PIANO 若月 白暁編
「…………れいちゃん」
そっと、その名を呟いてみる。
隣にいる筈だったあの少女はもう、ここにはいない。
無駄なことだと知りながらも、その呼びかけに対する返事を期待している自分に、少し呆れる。
「…………れいちゃん。今、幸せ?」
もたれかかったソファが何故か妙なほど広く感じて、寂しさが胸を突いた。
きっと彼女は綺麗になっただろう。幼い頃から愛らしい顔立ちをしていたし、何より綺麗な眼と髪をしていた。
白暁に良く似た、僅かにウェーブがかかった黒髪を。
「……………僕……………れいちゃんに、会いたいな」
溜め息を零してソファから起き上がると、机を挟んで目の前にいるカーリーヘアの女性がにっこりと微笑んだ。どうやら話がしたいらしい。
「今回も琉雫さん、完璧な姿だったわね。女性がきゃあきゃあ叫んでたわよ」
「……そう、かな」
「そうよ。見てなかったの? 相変わらず無頓着なのね、そういうことには。それに、相変わらず、やる気のなさそうな顔をしてるわ。眠そう、と言った方が正しいかしら?」
「……」
白暁は緩慢に瞬いた。
怠惰な雰囲気を纏ったスタイリスト、という評判が立っているのは知っているが、実際に怠惰な雰囲気を出しているつもりはない。
やれと言われた仕事を、淡々とこなしているだけだ。だが、どうやら大衆の目には怠惰な雰囲気を出しているように映るらしい。
「僕は………女性に、興味ないから」
「あら。じゃあ男性に興味あるってこと?」
「………」
言われた言葉の意味が理解できず、硬直した。
「冗談よ冗談。あんまりじっとりと見つめないで頂戴。そういう時には恋愛事に興味ないって言った方がいいわよ、余計な誤解を生むから」
「はあ。……そうかな」
白暁はいかにも興味なさげに首を傾げた。
柔らかそうな、緩くウェーブのかかった髪がふわりと肩から零れる。
「いいわよね、あなたの髪。私、天パだからそういう綺麗な髪、うらやましいのよね」
「……ストレートパーマ」
「面倒だからいいわよ。それに、どうせ人工だわ」
「人工…………嫌い、なの」
「そうね。それに、髪が痛むし」
だからやんないわ、と女性は微笑む。
白暁は再び緩慢に瞬き――それから、大切なあの少女のことを思い出す。
もう会えないだろうあの少女のことを。
いや、もしかしたら偶然出会うことがあるかも知れない。でも、話し掛けたりしては駄目だ。
だって、彼女にとって自分は、『他人』だから。
どれほど自分が彼女のことを大切に思っていても、それは彼女には関係のない話だ。
彼女は白暁を知らない。
………別れたのは、もうずっと昔のことだから。
「……あ、白暁さん。私、ちょっと琉雫と打ち合わせしてくるわ」
「……いって、らっしゃい」
白暁は腕時計を見た。
「………あと、少し」
というのは、休憩時間のことだろう。あと3分ほどで休憩はおしまいだ。琉雫のスタイリングの準備をしなければ間に合わなくなる。
………と。
少し向こうの方に見知った影があるのに気が付いた。
雪倉 彰成。白暁よりも3年先輩の同業者だ。別段親しい間柄ではない。
「……?」
ぼうっとした様子の彼は珍しい。いつも、白暁を見つけるとあからさまに嫌な顔をするのに、今日は何の反応も示さない。恐らく気づいていないのだろう。
……彼が持っているのは、純白のコートだ。彼も、27という年の割に人気なスタイリストだ。次の仕事に使うものなのかもしれない。
だが、どうにも引っかかる。今日の彼は、やけにぼうっとしている。
それに、妙なほど物憂げな表情をしているのだ。彼は長髪の男性を見たりしない限り、よっぽどのことがない限り笑顔を崩さない人間だと言うのに。
「……雪倉……先輩?」
話し掛けてみると彰成は一応振り返った。だが、白暁の姿を認めた途端、あからさまに嫌な顔になる。
「……何だ。あなたでしたか……」
そっと顔を背けた彼は、どこか疲れた表情をしていた。
「相変わらず眠そうですね」
顔を背けたまま、彼がそう言った。先ほどの女性にも言われたことだ。どうやら本当にそう見えるらしい。
「そう……かな」
首を傾げながらそう訊ねると、
「で? 何をしているんです、こんな場所で。あなたが来るような場所ではないでしょう?」
そんなことを言われた。
確かに、白暁はあまりこういった公の場に姿を現さない。琉雫のスタイリングが仕事なのだから、裏方が外に出る必要などないと思っていた。だからこういった公の休憩場には姿を見せることなどない。
少し呆れ気味に告げられた言葉に、白暁は眼を瞬かせる。
「先輩こそ。こんな所で。何を?」
再び嫌な顔をされた。苦い顔、というべきだろうか。
「別に私は、何も」
「………そう」
「用がないなら、今日はもう帰りますけれども、良いですか?」
「あぁ……うん。さようなら」
短い挨拶を返すと、彰成はコートをたたんで去っていく。
彼もまた、会えない誰かに思いを馳せていたのだろうか?
白暁は、繊細で華奢な己の指に目を落とし――そっと、目を伏せた。