Lv1「間違いだらけの勇者召喚」
とにかく風の強い夜だった。
大学二年生である志門蔵人は、うっすらと生えた顎鬚をしごきつつ、手元のスマホに目を落とした。
履き古した安物のジーンズに、傷だらけのワークブーツ。
どこの店で買ったか、あるいはどうしてそれを購入する気になったのか、街着には不向きなオーバースペック気味のフライトジャケットだけが唯一、暖かそうだった。
肌を切る冷気に鼻の頭を真っ赤にしながら、かじかんだ指を動かす。
畜生、上手くタップできない!
イライラしながら、皮脂で曇った画面を袖口で拭った。
季節は十二月、駅の改札口は吐き気がするほど大勢の人間で埋め尽くされている。
どこからか風に乗って流れてくるジングルベルを聞き流しながら、激しく舌打ちをした。
遅い、とにかく遅い。どうしたんだよ、俺の桜子ちゃんは。
と、蔵人が胸の内で呟いているのは、別段彼の恋人でもなんでもなかった。
そもそもが、桜子とは、実際に会ったことはない、ウェブ上の女である。
(落ち着け、俺。サークルのチャラ男先輩がいってたじゃないか。ドキワクメールに不可能はないって。フォースの力は信じないでも、ネットの無限の力を信じないでどうするよ)
蔵人が現在盲信しているのは、良識者が揃って眉をひそめる、いわゆる出会い系サイトであった。夏から、秋にかけての合コンで乱行の限りを尽くした蔵人は、半ば、二年間所属していた自サークルを放逐されており、それを不憫に思った先輩が、ひとつの方法として出会い系を薦めたのである。理由は単純。女とヤリたいからである。
蔵人はどちらかといえばローテク人間であったので、この方法は、ロコポロ(※目からウロコがポロリと落ちる)であった。
近頃は、発狂した猿のようにスマホにかじりつく日々が続いた。
そしてついに、幾多のメールのやりとりを続け、現実で会うまでにこぎつけたのは強い執念のなせる業であった。
ドキワクネーム桜子ちゃんは二十四歳の介護士と自称していた。
文面上ではセクシーな上に適度にオツムが不自由で、現状に不満が溜まっており、ワードの端々から察するところ、なんかすぐやらせてくれそうであった。
というか、ヤリたい。
写メの交換を何度頼んでも中々渋って送ってはくれなかった。
まさか、サクラではないのか? 桜子だけに?
蔵人の脳裏に不吉の二文字が激しく浮かんだ。
そんな折、奇跡が起こった。つまりは、昨晩の夜に一通の写メが送られてきた。
大当たりである。
明るいブラウンの巻き毛に、パッチリとした大きな瞳。
いつまでもむしゃぶりつきたくなる、分厚い唇。
すべてが、蔵人の理想だった。
「ゆこう」
男の荒ぶる魂が動くのは自然の理だった。
待ち合わせの時間は、とうに一時間以上過ぎている。男ならば、ここで諦めて、京王線を乗り継いで堀之内に向かうべきである。激しいジレンマが襲い来る。泣きたくなるのだ。すっぽかしを受けると。自分が、世界から拒絶されているような気分になる。
蔵人が財布の中身を調べようと、尻のポケットに指を伸ばしかけたとき、きゃるきゃるした声が背後から飛んできた。
「クランドさんですかぁ?」
間違いない、神は自分を見捨てなかった。
割と好みの女の声である。脊髄反射で動いた。
「あ、はい! ボクが蔵人、で……す」
蔵人は振り返った瞬間に機能を停止した。
樽を想起させる巨大な胴はロシア人の中年女性もかくも、という圧倒的なものだった。
強烈な寒気や風雪に耐えるべく環境に適合したその身体は、海獣を思わせる、映像の暴力であった。いうなればセイウチ。とにかく事前に貰ったメールとはまるで違う。スっと血の気が引いた。
(マジックか? マジックなのか? たかが大学生ひとり騙すためにハリウッドの特撮技術班がドリームチームを結成したのか。修正ってレベルじゃねーだろ。それとも、この肉襦袢を切り裂けば、封印されし乙女がぱぱーんと飛び出てくるのか? ねぇよ。俺、現実を認めよう。これは、ただの、モンスターだ……!)
つーか、合ってるのは髪の色と性別くらいじゃねぇの?
「わ。わっかーい。マジで、おっさんじゃないじゃん。うんうん、今日はおねーさんがたっぷりかわいがってあげるよん」
セイウチはシナを作ると、巨躯を震わせ猛然と迫ってきた。蔵人の全身が、防衛反応を起こし、無意識のうちにファイティングポーズを作り出す。
(かわいがるって、それってどこの相撲部屋の話ですか? かわいがりですか? 金属バットや竹刀でぶん殴って、ほおら撫でてやったぞ、ははは、笑え。とかいうんじゃないでしょうね)
「あれれ。緊張してるのお? もお、かーわいい」
ふざけるな。蔵人は目の前の怪物に殺意を覚えた。
ともすれば、臨戦態勢になりかかっていた息子が収縮して怯えている。
(孝行息子だったのに!)
蔵人は激しく天を呪い、いますぐ大地が裂けて世界を飲み込んでくれないかと魂の底から懇願した。
「俺に触るな」
「へ?」
セイウチの表情が弛緩したものに変わる。どちらにしても醜悪極まりなかった。
「俺に近づくな、セイウチよ。海に還るがいい」
「んんんっ。ひ、ひっどーい!!」
「るせえ、ボケが!! 死ね!!」
だっ、と飛び上がってドロップキックをかます。
分厚い肉壁の中央部に両足がめり込む。濁った断末魔めいたものが、夜の街に響いた。
蔵人は踵を返すと、凄まじい速度でその場から走り去った。
桜子ちゃんは、きっとあのモンスターに飲み込まれてしまったんだ、と心の中でいまだ会えぬ想い人に謝した。
駅の階段を駆け下りながら、盛り場を駆け抜ける。
蔵人は白い息を吐きながら、いつの間にか見知らぬ公園にたどり着いていた。
「神は死んだ」
腰に手を当てながら、背筋を伸ばした。小銭を取り出すと、入口の自販機でコーヒーを購入し、ベンチに据わった。飛び上がりそうなほど冷たい。プルタブを開けて中身を一気に煽る。鉄臭い安物の味が喉へとジワっと広がった。泣きたい気分で空を見上げる。
「ああ、こんなことなら聖夜の男祭りというイベントに参加するべきだったか」
蔵人は敗退して帰って来た自分に対する悪友たちの手厚い歓迎を想像し、顔面をクシャクシャにした。イベントには出ない。負け犬の群れには戻りたくなかった。
このまま帰っても、待っているのは安アパートの冷たい布団である。待つ家族も恋人もいない。ふと、スマホに目を向け、無意識のうちにサイトを開いていた。
ドキワクメールという出会い系サイトは、女性会員にメールを送るのも、プロフィールを確認するのにも、すべてポイントという金が必要だった。
極めて巧妙な収奪方法である。
これを最初に考えた人間は天才だな、と蔵人は冷めた脳で考えていた。ポイントを買うのには現金が必要だった。蔵人のドキワクにはまだ数十円分のポイントが残っている。どうせなら、未練を断ち切るためにすべて使い果たそうと、いつもは絶対に見ない掲示板を確認した。ここには出会いを求めた寂しい男女が集まっている。正確にいえば、ほぼ業者と客のみである。お茶引きデリヘル嬢が公然と客を取っているのである。
もちろん、貧乏学生の蔵人には関係のない場所であり、客のつかない風俗嬢など人三化七と決まっている。いままで滅多に覗いたことはないが、もう終わりだと思えばそれほど頑なになる必要もなかった。鼻歌混じりで薄闇にぼうっと光る画面をなぞる。
「銭の亡者どもが、地獄に落ちろ。……ん?」
流し見していた中で、ふと視線が止まった。
「私の勇者探してます☆」
語尾の星マークが凶悪だった。あきらかに、若い娘が使わないセンスである。
おまけに板違いとくれば、この書き込み主の脳の状態を疑っても仕方なかった。
なんだ、こいつガイキチかよ。
蔵人はそう思いながらも、スマホの画面をタップした。まるで導かれるように。
開いたその先にはなんの件名もなく、その代わり、文字が書かれている部分が、まるで見たことのない模様の羅列で覆われていた。
「なんだよ、これ。文字化けか?」
背筋にゾッと冷たいものが走った。異様な寒気を感じ辺りを見回すが、別段なんてことのない、住宅街の公園内である。周りの家からは、かすかな生活音や話し声が流れてくる。周りには決して異様な変化は起こっていない。
「はは、バグかよ。しょーがねーな、この運営は」
蔵人は強がりながら、中央の画像をタップしようとして指を止めた。そこにはたいてい、募集している女性の画像なりが入っているものだ。
しかし、不鮮明な四角窓の下にはムービーを表すビデオカメラのアイコンが写っている。つまり、中に埋設されているのは動画だということになる。
「ど、どーせ、とんでもない勘違いブサイクか、関係ない動画だろ、たぶん」
震えながらタップすると、スマホの画面が動画に切り替わる。
「え」
それは想像以上にクリアな動画だった。
映っているのは、目を見張るほど目鼻立ちの整った女性である。
黒々とした大きな瞳が印象的だった。
白っぽいドレスのようなものを纏っている。
夜を溶かし込んだような黒髪がたっぷりと波打っている。
早口で聞いたことのない言語で強く訴えていた。
明白な動画である。写メと違って修正はできない。本物の美人だった。
「英語じゃねえよな。聞いたこともねえ言葉だ」
言葉の意味はまったく理解できないが、なにか切実に願っていることは理解できた。
所詮は録音された動画であるはず。けれども、蔵人は目の前の女からまるで目を話すことができなかった。
助けてください。私の勇者さま。
もちろん、そんな言葉は発していない。だが、蔵人にはそのようにしか聞こえなかった。
誰かが自分を必要としている。
その幻想に途方もない魅力を感じたのだ。
特技もない、金もない、女を上手くコマす器量もない。
ひときわ優れた容貌もない。
人並み外れた超人的体力もない。
学歴も、誇れる友も、恩師も、信じられものすら蔵人の人生には存在しない。
いままでもそうだったし、これからもずっとそうだろう。ある日、突然、なにかがひとりでに変わり始めるなどということは、自分の身に起きうるはずもない。勝手に激変するのは、税金の追加と景気の悪化ぐらいだろう。
だから女なのだ。かりそめでもいい。美女を抱いているときだけは、唯一自分を感じられる。それ以外に人生などなんの価値もないのだ。価値があるなんていうやつは、大嘘つきだ。あるいは、自分を誤魔化そうとしている卑怯者だ。
もし、蔵人に命を投げうって得たいと思う女を見つけることができれば。
そのときこそ、真の人生が始まるのだ。
スマホのムービーが途切れると同時に、画面から青白い菱形の光が射出された。
開けよ、と。
己に囁いている。
それは、大いなる天命だった。
世界が白く凍りついている。あらゆる事象から、いまの自分は隔絶されている。
青白い光は、まるで扉のように蔵人の目の前で停止すると、誘うように左右へ動く。
この扉を。この扉を開けるために、俺は生まれてきたのだ。
なんの根拠もなくそう思った。
心が定まれば、覚悟もまた決まった。
「ゲーム、スタートってか」
蔵人は、導かれるように目の前の光に手をかけ、そして運命をこじ開けた。
千年余の歴史を誇るロムレス帝国が力を失って瓦解した際に、その広大な領土は六つにわかれ、王と五人の大貴族がそれぞれ分割統治することになった。
いわゆるロムレス連合王国である。
五人の大貴族は、元は王族からわかれた裔であったが、ご多分にもれず、それぞれが自らの正当性を主張し始めて正当な王を名乗った。
かといって、正当な王も他の大貴族も、それぞれを認めるわけにはいかない。
大規模な戦闘は起こらないまでも、それぞれが正当性を主張し、小競り合いを互いの国境付近で幾度となく繰り返した。
現在では、正当王位を持つロムレス王家の国土は経済・武力は共に疲弊し、あとはおのずと倒れていくのを、各国が指をくわえて待つのみとなっていた。
その他の国とは、すなわち、
エトリア、
リーグヒルデ、
ユーロティア、
ルミアスランサ、
ワンガシーク、
の五つである。
今年で十六になったばかりの、ロムレス第一王女、オクタヴィア・フォン・ロムレスは疲弊した自国を誰よりも憂いていた。
オクタヴィアは、当代のロムレス王が唯一王妃に産ませたひとり娘であった。
常時なら、とっくに他国から婿を迎えていてもおかしくない年頃であった。けれども、名実共に権威と力が形骸化したロムレス王国においては、五つの国とは微妙なパワーバランスを保っており、おいそれと婚儀すら執り行えない状況だった。
この混沌を打開するには、王家に伝えられた禁呪により、異世界からの救い主を召喚しすがるしかない。救い主とは、すなわち伝説の勇者であった。
かの者は、高い知力とすぐれた魔力、永遠の不死性を持ち、荒廃した王国を再び勃興させるといにしえより伝えられた超人の存在である。召喚の大魔術は、人生においてたった一度しか許されない文字通りの賭けである。古文書によれば、かつては魔界からの怪物を呼び出し、その場で喰われた王族もいたらしい。王女という枷の中、両親に秘匿しながらここまでの大規模な召喚陣を作成できたのも、オクタヴィアの近衛騎士であったヴィクトワールの協力があったからこそである。
唯一の直系継承者の命を、イチかバチかの賭けに投ずることが出来る訳もなく。
知られれば、確実に咎められるゆえに王女は内密にことを進める必要があった。
伝説の救い主。万物の理を知る知力と世界を変革する魔力と不死の力を持つ英雄。
存在し得ないはずの傑物。
すべての、努力の結実がいま形になる時が来たのだ。
どれだけの時間が経過したのだろうか。
召喚陣の紋章が、薄桃色に妖しく煌めきだし、石造りの地下室はあっという間に、真昼の太陽の下のように白く塗りつぶされていく。
王女は額に汗をかきながら、握り締めた杖に魔力をいっそう込めた。
「王家の血の盟約において命ずる。我が運命よ、命よ、願いよ。よびかけに、こたえよ」
白光が一際大きくなっていった。
召喚陣の中央部が大きく盛り上がり、人型が形成されていく。
「どきどき」
無論、超人の存在はそのまま、王室の血に組み入れられるのが常道とされると、召喚の儀に関する書物を読んだ時点でオクタヴィアは知っていた。
つまり、勇者とはオクタヴィアの夫となる者である。自らの夫を自らの手で呼び出すのだ。緊張と期待で彼女の胸はいまにも壊れそうになっていたのだった。
オクタヴィアは、目を開けていられなくなり、両手で握り締めて杖を保持した。光が強まっていくとともに、陣の中心から強烈な魔力の奔流が室内を満たしていく。儀術に使用した備品が次々に吹き飛ばされ、砕け、霧散した。終わりのない魔力の波濤は、やがて徐々に引いていった。
「えええぇ!」
オクタヴィアは悲鳴を上げるとその場に座り込んだまま動けなくなった。
それは、途方もなく巨大な怪物だった。
広大な地下室が狭く見えるほどの青黒い巨体は、既存の動物に当て嵌めればどことなく犀に近しいものがあった。大樹のように二本角が凶悪に艶めいて光った。両眼は直視しただけで全身が硬直するほどの魔気を放出している。
魔獣ベヒモス。
かつてロムレス全土を襲った、神が創りし“完璧なる獣”である。
「我を呼びしロムレスの裔よ。ついに、刻は至れりか」
「え。それは、どういうことで……」
「決まっておる。我を呼びし刻、即ちこの大地が終焉を迎えし刻よ」
ベヒモスは巨体を僅かに震わせると、床を蹴って飛び上がった。魔獣の負荷に耐え切れず、足元の石畳が波のようにゆらめき、突き破った天井から崩壊した石片が濁流のように崩れ落ちた。大変なものを呼び出してしまった。
オクタヴィアが後悔したときはすでに遅かった。ロムレス城を破壊しながら地上に降り立ったベヒモスはただちに王国の兵士たちと戦闘状態に突入した。
城に常時詰めている兵の数は五千弱。
王の広々とした庭園は、たちまち地獄絵図と化した。
二十メートルを遥かに超える巨体は、牙を剥き出しにすると、その口内から蒼い火炎を続けざま射出した。槍衾を作って前進する歩兵中隊は、一抱えもあるナパーム弾同様の炎弾を喰らって紙人形のように弾け飛んだ。
まさしく、王国滅亡の危機である。将校たちは兵士を叱咤激励し、果敢に攻撃を加えるが、近づけば巨大な角と牙で切り裂かれ、毛一筋程度の傷も負わせることはできなかった。
王の無聊を慰めるために植えられた木々や花々は、軍靴と兵器を運ぶ車輪で踏みにじられ、上質な木材で組み上げられた四阿は紙細工のようにベヒモスの巨大な足で破壊された。
兵士たちは、弓で、魔術で、援護射撃を行うが、堅い獣の革はそれらをすべて弾き返す。
なれば肉弾と命を捨てて迫るも、いかな達人とてベヒモスの前では象に立ち向かう蟻のように無力だった。鋼鉄の鎧も、代々伝わりし魔導兵器も、日々鍛え抜いた剣術も、終末の彼方よりやってきた怪獣にはなにひとつ通用しなかった。
ベヒモスは庭園に展開した歩兵たちの半ばを鏖殺すると、ゆっくりとした歩調で城下町に向かって移動していく。対人用に造られた防御壁もまるでウエハースのようにパリパリと折られ、街が火の海になるのも時間の問題だった。
なおも後方から食い下がる兵たちを、小蝿を打ち落とすように、巨大な尻尾を振るって虐殺する。ベヒモスの尾には刃のように鋭いウロコがひしめいており、触れただけで人間の身体などは紙のように切断された。バラバラになった肉塊は血煙を上げて舞い飛び、城壁を、大地を、歯を食いしばって突き進む同胞を朱に染めた。
五千の精兵もいまや半ばは倒れ伏し、残兵を率いる将校の顔色にも諦めの色が濃かった。
「だが、ロムレス騎士の誇りにかけて、ここから街へは一歩も近寄らせない」
迎撃の指揮を執る歩兵大隊の隊長は、剣を引き抜くと折れた左腕を揺らしながら手綱を取った。男の胸には、生まれ育った街を守るという強い決意が燦然と輝いていた。
「全軍突撃!!」
瞬間、隊長の顔に動揺が走った。
網膜の向こうに、凄まじい勢いで飛来する岩石が迫っていた。
ベヒモスが振り回した尾が、破壊した城壁の一部を吹き飛ばしたのだ。
馬がたちまち棹立ちになる。隊長の眼前に死神が舞い降りたのだ。
「ぷぎゅ!!」
岩の塊は上手い具合に隊長の顔面にぶち当たると、脳漿を砕いて辺りに四散させた。
オクタヴィアはなんとか半壊した地下室から抜け出ると、激しい戦闘が終わった直後の庭園を歩いていた。
すべては自分の責任である。召喚を失敗するだけならいざ知らず、かような伝説の魔獣をこの地に呼び降ろしてしまった。幾重にも折り重なった兵士の遺体は、まるで壊れた人形のようにピクリとも動かない。光を失った若い兵士の瞳が自分を責めているように思えて顔をそむけた。
「なんとか、なんとかしないと」
オクタヴィアは途方もない絶望感の為、えづきそうになるが、王女の誇りにかけてそれはこらえた。
あんまりだ、こんな仕打ち。神様、私がいったいなにをしたというのでしょうか。
オクタヴィアの目尻に涙がにじむ。唇を強く噛んで我慢する。小さな頃から忍従を強いられてきた彼女は、自分の感情を押し殺すことだけは得意だった。召喚によって降ろした、もの、を元の場所に返す方法はたったひとつしかない。術者がそれを殺すか、あるいは、それに己の命を獲らせるだけである。そもそもが、古書による知識である。あっているかどうかわからないが、自分があのベヒモスを殺すことなど不可能であるならば、あとはどうにかして魔獣に自分を手にかけさせるしかない。あの地下室を壊して去った際に、ベヒモスはオクタヴィアに対し、強度な防護魔術をかけていった。高い知性を持つ魔獣は召喚者を間接的にも殺すことに対し、保険をかけたのだろう。と、なれば、容易にあのベヒモスがこっちの策に乗ってくれるかどうかわからない。オクタヴィアが死ねば残りの王位継承者でさらなる内訌がはじまり、弱りきった国力にとどめを刺して、王家は逆賊に併呑されるのであろう。安易な召喚に頼ったのが罪なのだろうか。わからない、まるでわからない。
「ごめん、ごめんなさい」
良かれと思って行なった事態が、無辜の将兵たちの尊い命を奪ってしまった。
「あう」
オクタヴィアは瓦礫に足を取られて転ぶと、堅い石に顔を強く打ちつけた。擦り切れた頬から滲んだ血が薄く染み出してくる。ジンジンとした手のひらを地面に突くと、なんとか起き上がって、干戈が交わる戦場へとなおも進んだ。
貴人に情なしというが、彼女の場合は、あらゆるものに対して情が深すぎた。ロムレスのことを考えれば、この場は家臣に任せて王女である自分はさっさと城を捨てて逃げ出すべきであろう。
けれども、オクタヴィアの頭の中にあるのは、もはや死して責任を取るという一点に集約されていた。
「痛い、痛い」
我慢していた涙が決壊直前に迫っていた。
顔を上げれば、彼方には青黒い巨体の背が見えた。
「なんで、こうなってしまったのですか。なにが悪かったのでしょうか」
答えはない。彼女に残されたのは、死してすべてを償うという選択肢しか残されていなかった。やがて、空には黒雲が疾駆し、ポツポツと雨が降り出した。敗軍の兵たちの囲みに近づくと、幾人かの貴族が呆気にとられて棒きれのようにその場に立ちすくんだ。兵たちの波を割って先頭に出る。ベヒモスの巨体が小山のように聳えていた。
「もう、おやめください」
「ロムレスの裔か。断る」
「どうしてですか。もう、充分に血は流れました。これ以上、なにを望むというのですか」
「すべての破壊だ。我はベヒモス。その為に、世界に生を受けしものだ。だが、ふむ……。それにしても、おまえは人間にしては胆の太い」
ベヒモスは赤い瞳を瞬かせると、豪風のような音を吐きだした。それは、どこなく笑い声のようにも聞こえるのものだった。オクタヴィアが魔性の瞳を真っ向から迎え撃つ。途端に、周りにいた将兵たちは残らず糸の切れた人形のようにバタバタと倒れていく。オクタヴィアの相貌が怒りと哀しみの入り混じった凄惨なものに変わった。
「なんて、ひどい」
「ふむ、我の眼力で気死せぬとは。気に入った。ここはひとつ交換条件とゆこう」
「交換条件?」
「女よ。おまえは名をなんと申す」
「私は、ロムレス王家第一王女にして、第一位王位継承者、オクタヴィア・フォン・ロムレスです」
「おまえを我が妃にしよう。どうだ? 少なくともおまえが、我に生きて仕えつづける限りは、この大地を滅ぼすことは一時留め置こう」
「……永遠の不可侵を誓ってはもらえないのですか」
「オクタヴィアよ。それは人間の分際で、傲慢といえよう。人の生はせいぜい数十年。それだけの猶予を得たことだけでも、奇貨と思え」
「はい」
「花嫁よ。我はおまえの夫ぞ。地に平伏して、我が足に口づけせよ」
「は、い」
屈辱であった。オクタヴィアは震えながら、いまは薄汚れてしまったドレスのままその場に跪いた。驟雨が豊かな黒髪を激しく打ち据える。
(私の身はどうなってもいい。せめて、この魔獣に仕えて、一刻でも長く国を永らえなければ、祖先にも、そして多くの民にも申し訳が立ちませぬ)
オクタヴィアの瞳からポロポロと光のような雫がこぼれ落ちる。
涙が、地面に触れて形を失う瞬間、奇跡は起こった。
ベヒモスの身体の中央が、白く輝いている。
「姫よ、いまですぞ! もう一度、再召喚の儀式を」
枯れきってはいるが、力強い老人の声。オクタヴィアが振り向くと、頭上には、浮遊魔術で上空を旋回する王宮魔道士であるマリンの姿があった。老魔道士の杖からは、ベヒモスの巨体に向かって、召喚陣を刻むポインタの光が発せられている。
躊躇している暇はなかった。
「王家の血の盟約において命ずる。我が運命よ――!! 伝説の守護者よ!!」
ベヒモスが攻撃に移るより、オクタヴィアの詠唱が早かった。
「まさか、ありえぬ!!」
耳をつんざくような絶叫が、伝説の怪物の口から激しくほとばしっている。
召喚陣を示す五芒星がベヒモスの腹にクッキリと浮かぶやいなや、盛り上がった紋章の形に肉が裂け、赤黒い肉の割れ目から、多量の血液と臓物が濁流のように流れ出した。
「バカな。これは――神が、我を滅ぼすだと!?」
それが、ベヒモスの最期の言葉だった。
身体の三分の二が切り開かれて、生きている生物などこの世にはいない。
それは、この巨躯の魔獣とて同じことだった。
身体の中で攪拌機をフルパワーで回したように、ベヒモスの内部は、召喚陣の力で次元ごと切り刻まれたのだった。
底のない海から湧き出た黒い波頭が、一瞬でオクタヴィアを飲みこんでいく。
赤黒い鮮血の海であえぎながら、強い感激に打ち震えた。
なんということだ。
なんということだ。
奇跡は起きたのだ。神が救い主を遣わしたのだ。
ロムレス屈指の騎士団を、まるで赤子の手を捻るようにして殺戮したベヒモスという伝説の魔獣は、同じく、伝説の力によって、ここに討ち果たされたのだ。
「あああっ」
オクタヴィアはどう、と倒れ伏すベヒモスから流れ出る血潮の海を泳ぎながら、光輝の発信源へとよたよたとにじり寄った。
ドレスは血に塗れ、顔中は魔獣の臓物で穢れきっている。とてもではないが、伝説の勇者はおろか、誰の前にだって顔を出せないひどい身なりである。
「召喚が、成功したのですね」
オクタヴィアは自らが呼び出した勇者が、なんらかの未知の力でベヒモスを斃したと判断していたが、事実はまるっきり違った。
召喚は、不完全な形で成功していたのである。
間違って刻まれた召喚陣から、最初にベヒモスが呼び出された。
そして、マリンが刻んだ召喚陣が、ベヒモスという存在そのものを、途方もないエネルギーの吐き出し先として、口をつけたのだった。
ベヒモスの身体の中央部は世界の因果律によって無理やり裂け目を造られた格好となり、その傷によって即死した。
つまりは先に呼び出されたベヒモスに勇者という存在が上書きされた形となった。
伝説の勇者の色は、ベヒモスよりも濃い。赤子が母胎を、ときとして傷つけるように、伝説の勇者はあっさりとその生みの親を弑したのであった。
ベヒモスはその身体を横たえながら、ドロドロと腐った肉へと凄まじい速さで変化し、崩れていった。
オクタヴィアは、その場で輝きながら仰向けに寝ているひとりの男に気づくと、知らず涙を流しながらジッと見入っていた。
黒髪に、浅黒い肌をした少年だった。
背丈は大柄で、筋骨たくましく、どこかなつかしい感じだった。
その不思議な風貌を一目見た途端、ああ救われた、と感じた。
「勇者さま」
「んん、いちち。あれっ、ここはどこだ」
座ったまま上半身を起こした勇者と視線が合った。
黒々とした澄み切った瞳は、大きく見開かれている。
こうして見ているだけで、あふれかえった感情が胸を早鐘のように打ち鳴らしていた。
自分とまるで同じ、黒い瞳を直視したとき悟った。
ああ、自分はこのお方に生涯お仕えするのだ、と。
「ええ、ああ。えーと、君はどこの誰なんだ」
声が詰まる。こんなわけのわからない状況で、自分のことよりも他人を案じるそのやさしさに、涙腺が崩壊しそうになる。
「ふ」
「ふ?」
「うえええええええっ」
「おい、ちょっと待ってって」
泣きじゃくりながらむしゃぶりつく。
はしたないと思っても、オクタヴィアはすがることをやめられなかった。
私の勇者さまだ。
私だけの勇者さまなんだ。
私だけのみかたなんだ。
もう、絶対に助からないと思っていた。
そんな絶望的な運命を、あっさりとひっくり返してくれたこの男こそ、自分が幼い頃から思い望んでいた、すべてを託すに望ましい人なんだ。
「まあ、なんというか、泣きたいなら好きなだけ泣けばいいんじゃね?」
「ふええええっ」
オクタヴィアが前後の見境なく、男にすがりついていると、背後から、騎馬の駆けるヒヅメの音が近づいてきた。ふと、顔を上げると、勇者は顔をそらして視線をそむけている。気づけば、自分のドレスはズタボロに破れ、片胸の半分は露わになっていた。
いとしい勇者さまの前で、なんたることを。羞恥で身が一瞬に火照った。
「きゃあっ」
「わ、悪いッ」
羞恥にまみれ、両胸を手でかばって背を向けた。
それが、運命の岐路だったなどと、誰にもわかるはずはなかった。
「姫さまッ!!」
「あら、ヴィーじゃない」
大きな瓦礫の前で馬を下り、騎士の一団が血相を変えて駆け寄ってくる。
とりわけ、先頭を突っ切るひとりの騎士が一際目立った。
腰まで届きそうなはちみつ色の金髪が流れるように宙に舞っている。
象牙を彫り抜いて造ったような顔の細部は個々が力強い美を宿していた。
深い森を思わせるような緑の瞳が、爛々と光っている。
近衛騎士ヴィクトワール。
女性にして、王国一の剣の使い手である。
「きさま、きさま、姫さまをよくもーっ」
ヴィクトワールは抜刀した剣を振りかざしながら、絶対に嫁にしてはいけないタイプです、と万民にいわせる勢いで疾駆している。
様子がおかしい、と思ったときにはすでに遅かった。オクタヴィアが止める間もなく、彼女たちは、座りこんでいる勇者に殺到し、蛮勇を余すことなく振るった。
半裸である自分を誤解したのだろうが、その恩を仇で返してしまう罪深さに、オクタヴィアは卒倒した。