Epilogue:それから 2
大学生組のお話です。
藤岡麻美は冷えた指先を擦り合わせながら、それを温めようと大きく息を吐き出した。途端に白い靄が昇って消える。
なんでまだ講義があるんだろう、と靄を目で追いながらうんざりと思う。
十二月も終わりに近く、大学構内をこうして歩いていても目に付くのは部活やサークルをしている学生ばかり。
麻美のようにA4サイズの鞄を肩にかけて講義棟を目指している人間はほぼいない。
ていうか、まだ講義あるのってあたしがとってるのだけじゃない?
そして今度は溜息として、白が空中に吐き出される。
途端に鞄が重さを増した気がして、麻美は右肩にかけたそれを引っ張り上げた。
「藤岡さん?」
呼ばれて、麻美は反射的に振り返った。
「中村?」
爽やかな笑顔につられて、麻美の憂鬱な気分が少しだけ晴れる。お互いにおはよう、と挨拶を交わして隣に並んだ。
中村智也は寒そうに鼻をマフラーへと埋める。その肩には大ぶりのトートバッグを提げていた。
そんな智也の様子と、今が一限前の時間だということを考え合わせて麻美は問いかける。
「中村は、今日講義なの?」
「え、いや講義はないよ」
智也は少し驚いたように言った。それから合点がいった、というように自分の鞄をちらりと見る。
「藤岡さんは講義なんだ」
「そう。じゃあどうしたの? こんな朝から」
「あーちょっと、図書館に」
「ふうん?」
レポートか何かでも出ているんだろうか、と麻美は思った。そうでなければこんな年末にわざわざ図書館に行こうなんて思わないだろう。
そんなことより、と直前の疑問を追い出して麻美は隣を歩く智也を見上げた。
視線に気付いたのか、智也も麻美の方に顔を向ける。
「何?」
「真由と、どうなった?」
「え、うん」
智也は嬉しそうに目を細めると、マフラーを口元から下げた。
「付き合うことになったよ」
「へええ」
やっぱり二人きりにして正解だった。
それを聞いた麻美の顔がにたり、と笑う。
そしてこんなカマかけにあっさり白状するところが智也らしい、と思う。もしこれが真由だったら、真っ赤になった顔ですべてを語りながら、言葉では必死にしらばっくれるところだろう。
「で?」
「うん?」
「何て言って告ったの?」
「え」
麻美が期待を込めて見つめる先で、だんだんと智也の顔が赤くなった。
あれ、珍しい、と麻美は目を丸くする。
智也の頭の中では、真由に贈ったケーキのことがぐるぐると渦巻いていた。
自分でやっておいてなんだが、人に言うのはかなり恥ずかしい。いや、いろいろと考えて実行したのだから結構いいアイディアだったんじゃないかとは思っているけれど、人にそれを言うとなると話は別だ。
「教えない」
「ん? 何て? 聞こえなかった」
そっぽを向く智也を、麻美は目をきらきらさせながら更に問い詰める。
智也は横からの圧力を感じながらも、なんとかこの場を乗り切ろうと再びマフラーの中に逃げ込んだ。
無言の攻防を続けながら二人は歩き続け、とうとう講義棟の前までたどり着く。
これでもういいだろう、と智也は内心ほっと息を吐き、麻美を見送ろうと立ち止まった。
しかし麻美は当然のように講義棟を通り過ぎ、立ち止まる智也を不審そうに振り返る。
「藤岡さん、どこ行くの?」
「図書館よ」
「何で」
「何でって、まだ始まるまで三十分はあるし、それまで中村にいろいろ聞こうかと思って」
「まじで」
呆気にとられる智也をよそに、麻美はどんどん図書館へと足を進める。
講義棟と図書館は、道を挟んでほぼ真向かいに建っている。時間の五分前に図書館を出ても、余裕を持って講義室に入れる距離だ。
半ば諦めの気持ちで麻美を追いかけながら、智也はまいったなあと考えた。
あの感じだったら、俺が正直に吐くまで解放してくれなさそう。
それに、とちらりと腕時計に目をやる。待ち合わせの時間には少し早いが、きっと彼女はもう待っている。
結果的に藤岡さんを図書館に誘導した、みたいになっちゃったし、怒られるかもなあ。
真っ赤になった彼女の顔を思い浮かべながら、智也は麻美と共に自動ドアをくぐった。
学生証を機械に通して館内へ入ると、麻美について図書館の一角にあるラウンジのコーナーへ向かう。
「あれ、真由?」
驚きの声を上げた麻美の後ろで、智也は小さく縮こまった。やっぱりもう来てたか、と麻美の後ろに隠れるようにそっと窺う。
ラウンジの椅子に座ってゆっくり紙コップを傾けていた金井真由は、慌ててコップから口を離した。こくん、と喉を上下させると、麻美の登場に戸惑うように視線を彷徨わせる。
「なんで麻美が中村くんと一緒に来るの?」
真由の登場を予想していなかったのは麻美も同じ。しかし、真由の台詞から、彼女が智也を待っていたこと、そして智也が真由がいることを知っていた様子であることを察してすべてを了解した。
「はあーん、なるほどね。図書館デートですか」
二人を見比べるように眺める麻美の前で、真由がむせる。
「デートって、なんで!」
「さっき中村に付き合うことになったって聞いた」
「中村くん!」
「えーっと、ごめんね?」
おずおずと顔を覗かせた智也に対して、真由は長い溜息を吐いた。
しばらくは隠したいなあ、なんて智也に正直な気持ちを吐露したのはつい最近のことだった。智也は真由が恥ずかしがる気持ちを汲んでくれたのだが、智也の性格上、聞かれれば何の気なしに答えてしまうだろうことは真由も予想していた。
それがこんなに早いとは、まさか思っていなかったけれど。
麻美は嬉々として椅子を寄せて真由の側に座る。智也も同じようにして、三人で円を囲む形になった。
まだバレないと思ってたのに、と真由はそっと唇を尖らせる。
麻美にそれを言うのは自分の心が落ち着いた、もっと先のことだと考えていたのだ。
自分でもまだ智也と一緒にいることに慣れないのに、こんなふうに麻美ににやにやと眺められるのはすごくいたたまれない。
「さて、何から聞こっかなー」
「麻美に話すことなんかないもん」
好奇心丸出しといった麻美に、真由はますますふくれっ面になって答えた。
やっぱり機嫌を損ねたか、と智也はそれを傍らで見守りながら思う。
そんな中、麻美はへらっと笑うと言った。
「もう、そんな怒んないでよ。あんなにわかりやすくお互い好きですってオーラ出しといて、そんでしぶとくくっつかないで、やっとなんだから、友だちとして気になるのは当たり前でしょ!」
真由と智也は麻美が言い終わると同時に反応した。
「やっぱり気付いてたんだあ」
と言って真由は椅子の背もたれに崩れ落ち、反対に智也は肘かけを掴んで身を乗り出すとぱちぱち瞬きした。
「え、そうなの」
「あ、やっぱり中村は気付かれてないと思ってたんだ。ちなみに平田も知ってたからね」
「平田くんもかーそうかーそうだよねー」
「え、平田も?」
と呟いて、智也も真由と同じように深く椅子にもたれる。
二人を見ながら、なんだか微笑ましいなあと麻美は思った。
「ほら、ね。だから二人とも、ずっと見守ってたあたし達に何か提供してよ」
智也と真由は顔を見合わせた。どうしようか、と二人は困った顔で視線を交わす。
まあいいんじゃない、と智也が伺うように首をかしげると、真由は素早く首を横に振る。
麻美は黙って見つめながら、やっぱり駄目かと思うものの、講義時間までの暇つぶし、ともう少しつついてみることにする。
「平田だって楽しみにしてたんだからさー」
「あ、そうだ、平田くんと言えば!」
ぐりん、と勢いよく真由は麻美を直視した。
とっておきの話題があるのを思い出したのだ。
多少強引でも話を変えたいというのが一番だが、それを抜きにしてもこの二人に言わないと、と思っていたことがあった。
「あたし、平田くんが彼女といるの見たの!」
「え」
「は」
智也は驚き、麻美は疑問の声を上げてそれぞれ動きを止める。
二人の注目を浴びて真由は話を続けた。麻美の注意を簡単に逸らせそうなのが意外だったが、この際願ったり叶ったりだ。
「今朝の話なんだけど、図書館に来る途中で平田くんが女の子を抱きしめてたのを見たの。ちょっと遠目だったから、平田くんには見つかってないと思うんだけど。すっごい綺麗な子だったからびっくりした」
「えー俺もそれ見たかったなー!」
「うそ」
智也と真由が盛り上がる横で、麻美は完全に固まってしまっていた。
まんまと真由に乗せられたようで悔しいけれど、そういうことを考えている場合じゃない。平田はあれは嘘だって言ったはずなのに、抱き合ってた?
あたしを騙すなんていい度胸じゃない?
麻美は、胸の底がじりじりと怒りで焼けつくような気がした。
「ちょっと用事思い出したからもう行くわ」
「藤岡さん?」
麻美のただならぬ様子に気付いて、不安そうに智也が声をかける。
「二人の話はまた今度聞かせてもらうから!」
ね、と主に真由に向かって釘を刺して、麻美はそのまま図書館を後にした。
残された智也と真由は、麻美の後ろ姿を不思議な気持ちで見送る。
「麻美、どうしたんだろ? でも助かったー」
「そんなに話すの嫌なの?」
「嫌っていうか、まだ恥ずかしいから」
ほんのり頬を染めて言う真由を、思わず智也は軽く撫でた。
心地よさそうに目を閉じて、真由はされるがままになる。
猫みたい、と智也は苦笑をにじませた。麻美に何を言わされるか、と内心ずっとびくびくしていたのだろう。今の真由は先ほどより随分和んだ表情をしている。
「あのさ、今度連れて行きたいところがあるんだけど」
智也の声にぱちりと目を開けて、真由は首を傾げた。
図書館を出ながら、麻美は腕時計を確認する。随分話していたような気もするけれど、講義時間にはまだ余裕がある。
都合よく、一限目の講義は健と麻美、同じものを取っている。早めに講義室に行けば健を捕まえて始まる前に話を聞くくらいはできるはず、と麻美は考えていた。
「あれ、藤岡じゃん。そんな急いでどうした?」
探していた人物に後ろから声をかけられて、麻美はぴたりと足を止めた。
廊下の真ん中だったが、辺りに誰もいないようなのを確認して、麻美は平田を問い詰めようと近付く。
あっという間に距離を詰められて、只事ではない、と健は身構えた。
麻美はしばらく逡巡する様子を見せて、それから口を開いた。
「今朝女の子と一緒だった?」
「え? 今朝、女の子?」
「彼女いないって言った癖に」
「彼女? だからいないって」
「じゃあ平田は彼女でもない女の子と抱き合うんだ」
平坦な声で一方的に聞く麻美は、あからさまに不機嫌な顔をしていた。
麻美を見つけて嬉しくて声をかけたというのに、どうしてこんなに機嫌が悪いんだ、と健は途方に暮れる。
女子と抱き合う? 今朝? と疑問符がぐるぐる頭の中で回り、そしてああ、と思い至った。
健が何か思い出したようであるのを見て、麻美ははっきり傷付いた顔をした。
やっぱり彼女いたんだ、と先日忘れた痛みがまた心の中で疼き出す。
「もういい」
踵を返して立ち去ろうとする麻美を慌てて健が捕まえる。
「ちょ、待って。よくない。全然よくないから!」
「だって、わかった、って顔した。本当だってことがわかったからあたしはそれでいい」
「俺がよくないから話聞けって」
尚も麻美は逃げようとするが、健が掴んだ手を離さない。
健の頭の中はどう説明しようかと忙しく回転していた。
まさかあれを見ていたやつがいたなんて全く知らなかったのだ。もちろん全くの誤解なのだが、自分で思い返して説明を組み立てても麻美が信じるだろうか、と焦る。
ていうかこいつは、これだけ俺のことを気にしといてそれでもまだ自分の感情に気付かないのだろうか。どちらかというとそっちの方が大問題だ、と健は状況も忘れて嘆きたくなった。
しばらくの押し問答の末、麻美は抵抗を諦めて健を睨み上げる。
大人しくなった麻美にほっと胸を撫で下ろし、健は掴んでいた力を緩めた。念のため手は離さないでおく。
「あれは、悪ふざけで」
「悪ふざけ!?」
途端に声のトーンが跳ね上がる麻美に、健は早口にまくしたてた。
「お願いだから最後まで聞いて。昨日からサークルのやつらと飲んでて、明け方くらいに面白い写真撮ろうぜってなって、だから一人に女装させて、そいつと俺でまあ、抱き合ってたから、藤岡が言ってるのは多分それ。女子じゃなくて、女装した男だから、な」
「でもすごい綺麗な子だって」
「ああ、たしかに美人に化けてたけど! でも男だから! 信じてくれないんなら、明日写真持ってくるし」
健の言葉が、この場限りの言い訳かどうか麻美は迷った。けれど真由が見たのが遠目だったということを思い出して、案外真相はそんなものだろうか、と首を捻る。
「信じろよ? 信じたな? 写真見せてやるから、とりあえず今は講義行くぞ」
そして麻美は半信半疑のまま健に連れられて講義室へと向かう。
健は頭を抱えたい気持ちで、麻美の前をずんずん歩く。この前といい今日といい、麻美は一度思い込むと頑なだ。いろんなことがタイミング悪すぎて、もう神様にいじめられているんじゃないかという気さえしてくる。
健がちらりと後ろを見ると、麻美は何か考え込むようにしている。
麻美が自分の気持ちを自覚するまで待とうと思っていた健だが、もしかしたらさっさと告って自分のものにしてしまった方がいいのかもしれないと思い始めていた。このままじゃいつまで経っても、麻美はただの友達を通しそうだ。
健が何故か落ち込んでいるようなのを察して、麻美は眉をひそめていた。
手、掴まれたままなんだけど、と言おうかどうか迷って、もう歩き始めてしばらく経っており、今更主張するのもどうだろうかとあえてそれに触れるのを止める。
そうしてしばらく手を取り合ったまま廊下を進み、ほんの気まぐれで、麻美はぎゅっと健の手を握った。すると一瞬怯んだように健の手から力が抜けて、そして再び強くその手を引かれた。
健がいつものように話しかけてこないせいか、それとも並んで歩くのではなくて前後になっているせいか、麻美は今の状況に現実味がないと感じていた。
どうして自分たちは手をつないで歩いているんだろう。疑問に思うのに、それが嫌じゃなくむしろ楽しくて心地良いと感じている。
階段を昇り、角を曲がり、目指す講義室が見えてきた。
前触れなくぱっと麻美の手を離して、健は講義室のドアを開け中に入っていく。
突然軽くなった手に驚きながらも、何も言わずに麻美は健に続いた。
先を行く背中を見て、ほんの少し寂しく思う。
寂しい? なんで?
麻美は自分の気持ちに戸惑って、そうだ講義が終わったら真由たちのことを健に教えよう、と意識を逸らした。
健が呼ぶ隣の席へ、軽い足取りで麻美は進む。




