深層心理にあった、善心、悪心、軍師が無表情のままスっと消える。
極めて意味のない心の葛藤であった。
――ま、いっか。うひょおおおっ! 気持ちえええッ!!
そして、熱い夜が明ける。




