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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第1章「遥かなる旅路」
11/302

Lv11「嫉妬魔女」






 あの三人を仲間にするなんて冗談じゃないと、マリカは蔵人の言葉を強硬に否定した。

 マリカの気持ちはわかった。ルークは冒険者といっても、ほとんど素人同然の駆け出しだし、ゲルタはただの村娘。なりの大きなジョージは馬力だけはありそうだったが、勇気の方は常人以下。蔵人が戦っている間は、ゲルタの背に隠れて震えていたとのことだった。

「あんな人間たちなんか放っておいて、小屋に帰りましょう。いまなら、離れているから、どうせわからないわ」

 蔵人たちは、露営地から離れた場所で、密かに話をしていた。万が一にもマリカが森に住む魔女だと気づかれては面倒だ。彼女の話によると、首尾よく蘇りかけている邪神を再封印できたとしても、少なくとも一年以上は、結界に魔力を送り込み続ける作業を行わなければならない。蔵人は彼女の魔術の腕前は相当なものだと思っている。その彼女が、ここまで使命感を持って行っているのであれば、その労苦や難易度はよほどのものであろう。

「邪神を封じることができるほどの魔力を持っているのは、いにしえから血を残す私たちだけなの。ハイエルフ以外に、かのものをこの地の龍脈に縛りつけられる存在はいないわ。ねえ、クランドわかってちょうだい。はっきりいって、彼らのお守りをしているほど、それほど余裕がないの」

「それって、ゲルタたちをこの危険な森に置いていくってことだろ。そりゃねえだろ、彼女は俺を心配して探しに来てくれたんだぜ」

「ふん、どうだか」

「なんで、いきなりそんな意地悪いうんだよ」

「ねえ、あのゲルタって女のこと、好きなの?」

「んだよ、藪からスティックに。ん、そうだな。結構好きだよ。やさしいし、村ではいろいろよくしてもらったからな」

「私だって、いろいろしてあげたじゃないっ! ごはんも作ってキチンと食べさせたし、家にも泊めたわ!!」

「ばか。いきなり、なんでデカイ声出すんだよう。みんなに気づかれちまうじゃねえか」

「ばかはそっちよ。ふん、あんなゲルタって女のどこがいいわけ。安っぽい顔だし、頭の程度もきっと安っぽいのよ」

「おい、よく知らない人の悪口いうなよ。見損なったぜ」

「なによ、なによ!!」

「ちょ、だから落ち着けって……」

「とにかく、あの女はイヤなのっ! なんで、なんでわかってくれないの!? わがままいってるのはそっちじゃないの。あの村の人間は、ずっと私を殺そうとしていたのよ? どんな顔で仲間だとか、歯が浮くような嘘をつかなきゃならないのっ」

「そんな、話せば分かるさ。犬養毅並に」

「ねえ、クランド。私たち、ずっとふたりで仲良くやってきたじゃないの。邪神だって、私の魔術とあなたの剣の腕……ちょっとへっぽこだけど、それがあれば立派に果たせるわ」

「んん? ははーん、さては」

「なによ」

「ヤキモチ妬いてるな、俺とゲルタのこと」

「――ばかっ、もう知らないッ!!」

「あいとわあっ!?」

 マリカは蔵人の頬を思い切り張りつけると、頭から湯気を出して、その場を立ち去った。

 蔵人はビンタの反動で背後にひっくり返ると、浮き石を踏んづけて体勢を崩し、頭を木の幹にしたたかにぶつけて、ゆるい屁をこいた。ちょっと、水っぽいのも混じった。

 翌日から、マリカの蔵人に対する態度に変化が見受けられた。彼女は、必要以上にルークに対し親密さを表すようになった。ルークの話をさも関心があるように聞き、手を取って微笑んで見せ、食事のたびに、側に寄り添って給仕を務めた。

 だが、この作戦は蔵人に有効たり得なかった。

 彼は、探索途中においてゲルタとベッタリだった。

 つまり、ほとんど意識がマリカから離れているのである。蔵人は自意識過剰なところがあり、マリカがまさかぽっと出の男に寝取られるなどと思いもよらず、仲がいいな程度にしか思っていなかった。近視眼的に恋愛行為に没頭するのが彼の悪い癖であった。無神経ともいえた。

 蔵人とゲルタがほとんど、顔を寄せ合うようにして、いちゃつきまくり、マリカの顔色からは平常心が失われていった。まずいと思い、ルークから急速に離れたマリカであったが、若いルークが彼女の稚拙な演技にハマりきり熱を上げてしまったのは、自然なことであった。






「はあ、あともうちょっとで、ダンジョンが見えてくるかァ」

 蔵人は、ゲルタたちと合流した次の夜、ひとり野営地を離れて小用をたしていた。

 彼が筒先を振って雫を切っていると、背後からぬっとひとつの影が飛び出した。

 マリカである。

「のわっ!? い、いきなり出てくるんじゃねえっての!」

「ちょっと、粗末なもの向けないでちょうだい。それより、ちょっといい」

「な、なんだよ。おっかねえ」

 蔵人が見るところ、マリカは無表情だった。とんがり帽子を目深にかぶっているので、瞳が見えない。高く整った鼻だけが僅かに震えていた。

「デレデレするのもいいけど、この辺一帯。囲まれてるわよ」

「ええっ!?」

 マリカの声に異常を察知した。蔵人は、下穿きを上げて即座に皆の元へ戻るが、すでに戦いは始まっていたのだ。天幕を張った野営地周辺には不気味な黒い影が少なくとも、三十近く蠢いていた。ルークが、剣を振り上げて、三体ほどのモンスターと戦っている。

 その奇怪なモンスターは、樹木に手足が生えて二足歩行をしている。闇夜に輝く黄色い瞳は見るものをゾッとさせる底知れぬ嫌悪感を引き出した。

「あれはエビルエント。本来なら、森を守る木人が邪神の気を受けて悪鬼と化したものよ。気をつけて。数は多いけど、その一体一体が相当手ごわいわ!!」

 ほんの少し、目を離しただけで、先ほどまで楽しい夕餉をとっていたくつろぎの場は、惨劇の舞台と化していた。

「くっそおおおっ!!」

「ああっ、ジョージ! ジョージッ!!」

 ルークは真っ赤な顔で、大きさが百五十センチほどのエビルエントとつばぜり合いになっている。荷担ぎのジョージは、右腕を傷つけられたのか、座り込んだまま動けなくなって、ブルブルと震えていた。

 ゲルタはジョージにしがみつくと、発狂したように泣き叫んでいる。

「早く、クランドさまっ、早く!! ジョージを、ジョージを助けて!!」

「わかった、いますぐ行く」

 蔵人は長剣を鞘走らせると、目の前のエビルエントに向かって激しく斬りつけた。

 ガッと、乾いた木が裂ける音が鳴った。邪悪化した木人は横倒しになりながらも、右腕を無茶苦茶に振り回す。手先は尖った木の枝になっていて、鋭い凹凸が刻まれている。蔵人は右足の腿を素早く斬りつけられて、眉をしかめた。

「このッ! 火炎小刀フレイムナイフ!!」

 マリカの杖先から、二十センチほどの炎の刃が鋭く撃ち出される。

 シュシュッと火が激しくほとばしった。

 真っ赤な火箭がエビルエントの身体を切り刻んだ。

 メラメラと燃え盛りながら崩れ落ちるモンスターを蹴りつけ、蔵人は顔をしかめた。大腿動脈を傷つけたのか、驚くくらいに大量の血が流れ出る。膝を突きそうになったとき、ゲルタが再び黄色い絶叫を上げた。駆け寄って長剣を無我夢中で振るった。

 蔵人の振るった長剣は、闇夜に、幾筋もの銀線を残して、都合三体のエビルエントを瞬く間に蹴散らした。

「急いでここから脱出するぞ!!」

「待って、クランドさまっ。ジョージ、ジョージが歩けないのっ」

 ゲルタは泣きながら、ジョージの胸に取りすがっている。

「どこか、ケガをしたのかっ!」

 ルークが迫ってきたエビルエントに体当たりをしながら、悲鳴のように引きつった声で叫ぶ。多数のモンスターに囲まれたショックで、彼も平静を失っていた。

「こ、腰が、抜けて――」

 ジョージは、右腕を少し切り裂かれただけで、一見したところ、大きなケガはなかった。

 完全に腰が抜けているのだ。

 恐怖と痛みのショックで、一時的に動けなくなっているだけだ。時間を置けば、自分で立つことは可能であるが、それを許してくれるほど鷹揚なモンスターではなさそうだった。三十程度だったエビルエントの群れは、もはや周囲の草地を覆い尽くさんばかりであった。 蔵人がザッと見回したところ、その数は百をはるかに超えている。踏みとどまって戦っても意味はない。

「お願い、クランドさま。ジョージ、ジョージを見捨てないで!」

「なんていう腰抜けなんだッ!」

 ルークがイラついて座り込んだままのジョージの腹を蹴った。

「やめてよっ、ひどいことしないでっ!!」

 蔵人が見たところジョージの体重は百キロを超えている。それでなくても、自分は太腿を大きく傷つけている。紋章の力は徐々に発動しているが常識で考えると大腿動脈のケガは、場合によっては数十秒で死に至る致命的なものだ。

 踏ん張りが効くかどうかだな。ジョージの側にかがむ。マリカが青ざめた表情で叫んだ。

「あなた、その足で正気なの!?」

「ああ。俺はいたって正気だよ、と。クッソ、重てぇな。なに食ってんだよ、クマかオメーわ」

「す、すみません」

 蔵人はジョージを背負うと、痛みをこらえながら全員の前に立ち、エビルエントの群れに斬り込んでいく。焦った声で、マリカが魔術を詠唱し始めた。無数の火箭が背後から飛び交い、黒い影を打ち崩していく。

 蔵人は、激しくあえぎながら、長剣を左右に振るった。濡れた血液で靴の中がジャブジャブ音をさせている。

 ルークが必死の形相でエビルエントに向かって長剣を叩きつけているのが見えた。

 記憶がかすみそうになるほど動き回り、なんとか、深い洞穴を見つけられたのは奇跡だった。全員が無言で穴に逃げ込む。

 それから、どのくらいそうしていただろうか、まもなく世が白々と明け始めた。

「ねえ、血はもう止まったの?」

「ダメだ。なんでだろう、今日に限って」

 蔵人は血の気をなくした顔つきで、マリカに向かって答えた。ゲルタはジョージにつきっきりで、離れて座っていた。

 ルークは、茫然自失とした様子で膝小僧を抱えたまま、ブツブツと意味のない繰りごとを延々とつぶやいている。

 マリカはゲルタの居る方向を睨むと、蔵人の隣に座って泣きそうな顔をしている。

「あなたの、契約の紋章。やはり、完全じゃないのよ。だから、ケガも中途半端なまま回復しない。即死はしなくても、これじゃまともに歩けるまで、どれくらいかかるかわからないわ」

「すまねえ、ドジ踏んじまって」

「エビルエントたちは極端に目が悪いの。耳は聞こえないし、あの付近に近寄らなければ、もう襲ってくることはないわ。ここなら、安心よ。でも、他のモンスターがいつ来るかわからない」

「くそ」

「クランドさまっ、ここにいたら危険よ! 早くここから逃げ出して、森を出ましょう」

「ちょっと待って。もしかして、あなたこの状態のクランドにその役たたずを担げって本気でいってるの?」

「……クランドさま。無理を承知なのは知っています。でも、ジョージは、ジョージは、村に四人の弟と老父母を残しているのです。あたしも、彼を雇いれたからには、彼を責任持って村に返す責任があります。心苦しいいですが、ここは」

「ふん。雇う? 責任? ゲルタ、安い村娘の田舎芝居はそれくらいにしなさい。この、私が目明きの盲人風情とでも思っているの? どう考えても、あんたの態度は、その作男とできているとしか思えないわ」

「ば、なにをバカなッ。ねえ、クランドさま。クランドさまは、あたしのことを信じてくれますよね! このゲルタとジョージをお見捨てになんかなりませんよね」

「ああ、もちろんだ」

「クランドッ、あなたって人はどこまで愚かなのッ」

「たださ、ちょっとばかり足をケガして上手く動けねえんだ。もう少し、待ってくれよ。そうしたら、血も止まるし、それからならおまえたちを村まで送ってやれるから」

 ゲルタはそこではじめて蔵人の負傷の程度に気づいたのか、冷えた目つきでジッと立ち尽くし、やがてジョージの側に戻っていった。

「なあ、マリカ。あの、ばびゅーんって戻るやつ、使えねえのか?」

空間歪曲ルームのことなら、ごめんなさい。もう無理よ。魔力切れ、完全に」

「八方手詰まりか、くそ」

 蔵人がしばらくまどろんでいると、隣に座っていたマリカもそれに習って眠りこけた。

 ふたりがしばし寄り添って、どちらとなく目を覚ます。洞穴の入口を見渡すと、そこにはもう、ゲルタとジョージの姿はなかった。

「ふたりなら、さっき出て行ったよ」

 側に寄っていたルークが暗い声でいった。

「そう」

 マリカは鼻で笑うと、忌々しげにふたりの去っていった方角を見やった。

 蔵人はしばしの間、絶句したまま放心していたが、やがて頭髪をガリガリ掻きむしり、ほうとため息をついた。あれだけなついていたフリをしていて、こうも簡単に置き捨てられたのはショックだった。蔵人は思慮深いとはいえないが、切り替えの早いのが美点だった。ウジウジ悩んでいる暇はない。この先、どうやって生き残るかが肝要だった。

「んじゃ、さしあたってこれからどうすっかだな」

「そうね」

「魔力はどのくらいでも戻りそうなんだよ」

「うん。二日はかかりそう」

 その間に強力な怪物に襲われればおしまいである。装備のほとんどは、野営地に置いてきてしまった。

 蔵人が両腕を組んで、これからの行動方針を必死で模索していると、ずっと押し黙っていたルークが突如として立ち上がり、いきなり踊りかかってきた。

 まさか、仲間であったルークがこんな暴挙に出ようとは、思いもしない。完全に無防備だった横っツラを張られ、後頭部を硬い岩に強烈にぶつけた。

「あああああっ!!」

 ルークは蔵人に馬乗りになると、両腕を振り回して無茶苦茶に殴りつけ始めた。

 なにかが乗り移ったとしか思えない狂気を孕んで、拳の雨が降りそそぐ。

 ルークの瞳を直視する。黄ばみがかった正気を失った目だった。

「ちょっと、なにしてるのよっ。やめっ、やめなさいっ。きゃっ!!」

 ルークは止めに入ったマリカを跳ね飛ばすと、のしかかって妄言を吐き連ねた。

 口元から白い泡が蟹のように吐き出されている。マリカの端正な顔が、濁った唾液で装飾されていく。彼女の顔は嫌悪感で強く歪んだ。

「ああああっ、マリカッ! 僕のマリカッ。ににに、逃げよう。僕と逃げよう。僕ら愛し合っているんだものね。だ、だだだだいじょうぶだよ。僕が守るから。わるーいやつから、僕が守るからッ。ここを出て、安全なところにいって、式を上げようね。たた、たくさん子供を作ろう。つつ、つくろう。ああ、その白い肌を、滅茶苦茶に汚して、孕ませてあげるよおおおおっ!!」

「やめ、やめてええっ。助けて、クランドッ!!」

 蔵人は頭を振って覚醒すると、呆然といま起きた出来事を脳の中で反芻した。とてもではないが、咀嚼しきれない。世界が一瞬で崩壊した気分だ。

「って、呆けてる場合じゃねえ。あの野郎、マリカを一体どうするつもりだってんだ!!」

 右足をかばうようにして這うように外へ出た。朝焼けが空へと真っ赤に輝いている。目がくらむと同時に、濃い邪気を感じ取った。光り輝く世界のあちこちが剥がれ落ちていく夢想に神経を苛まれる。

 そうか、ルークもこれにやられたのだな。

 瞬間的に、彼が意識を喪失した意味を悟った。心を強く持たねば、立っていられない。

 陽光の中の木々がセピア色に変わっていく。痛みをこらえて立ち上がった。転げ回りそうな強烈な痛みが、脳天から尻の穴まで一瞬で駆け抜けた。歯を食いしばり、唇を噛んでこらえた。その光の中で、途方もない怪物を目の当たりにした。

 巨大な胴体が森林の木々を無造作にへし折りながら、前進してくる。

 うねり狂う九つの頭は蛇に似て、赤黒い背びれのようなものが風にはためいていた。

 大きさは全長で二十メートルを越すだろう。

 おおよそ、七階建てのビルが動いていると思えば間違いない。

 絶対に切り結んで勝てない相手だと本能的に悟った。

 ヒュドラ。

 森に住む最強のモンスターにして邪神を守る最強の盾である。

 九つの首は、鈍色の鱗をすり合わせ、ジャリジャリと鳴らしながらその鎌首をもたげた。

 狙うは、立ちすくむルークとマリカの影。

 走った。瞬間、完全に痛みを忘却した。

 マリカが力を振り絞って、ルークから離れるのを見た。神はいる。なぜかそう思った。

 蔵人は激しく叫びながら、マリカを横抱きにすると、振り返らず走った。

 ひゅっと、ひとつの首が斜めに素早く動いたのを、視界の端で捉えた。

 顔だけ振り返る。身体中の血液が凍りつく。

「バケモノがッ!!」

 そこには、ルークの身体をひと呑みにする、絶対的強者の姿があった。

 ヒュドラは禍々しい瞳をギラつかせて、男の身体を一気に呑み干した。

 いまだ、息があるルークはヒュドラの喉仏辺りでしきりに蠢いていた。

 表の皮膚が激しく動くことでわかった。

 やがて全身の骨を筋肉の蠕動でバラバラにすり潰されたのか、ピクリともしなくなった。

 平らにならされた肉は、やがてヒュドラの強烈な胃液によって溶かされ栄養の一部となるだろう。

 痛みを気にする暇もなく、息が続く限り走った。激しい殺意が遠のいた場所でマリカを降ろして、木の根元にしゃがみこんだ。全身が鉛を呑んだように重い。

 もう、一歩も動けそうにない。マリカが心配げに顔を覗き込んでいる。軽口を叩く舌も動かせそうにない。無理矢理にほほ笑んで見せた。

 マリカは下唇を噛んでこらえて、眉間にシワを寄せていた。

 右腿の傷が開いたのか、股間の辺りまでぬるまった血が浸っていた。右腕を動かそうとするが、ほとんど感覚がない。握った手のひらを開くと、剣がすべり落ちた。上半身を動かして拾おうと努めた。柄を握り込んで持ち上げようとするが、微動だにしない。

 蔵人は自分から握力が消え失せていることに気づき、驚いていた。

「マリカ。俺の剣を、鞘に収めてくれ」

 死人のようなかすれた声だった。こんな口調では、彼女を怯えさせるだけである。マリカは激しく顔を縦に振ると、長剣を拾って鞘に収めた。

「逃げろ。……剣を持って」

「なにをいっているの。なにをいっているのよ、クランド! ばかなことをいわないでちょうだい!! あなたを置いてゆけるわけないじゃないッ!!」

「いつかさ、いっただろ。本当にやばいと思ったら、すぐに逃げてもかまわない。決して、恨んだりしない。俺も、同じ意見だぜ」

「やめて、やめてちょうだいッ! 聞きたくない、そんな言葉聞きたくないの!!」

 マリカが胸に取りすがって震えていた。そっと手を伸ばして頭を撫でる。

 マリカが引きつった顔を手のひらに擦りつけてくる。

 捨てないでと懇願する子犬のように、小さく憐れで、悲しかった。

「遠いけど、エントのところまで戻りましょう。あそこには簡易的な結界もあるし、身体だって休めるわ。時間さえあれば、私の魔力も回復する。そうすれば、小屋まで戻って傷の手当もきっとできる」

「あの、蛇の化物。なんていうんだ」

「……ヒュドラよ」

「あいつが、村まで攻め寄せていかないとは思えない」

「時間の問題でしょうね」

「なら、なおさらだ。あいつは、決着をつけなきゃならねえ」

「ねえ、いいかげんにしてッ! 人間て弱いくせに、すぐ死んでしまうくせに、なんでそこまで英雄ぶるのよ! 怖いんでしょう? さっき、あなたが震えているの見えたわ!! それとも、格好よくヒュドラを退治して、本当の勇者にでもなりたいつもりなのっ! クランド、あなたのやろうとしていることは勇気でもなんでもないっ、ただの命知らずの大馬鹿野郎よっ!!」

「マリカ、おまえは邪神を諦めることなんでできないだろう」

「それは」

「なら、この森でいずれかち合うだろう。早いか遅いかの違いだ」

「あなたが、勝てるわけないじゃない」

「けど、あいつを倒さなきゃ、マリカを守れない」

「クランド……!!」

 マリカは目を見開いて絶句すると、すぐさま顔を伏せた。

 小さな肩が小刻みに揺れている。蔵人は立ち上がろうとしてバランスを崩し、尻もちを突いた。膝が完全に効かなくなっているのだった。マリカが飛びついて、頭を脇に入れてきた。無理矢理に持ち上げようとしていた。真っ赤な顔で満身の力を込めている。必死の形相だった。

「おい、無理すんな」

「もう、ばかのいうことを聞くのはやめにしたの。とにかく、エントの居る野原まで戻ります。これは、決定事項よ」

 蔵人はマリカに支えられながら南に向かって歩き出した。エビルエントに襲われた野営地からエントの居る場所までは、通常の移動スピードで丸一日はかかった。

 いまや、傷つき歩行もままならぬ身体である。

 おまけに、食料も水もなく、モンスターに襲われれば自衛もままならないであろう。

 蔵人はマリカの行動方針に乗った。

 万全の態勢ですら、あのヒュドラという怪物にはかないそうもない。

 その上、いまだ邪神のいるダンジョンにすらたどり着けていないのだ。

 ルークの狂乱は、邪神の封印が完全に解けかかっていることを意味しているのだろう。

 そうでなければ、あのように惑乱するということは考えられない。

 時間が経つにつれて、森そのものが魔境に変わっていく恐怖感があった。

 空を見上げれば、世界は白々とまぶしい光に満ちあふれていた。

 今日、日が沈むまでに、この命を永らえていられるだろうか。

 マリカにとって、蔵人の百八十を超える背丈と、八十キロ近い体重を支えるのは苦行でしかないだろう。彼女は、百六十に満たぬ小柄な身体である。腕も細く、重いものなどを持ったことがないような、小さくやわらかな手をしていた。勇者の証である不死の紋章イモータリティ・レッドは沈黙したままだった。所詮、安易に手に入れた力は、命の分岐点とでもいう最後のギリギリの場面では信用できないのかもしれない。かといって、蔵人の中には積み上げてきたものなどなにひとつない。男に残されたのは、どんな苦境であっても抗い続ける、生を渇望する根源的な意思だけだった。






 気づけば蔵人は意識を失って倒れ伏していた。自分がどこにいるかわからないほどの圧倒的な闇であった。胸の上に、なにかかけ物がしてある。鼻を動かすと、かすかに甘い女独特の体臭が香った。マリカの匂いだった。彼女が羽織っていたマントが胸の上にかぶせられてある。次第に目が慣れてきたのか、顔を少しだけ上げて視線を凝らした。深い樹林帯の頭上を覆う雲が、瞬間的に動いて切れ間を生じさせた。パッと、辺りの光量が増した。見覚えのある、銀色の髪が、僅かに差すかすかな星のきらめきで見えた。マリカだ。なにか乗っているような重みは、彼女のものだった。

「マリカ、マリカ」

「クランド、気づいたのねっ」

 マリカは、抱きつくようにして顔を寄せ、赤い瞳を潤ませて、頬ずりをしてくる。冷たく、白い肌がやわらかかった。

「ああ、美人にここまでスリスリしてもらえるなんてよ。生き返った気持ちだ」

「ばか。でも、それだけ軽口がいえるなら、もうだいじょうぶそうね」

 マリカはそのまま胸元に顔を伏せて、ジッとしていた。ひんやりとした夜の冷気の中、くっついている彼女の温度だけが、まだ生きていると確信させてくれる。

「どこだ、ここは。俺はいつの間に、気を失って」

「うん。あと、もう少しでエントのいる場所につくと思う」

「運んでくれたのか」

「苦労したわ。あなたって、とっても重いのね。こんな重いもの運んだのは、生まれて始めてよ。まったく」

 蔵人は背に、ゴツゴツした戸板のような感触を覚え、マリカに訊ねた。聞けば、背中の板は、マリカが近くで見つけた猟師の避難小屋から調達したものに、ツルを通して即席のタンカをこしらえたものであった。

「廃屋は、かつてコボルト族が使っていたものみたいね。邪神の復活が近づいて、辺りのモンスターが活発化してからは完全に廃棄したみたいだけど、まだ完全に腐ってなくてよかった」

「おい、ちょっと待てよ。その手はなんだ」

「あら、気づかれちゃったかしら。ふふ、慣れないことはするもんじゃないわね」

「おまえは……いったい、どれだけの時間、俺を引いていたんだよ」

 マリカの咄嗟に隠した両手のひらは、長時間、タンカを引きずっていたせいで、ズタズタに切り裂かれていた。荒い、植物のツルをどれだけの時間握りこめばこうなるのだろうか。彼女の手のひらはヤスリで削ったように、表皮が隙間なく剥がれて、一部、ピンク色の肉が露出していた。血液とリンパ液の混じったものが止まることなく、流れ出ている。赤黒い体液は、彼女の手首のつけ根までを、粘度の濃い液で汚していた。

「ケガをするって、本当に痛いわ。でも、あなたをちゃんとここまで引っ張ってこられたのよ。感謝されこそすれ、どうして怒らなければならないのかしら。理解に苦しむわ」

 蔵人は上半身を無理やり起こすと、マリカを強く抱きしめた。彼女は、子犬が鼻を鳴らすように、くふん、と甘えた声で鳴いた。

「マリカ、ありがとう」

「いいのよ。私はずっとあなたに助けられた。きっと、生きてこの森を出ましょう」

 マリカがいうには、蔵人が気を失っていたのは、二日ほどであった。その間を彼女はたったひとりで、投げ出さずに、アップダウンの激しく続く森の中を黙々と蔵人の巨体を引いて歩いたのだ。ふたりは、植物のツルを噛んでかろうじて水分を補給し、ようやくその夜は眠りについた。モンスターに襲われなかったのは、単純に運がよかったのか。それとも、ヒュドラの強大な殺気を感じ、辺りからすべての生物が逃げ失せたのか。

 怪物に襲われずなんとか朝を迎えることができた。蔵人は、半ば引きずるようにして右足を動かし、エントの元へと進んだ。心なしかマリカの表情も明るい。聞けば、昨日と今日で、ある程度は魔力を回復したらしい。空間歪曲ルームを使うには、あと半日くらい溜めれば特に問題はなく使用できるとのことだった。

 蔵人たちが希望を打ち砕かれたのは、まもなくだった。

 苦労してたどり着いた朝もやの中。

 野原の中央部にそびえ立つ、心やさしい木の精であるエントの身体は、ゴオゴオと激しく音を立てて、真っ赤に燃え盛る姿が地獄絵図のように網膜に飛び込んできたのだった。



 



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[一言] 盛り上がりがわからないのと、描写がわかりづらい気がする。
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